小津夜景
抽象の下地
あなたは美術作品を見るとき、感動を理屈で説明したくなりますか?
わたしはいつも「すごーい」か「かわいい」ですんでしまう。わざわざ感動に理屈をかぶせる必要はないし、そもそも「すごい」という言葉で言い足りなさを感じたことがない。
とはいえ義理のある相手に求められれば、ある作品のおもしろさを、あえて理屈で説明することもある。わたしにとって義理のある相手といえばまずもって夫だが、この人はわりとむずかしい、わたしがじぶんの頭でかんがえたことのないような質問をたまにする。ヴァンスという村へバスで出かけ、マティスの最高傑作といわれるロザリオ礼拝堂を見学したときも、礼拝堂に入ってしばらくすると、
「この部屋って、なんか隠された意図とかあるの?」
とたずねてきた。ぜったいにそう来るだろうなと確信していたわたしは、アパートを出る前に目を通しておいた岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』のマティス論をぺろっとそのまま夫に喋った。
「かくかくしかじか、ということなの」
「へえ」
「でもね、いつも言うけど、いまわたしが喋ったことは話半分に聞いてね。とくに岡崎さんの書くものは知的興奮度が高い分、読者の頭を盲従的に、薄っぺらくしちゃう力も強い」
「うん。わかるよ」
で、いきなり話はとんで、今年の読み初めは、そんな岡崎乾二郎の「
抽象の力──現実(concrete)
展開する、抽象芸術の系譜」(豊田市美術館)だった。これはキュビスム以降の芸術の展開を追いつつ、近代日本美術における抽象の起源と条件を同時にかんがえてゆく論考なのだけれど、おもしろいのは抽象の表現の下地にフレーベル、モンテッソーリ、シュタイナーといった近代教育家たちの考案した教育遊戯を置くところである。たとえば1876年にはすでに日本に導入されていたフレーベルの教育メソッドが、ロマン主義から象徴主義への思潮を汲みつつ到達した《生の合一思想》《球体法則》という一種の神秘思想の上に構築されていたことを解説する下り。
フレーベルの《恩物》の意義は、個々の積み木が静止しているときに現れている幾何形態そのものにあるわけではない。これを操作し、たとえば回転させるときに、まったく別の幾何的な秩序が出現することにこそある。その出現も理解もこの事物と身体行為の交流によってのみ可能になる。こどもたち、あるいは指導者は事物に代わって歌う。「ぐるぐるまわる、うれしいな/ぐるっと向きをかえて うれしいな/赤ちゃん あなたもうれしいな(《恩物》2の歌『フレーベル全集』玉川大学出版部 1989年)」(岡崎乾二郎「抽象の力──現実(concrete) 展開する、抽象芸術の系譜」)
こうした世界把握の訓練方法を近代の抽象美術論につなげることで、著者は抽象の意味を視覚表現や静止表現に限定されないようにうまく工夫する。
で、その結果、すごく風通しがいい。
わたしは個人的に、影絵、風車、花火、噴水、あやとり、シャボン玉などモビール(動く彫刻)的要素のあるかたちに美しさや、かけがえのなさや、原初的な知的興奮を感じるたちなので、書かれていることがたいへん肌に合った。あ、あともういっこ、ゾフィー・トイベル=アルプのかわいい作品がいっぱい引用されているのもうれしかったな。