野口 裕
咲き満ちし花のまはりの放射能
先は海さくら被りに小名木川
遠き花近き花見て舌の根憂し 関根誠子
こういう風に三句並ぶと、真ん中の小名木川がえらく綺麗に見えてくる。さくらに鎮めの効能があるかどうかはよく分からない。しかし、鎮まれと祈るのは作者であり、作者と共にある読者でもあるだろう。
白梅はゆふべ枕にふれてゐた 羽田野 令
時期が時期だけに、十句すべてが時事吟のように見え、日常吟のようにも見える。白梅にとり、「ゆふべ」はどのような時であったのだろうか。読者としては、永田耕衣を思い出すも良し、蕪村を思い浮かべるも良しというところ。
今井聖の「不死身のダイ・ハード俳人 野宮猛夫」に、「くつなわ首に捲く照三も野に逝けり」を評して、
この「事実」が本当の真実であるかどうか、そんなことはどうでもいい。言葉で書かれた「真実」と実際の事実は同じである必要はないし、事実の方がリアルを演出できるとは限らない。そんなことは百も承知だ。とある。
ならば、言葉を駆使して想像でこんなリアルを作ってごらん。俳句は切り口の文学だ。その切り口が思想の開陳であろうと、そのときの「気分」であろうとなんであろうとかまわないが、読者としては作者の切実な「今」を感じたい。
一方、五十嵐秀彦は、週刊俳句時評第28回「弧は問いであり、問いが答えである」で樋口由紀子の『川柳×薔薇』を取り上げ、樋口由紀子の
言葉そのものは存在があり、意味を上回る動きをするので、どのような「私」も書いていくことができるという言葉を紹介している。元の文を読むと、この引用の前には、「どうってことない「私」でも」がくっついている(なお、時評ではp28としているが、p25が正しいようだ)が、これを敷衍して行くと、今井聖の言葉と樋口由紀子の言葉の間には齟齬が生じる。
今井聖も、樋口由紀子も「言葉で書かれた「真実」と実際の事実は同じである必要はない」ことは承知している。しかし、そこから先が微妙にずれる。今井聖は、ちょっと難しいよというニュアンスを込めて、「言葉を駆使して想像でこんなリアルを作ってごらん」と言う。樋口由紀子はそれをできると言うはずだ。
時評では取り上げられていないが、『川柳×薔薇』には次のような一節がある。
自分の思いを「吐く」、これが新子(時実新子)流川柳だった。確かに「吐く」ことはすっきりする。似たような「吐く」の川柳に共感し、感動もし、仲間を見つけた連帯意識も芽生えた。しかし、私の「吐く」もネタがきれ、他人の「吐く」にも飽きてきた。日常と言葉の落差があまりにもなかった。(中略)何かが違ってきた。そこはもう私の居る「場」ではなかった。ある人に、「時実さんが大切に思うことが樋口さんにはどうでもよくて、樋口さんが大切に思うことは時実さんにはどうでもいいのだから、この師弟関係は続かないよ」と、それぞれの川柳を読んで感じたと言われたことがあった。その時はよくわからなかったが、これは重要なことだったのだ。(p172-173)要するに、師との対決の中で、樋口由紀子には「吐く」を方法論として否定せざるを得ない状況が生じた、と読み取るべきだろう。行き着くところは、「言葉を駆使して想像でリアルを作る」となる。同じ文の中で、
時実新子が居なければ、私は川柳を書き始めなかった。『月の子』を読んだときの感動は忘れないし、川柳に出合う幸運をくれた時実新子には感謝している。しかし、川柳作家として時実新子を高く評価する田辺聖子は「川柳ほど人生経験の蓄積を要求される文芸はない」と言うが、この視点だけで川柳を捉えたくはない。そこで言葉をはかりたくない。(p173-174)とも書いている。
私は、川柳と俳句の区別に無頓着である。無頓着であるからこそ、今井聖の言葉と樋口由紀子の言葉を別のカテゴリーに入れることはできない。したがって、二つの言葉のどちらに組みするかを決定しなければならないのだが、ことはそう簡単ではない。人生経験も貧弱で、想像力も人並み以下となると、事態は紛糾する。当方に分かることは、福島原発のまわりを飛び交う言葉よりは、よほど正直な言葉が二つ存在している、ということだけだ。
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