2014年2月28日金曜日

●金曜日の川柳〔大島洋〕樋口由紀子



樋口由紀子






街枯れて切絵の魚が眠らない

大島洋 (おおしま・ひろし) 1935~1996

「街枯れて」の隠喩、「切絵の魚」の独特の言葉、まるで鮮明な絵を見ているようである。「街枯れて」とはどんな街なのだろうか。街は人々が居てこそ、動いていてこそ、街である。その街が枯れている。人も動物もなにもいない。それは過去のことなのか、それとも未来のことなのか。「切絵の魚」はその街を知っている。だから眠らない。切絵の魚はきっと目を開いたままだろう。

掲句は大島41歳の時の作。川柳人として絶頂期に在り、技巧的な作品を次々に発表し、数々の賞を総なめしていた。しかし、晩年は〈犬は犬で不幸と思っている その眼〉〈墓掘りが二、三人あすは四、五人〉〈トンネルに列車が入るそれだけの風景〉などの装飾を脱ぎ捨てた、やさしい句を書いた。大島洋は一貫して川柳の現代性を問い続けた。著書に『川柳のレトリック』。『人間寒流』(昭和56年刊)所収。

2014年2月26日水曜日

●水曜日の一句〔黒田杏子〕関悦史



関悦史








雪熄みし月の高野の初櫻   黒田杏子

黒田杏子の句はつねに気力、意力が強い。我が強いというのとは違うが、一遍や空海を詠んだ句でも、一途に張りつめた帰依の念がかえって当の一遍、空海らをも弾き飛ばしてしまいかねない感がある。

そこへ持ってきて、これは季語の中核ともいうべき「雪月花」を皆入れた句である。満員電車のような強力な季語のせめぎ合いを、いかに減殺するか。

まず雪は熄んでいる。

そして月は背景へと退き、高野山を照らしている。

さらに桜はまだ満開ではなく、咲き初めの敏感さを掬われている。

それぞれが微妙に重心や体勢をずらし、身を引き合い、照らし合いながら鎮まった中での開花が呈示されているのである。それが雪月花を全部並べることからくる、単なる紋様じみた目出度い空疎さを、実景へ引き寄せる働きも果たしている。

精神性の深みや、美的な絢爛とは違った、もっぱら力学的な何ものかによって成り立っている句だが、ここでは作者は身をぶつけてはいかず、雪月花の張り合いを前にして立ち止まっているようだ。

一途な帰依、没入への意欲が、巨大であるべき対象をもかえって等身大にまでスケールダウンしてしまうことの少なくなかった作者が減圧、減速による気息の通り道を探り当てている句であり、そこから逆に静まりかえった花鳥的自然の充溢ぶりがじわりと立ち上がる。


句集『銀河山河』(2013.12 角川学芸出版)所収。

2014年2月25日火曜日

●週刊俳句・創刊7周年記念オフ会のお知らせ

『週刊俳句』
創刊7周年記念オフ会のお知らせ


『週刊俳句』は来る4月をもちまして7周年を迎えます。これもひとえに皆様のご支援の賜物と深く感謝申し上げます。つきましては、下記により宴席を設けました。ご多用中とは存じますが、万障お繰り合わせの上ご参席賜わりますようご案内申し上げます。

  記
日時:2014年419日()午後5:00開場 5:30開演-8:30
場所:小石川後楽園・涵徳亭
アクセス/地図はこちら  東京都文京区後楽1丁目6-6 
参加費:4000円 (学生2000円)
ご参加いただける方は、4月13日(日)までにメールにてお知らせください。
≫連絡先 http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/04/blog-post_6811.html

※早めに到着して小石川後楽園を散策(入園料:一般300円、65歳以上150円。9時~16時30分、閉園17時)もオススメプランです。

2014年2月24日月曜日

●月曜日の一句〔瀬戸正洋〕相子智恵

 
相子智恵







薄氷のうへの言霊転びけり  瀬戸正洋

句文集『俳句と雑文 B』(2014.1 邑書林)より。

〈薄氷〉は儚く消えるものであり、その上に〈言霊〉があるというと、言葉に宿る霊力も、とても繊細なものに思えてくる。だが〈転びけり〉まで読み下すと、それが一気に諧謔に転じて批評性を帯びる。薄氷の上で言葉の霊力が、つるんと転んでいる。「薄氷を踏む」という慣用句もあるだけに「言霊の危うさ」のようなことを暗に伝えているのかもしれない。ただ、意味を風刺的な方向に捉えすぎると、なんだか少し、この句はつまらなくなってしまう気がする。

