2018年6月29日金曜日

●金曜日の川柳〔猫田千恵子 〕樋口由紀子



樋口由紀子






阿と吽の間が離れすぎている

猫田千恵子 (ねこた・ちえこ) 1962~

寺院山門の仁王や狛犬など一対で存在する像の阿吽がある。阿吽の呼吸、阿吽の仲などと言われている。一見、阿吽像を見ての感想のようだが、「離れすぎている」を捉えることで、転じて人生の実感にうまく繋げている。

「離れすぎている」と見たのは作者の意見だが、川柳的な視点である。だれもが思わないというほどでもないが、あまり気にとめないで見過してしまうことを、ほとんど人があたりまえに見えていたものをわざわざ「離れすぎている」と書きとめることによって共感を獲得している。

〈半身は太平洋を向いたまま〉〈図書館は濡れないように建っている〉〈脱いでみるなんだ小さな蟻だった〉。『川柳作家ベストコレクション 猫田千恵子』(2018年刊 新葉館出版)所収。

2018年6月26日火曜日

〔ためしがき〕読むこと、途上 福田若之

〔ためしがき〕
読むこと、途上

福田若之

T・S・エリオットの「J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌」に次の一節がある。
Streets that follow like a tedious argument
Of insidious intent  
To lead you to an overwhelming question....
Oh, do not ask, “What is it?”
Let us go and make our visit.
試みに訳してみよう。
街は続く 退屈な議論のように
隠された意図についての
君をとてもかなわない問いへと誘おうとする議論のように……。
おい、訊くなよ、「それは何」なんて。
僕たちは行こう、そして訪ねよう。
こんな具合だろうか。「それは何?」すなわち「とは何か」の問いを発することが強く戒められている。隠された意図を探る退屈な議論に引きずられてはいけない。そのさきに待っているのは、とてもかなわない問いでしかない。

「とは何か」、これは旅人を殺す問いの形式だ。旅人を殺すためには、「とは何か」という問いに彼らの足を引き留めさせるだけでよい。行かぬ者はもはや旅人ではないのだから。かくして「とは何か」の問いは足を狙う。ピーキオン山のスフィンクスはこのことをよく心得ていた。彼女の問いは、じつに足を狙うまなざしそのものだ。四本足、二本足、三本足――彼女の問いは、人間の足をじっと見ている。そして、「とは何か」。聡明なオイディプスでさえ、この問いに答えてしまったがゆえに旅人であることを失う。彼はそのままテーバイの王になってしまうのだ。オイディプスの名は「腫れた足」を意味する。

読みを彷徨させるために、もはや「とは何か」と問わないこと。そうではなく、移ろいに身を任せること――「僕たちは行こう、そして訪ねよう」。エリオットの詩は、そのことへと読み手を誘う。

ロラン・バルトは「文学はどこへ/あるいはどこかへ行くのか?」と題されたモーリス・ナドーとの対話のなかでこんなことを言っている――「読者を潜勢的あるいは潜在的な作家にすることに成功する日が来れば、あらゆる読解可能性についての問題は消えてなくなるだろう。見たところ読みえないテクストを読むときにも、そのエクリチュールの動きのなかでなら、そのテクストのことがとてもよくわかるものだ」。読み手としてエクリチュールの動きに身を置くこと。エリオットの一節は、おそらくこのことに通じている。あるいは、ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』のことを思う。

2017/6/22

2018年6月25日月曜日

●月曜日の一句〔菅美緒〕相子智恵



相子智恵






今年竹黄泉より水を吸ひ上げて  菅美緒

シリーズ自句自解II ベスト100『菅美緒』(ふらんす堂 2018.6)所収

筍の状態から、たちまち成長する今年竹。生命力の塊のようなその青々とした今年竹の成長が〈黄泉より水を吸ひ上げ〉た結果であるということに驚く。竹林は寺社の庭園や墓所に植えられているイメージもあり、黄泉の国という飛躍も、言われてみれば納得だ。

死者からもパワーを吸い取る恐るべき生命力。それは一瞬、気味悪くもあるのだが、死者から続くこの命と見れば貴くもあり、普遍的である。

掲句は句集『左京』(ふらんす堂 2016刊)初出。

2018年6月24日日曜日

〔週末俳句〕写真 上田信治

〔週末俳句〕
写真

上田信治


鹿児島から入って、宮崎に泊まり、大分に泊まり、松山に泊まり、福山に泊まるという旅行をした。全部一泊ずつ。この動線のながーい旅行を計画したのは妻だ。

鹿児島で思ったこと。
西郷どんのペーパークラフトが、あちこちに飾られていて、それが、柳原良平のアンクルトリスとか赤福の旅びとを連想させる造形なんだけど、あのアメリカっぽい造形の原型はなんだろう。

宮崎で…
シーガイアに泊まったら、ラグビー日本代表が合宿をしていた。大浴場にそれらしき人たちが入ってきたのだけれど、ふつうに予想できる範囲の、いいガタイをしていた。

大分で…
漫研の後輩がオーナーシェフのレストランへ行く。彼女のダンナさん(彼も漫研)が大分出身で、こっちで店をはじめた。彼から、むかし、大分県人が宮崎県へ行く、ということが、どれほど考えられないことだったか、という話を聞く。

愛媛で…
夕日のきれいな駅で有名な予讃線下灘駅の下を、ちょうど日没のころに通りがかる。駅で夕日を眺める人たちを見ることが出来て、満足。

松山で、ご飯の店をさがして大街道へ。ここが、あの!と思う。

福山で…
かつて常石造船という会社の「迎賓館」だったというホテルに泊まった。そんなふうに、日本の会社にお金があった時代があったんだな、と思ったけれど、そのホテルはまだ常石の所有なのだという。翌日、そもそも目的地であったお寺(神勝寺)に行ったのだけれど、その寺も常石の寄進によって建ったのだそうで、はあ、もう領主だなと。

