2022年4月29日金曜日

●金曜日の川柳〔水本石華〕樋口由紀子



樋口由紀子






このゆれは着替えなくてもよい地震

水本石華 (みずもと・せっか) 1949~

地震が各地で頻発している。本当に怖い。地震が来るとわけのわからない恐怖で身体が一気に縮こまる。地震の規模は後で数字によって知らされるが、人は瞬時に経験でその度合いを判断する。その査定結果が「着替えなくてもよい」だった。

どれくらい地震だったのか、なぜ着替えなくてもよいのかは、共有している認識で、理由は書かれていなくても誰にでもすぐに理解できる。ポエジーとは無縁の位置で生活者の声をすんなりと立たせて作品にする。川柳の一つの姿である。「着替えなくてはならない」や「着替える時間もない」の地震がやってこないことを願うばかりである。「晴」(5号 2022年刊)収録。

2022年4月25日月曜日

●月曜日の一句〔河東碧梧桐〕相子智恵



相子智恵







ハンモツクから抱き上げて私でなければならない気がして  河東碧梧桐[1873-1937]

石川九楊『俳句の臨界 河東碧梧桐一〇九句選』(2022.02 左右社)所収

書家の石川九楊氏が碧梧桐の句を選び、書の作品とした本から引いた。碧梧桐は俳句のみならず書でも有名だが、九楊氏は〈その革新に革新をとげていく俳句と連動して展開していく書は近代の書として副島種臣に次ぐ〉という。

また、〈碧梧桐は近代・現代の俳壇によって、消しゴムでゴシゴシと消されていったのだ。だが残された俳句は、現在においてもまだ活き活きとした力を伝えている〉と碧梧桐を敬遠あるいは無視し続けた俳壇への痛烈な言葉が続く。確かに不勉強な私は、掲句の活き活きとした力に新たに出会い、驚いた。

底本に当たっていない状態での鑑賞で恐縮だが、本書には句の短い鑑賞がついていて、そこには〈二十八音。碧梧桐の最長の句か。〉とある。

宙吊りのハンモックから抱き上げるのは、自力では降りられない子どもだろう。九楊氏は、青木月斗の三女で碧梧桐の養女となった美矢子がモデルであろうと書く。ただ、そのような背景をやすやすと越えていく〈私でなければならない気がして〉の普遍的な切迫感に胸を打たれる。このゆりかごのような、だが不安定なハンモックから抱き上げるのは、他の誰でもない私でなければならないのだ。

私自身も、まだ這うこともできない我が子を抱き続けていた時、これだけ長い時間、人間を抱き続けるという経験は、なんと不思議なことだろうと思った。それも私でなければならない気がするのだから、なおも不思議である。

掲句は確かに長いのだが、「~て、~て」の繰り返しと、七・五・八・八のリズムで長さを感じさせない。ハンモックの寄せては返す揺れと、それに伴う心の揺れが、句の形からも見えてくるような気がする。

この句を書いた九楊氏の書をここで見せられないのは残念だ。まるでハンモックの網目のようにページいっぱいに張り巡らされた書は、揺れの不安と、抱きとめられる安心感と、しがらみのようなややこしさとがあって、〈私でなければならない気がして〉の不思議な気分が伝わってくる。


2022年4月22日金曜日

●金曜日の川柳〔石部明〕樋口由紀子



樋口由紀子






靴屋きてわが体内に棲むという

石部明 (いしべ・あきら) 1939~2012

まるで他人事のようである。自分にだけ聞こえる、メルヘン的な語り口だが、靴屋が体内に棲むというのは尋常ではない。しかし、戸惑っているふうでも不安に思っているのでもなさそうである。むしろ歓迎しているようでもある。自分がどう変化するのかワクワクしている。そうなることで本来の自分が現れ、自分が見えてくる。

自分自身の壊れに対する鋭敏な感覚からきているのだろうか。歪んだ感覚をありきたりの言い回しに委ねずに物語っている。靴屋が棲んだ体内はどうなっていくのか。強烈な存在感を「靴屋」は放っている。自分の中に抱えている得体のしれないものを意味不明の不可解な現象に差し戻している。『遊魔系』所収。

