2018年8月31日金曜日

●金曜日の川柳〔菊地良雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






富士山が見える向かいの火事のあと

菊地良雄

実際の話がどうかかなり疑わしいが、どきっとする川柳である。向かいの家が火事で焼失し、前がすっぽり空いて、今まで見えなかった富士山が見えるようになった。他人に不幸のおかげで幸せをもらうみたいな、なんと不謹慎な川柳なのかと誰もが思う。

けれども、「富士山」の一語に分別を軽々と踏み込んでいく力を感じる。といっても、悪いことがあっても良いこともあるからというような人生訓ではない。均一化されている思考パターンとはあきらかに違う方向に「富士山」が誘う。よいわるいだけでけりをつけられないものがこの世にはわんさとある。みんなが一斉に走り出す発想や見つけにはまらない強さが掲句にある。

〈恋人をさがす近所の鍼灸医〉〈風刺画の隅に壊れた炊飯器〉〈へとへとになって地球から戻る〉「ふらすこてん」(第58号 2018年刊)収録。

2018年8月30日木曜日

【新刊】髙柳克弘『どれがほんと?――万太郎俳句の虚と実』

【新刊】
髙柳克弘『どれがほんと?――万太郎俳句の虚と実』

2018年8月29日水曜日

【新刊】四ッ谷龍『田中裕明の思い出』

【新刊】
四ッ谷龍『田中裕明の思い出』


2018年8月28日火曜日

〔ためしがき〕 不純 福田若之

〔ためしがき〕
不純

福田若之


山田耕司『不純』(左右社、2018年)に手をつける。

なるほど、これはたしかに「不純」だ。赤と白。僕としては、3対5で白の勝ち。この遊びが、ひとりでじゃんけんするひとのむなしさを感じさせないのは、やっぱりふたりいるからなのだろう。書き手と読み手と。

2018/8/3

2018年8月27日月曜日

●月曜日の一句〔新井秋沙〕相子智恵



相子智恵






邯鄲の声を懐紙に包みたし  新井秋沙

句集『巣箱』(本阿弥書店 2018.7)所収

懐紙は、今では茶道の際に菓子の下に敷いたり、心付けを包んだりする場面で目にすることが多いので、掲句を読んでまず思い浮かんだのも茶道の和菓子だった。確かに、もしも邯鄲の声が形になったとしたら、懐紙に包んで持ち帰りたくなるような美しい和菓子のようだ、と思う。

声そのものを句に詠むというのは難しいと思うが、〈懐紙に包みたし〉には詩的な驚きと納得感があった。すっと心が澄んでくるような一句である。

2018年8月26日日曜日

〔週末俳句〕上と下 西原天気

〔週末俳句〕
上と下

西原天気


あるときある人が若手俳人の名をあげて、質問してきた。「山口優夢とどちらが上ですか?」。

上?

どちらが?

ううむ。

難しい質問だが、私の知る範囲では、山口優夢のほうがたくさん食べると思う。


すると、こんな新聞記事が。




うわっ! 人を超えてキャラ化しつつある。



ところで、最初にあげた質問。食う話、体重の話ではなくて、俳句のことを訊かれたわけですが、俳句の優劣・俳句の勝敗に興味がないので、答えようがなかった。

例えば、AとB、どちらも素晴らしいなら、そこに優劣・勝敗は要らない。どちらも勝ちでいい。

AとB、どちらもポンコツなら、その勝敗なんて無意味。ポンコツAはポンコツBよりも優れているなどという判断は無意味。

というわけで、山口優夢氏についてすこし心配しているが、じつは他人を心配している場合ではなくて、私も食事制限と運動を本格的に再開すること、余儀なくされている。



知人数人がグループ書道展。見に行く。



とても楽しんだ。


2018年8月25日土曜日

【新刊】岸本尚毅・宇井十間『相互批評の試み』

【新刊】
岸本尚毅・宇井十間『相互批評の試み』

2018年8月24日金曜日

●金曜日の川柳〔金子泉恵〕樋口由紀子



樋口由紀子






加計会見蝉のオシッコより速い

金子泉恵

川柳誌「触光」の「(高瀬)霜石風味時事川柳」からの一句。一読して、上手く言うなあと感心した。時事川柳ではお馴染みの「加計学園」だが一味違っている。

蝉を捕まえようとすると、蝉は尿のような排泄物をかける。なので、つい「排泄物」とひっかけたくなるが、掲句はその速さ、決して早くなかったのに、あっという間に終わった、短さとひっかけている。蝉の尿はほとんどが水で、有害物質はほとんど含まれてないそうだが、加計問題はそうではないだろう。