妻はどこへ行っても写真を撮る人で、自分は、手持ちぶさたなので、写真を撮っている妻をうしろから写真に撮る。

「写真を撮る妻のうしろ姿」が、写真フォルダに溜まっていって、だんだんライフワークのようになってきている。


2018年6月23日土曜日

●栞



梶の葉を朗詠集の栞かな  蕪村

ががんぼの一肢が栞卒業す  斎藤慎爾

栞も指も挟み夕立見てをりぬ  中山奈々


〔*〕『セネレッラ』第16号(2018年6月20日)より

過去記事「栞」
http://hw02.blogspot.com/2017/08/blog-post_31.html


2018年6月22日金曜日

●金曜日の川柳〔柴田午朗 〕樋口由紀子



樋口由紀子






男か女くらいは分かる九十八歳

柴田午朗 (しばた・ごろう) 1906~2010

「わかる?」「できる?」などと老人に対して、わからないこと、できないことを前提として、尋ねてしまうことがある。九十八歳はどのようなのか。ひょっとしたら、自分だってその年齢まで生きているかもしれない。だから、つい聞いてしまう。それに対しての簡潔な回答のような川柳である。作者にとっても初めての経験で発見もあり戸惑いもある。確かにわからないことも徐々に増えてきているだろう。しかし、みんなが想像するほど、みんなのご期待に添えるほどの年寄りではないのだ。

大いなる皮肉をたっぷり含ませて、豊かなユーモアをもって言い切っている。老いの心情をちょっと斜めの角度から、今ここに存在し、この世を見ている「九十八歳」を表出している。〈鍼医者にほめてもらった九十三〉〈九十歳嘘がだんだんうまくなる〉〈お辞儀さえして居ればよい敬老日〉。「川柳大学」(88号 2003年刊)収録。

2018年6月21日木曜日

●個性

個性

個性も単なる蛞蝓の跡黄に乾く  原子公平

栗虫のその栗色に個性あり  如月真菜

白玉に個性がないと叱りけり  雪我狂我



2018年6月19日火曜日

〔ためしがき〕 爪 福田若之

〔ためしがき〕

福田若之

まずは、ジェイムズ・ジョイスの『若い藝術家の肖像』。次の引用は、主人公であるスティーブン・ディーダラスの発言の途中からである。
藝術家の個性というのは、最初は叫びとか韻律とか気分なんで、それがやがて流動的で優しく輝く叙述になり、ついには洗練の極、存在しなくなり、いわば没個性的なものになる。劇的形式における審美的映像というのは、人間の想像力のなかで洗練され、人間の想像力からふたたび投影された生命なんだ。美の神秘というのは、宇宙創造のそれみたいにして成就される。藝術家は、宇宙創造の神と同じように、自分の細工物の内部か、後ろか、彼方か、それとも上にいて、姿は見えないし、洗練の極、存在をなくしているし、無関心になっているし、まあ、爪でも切っているんだな。
 ――爪も洗練させて、存在しなくしようってわけか、とリンチが言った。
(ジェイムズ・ジョイス『若い藝術家の肖像』、丸谷才一訳、集英社、2014年、400-401頁)
したがって、ここでスティーブンの思い描く究極の「藝術家」は、言ってみれば〈爪を切るひと〉だ。〈爪を切るひと〉は、存在をなくした、洗練の極たる没個性的なものとして語られている。
 
ところで、哲学者のジル・ドゥルーズは〈爪を切らないひと〉だった。ドゥルーズは、「口さがない批評家への手紙」のなかで、自分の爪が伸び放題になっていることについてのミシェル・クレソールの解釈をとりあげながら、この批評家に宛てて次のとおり述べている。
きみは手紙の最後のところで、私が着ている労働者の上着は(ちがうよ、あれは農夫の上着なんだから)、マリリン・モンローのプリーツ・ブラウスと同じだし、私の爪はグレタ・ガルボのサングラスと同じ意味を持つと書いている。そして皮肉と敵意に満ちた助言をならべたてている。きみが爪のことをしつこく蒸し返すから、ここでちょっと説明しておくとしようか。たとえば、すぐに思いつく解釈として、こんなものがあるだろう。私は母親に爪を切ってもらっていた、したがってこれはオイディプスと去勢に結びつく(グロテスクではあるけれども、これだって精神分析的解釈にはちがいない)。また、こんな指摘をすることもできるだろう。つまり私の指先を見ると、ふつうなら保護膜になるはずの指紋がない、だから指先が物にふれたとき、それも特に織物にさわったとき、私は神経の痛みで苦しむ、だから爪を伸ばして保護しなければならないのだ、とね(これは奇形学と自然淘汰説による解釈だ)。あるいはまた、ことの真相を語りたいなら、こんなふうに説明してくれてもかまわない。私が夢見ているのは不可視になることではなく、知覚されないようになることだ。そして私は爪をポケットに隠すことで夢の埋め合わせをしているのだ。だからまじまじと爪を見つめる人間ほど私にとって不愉快なものはない、とね(これは社会心理学的解釈だ)。さらにこんな説明も可能だろう。「爪をかじっちゃあ駄目だ。それはきみの爪なんだからね。爪の味が気に入っているのなら、他人の爪をかじればいい。それがきみの望みであり、きみにそれができればの話だけどね。」(ダリアン流の政治的解釈)。ところが、きみはいちばん野暮な解釈を選んでしまう。あいつは目立ちたいんだ、グレタ・ガルボの真似をしようというんだ――これがきみの主張だからね。でも、不思議なことに私の友人で爪のことを気にとめた者はひとりもいない。爪のことはごく当たり前だし、種子を運んでくるだけでべつに誰の話題にのぼるわけでもない風が、ひょんなことからそこに爪を残したようなものだ、誰もがそう思っているんだよ。
(ジル・ドゥルーズ「口さがない批評家への手紙」、ジル・ドゥルーズ『記号と事件――1972-1990年の対話』、宮林寛訳、河出書房新社、2007年、15-16頁)
したがって、少なくともドゥルーズ自身にとって、爪を切らないことはマリリン・モンローやグレタ・ガルボのようなスターになることとは何の関わりもない。それは、どちらかといえば、むしろ「知覚されないようになること」に関わるはずのこと――すくなくとも、あえて解釈するならばそう捉えたほうがずっとよいはずのこと――だとされている。

