2024年11月29日金曜日

●金曜日の川柳〔草地豊子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



パン粉つけてしまえば誰か判らない  草地豊子

ヒト型のカツレツ。からっと揚がったところを想像すると、ブラック味が増すが、揚げるところまでは、この句は言っていない。顔に小麦粉をはたいて、溶き卵を塗りたくる。この時点では、かろうじて《誰か》判る。パン粉をつけると、たしかに、もう誰か判らないだろう。

カツレツではなくとも、化粧すると、あるいはマスクをすると、誰だか判らなくなるという事態は起こるし、昨今は、撮影すると勝手に(自動的に)誰だか判らないくらいに加工してくれる技術もある。などと、寓意的に捉えることもできなくはないが、それだと、この句の視覚的爆発力が減じる。

パン粉をまぶしても、それは《誰か》ではある。それを眼前にして、衝撃なり戸惑いなりを、ただ味わうのが、読者の態度だと思う。

掲句は『セレクション柳人 草地豊子集』(2024年1月/邑書林)より。

2024年11月25日月曜日

●月曜日の一句〔三村純也〕相子智恵



相子智恵






大晦日一円玉を拾ひけり  三村純也

句集『高天』(2024.12 朔出版)所収

11月の終わりに少し先の句を……と思いつつ、あっという間に大晦日が来てしまうのだろうなと、ちょっとため息が出たりする。

さて、掲句。大晦日という一年の締めくくりの日に、道端かどこかで一円玉を拾った。落ちていても、一円玉ぽっちを交番に届けるのも憚られる気がするし(警察もきっと忙しい年末だ)、喜んで拾いたいというものでもない。きっと誰もが一瞥して素通りする一円玉。そのアルミの軽さ、傷だらけの白さ、拾った時の手ごたえのなさ……。

なんだか、年末の慌ただしさと感慨の中で、一円玉に立ち止まって拾う自分は、可笑しいような気もするし、ちょっと泣きたいような気もしてくる。俳味というのは案外難しいものだが、きっとこういう、一色ではない複雑な滑稽味のことを言うのだろう。

元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介〉という句もふと思ったりする。この一年を振り返る、大きな一日のような気がしている大晦日も、一円玉を拾うという何でもない一日でもあって、その落差が、よく考えてみると不思議な気がしてくる。

 

2024年11月22日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋かづき〕樋口由紀子



樋口由紀子





はじめから落ちることだけめざす滝

高橋かづき(たかはし・かづき)

「滝」は人生だろうか。「落ちる」という言葉にはあまりいいイメージがない。「落第」「落城」「陥落」「墜落」などなど。しかし、「めざす」には向日性がある。「落ちること」を「めざす」のであれば、飛び込み競技のように、どれだけ自然に落下して、波をたてないか。「落ちる」ことに意義を見出そうとしているのかもしれない。

てっぺんから一気に勢いよくまっすぐに落下する滝は句材によく使われる。俳句では<滝の上の水現れて落ちにけり 後藤夜半>や川柳では<なんぼでもあるぞと滝の水は落ち 前田伍健>などがある。「落ちることだけめざす」のは諦念、宿命だろうか。それとも強さを試されているのだろうか。(「垂人」46号 2024年刊)収録。

2024年11月20日水曜日

西鶴ざんまい #69 浅沼璞


西鶴ざんまい #69
 
浅沼璞
 

山藤の覚束なきは楽出家     打越
 松に入日ををしむ碁の負(け) 前句
那古の浦一商ひの風もみず    付句(通算51句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・裏1句目(折立)。 雑。 那古(なご)の浦=越中説と摂津説があるが、西鶴の『古今俳諧女哥仙』等では摂津住吉の浦、歌枕。

【句意】那古の浦に船繋り(ふながかり)している商人のくせに、一儲けのための風向きもみない。

【付け・転じ】前句の、碁にうつつをぬかす出家者を、商人に見立て替え、相場を左右する風向きさえ読まない愚かさへと飛ばした。

【自註】「惣じて慰む事にふかう好き入る事なかれ」とかしこき人の申せし。其の事ばかりおもしろく成りて、外をわするゝぞかし。「入日」は「那古の浦」の*本哥より付け出して、海の上の*風景色(かざげしき)にも心を付けずして、碁にうちかゝり、家業を脇になしたる一体也。此の前、大坂の中の嶋に米商(こめあきなひ)せし人、俳諧になづみ、大帳(台帳)に「霞のうちに大豆千俵」と付け置きしを、手代どもが見て、「何とも合点のゆかぬ事」とたづねける。
*本哥=実定〈なごの海の霞の間よりながむれば入日を洗ふ沖つ白浪〉(新古今・一・春上)。 *風景色=天候は米などの相場に影響した。芭蕉〈上のたよりにあがる米の値/宵の内ぱらぱらとせし月の雲〉(炭俵・巻頭歌仙)。