時事川柳の面目躍如のような一句だが、残念な点もある。6月19日の加計会見からもう3か月以上が過ぎてしまった。川柳誌の締切、編集、発行を経ると日の目を見るのが今になってしまうのはしかたがないが、事近でればもっとインパクトがあったはずである。「触光」第58号(2018年8月刊)収録。

2018年8月23日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








実や月間口千金の通り町  芭蕉

『江戸通町』より。延宝六年作。「実」は「げに」と読む。謡曲に頻出する語であった。ほんとうにまあ、ぐらいのニュアンスだろう。間口千金は間口一間(約1・8メートル)の地価が千両(1両=10万円とすると1億)にあたる繁盛した商業地のことを言う。通り町は今の江戸の神田から新橋辺りまでの商店街。現在の「中央通り」を指すと言われている。実や月、の打ち出し方はさすがは談林調といった派手さだ。きっとこの月は、通りのセンターに位置するのだろうと思う。江戸の繁栄を詠い上げた。

友人に聞いたところ、銀座高島屋は外国人向けの商法にシフトしているらしく、玄人客は日本橋高島屋に行くらしい。この句も、どちらかというと銀座よりも日本橋で月を見上げるときに思い返したい。

2018年8月22日水曜日

〔ネット拾読〕トゥピ=カワイブの伝統を遵守しつつ靴を磨いてみること 西原天気

〔ネット拾読〕
トゥピ=カワイブの伝統を遵守しつつ靴を磨いてみること

西原天気



記事内容と無関係なタイトルを付けるのが、このシリーズの習わしなので、今回もそうしています。あしからず。

丸田洋渡:童話的な俳句について
https://note.mu/jellyfish1118/n/nc701474d9e64

金原まさ子と阿部完市の俳句を「童話」の視点で論じ、示唆深い。

前者については例えば、《ときどき叫びつくしんぼ摘む女》《うつむいて海鼠をわらう女かな》(金原まさ子)を「これを童話で──たとえば、ヘンゼルとグレーテルで二人が向かうお菓子の家の魔女のような女性が、ときどき叫んでつくしを取っていたり、うつむいて海鼠をわらっていたらどうだろう。ぴたっと映像がまとまるのではないだろうか。」といった具合。

なるほど、金原まさ子の俳句には、悪女、聖母、魔女(的)など、女性の虚構上のバリエーションが登場するが、そこに「幼女」を加えると、金原まさ子俳句の輪郭がいっそうはっきりする。

阿部完市については、「(…)童話の世界を描いているというよりは、童話の世界を一時的に措定し、それに関わる存在として、今ここを描いている(…)」とする。

フォークロア的な題材や感触への指摘はこれまで少なくないと思うが、「童話」という異界への通路が一瞬ひらくと捉えれば、阿部完市の俳句のもつ、いわば「常世的な透明感」や独特のなまめかしさの由縁に触れたような気がしてくる。

「「ことばのこてん」というアトラクション」問題反応まとめ
https://togetter.com/li/1258779

ツイートを追っていくと、問題視しているなかにも、引用と転載の区別がついいていない人も多い。この手の問題の根の深さ。

このイベントは作者名を明記していない様子で、それならば無断転載よりも剽窃に近づく。「展示」であることを示していても、作者名ナシの短歌や俳句は、本来の作者とは別の作者(この場合は企画者)との誤解を与えやすい。