同じ手紙のなかで、ドゥルーズはもう一度「爪」に言及している。次の一節だ。
ところが、みずからの名において語るというのは、とても不思議なことなんだ。なぜなら、自分は一個の自我だ、人格だ、主体だ、そう思い込んだところで、けっしてみずからの名において語ることにはならないからだ。ひとりの個人が真の固有名を獲得するのは、けわしい脱人格化の修練を終えて、個人をつきぬけるさまざまな多様体と、個人をくまなく横断する強度群に向けて自分をひらいたときにかぎられるからだ。そうした強度の多様体を瞬間的に把握したところにあらわれる名前は、哲学史がおこなう脱人格化の対極にある。それは愛による脱人格化であって、服従による脱人格化ではない。私たちは自分の知らないことの基底について語り、わが身の後進性について語るようになる。そのとき、私たちは、解き放たれた特異性の集合になりおおせている。姓、名、爪、物、動物、ささやかな〈事件〉など、さまざまな特異性の集合にね。つまりスターとは正反対のものになるということだ。
(同前、18-19頁)
ドゥルーズにとって、爪とはひとつの特異性である。ただし、ドゥルーズのいう特異性は「目立つ」ということとは何の関わりもない。〈爪を切らないひと〉は、スターとは正反対の、愛によって脱人格化された何者かとして、みずからの名において語る。〈爪を切るひと〉と〈爪を切らないひと〉とが重なり合う。彼らはともに、それぞれの仕方で、種子を運ぶ気ままな風になってみせる。

2017/6/17

2018年6月18日月曜日

●月曜日の一句〔伊藤敬子〕相子智恵



相子智恵






香の強き茅の輪を遠く来てくぐる  伊藤敬子

句集『年魚市潟』(角川学芸出版 2018.5)所収

遠くを歩いていたところ、強い香りによって茅の輪に気づき、遠くから香りに誘われるようにしてくぐったということだろうか。立派な茅の輪が想像されてくる。

これが「遠く来て香の強き茅の輪をくぐる」というような語順であれば普通なのだが、〈香の強き〉よりも〈遠く来て〉が後であることによって、ふっと不思議な感じが生まれている。強い香りの茅の輪に誘われてくぐったのは自分であろうが、遠くの異界からやってきた誰かのような感じもしてくるのだ。

くぐることで穢れを祓う茅の輪だからこそ、この何気ない語順が生む不思議さが生きているように思う。

2018年6月17日日曜日

〔週末俳句〕今更のスマホ・デビュー 仲寒蟬

〔週末俳句〕
今更のスマホ・デビュー

仲 寒蟬


今年のゴールデン・ウィークにスマホ・デビューを果たした。今更の、である。電話とメールだけならガラ携で充分と考えてこれまでやって来た。インターネットはiPadで見られるし、FBには余りのめり込みたくないから家でPCを前にしてしかやらないと決めていた。だからスマホにする理由は何一つないと。

それが急に変節したのは次男の結婚式の写真を撮るのにスマホの画像の方が美しいだろうと判断したからだった。ところが使い始めてみると、嵩張るiPadを持ち歩かなくてもインターネットは参照できるわ、グーグル・マップで吟行中の移動もスムーズにできるわでいいことづくめ。

一番重宝したのはラインである。若い人からすればそれこそ何を今更、であろうが。週末は学会に出かけることの多い筆者、先週は札幌で開催された第20回日本医療マネジメント学会に出席した。スタッフ4名と総勢5名での参加。各自発表があり、別の会場で好きな演題を聴く。場合によっては学会場を抜け出してお茶したり観光もする。そんな時にその場限りのライン・グループを作っておくと「今この会場で面白いプログラムやってるよ」とか「ここのケーキ美味しい」「昼食どうする?」とかの連絡がすぐに取れて便利なことこの上ない。

面白かったのは学会の最中にとある俳人友達から俳句が送られてきたこと。こちらも普段なら平日にヒマしてることはめったにないが、そこは学会中なのでこれ幸いと応じていると連句を仕掛けてきた。筆者が戯れに送った一句に脇句を付けてきたのだ。ほほー、と感心していると第三をつけろと言う。こちらは連句のルールなどろくに知らないし、依田明倫さんが元気な頃に佐久で牙城たちと歌仙を巻いたのが唯一の経験。それでも「次は月の句をお願いします」「地名はもういくつか出てきたからダメ」とかいろいろ指南されながら、何とか学会中に半歌仙に仕立て上げた。

