書き果たすこと、書き継ぐこと
福田若之
ふと、書き終えると書き上げると書き切ると書き尽くすのほかに書き果たすという動詞がないものだろうかという思いを抱き、調べると、すでに書き果たされているのだった。
ものねだり肩につかまる幼子の手を抑へつつ文書き果たす 三ヶ島葭子
書き果たすというこの言葉が、すでに書き果たされているのを見て、僕は嬉しくなる。この言葉が書き果たされていることで、僕は書き継ぐことができるからだ。
書き上げられたもの、書き切られたもの、書き尽くされたもの――これらのものを、僕らは書き継ぐことができるだろうか。書き上げられたもの、書き切られたもの、書き尽くされたもの、そして、書き果たされたものは、すべて書き終えられたものには違いない。しかし、その中で、僕らが書き継ぐことができるのは、ただ書き果たされたものだけではないだろうか。
書き果たされたものにだけは、応えることができる。だから、手紙は書き上げられても、書き切られても、書き尽くされてもいけない――もとい、いけないことはないかもしれないが、そうした手紙にはどんな返信もありえないだろう。
しかし、返信――誤配の通知までをも含めた、あらゆる返信を考慮に入れるとして――のありえない手紙などというものがありうるだろうか。そんな手紙は、まだ書き終えられていない手紙だけではないだろうか。
おそらく、投函されなかった手紙にさえも、返信が来る可能性があるのだ。なにしろ、手紙は盗まれることさえあるのだから。したがって、手紙を書き終えるということは、すなわち手紙を書き果たすということでもあって、あとは書き終えるという言葉と書き果たすという言葉のあいだに、わずかなニュアンスの違いがあるだけなのだろう。
おそらく、書き終えるという言葉は、ただ、書き終える動きだけを意味している。すなわち、書くという動きの静止。この動詞の意味はただそれだけだ。
それに対して、書き果たすという言葉は、書くことによって書くことそれ自体を果たすという、どこかメタ的なニュアンスを孕んでいる。そこでは、書くというこの動きが、果たすというこの動きと一体になっている。
終えるは書くと接触しているが、重なってはいない。なぜなら、書くは幅を持っているのに対して、終えるは一瞬だからだ。
それに対して、果たすには幅がある。果たすには工程がある。書き果たすにおいては、その工程こそが書くという作業なのである。
では、手紙以外はどうか。本当に書き上げられたもの、書き切られたもの、書き尽くされたものというのが、実は思いつかない。書く人間は誰でも、何かをいまだ書かないうちにこの世を去るだろう。
たとえば、『カラマーゾフの兄弟』――これこそ、ドストエフスキーが、潜在的には他のあらゆる作品においてさえ、すなわち、生涯を通じて、書き上げようとしていたものに違いないだろう――は、書き上げられても書き切られても書き尽くされてもいない。つまり、ドストエフスキーはその文学を決して書き上げなかったし、書き切らなかったし、書き尽くさなかったし、おそらくはそれこそがドストエフスキーの文学だったのだ。
プルースト。遺された『失われた時を求めて』は完結しているものの推敲段階で、やはり、書き尽くされてはいなかった。仮にプルーストがあとどれだけ長生きしたとしても、おそらく、死ぬまで推敲を続けたのではないだろうか。
これらの例が恣意的であるというなら、ランボーはどうだろう。たしかに、完成品を残して、詩人であることを辞めた。しかし、それは彼が書き尽くしてしまったからだとはどうにも思えないのである。ランボーは詩作の(表面上の)放棄のあとにも、まだ作品を書いていたことが明らかになっているという。これらの人々もまた、結局のところ、ただ書き果たしたのだといえるだろう。
蓮實重彥は、昨年ようやく書き果たされた『『ボヴァリー夫人』論』に、こう書いている。
まず、書物一般についていうなら、いかなる書物も「完成」の瞬間など持ちうるはずもなく、すべてはとりあえず終止符がうたれたというにすぎず、その意味でなら、どれもこれもがいわば出来損ないの書物たることをまぬがれていない。出来損ないというのは、時間的な余裕の有無、物理的かつ心理的な限界、身体的な疲労の許容度、等々、理由はあれこれ考えられようが、あらゆる著者は、誰もがこれという正当な理由もないまま、ここでひとまず筆を措かざるをえまいと感じたときに書き終えるしかないのである。まあ、この本に巻かれた帯には、誰のものとも知れない言葉で「歳月をこえた書き下ろし2000枚、遂に完成!」と印刷されていたりもするのだけれど。
(蓮實重彥『『ボヴァリー夫人』論』、筑摩書房、2014年、13頁、強調は原文では傍点)
人は偉大な作品を前にして、「力強く書き上げられている」、「巧みに書き切っている」、「すべてがここに書き尽くされている」などと感銘の声を上げるが、おそらく、こうした紋切り型は、『『ボヴァリー夫人』論』の帯文がまさしくそうであるように、「書き果たされている」ということに対する感動を梱包して流通に載せるための、一種のオブラートに過ぎないのである。