2013年10月30日水曜日

●水曜日の一句〔渡辺松男〕関悦史



関悦史








うろこ雲なくししものの億倍の  渡辺松男


ある程度の歳月を生きれば、失ったものも多くなる。
その喪失感を埋めるように「うろこ雲」が見いだされる。

ただしこの「うろこ雲」、必ずしも甘い慰藉に留まっているわけではない。

「億倍の」なのだ。

これは個人の生の卑小さを侮蔑しているわけでもなければ、逆に喪失を豊かな「うろこ雲」(=自然)という代替物が補填しているわけでもない。
喪失というもの自体を圧倒的な質量でさわやかに吹き飛ばしているのである。

説教や垂訓のにおいはない。アニミスムや寓意の回路を通りながらも、それらにまつわりがちな、無自覚な人間中心主義(ヒューマニズム)とは無縁の何かに触れているからである。「億倍の」「うろこ雲」に触れてしまった者が、喪失感にうずくまるただの人間などでいられるものではない。

作者、渡辺松男は迢空賞を受賞している歌人で、『隕石』は初の句集だがすでに堂々たる風格。
稚気と無邪気と妖気に富む。

これらの要素、俳句には必須に近い大事なものなのではないか。


句集『隕石』(2013.10 邑書林)所収。


2013年10月29日火曜日

【評判録】青木亮人『その眼、俳人につき 正岡子規、高浜虚子から平成まで』

【評判録】
青木亮人『その眼、俳人につき 正岡子規、高浜虚子から平成まで』


≫【俳句時評】ささやかな読む行為:外山一機
http://sengohaiku.blogspot.jp/2013/10/jihyo1025.html

≫俳句月評「近代」を問う:岸本尚毅
http://mainichi.jp/feature/news/20131021ddm014070006000c.html


≫web shop 邑書林
http://younohon.shop26.makeshop.jp/shopdetail/005000000074/


2013年10月28日月曜日

●月曜日の一句〔齋藤朝比古〕相子智恵

 
相子智恵







猫の背にほこと骨ある良夜かな  齋藤朝比古

句集『累日』(2013.9 角川書店)より。

〈ほこと骨ある〉にああ、そうだなあ、と思う。この〈ほこ〉に、丸まった猫の背中を撫でたときに感じる、毛と皮越しの背骨の手ざわりを思い出すのだ。見るからにふわふわの柔らかい毛に包まれた猫でも、その体は意外にシャープで、背中側はすぐ骨にあたる。あたたかく「ほこ」と。

背骨を感じているところから、猫を膝の上にのせて撫でている風景が浮かんでくる。猫は丸くなって撫でられながら、安心しきってグルグルと喉を鳴らして喜んでいるようだ。

猫の背を撫でながら、ゆっくりと名月を楽しむ夜。ぽかぽか温かい猫の体は、撫でていてこちらまでリラックスした温かい気持ちになるが、こんな日は特にうれしい。静かでやわらかな気持ちになる名月の夜である。



2013年10月27日日曜日

【俳誌拝読】『SASKIA』第9号

【俳誌拝読】
『SASKIA』第9号(2013年8月30日)


編集・発行:三枝桂子。A5判、本文24頁。

三枝桂子氏の個人誌。氏の俳句作品30句。

  父の父その父の父真桑瓜  三枝桂子

  氷室から糸ほどけゆくしびれ雲  同

  かけがえのなきかわほりの耳二つ  同

「特集:飯島晴子」に津のだとも子「飯島晴子『蕨手』の世界」(特別寄稿)および三枝桂子「俳句のかたち 『蕨手』と『八頭』」を掲載。

(西原天気・記)

2013年10月26日土曜日

【俳誌拝読】『儒艮 JUGON』第3号

【俳誌拝読】
『儒艮 JUGON』第3号(2013年11月1日)


A5判、本文64頁。編集・発行:久保純夫。

久保純夫氏の個人誌と解していいのだろう。氏の3作品(各76句、56句、76句)を収載。加えて招待作家11氏・12作品(各30句)。2段組に句作品をふんだんに配した作り。評論、エッセイ、句集評も。以下、気ままに何句か。