これ、俳句でも利用できるかなあ。誰から送られてきたか分かるので直接句会という訳にはいくまいが、ネット句会みたく誰かがホスト役になれば可能かも。大勢ではなく、それこそ4-5名で旅行した時に旅先でササっと句会できるかもしれない。しかし、とも思う。やはり同じ風景を見て句会するなら膝突き合わせて、短冊にペンで俳句を書いて清記して・・・という句会本来のあり方の方がいい。スマホなんて持っていても所詮はアナログ世代なのだ。


2018年6月15日金曜日

●金曜日の川柳〔丸山ふみお 〕樋口由紀子



樋口由紀子






歳などは取らぬつもりでいる少女

丸山ふみお (まるやま・ふみお)

少女には一種独特の眩しさがある。反面いじわるな部分もある。だから「少女」なのだろう。私もそうだった。大人はお茶ぐらいでなぜそんなにむせるのか、なぜさっさと歩かないのか、なぜ何度も同じことを聞き返すのか、不思議で、ときにはうっとうしく、わずらわしく見えていた。

決して私はそんなふうにはならない、たとえ歳を取ったとしても歳の数が増えただけであり、今とそんなに変りなくやっていけるはずだと思っていた。しかし、ああこれが歳を取ることだとわかるのは実際に歳を取ってからである。

一方、「少女」の頃のしんどさはもうたくさんだということにも気づいた。比べることも競い合うことも歳を取るともうどうでもよくなる。というか、自分のことで精一杯で人のことなど気にする余裕がない。がんばる必要がないのはなんと気が楽で心が軽いことか。「番傘」(2018年刊)収録。

2018年6月14日木曜日

●木曜日の談林〔井原西鶴〕浅沼璞



浅沼璞








御田植や神と君との道の者 西鶴
 
『点滴集』(延宝8年・1680)

掲句版行の4年後、貞享元年(1684)6月5日~6日、住吉神社神前にて西鶴が二万三千五百句の独吟興行をしたのは有名です。その住吉は和歌神というだけでなく、五穀豊穣を祈る「農耕の神」としても有名でした。稲作の始まりとともに農耕神を祭る御田植神事は現在も続いていますが、西鶴の時代、泉州堺(乳守・高洲)の遊女が早乙女となる風習がありました。元来「早乙女」とは、たんなる田植え女の呼び名ではなく、田んぼの神様に奉仕する特定の女性をさしたのです。

さて掲句、「神と君との道」とは謡曲『采女』をふまえ、「住吉の神も国を治める君も栄えあれ」と祝っています。そのめでたい「神と君との道」から尻取りのように「道の者」が導かれる。「道の者」とは遊女の古い呼び名で、ここでは早乙女をつとめる乳守や高洲の女郎をさしています。だから一句は、〈御田植では、「住吉大神と御君の栄えあれ」と遊女が早乙女の役を勤めるよ〉といった感じでしょうか。


「道の者」については、思想史家・沖浦和光氏の著述が参考になります。『「悪所」の民俗誌』(文春新書、2006年)によれば、平安期の遊女は、交通の要衝である宿場や港町にたむろしていたそうです。なかでも淀川沿いの江口や神崎の遊女たちは都でも評判となり、朝廷に仕える貴人高官もしばしばその地を訪れたというだけではありません。彼女たちを宮中によんで得意の芸を奉仕させました。白ずくめの男装をした白拍子などはその代表ですが、芸も達者で容色のすぐれた彼女たちは、神々に祈念する巫女の系譜につらなり、俗人にはない特異な呪力を秘めた女性とみなされていました。後白河院に愛された丹波局、後鳥羽院の寵姫だった伊賀局は、いずれも江口の遊女の出身であったといいます。

いっぽう謡曲『采女』は、さらにさかのぼって奈良時代に君の寵愛をうけた采女(後宮の女官)の伝説をベースにつくられています。前述のとおり西鶴は、「神と君との」という詞章を『采女』から引用し、さらに「の者」という遊女の古名を掛けあわせました。早乙女→采女→道の者(白拍子)という連想経路がみてとれます。沖浦氏によれば、かつて白拍子には、住吉社・広田社・吉田社などに仕え、巫女舞を演じていたものが多くいたそうです。いまでも住吉では、正月や四月の神事として「白拍子舞」が奉納されています。こうした歴史的背景をもって西鶴は句を構想したのでしょう。

ほかにも西鶴は、〈恋人の乳守出来ぬ御ン田植〉と、愛しの乳守女郎による田植ショーを詠んでいますが、独吟興行のときは自分が主人公――西鶴がやって来るヤァ! ヤァ! ヤァ! とギャラリーは大いに盛り上がったことでショー。

矢数俳諧の最終ステージとして住吉が選ばれたのも納得、納得。

2018年6月13日水曜日

●森田童子は死んでいた 山口優夢

森田童子は死んでいた

山口優夢


「N村先生、森田童子が死んじゃいましたね」
「やっぱり、そっと忘れて差し上げなければならないのでしょうか」

1年ぶりに高校時代の同級生だったN村とLINEで連絡を交わした。N村は天然パーマで頭全体がくるんくるんとしていて、髪形が森田童子そっくりだった。もちろん男である。男子校だった我々の毎年5月に行われていた運動会では、負けたら坊主にする者も珍しくなく、決して体育会系でもなかった僕自身がノリで頭を丸めたりしていたが、彼はそんな風習につきあうことはなかった。だからと言って今もそんな髪形なのかは知らない。
たとえばぼくが死んだら そっと忘れてほしい
淋しい時はぼくの好きな 菜の花畑で泣いてくれ
(「たとえばぼくが死んだら」森田童子)
「でも菜の花畑が咲くまであと10か月くらいありますよ」と返信しつつ、僕はこの話の肝はそこにないことを感じていた。問題は、森田童子が死んで淋しいと思う時がいつ来るのか、ということだ。この歌詞は、むしろ菜の花畑を見たら私を思い出して泣け、と言っているのだから。