2022年4月20日水曜日

西鶴ざんまい #25 浅沼璞


西鶴ざんまい #25
 
浅沼璞
 

 奥様国を夢の手まくら   西鶴(裏四句目)
夏の夜の月に琴引く鬼の沙汰
  仝(裏五句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
夏月で恋離れ。月の定座(十句目)から五句も引き上げています。

琴引く(弾く)主体は付句だけなら鬼と読めますが、前句を受けると奥様とも読めます。
 
楠元六男氏は〈奥様が、玉琴をひきさして、夢をみる。その夢に「琴引く鬼の沙汰」が登場する。いかにも『酒吞童子』を連想させる世界〉と解釈しています。【注】

よって句意は「夏月に琴を弾きさした奥様が、琴弾く鬼の夢を手枕にみる」といった感じでしょうか。
 
 
 
〈『酒吞童子』を連想させる世界〉というのは西鶴自註に依拠したものと思われます。  

自註をみましょう。

「爰(ここ)は俳諧の俳諧也。惣じて夢は定めがたき物なれば、前句に付けよらぬ事を出し侍る。宵にあそばしたる玉琴は、ありのまゝにして、御気は格別の事に移り、はるかなる唐土の虎を見し野辺、岩屋に籠る鬼の遊楽を見させ給ふ御夢物語りのさまにいたせし也」

意訳すると「ここは俳諧中の俳諧といっていい最も俳諧的な局面。総じて夢は不安定な物なので、ふつう前句に付けないような事をわざと出します。宵に演奏なさったお琴はそのまま放置し、お気持ちは格別の事に移り、遥か中国の野辺に見られる虎や、岩屋に住む鬼の遊楽をご覧なさる夢物語のさまを付句に致したのでございます」といった感じです。

知られるように『酒吞童子』に代表される日本の伝承説話では、多くの鬼は岩屋に居住し、人里に出ては美女・財宝を略奪。あげ句に岩屋で宴会に興じました。
 
「琴引く鬼の沙汰」の「沙汰」にはこうした背景が見込まれていたに違いありません。
 
 
 
では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。

夏の夜の琴をひきさす月をみて 〔第1形態〕
    ↓
夏月の虎ふす野辺に琴ひきて  〔第2形態〕
    ↓
夏の夜の月に琴引く鬼の沙汰  〔最終形態〕

このように最終形態は虎(生類)から鬼(異物)へと夢物語を広げ、恋句から離れているように思われます。
 
 
 
「どや、これぞザ・俳諧やで」

けど、ちょっと前に「化物」って異物がありましたけど……。

「ちょっと待ってや(焦)……ひー、ふー、みー、三句去りで打越は離れとるで(安堵)」

三句去り……ぎりぎりっすね。
 
 
 
【注】『元禄文学の開花Ⅰ』(勉誠社)「元禄俳壇と西鶴」
  

2022年4月18日月曜日

●月曜日の一句〔杉原祐之〕相子智恵



相子智恵







嬰児に顔まさぐられ春の夜  杉原祐之

句集『十一月の橋』(2022.04 ふらんす堂)所収

赤ん坊が目で見たものを手で触ろうとするのは、だいたい生後4ヶ月くらいからだが、この時の赤ん坊の視力は0.04~0.08くらいしかないから、ほとんど見えていない。視力が1.0になるのは4~5歳くらいである。

掲句、赤ん坊を抱いているか、あるいは添い寝をしているのだろう。その間ずっと顔をまさぐられ続けている。赤ちゃんは、ぼんやり見えたものを興味深く触っているのである。手はきっと、よだれでベトベトだ。よだれまみれの手で顔をまさぐられる、暖かく湿った春の夜というのは、はたから見ればちょっと気持ち悪くもあるが、親にとってはそのような為すすべのなさも喜びなのであろう。