  なめくじら指の先より這い出しぬ  久保純夫

  水玉に毛が生えてくる箱眼鏡  同

この2句は「草間彌生を眺めながら」76句より。草間作品の幻想・蠱惑に俳句で寄り添う。

  泣きながら躯を通る紅葉かな  同

  朝顔の力満ちくる腋毛たち  城 貴代美

  朽野や鯨の骨が組みあがり  仲田陽子

  秋風は縞をなすなりフラミンゴ  岡田由季

  月今宵きりんの中に椅子組まる  木村 修

  刻々と光の変わる唐辛子  上森敦代

  涼しさに何の鳥かはよく見えぬ  杉浦圭佑

  姉さんは鮮やか躑躅吸うときも  原 知子

(西原天気・記)

2013年10月25日金曜日

●金曜日の川柳〔食満南北〕樋口由紀子



樋口由紀子






なんという虫かと仲がなおりかけ

食満南北 (けま・なんぼく) 1880~1957

なんという艶っぽい川柳であろうか。夫婦の仲ともとれるが、そうではない男と女の仲のような気がする。気まずい沈黙のなか、ふと虫が鳴き出した。「なんという虫かな」とひとりごとのようにつぶやく。相手はまだ黙ったままだが、そう言われて、先ほどまでの血相の変わった顔が心なしかゆるみかけている。虫の音を聞くうちに、気持ちもほぐれて、仲なおりできるのは時間の問題だろう。たぶん、食満南北は憎めないワルい男だったに違いない。

夫婦ではこうはいかない。いさかいの種も、喧嘩の仕方も、もちろん喧嘩の後も、全然違う。少なくとも我が家では喧嘩をしたら、虫の音ぐらいでは仲直りできない。

食満南北は初代中村鴈治郎の座付作者として大阪劇界に活躍した。〈顔見世の東は東に西は西〉〈泣いていてふっと手摺りのおもしろさ〉〈今死ぬと言うのにしゃれも言えもせず〉


2013年10月24日木曜日

【俳誌拝読】『絵空』第5号(2013年10月15日)

【俳誌拝読】
『絵空』第5号(2013年10月15日)


A5判、本文16頁。

  牛乳を飲んで元気や土用東風  中田尚子

  余震なほ帰燕の空の晴れ渡り  山崎祐子

  棒切れのやうに蜻蛉が飛んでをり  茅根知子

  芒野に深々と日の差し込みぬ  土肥あき子

(西原天気・記)


問い合わせ等 e-mail esora@sky.so-net.jp



2013年10月23日水曜日

●水曜日の一句〔田吉明〕関悦史



関悦史








三千の椿を踏んで訪ねてゆく   田吉 明

逢瀬の句らしいので「白髪三千丈」よりは、都都逸の「三千世界の鴉を殺し…」の方が浮かび上がるが、いずれにせよ、無限に近い誇張表現としての「三千」である。

モチーフが主情的で、その上表現は象徴的という、俳句以外の形式の方が適していそうな抒情の句だが、それでもこの句に俳句的な快感が漂うのは、無限としての「途中」が描かれているからだろう。

宇宙の始まりと終わりにせよ、個人のそれにせよ、あるいは言語の発生と終焉にせよ、ものごとの始めと終わりは曖昧であり、途中だけがひたすら明確である。

「途中」から無限を引きだす句の快楽といえば永田耕衣が筆頭だが、中心にいて全てを自分にひきずりよせる悪魔的興趣に富んだ耕衣句にくらべて、この句は孤独感が強い。心にあるのは逢うべき相手ばかりであり、訪ねてゆく己はそれまでひたすら己の、あるいは数多の人々の想いを踏み殺すように椿を踏み続け、歩き続ける以外にない。

到着を阻むごとく、行く手に無限などを呼び込んでしまったのは想い自体なのだ。

コスモロジーではなく、思慕が生んだ満たされなさのゆえ孤独、その中にあらわれた無限性を、斬首じみた落ち方をする「椿」の断念の形象と自然性において踏みしめていく快楽に親しみ始めたのがこの句なのである。

なお句集では連作ならぬ「組曲」と称する連なりに句が配置されていて、この句の並びは以下の通り。

 白日
三千の椿を踏んで訪ねてゆく
椿の火指にともして探しにゆく
白日は幼き霊(たま)のはなやぎや
太秦の佛に逢ひに来て 椿

四句を通覧すると、逢うべき相手は幼くして既に死んでいるようだ。

無限に逢えないのも道理だが、「太秦の佛」と墓の所在が暗示されると当たり前の交通機関で辿りつけることになり、「三千」の無限性も単なる心象風景へと矮小化されてしまうようにも思う。