小さな小さな言葉の霊が、薄い春の氷の上で転んだ。その不思議な情景が、妙にほほえましく頭に浮かんで消える。すぐに消えて水になる薄氷のように。

2014年2月22日土曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句が読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から同人誌まで。必ずしも内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。


そのほか、どんな企画も、ご連絡いただければ幸いです。

2014年2月21日金曜日

●金曜日の川柳〔今井鴨平〕樋口由紀子



樋口由紀子






塵芥車先ゆく春の彩をもたず

今井鴨平 (いまい・かもへい) 1898~1964

「塵芥車」で切るのか「塵芥車先ゆく」で切るのか迷ったが、「塵芥車」で切って読んだ。塵芥車の先をゆき、追い抜いていくのは、彩とりどりの新しい車だろう。まぶしいほど輝いて、元気である。塵芥車である私はその「春の彩」をもっていない。しかし、私は私のペースで自負心を持って、ゴトゴトと進んでいくしかない。

二月も後半になると、陽射しがだんだんと明るくなってくる。季節は確実に春にむかう。しかし、まだ寒く、私は当分冬を抜け切れそうにない。心も身体も冬の装いのままである。一人取り残されていくように感じてしまうのも今の季節である。

昭和32年に革新的な川柳人100名あまりが結集して「現代川柳作家連盟」が創立された。今井鴨平は連盟が存続した7年間、委員長に就任し、鴨平の急死とともに連盟は幕を閉じた。

2014年2月19日水曜日

●水曜日の一句〔仲寒蟬〕関悦史



関悦史








田楽うまし人生観の変るほど   仲 寒蟬

俗に、初物を食べると寿命が七十五日延びるという。

これは何も初物に限ったことではないので、久しく離れて忘れ去っていた美味を口にすると、全身の細胞が驚き、賦活されるようで、同時に過去のさまざまな記憶が呼び起こされたりもし、しみじみ生の豊かさを感じたりもすることになる。

「人生観の変るほど」は、見かけほど大仰ではないのだ。

筆者など、ふだん工業製品のようなものばかり食べているので、たまに普通の家庭料理を口にしたりすると、それだけで記憶に埋もれていた子供のころの暮らしが噴きだしてきたりもする。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』に、「ファスト・フード」というのは早く出来る料理ではなく、情報量が少ないゆえに早く食べることができてしまう料理のことだという知見があって、なるほど、たまに選び抜かれた素材を丁寧に調理されたものなどを食べると舌に押し寄せてくる情報が豊富すぎ、さっさと呑み込んでしまうのがいかにも惜しくなるから、おのずと食事はゆっくりとなる。

しかしこの句の「田楽」はそこまで気難しいものではなく、ごく親しみやすい食べ物である。材料は豆腐と木の芽味噌だ。子供が食べてさほど喜ぶものとも思えない。「変る」ほどの「人生観」がいつの間にか身にしみついてしまってから、その歳月を揺るがせ、新鮮なものとすることができるのは、かえってそうした物なのだろう。

といったような内容が背後に潜んでいないわけではないのだろうが、句の詠み口としては、実感に即して深く説得するというよりは、ごく説明的に感慨を直接言ってしまったもので、句の面白みの中心は「田楽」の軽さと「人生観」の重さの対比というごくわかりやすいものとなる。

つまり、句の作り方としては「ファスト・フード」的な、呑み込みやすい仕上がりになっているのである。一見「ファスト・フード」じみたあっさりした作りによって、逆に季語の含みを引き出すというのがこの作者の特徴なのだろう。


句集『巨石文明』(2014.1 角川学芸出版)所収。

2014年2月17日月曜日

●月曜日の一句〔黒田杏子〕相子智恵

 
相子智恵







たかだかと凍れる花の梢かな  黒田杏子

句集『銀河山河』(2013.12 角川学芸出版)より。

梢が凍るほどであるから、昼夜の寒暖の差の激しい山奥に咲く山桜を思った。花冷えというには寒すぎる日の朝、桜の高い梢が凍っている。それでも花はいくぶん咲いているのだ。凍った梢も花も、日に光り輝いて見える。花が凍るというのは観念的に作れる句ではない。それでいて〈たかだかと〉には、実景を超えた精神性のようなものまで感じさせる。丈の高い澄んだ写生句である。

あとがきによれば〈三十歳から重ねてきました単独行「日本列島櫻花巡礼・残花巡礼」が満尾〉とあり、長年花を追いかけ、様々な花の表情を見てきた作者ならではの句だろう。本書には「櫻花巡礼」という花の句だけを収めた一章もある。