一方、引用の要件を満たす合法クリアという点で、俳句作品は微妙な問題を抱えるが、多くは、慣習を重んじて処理される模様。例えば、歳時記の例句掲載は無許可でOK、入門書なのどの例句は(著作権のまだ切れていない)作者に掲載許可をもらう、といった具合。

ちなみに、このウラハイの、モチーフ別に数句を並べる記事(≫例)なども、法律上はアウトだろう。

穂村弘×枡野浩一対談
https://wezz-y.com/archives/57044

ことばvs現実という根源的なテーマが、プライベートなエピソード豊富に語られる。記事末尾の〈次ページへ〉〈次回へ〉をたどっていくと全6回。短歌界隈の出来事に疎くても、飽きずに楽しめるのは、両氏の(対照的な)語り口のおもしろさ?


2018年8月21日火曜日

〔ためしがき〕 原形質 福田若之

〔ためしがき〕
原形質

福田若之


夢のなかで、俳句にも構造はあるのか、と問われ、例となる句――そして、仮に俳句に「構造」のあることを肯定するとして、それはどういう意味での「構造」なのか――を考えているうちに、目が覚めてしまう。眠りに落ちてから、まだ四時間ほどしか経っていない。ほとんど、まちがって悪夢を見たに等しい目覚めだ。

起きてみて、俳句にも構造がある、と語るよりも、むしろ、俳句には構造の原型がある、あるいは、いっそ、俳句には構造の原形質がある、とでも語ってみせたほうがそれらしいのではないか、と思い至る。 しかし、俳句には……の原形質がある――これは俳句について語るときのある種の紋切り型にすぎないのかもしれない。

2018/7/31

2018年8月20日月曜日

●月曜日の一句〔池谷秀子〕相子智恵



相子智恵






もう一度母が華やぐ盆提灯  池谷秀子

句集『ジュークボックスよりタンゴ』(本阿弥書店 2018.7)所収

母の新盆だろう。〈もう一度母が華やぐ〉によって、生前の母の華やかな美しさや、周囲を明るく照らすような性格が思われてくる。きっとそういう人だから、親戚などから感謝を込めて盆提灯がいくつも贈られてきているのかもしれない。精霊棚が華やいでいる。

一方〈もう一度〉によって、亡くなる直前の故人の静かな様子、そして亡くなった後の静けさがより深く伝わってくる。

失った悲しみを湿っぽく詠まずに、故人の人物像が見えてくるような明るさをもって描いたことで、逆にしみじみとした読後感のある一句。

2018年8月19日日曜日

〔週末俳句〕夏が終わる 西原天気

〔週末俳句〕
夏が終わる

西原天気



短歌の現在を概観する講演を聞きに出かけた。参考文献のひとつとして挙げられた山田航編著『桜前線開架宣言』(2015年/左右社)に関して、かねてよりひとつ疑問というか興味があった。それは、帯の背に記された惹句「二十一世紀は短歌が勝ちます」を、みな、どう読むのだろう、ということ。惹句制作者の〈意図ではない。目にした人の受け取り方のことだ。

「二十一世紀は」というのだから、二十世紀は〈負けていた〉のか。

勝ち負けは相対だから、相手がいる。短歌が勝つ相手は何なのだろう。

あるいは、相対ではなく(つまり相手がいるのではなく)、短歌が「勝利」を手にするのか。

人によって、この惹句の読みは変わってきそうだ。

その日の講演者にそのへんのことを質問したかったが、質問時間は設けられていなかった。懇親会で話す機会はあったが、その時点では「勝ちます」問題のことはすっかり忘れていた。



『しばかぶれ』第二集(2018年7月30日/堀下翔編集)に収められた島田牙城インタビューがおもしろい。具体的なエピソードの豊富さにくわえ、質問への応答といったスタイルについてまわる堅苦しさや構えた感じから遠く、炉辺話のような、いい意味の弛緩、気さくが愉しい。

2018年8月17日金曜日

【俳誌拝読】『円錐』第78号(2018年7月31日)

【俳誌拝読】
『円錐』第78号(2018年7月31日)