それが作者のめざしたところであり、そういうものとして享受すべき句ではあるのだろうが。


句集『錬金都市』(2013.7 霧工房)所収。

2013年10月22日火曜日

●血




嚙みふくむ水は血よりも寂しけれ  三橋敏雄

八月の夜の木々どれも血を流し  高野ムツオ

イヤホンのコードのごとく血の垂るる  山口優夢

幾億の毛根血噴く 毛綱編む  三橋鷹女

皿皿皿皿皿血皿皿皿皿  関悦史

ねころべば血もまた横に蝶の空  八田木枯

冬の月離陸するとき血が重い  福田若之〔*


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年10月21日月曜日

●月曜日の一句〔川里隆〕相子智恵

 
相子智恵







身に入むやQの文字打つ薬指  川里 隆

句集『薔薇の首』(2013.8 角川書店)より。

〈Qの文字〉とはパソコンのキーボードであろう。〈Qの文字〉だけでキーボードをタイピングしているところまで読めるのか…という省略の仕方は若干危ういのだが、それも含めて現代の景だと思うのである。

パソコンのキー配列において〈Qの文字〉はいちばん左端に位置する。だからこれは左手の薬指が打っているのだろう。

とくに美しいと思ったのは〈Q(キュー)〉と〈薬指〉の両方が持つ「K音」の硬く冷たい響きだ。その繰り返しが〈身に入む〉の空気感と響きあっていて硬く寒々しい印象をもたらしている。また〈Qの文字〉が“クエスチョンの「Q」”を思い出させることも、ふと心が寒々とする不思議なポイントではないだろうか。答えがわからない「クエスチョン」な日々の中で、秋の冷気や、ものさびしさが身に深くしみてくる気がするのだ。やや深読みに過ぎる鑑賞かとは思うが、不思議な味わいのある取り合わせに惹かれた。



2013年10月20日日曜日

●明日はフランソワ・トリュフォー忌

明日はフランソワ・トリュフォー忌


明月や皆アメリカの夜めいて  岡野泰輔〔*〕

〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より


2013年10月19日土曜日

●無言漫画 野口裕

無言漫画

野口 裕


とある駅前に幼稚園児の絵が多数展示されているのを目にした。「……をがんばる」とか、「……できるようになりたい」とか、その子の願望が幼い字で書かれていた。眺めているうちに、愚生が幼稚園の頃は字が書けず、読めもしなかったことを思い出した。当時はそれが普通だったような気がする。しかし、この頃の子は字を覚えるのが早いなどという井戸端会議もあったように記憶するので、標準よりやや遅れ気味だったのだろうか。

その頃、「サザエさん」は読めなかった。吹き出しに書いてある台詞が全く読めなかったのだ。代わりによく読んだのが夕刊に載っていた「クリちゃん」。台詞がないので、状況は絵から想像しなければならない。結構それが楽しい。

ネットで検索すると、簡単に動画化したものがある。
http://www.youtube.com/playlist?list=PLlhlbx4QP-47BxKfX18s_jINnvvgViv9x

文字が全く読めない幼児期を短期間で終わらせるのと、比較的長い時間を要するのと、どちらがよいのか? 愚生が子供の頃はそんな議論もあったように記憶するが、今となっては無意味か。しかし、何となくのどかだったような気がする。

2013年10月18日金曜日

●金曜日の川柳〔細川不凍〕樋口由紀子



樋口由紀子






台風一過 あとにさみしき男の歯

細川不凍 (ほそかわ・ふとう) 1948~

今年はやたらと台風が多い。台風一過とは台風が過ぎ去ったあとにはとかく上天気が来るということである。「台風一過」を「台風一家」と勘違いしていた頃があった。暴風もあり、強雨もあり、しかし、その後は晴天。一家にたとえているのだと思っていた。

掲句は「男の歯」が印象的。嘘みたいに晴れ上がった天気の中、ふと気づくと残されたのは自分独りであるような感慨。男の歯は真白く光り、寂しさを際立たせる。その歯で物をかみ砕き、いつもどおり生きていく。台風が来た現実ともう一つの現実を擦り合わせる。

不凍は高校二年の夏に飛び込み事故で首(第七頚椎)を脱臼骨折し、神経を切断。車椅子生活となる。〈流氷接岸 心カタカナにして臥す〉〈神と交わる母をみている長い冬〉〈手花火のあとのしじまを妹と〉 『雪の褥』(昭和62年・かもしか川柳文庫刊行会刊)所収。