しかし花の句ばかりを読んでいると、四季の循環という繰り返す時間と、決して後戻りのできない前に進むだけの人生の時間というふたつの時間の交わりを強く感じて、時間が伸び縮みするような不思議な感覚になってくるものだ。

たとえば〈この花の樹下に身を置きたるむかし〉という句もあって、最後のポンと投げ置かれた〈むかし〉によって一気に昔に引き戻されるのだが、その〈むかし〉はもちろん自分の昔であるが、何か自分という存在を超えている気がする。昔の人も、未来の人も、この樹下に身を置いて、「そういえば昔もこの花の樹下に身を置いた」と思っているような、永遠の循環。そうして花は咲き続け、人は次々と老いてゆく。個人の体験でありながら、抽象化された「花」と「人」との関係性のある、不思議な時間を感じる句だ。魅力的な花の句が多い句集だった。

2014年2月16日日曜日

●コモエスタ三鬼39 肩の荷

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第39回
肩の荷

西原天気


みな大き袋を負へり雁渡る  三鬼(1947年)

「肩の荷」のモチーフは、俳句においてはいざ知らず、一般には数多い。

比喩ではなく実景として読むにしても、「みな」の2音が比喩に傾かせる。



ザ・バンドの「The Weight」。ステイプル・シンガーズ他との共演。歌詞は≫こちら

終戦直後の闇市に結びつけて読むのとは別に、「肩の荷」にまつわる無数のネタとの横のつながりを意識して(水平的に)読むのも、べつだん悪くないと思います。


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2014年2月15日土曜日

●春の雪

春の雪


目の前に大きく降るよ春の雪  星野立子

馥郁と内臓はあり春の雪  高野ムツオ

検問の灯に近づくや春の雪  林 雅樹〔*〕

置いてゆく本も結はきぬ春の雪  望月 周〔*〕

提燈にさはりて消ゆる春の雪  谷崎潤一郎

オムスクトムスクイルスノヤルスクチタカイダラボ春の雪  金原まさ子**〕

春の雪誰かに電話したくなり  桂 米朝

新興俳句忌ちふはなけれど春の雪  三橋敏雄

ふりつのりくるあかるさや春の雪  久保田万太郎

下町は雨になりけり春の雪  正岡子規


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より
〔**金原まさ子『カルナヴァル』(2013年2月・草思社)より

2014年2月14日金曜日

●金曜日の川柳〔山本乱〕樋口由紀子



樋口由紀子






のほほんとあははと過ごすバレンタイン

山本乱 (やまもと・らん) 1944~

バレンタインデーも様変わりしたものである。一昔前にはチョコレート売り場は人であふれていたが、今はそれほどでもない。掲句はチョコレートに一喜一憂した時代の作だろう。

作中主体が男か女によって読みは大きく異なってくる。バレンタインデーは男性にとっては心騒ぐ日であり、平静を装っていても内心はドキドキして、その日を過ごしていたはずである。

山本乱は女性である。もちろん、作者が女性だからと言って、女性が作中主体とは限らないが、この場合は女性の川柳だろう。チョコを貰えるのかどうかとそわそわしている男性を尻目に、気づかないふりをして、「のほほん」と「あはは」と過ごしている。そのいじわるな有様が目に浮かぶ。彼女はチョコをあげるつもりはないのか。それとも一日の最後にやっと渡すのだろうか。「のほほん」の「ほほ」、「あはは」の「はは」、字面も楽しい。

2014年2月12日水曜日

●水曜日の一句〔野崎憲子〕関悦史



関悦史








月光の棲む廃墟こそ未来圏  野崎憲子

いま『ふらんす堂通信』で「BLな俳句」というのを連載していて、そこでは少年愛、同性愛をテーマとする、あるいはそう見立てることのできる句を蒐集しているのだが、それとは別にSF的な句のアンソロジーはできないかと思いつき、どこに出すあてもないのだが、ぼちぼち句を拾い集めはじめた。じつはそういうテーマの本は既にあるのだが、取り寄せて読んでみたら、思っていた内容とかけ離れていたためである。

この句などはSF俳句アンソロジーができたらそれに入集させたいもののひとつで、「月光」と「廃墟」がありきたりの予定調和的耽美世界を形作るかと思いきや、それこそが「未来圏」なのだとの断定へいきなり飛躍する。