A5判、本文72頁。編集委員:山田耕司、今泉康弘、澤好摩。

前号に発表となった「第2回円錐新新鋭作品賞」受賞3氏の新作(各15句)を掲載。

間投詞ばかり口にし毛虫焼く  石原百合子

この世にはえんのしたにも秋がきて  高梨 章

赤い星コーラが乾くほど経つた  大塚 凱

なお、第2回新鋭作品賞・受賞作、選考座談会は、ウェブで読める。

≫選考座談会
http://ooburoshiki.com/haikuensui/2018/05/02/ensui_zadankai_77/

≫受賞3作
http://ooburoshiki.com/haikuensui/2018/05/01/sakuhinsho_2018/

(西原天気・記)

2018年8月16日木曜日

【新刊】筑紫磐井『虚子は戦後俳句をどう読んだか―埋もれていた「玉藻」研究座談会』

【新刊】
筑紫磐井『虚子は戦後俳句をどう読んだか―埋もれていた「玉藻」研究座談会』

2018年8月14日火曜日

〔ためしがき〕 興の運転見合わせ 福田若之

〔ためしがき〕
興の運転見合わせ

福田若之


ときどき、ものを読んだり、観たり、聴いたり、味わったり、抱きしめたりしても、もはやまったく満たされないときがある。それらが、おもしろかったり、あたたかかったり、やわらかかったり、きらきらしていたりするのがわからないわけではない。だが、まるですべてが薄膜越しに感じられているにすぎないかのようになる。つまり、それらがいつもどおりおもしろいことはわかるが、そのおもしろみに浸ることができないという状態に陥る。そういうときは、ものを変えても、なにひとつ変わらない。興の運転見合わせは、部分的なものではなく、全面的なものだ。故障は僕自身の身体に起こっている。経験的には、必要なのは眠ることだ。というよりも、それよりほかにしたいことがなくなるのだが。

2017/7/30

2018年8月12日日曜日

〔週末俳句〕家族でする句会 千野千佳

〔週末俳句〕
家族でする句会

千野千佳



2年前の夏、句会が楽しくてしょうがなかったわたしは、自分が主宰となり句会を開くことにした。できれば6人くらいでやりたい。

メンバーをどうしよう。わたしが普段参加している句会のメンバーを誘うのは畏れ多い。職場のひとを誘ったらドン引きされそうだし、ごはんに行く友達は今は1人しかいない。ということで家族を誘って句会をすることにした。

せっかくなので、俳号をつけることにした。

父、俳号「海士」(うみし)。海に潜ってサザエやもずくを採るのが趣味。自らこだわりの俳号をつけてきた。

母、俳号「こつぶっこ」。亀田製菓のお菓子こつぶっこのキャラクターに似ているので。
姉、俳号「キツネ」キツネ顔。

友達、俳号「みやじ」エレカシのファン。

友達の父、俳号「鶴の爺」俳句の腕に覚えありとのこと。

わたしの俳号はスイスロールとした。

1人3句出し。お題は「花火」「夏休み」「その他自由」とした。無記名で短冊に各々記入。3句✕6人で18句集まった。その中から1人3句いいと思うものを選び、うち1つを特選とする。友達とその父は投句のみの参加となった。

わたしの父と母はあまり本も読まないし、勉強を熱心にするタイプではない。姉も同様。句会をやりたいと言うと、父と姉は面白がってやる気になったが、母はそんな難しいことは嫌だ、と言った。母は勉強が苦手で、作文なんてもってのほか。わたしが中学生の頃、母の日記を盗み見て、誤字や文法上の誤りを指摘したら、「いやな子だね」と言われた。
母が作った俳句をみせてもらったら全く意味が通じないものだったので、わたしが手を入れた。

おのおのの作品を一つずつ紹介する。

 大花火五秒遅れて届くおと     父(海士)

 墓参りBGMはひぐらしで        姉(キツネ)

 教えてよ手持ち花火のできる場所      友達(みやじ)

 えごを煮る木べらの重くなりにけり     母(こつぶっこ)

 昼寝する孫を囲んで笑顔かな     友達の父(鶴の爺)

 ひぐらしや母の手紙の誤字だらけ     私(スイスロール)