吾子俳句でも決して甘くはなく、どこか不思議な気味の悪さがあって、だからこそ「生きている」という実感が乗った句だと思った。

2022年4月15日金曜日

●金曜日の川柳〔谷口義〕樋口由紀子



樋口由紀子






満月の夜には瓶の蓋が開く

谷口義 (たにぐち・よし)

あたりはしんとしていて、瓶の蓋が開く音が聞こえてきそうである。いくらがんばってもびくともしなかったジャムの瓶の蓋がすっと開いたのか。開けるつもりのない薬草の瓶の蓋がひとりでに開いたのか。それとも大人一人が吸い込まれるくらいの、あるいは出てくるくらいの大きな瓶の蓋が開いたのだろうか。

今日は満月の夜。「満月の夜には」だから、満月の夜以外は瓶の蓋は開かない。あの暗くて明るい満月の夜は特別感と違和感があり、いつもの場が変容する。同時に心の蓋も開く。蓋が開いたことがきっかけに新たな何かが始まる。『卑弥呼の里誌上川柳大会集』(2021年刊)収録。

2022年4月11日月曜日

●月曜日の一句〔鈴木玲子〕相子智恵



相子智恵







桜狩山に憑かるるごとく来て  鈴木玲子

句集『桜狩』(2022.02邑書林)所収

桜に取り憑かれる……ならば、類想の多いところだと言えようか。そこを少しずらして抜けていると思うのが〈山に憑かるる〉の〈山〉である。桜に取り憑かれたのではなく、山に呼ばれるようにして桜狩に来たのだ。普段は緑色の静かな山が突如、桜を妖術のようにぽわぽわと咲かせて、人を我先にと〈桜狩〉に駆り立てる。山が生きていて、桜はその妖術が見せた幻のようだ。例えば千本桜の吉野山は、信仰の証として桜が献木された山だが、なるほど人が取り憑かれそうな山でもある。

2022年4月8日金曜日

●金曜日の川柳〔朧〕樋口由紀子



樋口由紀子






今踏んだ落ち葉は昨日猫だった


ふと踏んでしまった落ち葉がニャーと鳴いたのだろうか。それとも足裏の感触で猫だと思ったのだろうか。昨日は猫だったが、今日は落ち葉になっていたと、独自の語り口でひょいとそんなことがありそうな場に連れていく。

連れていってくれるだけで特に意味はないだろう。俯瞰しているのでも、前後に物語があるというわけでもなく、かといってニヒリズムに陥っているのでもない。感情移入する必要はない。落ち葉を昨日は猫として生きていたと感じただけなのだ。不思議な感覚である。明日は何になっているのだろうか。『卑弥呼の里誌上川柳大会集』(2021年刊)収録。

2022年4月6日水曜日

西鶴ざんまい 番外編#6 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外編#6
 
浅沼璞
 

胞衣桶の首尾は霞に顕れて  西鶴(前句)
 奥様国を夢の手まくら    仝(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
本連載#23 ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい #23 浅沼璞で、付句「手まくら」の読みに関し、歌語ならタマクラ、日常語ならテマクラと記しました。これは後註のとおり、尾形仂氏の『歌仙の世界』(講談社)を参照しての言です。
 
さらに#23では、〈奥方の位(くらい)を考えるとタマクラですが、俳言「胞衣桶」「首尾」を受けるとなるとテマクラでしょうか。迷うところです〉と続けました。
 
たしかに「奥様」の位(品格)を重んじると歌語タマクラですが、よーく読んでみると「胞衣桶」等の俳言を受けるばかりか、「奥様」という表記自体(字体?)が漢語です。
 
周知のように俳言とは、歌語ではない俗語・漢語の総称です。よって付句の「奥様」は前句の「胞衣桶」「首尾」におなじく漢語的な俳言にほかなりません。
 
げんに『新編日本古典文学全集61』(小学館)で加藤定彦氏は、「奥様」が俳言であると註しています。さすれば読みは日常語のテマクラかと振り仮名をみると、どっこいタマクラとなっています。「奥様」の俳言性よりも、その位に比重をおいたのでしょうか。【注】
 