2013年10月17日木曜日

●雲



あたし赤穂に流れていますの鰯雲  攝津幸彦



2013年10月16日水曜日

●水曜日の一句〔齋藤朝比古〕関悦史



関悦史








蝮蛇酒まむし祀りてゐるごとし   齋藤朝比古

酒につかって大瓶に安置されていても、梅やカリンであればただ沈んでいるだけのこと。「祀りてゐるごとし」の見立てはマムシでなければ効かない。

強精剤としての効力というやや呪術的な連想がはたらくためもあるが、何よりとぐろを巻いたヘビの見た目が「酒」としては尋常ではない。

見た目の迫力だけならばホルマリン漬けの標本でも変わらないが、これでは自然科学に寄りすぎでお神酒=「祀る」という連想の親和性が消えるばかりでなく、「酒」の祝祭性や、それを飲むことへの畏怖混じりも期待感もなくなってしまう。

つまり「まむし」を漬け込んだ「酒」という両方の要素がなければ効かないのが「祀りてゐるごとし」の見立てなのだが、それがしかも単なる面白みのない「正解」からはちゃんと外れ、軽い滑稽さを帯びている。これはこの作者の句全てに共通の特徴だろう。

「祀りてゐるごとし」は「祀っているわけではない」という前提を強調しているようなもので、至極散文的な物件としての蝮蛇酒を前面に押し出しており、間違っても民俗学、宗教学的に蛇のイメージの古層をめざしたりはしていない。あくまで日常の枠内の捉え方を複数組み合わせて、それで「正解」から外している。《探梅や武家の道から公家の庭》《七色に疲れてゐたり石鹸玉》なども同じ方法。

いかにも卑近で奥行を欠いたせせこましい句、または、うまいことを言ったという臭みが鼻につく句ばかりを生みかねない方法だが、この作者の場合は、複数の捉え方の隙間にごく淡い隙間風のようなものを生成させ、それが日常生活で自動化した認識(蝮蛇酒を見れば「蝮蛇酒」があると、瞬時に記号として処理し終わるという)を裏からほぐし、寛がせるはたらきを生じさせている。

付記:うっかりやってしまったが、「ホルマリン漬け」での画像検索はおすすめしない。


句集『累日』(2013.9 角川書店)所収。

2013年10月15日火曜日

●理髪店

理髪店


理髪師が来る夕虹をしたたらし  柿本多映〔*

理髪所や十時過なる菊日和  尾崎紅葉

散髪の夏至や途方もなき浪費  塚本邦雄

仏教や理髪の椅子も老いゆけり  攝津幸彦

遺影見ゆ簾名残の散髪屋  谷口智行〔**


〔*柿本多映句集『化生』(2013年9月1日/現代俳句協会)

〔**『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年10月14日月曜日

●月曜日の一句〔山田露結〕相子智恵

 
相子智恵







月光のチェロに体をあはせけり  山田露結

俳句通信『彼方からの手紙』vol.7(2013.9.19/山田露結・宮本佳世乃 刊)より。

チェロが月の光に照らされて、音の美しさとともに、そのフォルムと表面の艶の美しさを際立たせている。

チェロといえば音を詠むのかと思いきや、〈体をあはせけり〉という展開によって、この楽器の持つかたちや艶に気づかされるのだ。

チェロのフォルムは女性の体の曲線に似ている。〈体をあはせけり〉は奏者がチェロの音に合わせて体を揺らしているようにも読めるし、フォルムを思えば、チェロという楽器に身を添わせること自体が、とても官能的であるように思えてくるのである。

音とかたちと色、上品なエロティシズムのある、美しい月夜の句である。



2013年10月12日土曜日

●胡桃

胡桃


胡桃落つ日の夜となれば月明かく  中村汀女

胡桃割るこの世の底に二人きり  玉田憲子〔*〕

新しき胡桃と古き胡桃かな  石田勝彦

青胡桃にちいさいしろい歯が二本  金原まさ子〔**


【過去記事】胡桃
http://hw02.blogspot.jp/2012/10/blog-post_2.html

〔*〕玉田憲子句集『chalaza』(2013年8月31日/金雀枝舎)

〔**金原まさ子句集『カルナヴァル』(2013年2月15日/草思社)



2013年10月11日金曜日

●金曜日の川柳〔安黒登貴枝〕樋口由紀子



樋口由紀子






歯医者から本一冊を借りてくる

安黒登貴枝 (あぐろ・ときえ)