その前に月光が「棲む」で生き物めいた異化を施されている点を見逃してはならない。月に照らされた廃墟が未来世界を思わせるというだけではなく、無人の人工物の集積がまとう得体の知れない生気が、あたかも『2001年宇宙の旅』のディスカバリー号船内ででもあるかのような、不安と魅惑を同時にかきたてるさまを一句に具現化させているのは、この「棲む」の一語にほかならないからである。

そして「圏」が、この廃墟だけにはとどまらない一定の広がりが背後にあることを暗示する。

無人となり、死物たちのみが残る未来が、単なる美しい静謐ではなく、超越的な何ものかと、人の営為の集積が織り成す、或る豊かな濁りを蔵したものとなっており、空想的な安易な慰藉には収まりきらない、荒々しいような肉厚さと俊敏さが潜んだ句となっている。廃墟美を捉えた句としても、異色のものなのではないか。


句集『源』(2013.11 角川学芸出版)所収。

2014年2月10日月曜日

●月曜日の一句〔仲寒蝉〕相子智恵

 
相子智恵







尻餅をよろこぶ尻と春の山  仲 寒蟬

句集『巨石文明』(2014.1 角川学芸出版)より。

尻餅をついた尻の方も、尻餅をつかれた地面である〈春の山〉の方も、ともに喜んでいるという発想が楽しい。

尻餅をつけば尻は痛いはずで、喜ばしい出来事ではないはずなのだが、ついた場所がやわらかくあたたかな土で、なおかつ新たな草が萌え出ている〈春の山〉なら、うれしく、喜ばしいような気がするのだ。それは生きている私の体と、春の山の生命力とが、不意に交流を持つ瞬間だからである。

そう考えると、この山は、夏でも、秋でも、冬でもだめで、やはり〈春の山〉であるなあ、と思う。また体の中でも下半身の〈尻〉という力の抜け加減が、絶妙な俳味を生んでいる。全体的にラ行の音が多いのも、弾むようでとても楽しい。

2014年2月8日土曜日

●コモエスタ三鬼38 春の雪

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第38回
春の雪

西原天気

雪の上に雪降ることのやはらかく  三鬼(1947年)

せっかくだから雪の句。東京は雪なのです。

北のほうで暮らす人には、なに言ってんだ?な話ですが。

この句、前回の「枯蓮」と同様に、三鬼らしくないといえば、らしくない。やさしい雪。

今朝からの雪は、ちょうどこんな感じです(東京西郊)。スコップに手応えがないくらいに、軽く、柔らかい。


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2014年2月7日金曜日

●金曜日の川柳〔森本夷一郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






塀があるここ中(なか)やろか外(そと)やろか

森本夷一郎 (もりもと・いいちろう) 1923~2010

今期の芥川賞受賞作は「穴」であった。掲句は塀である。今居る所は塀の中なのか、外なのか。あたりを見回しながらふと考えてしまった。なんともとぼけた川柳であり、かなりの皮肉である。

「やろか」には関西弁独特のイントネーションがある。疑いの意をもった推量の「あろうか」だろう。五七五のリズムと共につぶやくような「やろか」が効いている。森本夷一郎は京都生まれの京都育ち、京都で一生を過ごした。

塀は比喩だろう。さまざまな解釈ができる。さて、あなたは塀の中、塀の外、どちらにいるのでしょうかと問われているような気がする。塀の外にいるつもりが案外塀の中に居るのかもしれない。それとも穴の中にいるのだろうか。『森本夷一郎川柳作品集』(川柳黎明舎刊 2002年)所収。

2014年2月5日水曜日

●水曜日の一句〔山内令南〕関悦史



関悦史








死に際を思えば透けるあやめかな  山内令南

山内令南は食道がんの自宅療養中に書いた小説「癌だましい」で文學界新人賞を受賞。受賞第一作の「癌ふるい」を発表した直後、2011年5月19日に52歳で逝去した。

身よりのない山内令南の最期を看取った知人により、没後、川柳・詩・俳句・短歌をまとめた作品集『夢の誕生日』が編まれた。川柳が多いが、掲句は俳句に分類された中の一句。

自身の不幸に釘づけにされた態の句が多く、読んでいて息がつまる思いがする。短歌の方は、逆に自身を励まし、奮い立たせる作が多いが、いずれにしても事態を受け入れられない心境が伝わる。

そうした中で、この句は死病への凝視が行き着くところまで行き着き、凝視することに疲れ、その結果「あやめ」を手掛かりに、ふと、忘我とも乖離ともつかない境地に触れた瞬間を掬っている。

