相子智恵
ハンモツクから抱き上げて私でなければならない気がして 河東碧梧桐[1873-1937]
石川九楊『俳句の臨界 河東碧梧桐一〇九句選』(2022.02 左右社)所収
書家の石川九楊氏が碧梧桐の句を選び、書の作品とした本から引いた。碧梧桐は俳句のみならず書でも有名だが、九楊氏は〈その革新に革新をとげていく俳句と連動して展開していく書は近代の書として副島種臣に次ぐ〉という。
また、〈碧梧桐は近代・現代の俳壇によって、消しゴムでゴシゴシと消されていったのだ。だが残された俳句は、現在においてもまだ活き活きとした力を伝えている〉と碧梧桐を敬遠あるいは無視し続けた俳壇への痛烈な言葉が続く。確かに不勉強な私は、掲句の活き活きとした力に新たに出会い、驚いた。
底本に当たっていない状態での鑑賞で恐縮だが、本書には句の短い鑑賞がついていて、そこには〈二十八音。碧梧桐の最長の句か。〉とある。
宙吊りのハンモックから抱き上げるのは、自力では降りられない子どもだろう。九楊氏は、青木月斗の三女で碧梧桐の養女となった美矢子がモデルであろうと書く。ただ、そのような背景をやすやすと越えていく〈私でなければならない気がして〉の普遍的な切迫感に胸を打たれる。このゆりかごのような、だが不安定なハンモックから抱き上げるのは、他の誰でもない私でなければならないのだ。
私自身も、まだ這うこともできない我が子を抱き続けていた時、これだけ長い時間、人間を抱き続けるという経験は、なんと不思議なことだろうと思った。それも私でなければならない気がするのだから、なおも不思議である。
掲句は確かに長いのだが、「~て、~て」の繰り返しと、七・五・八・八のリズムで長さを感じさせない。ハンモックの寄せては返す揺れと、それに伴う心の揺れが、句の形からも見えてくるような気がする。
この句を書いた九楊氏の書をここで見せられないのは残念だ。まるでハンモックの網目のようにページいっぱいに張り巡らされた書は、揺れの不安と、抱きとめられる安心感と、しがらみのようなややこしさとがあって、〈私でなければならない気がして〉の不思議な気分が伝わってくる。
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