身辺を詠んでいる。それもドラマチックでもなんでもない日常。
どの病院の待合室にも本が置いてある。診察の順番が来るまで、本を読んで時間を潰す。自分では買ってまで読まないものが大方である。

その待合室で読んでいた本を借りた。しかし、これがなかなか出来ない。気軽に借りられそうで借りにくい。掲句もしかり。書けそうで書けない。見ているようで見えない。捉えそうで捉えられない。歯科医院の場面設定がいい。

どんな本を借りたのだろうか。わくわくとして持ち帰ったのだろう。ふつうに暮らしていると取り立ててときめくことなんてほとんどない。ささやかだけれど、日常のまっただなかで頃合いの非日常を作者は見つけたのだ。〈ていねいに洗ってあげる皿の裏〉〈天声人語 ネブカ一本抜いてくる〉 「月曜会」(2013年6月刊)収録。



2013年10月10日木曜日

●コップ

コップ


コップひとつ割って日蝕が終わる  なかはられいこ〔*〕

夏暁のここにコップがあると思え  岡野泰輔〔**

葛水やコップを出づる匙の丈  芥川龍之介

うまさうなコップの水にフリージヤ  京極杞陽


〔*〕なかはられいこ『脱衣場のアリス』(2001年/北冬舎)
〔**『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年10月9日水曜日

●水曜日の一句〔髙勢祥子〕関悦史



関悦史








水晶の向かうは雪が降つてゐる   髙勢祥子

この句が入っている句集『昨日触れたる』はタイトルどおり身体感覚、ことに皮膚感覚に特化した句集で、《ねと言つてやはらかなこと雲に鳥》の口唇と「雲/鳥」とか、《蓮咲いて鰐半身の乾きをり》の鰐の乾いた半身とか、自分以外のものとも皮膚感覚という回路で通じ合う作りが多い。

掲出句も、降る雪をそのまま直接には見ていない。視線は水晶の内部へ凝集もせず、その向こうへ突き抜ける。自分と雪との間に、膜のように水晶が挟まっているのだ。つまりこの水晶は皮膚の代わりなのである。

皮膚が半透膜かワープ装置のようになって、それで他者や景色との関わりが保て、世界がリアライズされている。それは雪を見るだけのことですら例外ではないのだ。

他者 - 皮膚が先にあって、それへの反応として事後的に自分が在ることを確認している気配もないではない。しかしその、個のまとまりをふわりとはぐらかす回路自体は鉄の安定を誇っている。そこがもどかしさを感じさせもするのだが、雪の降る景色まで触知可能なものに変えてしまう強迫ぶりは、世界にひたすら撫でられるものとして主体を組織し続けてもいるようで、となるとむしろ問題なのは、にもかかわらず奇妙に官能から離れて自足している清潔さと安定性のほうなのだろうか。


句集『昨日触れたる』(2013.9 文學の森)所収。

2013年10月8日火曜日

●紐




二枚貝恍惚として紐がある  柿本多映〔*〕

福引の紙紐の端ちよと赤く  川端龍子

紐解かれ枯野の犬になりたくなし  榮 猿丸

風船浮く紐が畳にさはりをり  小川軽舟

スケートの紐むすぶ間もはやりつゝ 山口誓子

冷房が眼帯の紐揺らしをり  森 篤史

白酒の紐の如くにつがれけり  高浜虚子


〔*〕 柿本多映句集『仮生』(2013年9月1日)


2013年10月7日月曜日

●月曜日の一句〔山内繭彦〕相子智恵

 
相子智恵







篝火に影曳く亡者踊かな  山内繭彦

句集『歩調は変へず』(2013.9 角川書店)より。

〈秋田・西馬音内 四句〉と前書きのあるうちの一句だ。筆者は見たことがないが、〈亡者踊〉とは、秋田県雄勝郡羽後町西馬音内(にしもない)の盆踊りだそうである。盆踊りとしては全国で初めて国の重要無形民俗文化財に指定され、阿波踊り、郡上おどりと合わせて日本三大盆踊りに数えられるという。

〈亡者踊〉といわれるのは、踊りの輪の中に「彦三(ひこさ)頭巾」という目だけが空いた黒い覆面の踊り子が多く入っていて、亡者を連想させるからだそうだ。筆者はこの〈亡者踊〉が何だかわからないままに惹かれ、この句に立ち止まった。