 
 
ちなみに尾形仂氏は『歌仙の世界』で、『卯辰集』「山中三吟」の芭蕉付句「手枕にしとねのほこり打ち払ひ」の振り仮名をテマクラとしています。大内初夫氏(『新日本古典文学大系71』岩波書店)や中村俊定氏(『芭蕉連句集』岩波文庫)も同様のようです。
 
尾形氏はこの付句の人物の位を〈趣味生活に悠々自適する数寄人〉と見込んでいます。これを俗界の大尽客と解せば、日常語テマクラが相応しいと言えるのかもしれません。
 
 
 
読みに関してもうひとつ。

日本道に山路つもれば千代の菊  西鶴

これは一年ほど前の本連載#2ウラハイ = 裏「週刊俳句」: ●西鶴ざんまい #2 浅沼璞 で扱った発句。
 
この上五の読みについて、「にほんじ」(乾裕幸)のほか「にほんみち」(前田金五郎・吉江久彌)など字余りの説もある、と紹介しました。前掲書で加藤氏は「にほんだう」と字余りで読み、俳言と指定しています。「場」の句ですから位は考慮の外でしょう。
 
 
 
さるほどに過日、拙稿をご覧下さった復本一郎氏より、〈「やまとぢ」と読むのでは〉と私信にてご教示頂きました。これは歌語による読みです。
 
曰く〈発句から調べを崩すことはしないと存じます〉との由。確かに「やまとぢにやまぢつもれば」なら、字余りが解消されるだけでなく、韻も濃くなりますね。
 
この場をお借りして御礼申し上げる次第です。深謝。
 
 
 
【注】雅語的慣用句としてはユメノタマクラの読みが定着していたようです。
  

2022年4月4日月曜日

●月曜日の一句〔すずき巴里〕相子智恵



相子智恵







春昼の土管トンネルほうと鳴る  すずき巴里

句集『櫂をこそ』(2022.3 本阿弥書店)所載

夢のような句である。何が夢かといえば、空き地に置きっぱなしの土管をトンネルの遊具にするなど、高度成長期の藤子不二雄の漫画の世界の中のものだからだ。今や都会の空き地ともなれば、コインパーキングにして有効活用したり、土管があるとすれば危なくないように工事現場の囲いの中だったりするものだから、そういえば「土管があって子どもが自由に遊べるような、のどかな空き地」というもの自体が夢のような存在なのである。

土管を遊具にしている公園は今もあるようだが、遊具にも安全性が求められる昨今では、子どもたちは、土管で遊ぶことなどほとんどないだろう。ただ、トンネル型の遊具(滑り台の下などに作られていたりする)は今も健在で、いつの時代も子どもはトンネルが好きだ。そこで声を出してみれば、確かに反響が「ほう」とくぐもって楽しい。

掲句の〈土管トンネルほうと鳴る〉は自然に鳴っているような感じだから、子どもの声の反響ではなく、土管の中を春風が通り抜けた音なのかもしれない。それはそれで夢のような時間だ。春の昼下がり、こんな空き地の土管の中で、〈ほう〉という音を聞きながら、空白の時間を過ごしたいものである。

2022年4月1日金曜日

●金曜日の川柳〔飯島章友〕樋口由紀子



樋口由紀子






424回混ぜて変になる

飯島章友 (いいじま・あきとも) 1971~

「納豆は百回以上混ぜる」と聞いたことがある。確かに混ぜれば混ぜるほど美味しくなりそうである。しかし、424回混ぜて変になるとはどういうことなのか。「変になる」のは混ぜたモノなのか、混ぜたヒトなのか。数え続けた頭も混ぜ続けた腕も変になりそうである。

「424(よんひゃくにじゅうよんかい)」はこれだけで十一文字。この数字に意味があるとは思えない。限りなく嘘っぽい数字である。しかし、その嘘っぽい数字が一句に仕掛けを作っている。意外な角度から「変になる」に焦点を当てた。「おかじょうき」(2022年刊)収録。