それから数分後の返信曰く、「亡くなった時は咲いていたかもしれませんね」。そうだ、今は6月だが、実際彼女が亡くなったのは今年の4月24日だそうだ。もう僕らは森田童子のいない世界をそうと知らずに1か月以上過ごしてしまっていた。そのような訃報の伝わり方そのものが、彼女の音楽の受容のされ方と相似しているのかもしれない。

1983年に活動を停止し、10年後に野島伸司脚本のドラマ「高校教師」で「ぼくたちの失敗」そのほかが主題歌や劇中歌で使われたことによってブレーク。しかし、「主婦業に専念している」という彼女が表舞台に姿を表すことはついになく、ただ残された音源が再び世の中に出回った。世の中が彼女の存在に気づいたときには、何もかもが手遅れだったのだ。だから世の中が彼女の不在に気づくのにも多少の時間が必要だったし、繰り返しになるが、そもそも事態は最初から手遅れだった。N村先生、やはり4月下旬では菜の花には間に合わなかった、僕は、そんな気もしています。

高校2年生のある時期、というのは1993年のブレークからも10年近く経っていたわけだが、僕がその時期を無事に生きながらえることができたのは、わずかばかりの友人や両親、俳句…と身の回りにあったものを思い出してみても、やはり第一に森田童子の存在を挙げなければならない、という印象が濃い。年末年始を挟む冬休みの1か月程度の時期のことだ。好きだった女の子に距離を置かれ、クラスメートは事故死した。

クラスメートとのつきあいに疎密があるのは当たり前だが、彼とのつきあいはどちらかと言えば淡い方だった。好き嫌いの感情は特にない。やせ形の長身だった。一度、地下鉄で帰りが一緒になったことがあった。詳しい死の状況はいまだによく知らない。本当に?と思うような話でしか聞いていない。

告別式にはクラスの(たぶん)全員で参列した。電車を乗り継いでいった海辺の旧家の畳の上。彼の残された親族の男性があいさつし、小林一茶の「露の世は露の世ながらさりながら」の句(娘を失ったときの句だ)を引いて号泣していたのはよく覚えている。そのとき僕が何を考えていたか。悲嘆に暮れる人々の中で、僕は「あんなに若くして死ぬなんてかわいそうだ」と頭で考えて泣こうとしていた。涙の出てこない自分に焦っていたと思う。ああ、そのことにすら無自覚だったかもしれない。

しかし棺桶の中の彼の死に顔に直面し、その青白さが目に入り、地下鉄で隣に座って彼女の話などしていた彼を思い出し、「あんまりだ」と思って泣いた。その涙にいささかでも安堵の思いが混じっていなかったか、10年以上経った今、僕には正確に思い出せない。いや、そこまで過去の自分を意地悪く見る必要はないかもしれない。実際、周囲の人間がもう泣きやみ始めている中で自分はワンテンポ遅れて泣いていたのだから。そう考えるとこれは、死を理解するには自分は幼すぎたというエピソードなのだろう。

でもやっぱり、クラスメートが死んだこと以上に、自分の醜さを発見したことに傷ついたことは間違いないわけで、そんなとき全面的に依存できる人間関係を僕は欲した。けれども好きだった女の子には(いろいろあって)避けられ、友人にはうまくそうした心の経過を話せず(かなり微妙なニュアンスを含むこんな話を正確に伝えられるほど高校生の自分に表現力はなかったので、できれば泣いてしまいたかった)、どこにも寄りかかることができないまま、僕は森田童子を流し続けた。
淋しかった私の話を聞いて 男のくせに泣いてくれた
君と涙が乾くまで肩抱き合って寝た やさしい時の流れはつかのまに
いつか淋しい季節の風をほほに知っていた
(「男のくせに泣いてくれた」森田童子)
今思えば、もしこんな全力で寄っかかったら、寄っかかられた方は相当重たかろうと思う(当時の体重は今の3割減とは言え)。僕は、そしてたぶん森田童子を受容した聞き手の全ては、森田童子と心が通わない地点でその歌を聴いていた。僕らは互いに孤絶した地点にいたし、森田童子(必ずフルネームでしかこの名前を思い出すことができない)は決して僕たちに向かって歌いかけはしなかった。それは彼女が自分だけのために歌っていたということを意味しない。この世界には、森田童子と、森田童子の歌を聴く世の中と、さらに第3項として森田童子が歌いかける絶対に誰の手にも届かない誰かがいる、ということだと理解していた。だから、僕の悩みと彼女の悩みは絶対に交わらない。友だちを亡くしたことがきっかけで歌を歌い始めたという彼女を僕が理解する日は決して訪れない。
行ったこともないメキシコの話を 君はクスリが回ってくると
いつもぼくにくり返し話してくれたネ
さよなら ぼくの ともだち
(「さよならぼくのともだち」森田童子)
つまり、僕は彼女にもたれかかることはできない。それでももたれかかる先を探しているように聞こえる彼女の歌が、僕自身の精神を平静に保つことに役立ったのはなぜだろう。それは共感なのか?人は理解もしていないものに共感することができるものなのか?