一番人気はわたしの句「ひぐらしや母の手紙の誤字だらけ」。よかった。内輪ネタを盛り込めたのが高評価につながった。あとは鶴の爺の句が人気を集めた。わかりやすく、まとまりもよい。しかし父が「鶴の爺の句はありがちなんだよなぁ」とつぶやいていた。わたしは父を見直した。

俳句なんてどうしたらいいかわからない、と言っていた面々も、いざ作るとなると指で音数を数えたりして、数日間は頭が俳句モードになっていたようだ。自分で作った俳句には愛着がわくもので、句会で自分の句が読まれるがどうか、とてもどきどきする。句会の一番の醍醐味だと思う。主宰ぶって、「この句のどこがよかったのですか?」と聞いてみたが、面々は少し恥ずかしそうに「なんとなくだよ」と答えていた。

句会を終えて楽しくなったわたしたちは、近所の夏祭へ直行し、東京音頭の輪の中へ飛び込んだ。踊りという季語でなにか作れないかと考えながら。

2018年8月11日土曜日

【人名さん】ミック・ジャガー

【人名さん】
ミック・ジャガー

桃を廻してゆけばミック・ジャガーのこゑ  中嶋憲武


『豆の木』第22号(2018年5月20日)より。

2018年8月9日木曜日

●木曜日の談林〔井原西鶴〕浅沼璞



浅沼璞








月代のあとや見あぐる高屋ぐら  西鶴

月代(つきしろ)は月の出の頃に空がしらむことだが、それに築城を言いかけた談林調(西鶴以外にも作例多し)。

「高屋ぐら」は軍事用の高い櫓。

場所は現・大阪府羽曳野市古市の高屋城跡――応仁の乱後、畠山氏の居城として築かれたが、天正3年(1575)織田信長の焼打ちにあい、廃城になったという。

〈月代の頃、高屋城跡の空を見上げると、かつての高櫓が一瞬みえた〉みたいなタイム・スリップ詠というか、天空の城詠というか。
 

いずれにしろSFチックな俳風だ。
 

作家・西鶴のノスタルジー云々といった近代的な解釈もあるが、? な感じは否めない。

ところで句の表記「ぐる」「ぐら」のせいか、

「高矢倉と呼んでいた倉グと揺らぐ」なんて気もしてくる。

2018年8月7日火曜日

〔ためしがき〕 うかつ 福田若之

〔ためしがき〕
うかつ

福田若之


ひとりごとを言うひとは、周りの目を気にし忘れて、うかつなことを言ってしまう。

ふたりで話をするひとは、重たげな沈黙をふりはらおうとして、うかつなことを言ってしまう。

三人かそれよりたくさんで話をするひとは、話題が移る前に言いたいことを言おうとして、うかつなことを言ってしまう。

このなかで、僕が自分のものとして許すことのできるうかつさは、ひとりごとのそれだけだ。対話のうかつさや談話のうかつさ――それらはいずれも、会話を音楽的にしようとすることから来るうかつさ、すなわち、すこし大げさに書くなら、生を美しくやりすごそうとすることから来るうかつさだ――は自分にはどうしても避けがたく、しかしながら同時に、自分のものとしてはどうしても許しがたい。

自分を許せないというところから、ひとつの夢が生じる。すなわち、もはや何ひとつ会話をすることなしに、ただともに生きてあること――ミンナニデクノボートヨバレ。しかし、宮澤賢治の言葉を借りてきたのも、ほんの思いつきにすぎない。あるいは、これもまたうかつなのだろう。気がつくと、書かれる句が思ってもいなかった道に出る。うかつにも無責任に、ふわ、風を依り代にした草の種のように。いつもどおり、ここに文はない。

2017/7/26

2018年8月6日月曜日

●月曜日の一句〔大関靖博〕相子智恵



相子智恵






秋風に万物の影動きけり  大関靖博

句集『大楽』(ふらんす堂 2018.7)所収

明日はもう立秋だ。今年の暑さが収まるのはいつのことになるだろう。

掲句を一読して、歳時記の立秋の頁に本意として必ず引かれている〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行〉(『古今和歌集』)の和歌を同時に思った。