篝火の周りを踊り手が踊っている。篝火の明りを受けて、踊り手たちの影は地面に長々と伸びている。その長い影が踊るさまは、まるで「亡者」が踊っているかのようだ。亡者の霊をなぐさめるための、亡くなった者とともにある「盆踊」という季語の本意に迫った句だと思った。静かに、ひたひたと踊りは続いていくのだろう。

2013年10月6日日曜日

●日曜日

日曜日


日曜の終つてしまふ躑躅かな  林 雅樹〔*〕

日曜日いそぎんちやくに蟹が寄る  矢口 晃〔*〕

花に熱日曜の血を洗ふ父  攝津幸彦

日曜のひかりは濡れて蠟梅に  高勢祥子〔**〕

日曜につづく祭日しやぼんだま  木下夕爾

日曜終わる背後に電車あらわれて  高野ムツオ


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

〔**〕高勢祥子句集『昨日触れたる』(2013年9月20日)



2013年10月5日土曜日

●離婚

離婚


しわくちゃの離婚届よ冬芒  林誠司

離婚の父思ひ少年蟻いぢめる  品川鈴子

一弟子の離婚の沙汰も十二月  安住敦

淡雪や離婚届のうすみどり 夏井いつき

七十や釣瓶落しの離婚沙汰  文挟夫佐恵



2013年10月4日金曜日

●金曜日の川柳〔前田雀郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






涙とは冷たきものよ耳へ落つ

前田雀郎 (まえだ・じゃくろう) 1897~1960

男とは涙を見せないものである。その男が泣いている。涙が耳に落ちるのだから、立っていたり、座っていたりのときではなく、あおむけに寝ているときであろう。仰臥して、天井を見つめながら、男(たぶん作者)が泣いている。涙の冷たさがひしひしと身にしみる。

思えば思うほど、思い出せば思い出すほど、忘れようすればするほど、涙が落ちてくる。自分の力ではどうすることもできない、悲しみ中にいる。自分の目から流した涙は自分の耳に落ちる。自分で拭うしかない。生きていくことの辛苦、悲哀を感じる。

前田雀郎は川柳六大家の一人。昭和11年「せんりう」創刊、主宰。〈音もなく花火のあがる他所の町〉〈一生を一間足りない家に住み〉〈子の手紙前田雀郎様とあり〉

2013年10月3日木曜日

●ひらがな

ひらがな


ひらがなの名のひととゆく花野かな  松本てふこ〔*〕

さくらんぼと平仮名書けてさくらんぼ  富安風生

ひらがなの地獄草紙を花の昼  恩田侑布子


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年10月2日水曜日

●水曜日の一句〔小笠原弘子〕関悦史



関悦史








生きる側に選ばれし身や石蕗の花   小笠原弘子

東日本大震災の句を日本中から募集し、一人一句ずつ収めたアンソロジーから。作者は仙台在住の82歳。

選ばれた者の恍惚などとは全く無縁。生きる側、死ぬ側、どちらに選ばれるのも偶然でしかなく、意味のつけようがない。

作者がどの程度の、どういう種類の被害と喪失をその身に引き受けることになったかは不明だが、震災後、落ち着きを取り戻すまでの間に、死者の多さに唖然としつつ、自分もあの時死んでいた方がよかったのではないか、なぜ生きる側に選ばれたのかという思いが幾度か湧き起こった可能性はある。

この「身や」には、どのような思いを抱こうが如何ともしがたく在る命を持て余しているようなところがある。しかしそれをあるがままに引き受けて生きようという意思も感じ取れる。いつまでも意味を問うてはいない。

石蕗の花の小さく鮮やかな黄は、その身と、意思と静かに照らし合っているようだ。だが花の周囲にいかなる光景が広がっているのかはわからない。瓦礫か。荒地か。


宮城県俳句協会編『東日本大震災句集 わたしの一句』(2013.9 宮城県俳句協会)所収。



2013年10月1日火曜日

●本日は「都民の日」

本日は「都民の日」


東京に天皇のゐる残暑かな  雪我狂流〔*〕

汗ばめば東京湾にくびれかな  野口る理〔*〕

お彼岸の東京タワーやぐにやりぐにやり  山下つばさ〔*〕

東京の春あけぼのの路上の死  加藤静夫


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

過去記事「東京」
http://hw02.blogspot.jp/2011/04/blog-post_27.html