僕はiPodを持っていない。だから昨日は、妻に借りたイヤホンをスマホに差して、Youtubeで森田童子の曲を流しながら出勤した。幹線道路の脇を歩くとき、トラックや大型のワゴンが過ぎていくだけでそのか細い声は簡単に聞こえなくなった。満員電車に揺られながら、胸ポケットに入れたスマホが胸に触れ、停止ボタンが勝手に押されてしまうこともしばしばあった。それでも僕はこの数年思い出しもしなかった森田童子の歌を聴いた。

有名人が死ぬ、というイベントは、その人のことを思い出すタイミングが生まれたという以上の意味を持たなくなっているように思う。世の中的にそうなのか、自分の感じ方が不感症気味なのか。金子兜太が死んだときも、西城秀樹が死んだときも、高畑勲が死んだときも、死はその作品を思い出す最後のきっかけとして消費された。それは弔いの一つの形態だから、悪いこととは言わない。その人がいなくなることで世の中が変わるほど、誰にとっても世の中というのは単純ではない。

森田童子の死は、今まさに僕によって同じように消費されようとしている。訃報は、彼女の作品を思い出し、青春時代を思い出すただのきっかけに過ぎない。しかも1か月以上遅れてやってきたこの訃報にそれ以上のどんな意味を見いだせばいいのだろう。

そうだ、僕にとっては森田童子は最初から死んでいたのではなかったか。一度も会ったことがなく、その動いている姿をテレビで見ることもなく、残された音源を聞いていただけの僕にとっては。死人に寄っかかることはできない。だからこそ安心して僕は彼女の歌に孤独を見いだせていたのだろう。森田童子は死んでいた。僕が気づかなかっただけだ。

2018年6月12日火曜日

〔ためしがき〕 ひよどりの身振り 福田若之

〔ためしがき〕
ひよどりの身振り

福田若之

若葉の枝にとまったひよどりが、しきりに首を動かしている。あっちを見て、こっちを見て、休むことを知らないみたいに、せわしない。見えないものに脅えているのか、それとも、自らをとりまく初夏の光がそれほど驚きに満ち満ちているのか。

それはほかにもどこかで見たことがあると感じる、しかしそれそのものでしかないとも感じる、それくらいありふれた、それくらいとりとめのない身振りだった。何かをその身振りに喩えることができそうな、しかし何をそれに喩えうるのかはまだわからない、少なくとも今のところは寓意の可能性でしかない何か。

そんなものをわざわざ言葉にしておくことに何の意味があるのか、それはわからない。それどころか、ついに寓意の可能性でしかないままに忘れ去られたほうがよいのではないかとさえ思う。ひよどりの身振りが何を意味しようがそれは本質的なことではない。僕はひよどりの身振りの意味にではなく、ただひよどりの身振りに惹かれたのだから。わざわざ寓意を見出すことには、さほど価値はない。あるとすれば、それによって、僕たちがもう一度あのひよどりの身振りについて語る機会を持つことになるというだけだ。それには、さほど価値のないままでいい。

2017/6/12

2018年6月11日月曜日

●月曜日の一句〔戸恒東人〕相子智恵



相子智恵






日本狼終焉の山滴れり  戸恒東人

句集『学舎』(雙峰書房 2018.4)所収

〈終焉の山〉がどこなのか知らなかったので調べてみると、日本狼が捕獲されたのは明治38年が最後で、その地は東吉野村であるという。この山は、吉野の山ということになろう。

日本の国土の三分の二は森林であり、山地面積は75%だそうだが、そんな山ばかりの日本であるのに、もはや日本狼は生息していない。この句の〈終焉の山〉は吉野山でありながら日本のすべての山を象徴しているとはいえないだろうか。

そして、そのすべての山々から清水がキラキラと滴っていることを想像すると、その美しさと涼しさが、どの山にもすでにいない固有種への喪失感となって静かに押し寄せてくる。

2018年6月10日日曜日

〔週末俳句〕誰かと同じ一日の風  柏柳明子

〔週末俳句〕
誰かと同じ一日の風

柏柳明子


谷間の地形だからだろうか。風の強い街、というのが最初の印象だった。

新居は、とにかく風がよく通る。共働きの週末は家事から始まるが洗濯物はよく乾き、室内も割とカラッとしていてのんびり過ごせる。喜んでいたら咽喉が痛くなりやすく、お腹が冷えやすいという副産物が。嗚呼。

家を出て左に曲がれば商店街。右に曲がれば住宅街。どちらも歩いて四分程度だが、風景が違う。左の世界はとにかく家族連れが多く賑やか。右の世界は程のよい今どきファミリー向けのマンション群と昔ながらの一軒家が入れ子状態に続く。その中にぽっかりと畑と緑、そして大きな空。こちらも家族連れはいるが、静かでいささか脱力モード。

引っ越した当初から夢中なのが、畑の先の大きなコープ。とにかく綺麗。品ぞろえがよい。値段も相応。店員の対応も気持ちよい。入口を入ると、目の前の色とりどりに並んだ夏野菜や果物の数々に胸が踊る。「今日は買いすぎないぞ」とわざわざ書いてきたメモはポケットの中で忘れ去られ、買い物カゴはすぐにいっぱいに。レジャーランドよりも魅惑のコープ。嗚呼。

帰りのエコバッグは戦利品を詰め込んだ喜びの重たさ。それを両肩から下げながら、帰りに地主さん家の見事な庭や畑仕事の様子をぼんやり眺めるのが好きだ。植物の生命力が刻々と表情を変える様子は見飽きないし、何といってもこの風景の醸し出す「忘れられた感」がたまらない。

大したものではないが栄養バランスを考えつつ料理をし、掃除や洗濯をし、家族と仕事や俳句、その他のこまごまとしたことを話したり、ときどき喧嘩をしたり、笑ったり。外で歪んだ得体のしれない風が吹いていても、個人的な一日の中では身近なものとして聞こえず、そのうちに過ぎてしまう。