疲労の果てに対象をつきぬけてしまった「透ける」であり、美化ではない。

俳句で何かが「透ける」と美化された場合、実在物を通してこの世を(無常観込みで)賛美していることが多い。これは大抵、底が割れた句に終わる。

それに対して、この句の「透ける」は自分が重い絶望の塊に呑まれきり、眼前のあやめが見ていても見えていないものになったという事態をあらわしている。

絶望と恐怖に同化してしまうことで、結果的に「我」から離れ、俳句になってしまった、通常の「名句」の陰画のような句である。


作品集『夢の誕生日』(2013.12 あざみエージェント)所収。

問い合わせ・購入は「あざみエージェント」のウェブへ
http://azamiagent.com/modules/myalbum/photo.php?lid=27





2014年2月3日月曜日

●月曜日の一句〔西村麒麟〕相子智恵

 
相子智恵







鬼やらふ闇の親しき夜なりけり  西村麒麟

作者は豆に打たれた鬼が逃げてゆく闇夜を「親しい」という。原石鼎に〈山国の闇おそろしき追儺かな〉という句があるが、このように闇を恐ろしく感じることはない。

さらに言えば石鼎の句は〈山国の闇〉で、明らかに写生の句であるが、掲句はどこの闇とも限定することはなく、鬼を打ってその鬼が逃げた闇夜というだけである。つまりは打つ人間の側ではなく、逃げる鬼の側に親しみを持っているということになろう。

〈へうたんの中へ再び帰らんと〉〈黄金の寒鯉がまたやる気なし〉〈夕べからぽろぽろ泣くよ鶯笛〉などの句にも見られるが、作者の句を読んでいると「俳句を作る」という気負いはなく、「俳句の中に住んでいる」というような自然な感覚があって、俳句や歳時記の世界に住んで遊んでいるような独特の楽しさがある。

俳句の技術本などでは、あまり成功しないとされるゆるい副詞の多さも、写生という観点からは確かにそうかもしれないが、作者のような句が一冊に纏まると、その世界の独特の楽しさに寄与していることがわかる。読んでいるうちにどことなく心が伸びやかになる句集である。

2014年2月2日日曜日

【俳誌拝読】『儒艮 JUGON』第4号

【俳誌拝読】
『儒艮 JUGON』第4号(2014年2月1日)


A5判、本文62頁。編集・発行:久保純夫。掲載俳句作品より気ままに。

体臭の次に漂う蛍かな  曾根 毅

薬缶振って水少しあり冬の暮  木村オサム

流氷の音人体に骨二百  岡田由季

冬の日を写せば遺影にも似たり  杉浦圭祐

外套の小銭鳴らしてコヨーテ来  原 知子

さらさらと零す仁丹クリスマス  松下カロ

藁塚の芯まで温し暮の鐘  小林かんな

チューブから絞られている水母かな  城 貴代美

ああああと指から逃げていく白梅  久保純夫

(西原天気・記)

2014年2月1日土曜日

●コモエスタ三鬼37 ガラじゃない写生

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第37回
ガラじゃない写生

西原天気

枯蓮のうごく時きてみなうごく  三鬼(1947年)

有名句。どこに出しても恥ずかしくないりっぱな句。

けれども、どこか三鬼らしくない。言い換えれば、三鬼が作らなくても、誰かがいつかどこかで作ったような句。だから、ダメというのではまったくないのですが。

戦後の三鬼の「変貌」について、三橋敏雄は次のように語っている。
これは三鬼が戦前にやらなかったこと、つまり三鬼自身は伝承的な俳句、古典をしっかり勉強していないわけですから、それをまずやろうという気があったでしょうね。さっそく写生でいこうということで「枯蓮のうごく時きてみなうごく」のような句を作るわけだが、もともとそういうガラじゃないから、徹底的な写生も続かない。やはり持ち前の風俗的な句にいい句がありますね。(…)
「俳句空間」1992年2月:『別冊「俳句四季」西東三鬼の世界』(1997年・東京四季出版)所収
句集『夜の桃』には掲句のとなりに、

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  同(1946年)

があります。これが「持ち前の風俗的な句」にあたるのかどうか。いずれにせよ三鬼でなければ作れなかったであろう句。好みもありますが、やはり、こちらを愛してしまいます。

ただ、この句の次には、

石榴の実露人の口に次ぎ次ぎ入る  同(1946年)

という句もあって、これなどを見ると、露人と石榴の句もまた、三鬼流の「写生」だったのかもしれません。


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