藤原敏行は、秋の到来は目には見えないけれど、風の“音”で、それにはっと気づいたと表現したが、この作者は〈万物の影動きけり〉と、実際に“目に見えるもの”を描いて、それが秋風によるものだと断じているのが面白い。

万物の影が動くのを確認するためには、長い時間それらの影を見続けていなければならないだろう。しかしこの句は「さっと秋風が吹いたら万物の影が動いた」ように仕立てられている。“風が吹いたら影が動く”ということは実際にはないのだけれど、詩としてこのように提示されると、地球を俯瞰したような“神の目線”で、秋風が吹き渡っていき、万物の影が動いていくのを見ている気持ちになる。そして心が涼しくなるのである。

一切が一瞬であるような、不思議な時空の大きさを感じさせる一句である。

2018年8月5日日曜日

〔週末俳句〕署名と花籠 小津夜景

〔週末俳句〕
署名と花籠

小津夜景


ここのところ東京にいて、週末ごとに人前に出ていた。

7月29日(日)

本屋B&Bで新刊『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』発売記念のトークイベント。タイトルは「海外翻訳文学としての漢詩 ~古典との新しいつきあい方」。お相手は詩人の蜂飼耳さんと『未明』ディレクターの外間隆史さん。造本のこと、唐詩と宋詩の違い、江戸の女性漢詩人、土屋竹雨「原爆行」などについて話す。

イベント終了後は、あらかじめ考えていた方法で本にサインをする。サインってなんだか偉そうだし、なにより単純に恥ずかしいのでなんとかならないかなあ…と前から思案していたのですけど、下の写真の場所だったらすんなりできるので気に入っています。


8月4日(土)

編集工学研究所で、風韻講座の特別編「半冬氾夏の会」に出演。タイトルは「二〇一八年夏秋の渡り」で、酒井抱一「夏秋草図屏風」がほのかに匂いづけされている。お相手は歌人の小池純代さんとイシス編集学校校長の松岡正剛さん。

第1部では前もって参加者に出されていた宿題(拙句から栞にしたい一句を選び、さらにその栞を挟むのにぴったりな本を挙げる)に対して小津が寸評を加えるといった、全くもってご冗談でしょう!的遊戯をおこなう。遊戯の締めには朗読も。第2部では小池&松岡両氏と、複数の言語を耳でどのように捉えているか、俳句を構成しているレイヤーのこと、新刊の話題などについておしゃべりした。

この日は贈り物もいただいた。草花を寄せた花籠で、奇しくも酒井抱一的風韻をそこはかとなく感じさせる。送り主の名を聞くと、まだお目にかかったことのない知人から。人と人とはじかに会うのも楽しいけれど、そこに至るまでの長い時間も文句なしに素敵です。


2018年8月4日土曜日

◆週刊俳句の記事募集

週俳の記事募集

小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2018年8月3日金曜日

●金曜日の川柳〔普川素床〕樋口由紀子



樋口由紀子






ごはんほかほか顔の左右の不思議なずれ

普川素床 (ふかわ・そしょう)

不思議な川柳である。状況をそのまま詠んでいるように見えるが決してそうではない。そのように見せかけているだけで、そのときの自分の感覚を色濃く出してきている。実際に見えないものを言葉で見ているようだ。

「ごはんほかほか」と「顔の左右の不思議なずれ」はつながっているのか。それとも切れているのか。「ごはんほかほか」はたぶん人生で五本の指に入るくらいの嬉しいことである。けれども、「顔の左右の不思議なずれ」となると、五本の指を大きく揺さぶる。「ごはんほかほか」の日常の幸せ感がなにやらへんになり、変質する。なぜそうなのかとの細部はどこにも書いていないし、匂わせてもいないので、別の意義が出てきそうでもある。ミステリーであり、ホラーである。それが日常というものの正体かもしれない。〈落花の夢無数の窓があいていて〉〈やさしさのせいで馬の顔は長くなった〉〈皮一枚思想一枚堕落せよ〉。