その風が知らないうちに過ぎずに留まり強くなり、気がついたら嵐になって巻き込まれてしまうときが来るかもしれない。あるいは、雲を吹き蹴散らし見たことのない晴れを連れてくることもあるのだろうか。可能性は断定できない。でも、世界は私が今まで触ってきたものから確実に変わってきている。

風が雲を払った晴れの日の終わりは、家から夕焼けを眺めることができる。全身を茜色まみれにしていると、今、この時間と世界はどこに属しているのかだんだんわからなくなってくる。私たちの一日、誰かと同じ一日が終わろうとしている。


2018年6月7日木曜日

【人名さん】加藤一二三

【人名さん】
加藤一二三

釣堀や加藤一二三のやうな雲  柏柳明子


『豆の木』第22号(2018年5月20日)より。



2018年6月5日火曜日

〔ためしがき〕 ヨゼフィーネと断食芸人 福田若之

〔ためしがき〕
ヨゼフィーネと断食芸人

福田若之

胡桃を割ることは決して芸術ではなく、だからまた、観衆を呼び集めてその前で、皆を楽しませるためにわざわざ胡桃を割ってみせる、などといったことは誰もしないだろう。にもかかわらず誰かがそれをやってみせ、その目論見がうまくいったなら、そのときにはやはり、これはただの胡桃割りにすぎないということですますわけにはゆかない。あるいは、これは胡桃割りではあるのだが、しかし、次のことが明らかになってくる――すなわち、われわれは胡桃割りにすっかり習熟してしまっているので、この芸術を見過ごしていたのだということ、そして、この新たに現われた胡桃割り師がはじめて、われわれにこの芸術のまことの本質を示してくれたのだということが。その場合にはさらに、この師の胡桃割りの技量がわれわれのたいていの者よりも少しばかり劣っているなら、作用力という点ではその方が有効でさえあるかもしれない。
(フランツ・カフカ「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは鼠の族」、『カフカ・セレクションIII』、平野嘉彦編、浅井健ニ郎訳、筑摩書房、2008年、94-95頁。原文では「胡桃」に「くるみ」とルビ)
ここにいう「われわれ」はひとではなく鼠であるから、「胡桃を割ること」のニュアンスは、たとえば、ひとにとってのジャムの瓶のふたをあけること程度のことではないかと思うのだが、まあ、そのあたりは些細なことだろう。このたとえ話は、鼠の歌姫ヨゼフィーネの「歌」が「ただのちゅうちゅう鳴き」と区別のつかないものであったとしても、それはやはり「ただのちゅうちゅう鳴き」ではない、ということを説明するために語られている。胡桃割り師やヨゼフィーネは、集団にとってあたりまえのことを特別なこととしてやってのけるがゆえに芸術家なのである。

カフカが描いた人物のうちで、胡桃割り師やヨゼフィーネに代表される芸術家像とちょうど対照的に思えるのが、「ある断食芸人の話」に出てくる断食芸人だ。 断食芸人は集団から浮いている。その断食は傍から見ればとんでもない所業である。だが、彼にとって、それは実に容易なことでしかなかった。「これは彼だけが知っていて、事情通でさえまったく知らないことなのだが、断食は何と容易であることか。それは世にも易しい芸だったのである」(フランツ・カフカ「ある断食芸人の話」、『カフカ・セレクションII』、平野嘉彦編、柴田翔訳、筑摩書房、2008年、108頁)。というのも、彼にとっては、そもそも食事をすることが耐えがたいことだったからなのだ。彼には断食するしかなかった。なぜか。彼の最後の言葉は、その問いに答えるものだった――「それは、私が自分の口に合う食い物を見つけられなかったからでして。それが見つかっていたら、別に大騒ぎなどせずに、私も腹いっぱい食いましたな、あんた様や他の連中と同じに」(同前、123頁)。断食芸人は、集団にとって特別なことをあたりまえのこととしてやってのけたがゆえに芸術家だったのである。

きれいな対照だ、そんなふうに思える。けれど、それはほんとうだろうか。

ヨゼフィーネは、鼠の族にとって本来的な性質でしかない「ちゅうちゅう鳴き」を「歌」として聴かせる。「ちゅうちゅう鳴き」はあたりまえのことだが、それを「歌」として聴かせることは決してあたりまえのことではない。しかし、ヨゼフィーネはそれをあたりまえのことだと考えている。「いずれにせよ彼女は、そういうわけで、自分の芸術とちゅうちゅう鳴きとのいかなる関連をも否認している」(「ヨゼフィーネ、あるいは鼠の族」、前掲、95頁)。だから、彼女もまた、その意味では、集団にとって特別なことをあたりまえのこととしてやってのけるがゆえに芸術家なのだ。

断食芸人はどうだろう。彼のやっていることは、真相からすれば、嫌いなものを食べずに暮らすという、それ自体は誰もがしているようなことにすぎない。そして、彼もまた自らそれが容易であることを認めている。それにもかかわらず、彼は断食が名声や栄誉につながると考えているのである。 
何故まさに四十日目の今、中止なのか? 彼としてはもっと長い間、持ち堪えることができたのに。何故まさにいま中止なのだ? ちょうど最高の断食に達した今、いや最高の段階はまだなお、これから先に来るという、いまこの時に? なぜ人々は、更に断食し続けるという名声を私から奪うのか、あらゆる時代を越えて最高の断食芸人となるばかりではなく(その段階には彼はたぶん既に達していた)、更にその自分を越えて、凡そ不可解な段階へ進もうとする栄誉を、なぜ私に与えないのか。
(「ある断食芸人の話」、前掲、110頁)
だから、断食芸人もまた、ある意味では、集団にとってあたりまえのことを特別なこととしてやってのけたがゆえに芸術家だったのだと、いえなくもないわけだ。

そうなると、もはや胡桃割り師やヨゼフィーネと断食芸人との対照はうまく成り立たないことになるだろう。カフカ的な芸術家とは、要するに、あたりまえのことと特別なこととの区別を喪失させる者たちのことであるように思われてくる。

2017/6/5

2018年6月4日月曜日

●月曜日の一句〔花谷清〕相子智恵



相子智恵






百合一輪フェンスに茎と隔たれて  花谷 清

句集『球殻』(ふらんす堂 2018.5)所収

上向きに咲く種類もあるが、掲句は鉄砲百合のように、茎から折れるように横向きに咲く百合の花だ。

空間を隔てるフェンスの向こう側で育っていた百合のうちの一輪の蕾が、フェンスの網目からこちら側へ出た。蕾は細いので、フェンスの向こう側に抜いて向きを直すこともできただろうが、気づかれぬままに蕾は育ち、フェンスの網目よりも大きな一輪の花を咲かせた。もうこの百合の花は茎と同じフェンスのあちら側に戻ることはできない。花と茎は隔てられた。

一輪の存在感が大きく華やかな百合の、ふとしたあわれにハッとする。フェンスという人工的なものへの批評の眼もあるのだろう。印象鮮やかな一句である。

2018年6月3日日曜日

〔週末俳句〕GAN 生駒大祐

〔週末俳句〕
GAN

生駒大祐


京都に行った。
横浜から京都までのぞみで約2時間。
昔から移動中は音楽やラジオを常に聴いていないと心が休まらないという性質で、
この日もずっとMaroon 5の"Sunday Morning"をリピートしていた。
そのせいで現代俳句協会のイベントで宇多さんにお会いした時にも
「俳人だったら耳を常に働かせていないといけない」というような皮肉(?)を貰ったこともある。
それ以来、できるだけ耳を使わずに俳句を作るようにしている。



京都に着いたので観光でもしようかと思ったのだが
大学時代に京都に友人が割と多くいた関係で、
京都のめぼしい観光名所は既に見飽きている。
どうしようかと駅前をぶらぶらしていると、
NTTの研究所への無料シャトルバスが出ていた。
軽くググってみるとその研究所は本日見学自由らしい。
なにやら情報系の研究所で、内容は音響信号処理や量子コンピュータ、グラフ理論など多彩だ。
これは句材には事欠かなそうだった。



40分くらいバスに乗るともう研究所だ。
ポスターセッションを見て回っていると、
音声属性変換技術の展示があった。
簡単に言えば「名探偵コナン」の蝶ネクタイ型変声器のような技術で、
誰かの声をある特定の人物がしゃべっているように声を変換するというものだった。
ベースとしてはGANという深層学習技術が使われていて、
声を変換して特定の人物Aさんの声に似せる変換器と、
入力された声がAさんの声なのか、機械がAさんの声に似せて作った声なのかを当てる識別器に分かれる。
最初は両方ともバカだった変換器と識別器が、それぞれ競い合って変換と識別を上手にしてゆき、
最終的には人間の声とそっくりな声に変換できる識別器とそれに比肩する精度の識別器ができあがるという寸法だ。
ライバルがいると上手になるというのはジャンプ漫画でも俳句でもよくある展開である。

尚毅居る裕明も居る大文字 爽波



他にも俳味のある展示が多く面白かったが、
夕方になってきたので帰ることにした。
最近お茶にはまっているので自分用に煎茶を
家にはちりめん山椒を買い、帰りの新幹線に乗った。
窓際の席に座ると隣は英語圏在住らしい女性。
どうやら後ろの席の女性と友人らしかったので後ろと席を替わった。
「面白かったし善いこともできたし充実した一日だった」と気分よく僕はそのまま眠りに落ちるのであった。
10分後、僕がそもそも座る席を大きく勘違いしていたことが判明し事態は非常に面倒くさくなるのであったが、
それはまた別のお話。


2018年6月2日土曜日

◆週刊俳句の記事募集

週俳の記事募集

小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

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【記事例】

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句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2018年6月1日金曜日

●金曜日の川柳〔奈良一艘 〕樋口由紀子



樋口由紀子






暁が降るよラッパ屋が死ぬよ

奈良一艘 (なら・いっそう) 1947~

「暁が降るよ」と「ラッパ屋が死ぬよ」とそれぞれの意味は読み取れるが、異なった地平にある二つのフレーズで一句が形成されている。この並列がどのような関係性を生み出しているのだろうか。

「ラッパ屋」とはラッパを売ることを生業にしてきた人のことかもしれないが、その人はラッパの音のようににぎやかで、それでいてどこか寂しげだったのではないだろうか。夜が明けようとするとき、あたりはだんだんと明るくなってくる。そんなときにラッパ屋が死んでしまいそうである。暁の自然現象に「ラッパ屋が死ぬ」と事態を転換している。あるいはラッパ屋が死んでしまうという、どうすることもできない現実を、とても哀しいことを、「暁が降る」というフレーズで、まるで祝祭のように転換している。死の現実の前で世界を強く意識している。センチメンタルな川柳である。

〈なが~い廊下の話だが聞くか?〉〈不服ならバナナになればよいのです〉〈水音のする引き出しから閉める〉『川柳作家ベストコレクション 奈良一艘』(2018年刊 新葉館出版)所収。