【意訳】「だいたい慰み事には深入りすることなかれ」と賢人の言われたことがある。そのことばかりに気を取られて、ほかの事を忘れるようになる。前句の「入日」は「那古の浦」を詠んだ一首からの本歌取りと解釈して、海上の天候にも気を付けず、碁に打ち耽り、家業そっちのけの商人を想定しての一体である。この前、大坂の中之島に米商売を営んでいた人が、俳諧に耽り、売掛台帳に〈霞のうちに大豆千俵〉と書いておいたのを、手代たちが発見し、「なんとも理解に苦しむメモ書きですが」とたずねた。

【三工程】
(前句)松に入日ををしむ碁の負

 商人の家業を脇になせるまゝ 〔見込〕
   ↓
 一商ひ忘るゝまゝに那古の浦 〔趣向〕
   ↓
 那古の浦一商ひの風もみず  〔句作〕

碁にうつつをぬかす人物を商人と見て〔見込〕、〈場所はどこか〉と問いながら、前句の「入日」から「那古」の海浜とし〔趣向〕、船を係留しながら海上の風向きさえ見ないという状況を設定した〔句作〕。

 
〈霞のうちに大豆千俵〉という短句、春ですから挙句を想定しての作でしょうか。
 
「なしてそう思うんや」
 
挙句は〈かねて案じ置く〉とか言いますから。
 
「どこぞの仕込みやねん」
 
えっっっと、三冊子で。
 
「そんな俳書、聞いたことないで」
 
あっ……。

2024年11月18日月曜日

●月曜日の一句〔谷口智行〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




火事跡の布団だみだみ水ふふむ  谷口智行

燃え残った布団が、消火の水びたしになっている。句の趣向は「だみだみ」というオノマトペ。様子を充分に伝えるが、ほかにあまり見ない。つまり「だぶだぶ」といった多く流通する既成ではない。いわば、この句、この景のために誂えられたもの。

「ふふむ(含む)」という古い言い方も、非日常の景を言うに効果的。

なお、掲句を収める谷口智行『海山』(2024年7月/邑書林)は、オノマトペの多い句集ではないが(ほとんど見当たらない)、ほかにもユニークな用例が。

ひこひことひかる田ごとの落し水 同

台風接近町内放送ざりざりす 同

2024年11月15日金曜日

●金曜日の川柳〔瀧村小奈生〕樋口由紀子



樋口由紀子





どのくらいサムギョプサルでいられるか

瀧村小奈生(たきむら・こなお)1958~

ひらがなとカタカタとひらがなだけで構成された、見映えのする川柳である。サムギョプサルとはスライスした豚のばら肉を焼いて食べる韓国の豚バラ焼肉である。朝鮮語で「サム」は数字の3、「ギョプ」は層、「サル」は肉を表し、日本でいう三枚肉を意味する。ということは、三枚目を重ねているのだろうか。だったら、自分を試しているのか、あるいは誰かに言っているのか。

それは強さなのか、弱さなのか。オプチィミストなのか、ペシミストなのか。「サムギョプサル」という語感がすべてに意味をふっとばすぐらいに効いていて、洒落ている。上質なメロディーを聴いているようである。『留守にしております。』(2024年刊 左右社)所収。

2024年11月12日火曜日

〔新刊〕宇井十間『俳句以後の世界』

〔新刊〕
宇井十間『俳句以後の世界』


2024年11月/ふらんす堂


2024年11月11日月曜日

●月曜日の一句〔藤井あかり〕相子智恵



相子智恵






約束を交はすには息白すぎる  藤井あかり

句集『メゾティント』(2024.9 ふらんす堂)所収

冬が立った。すでに吐く息が白く見える地域もあることだろう。

掲句、息の白さを神聖なものとして受け止めている。約束は、もしかしたら守れないこともあるかもしれない。違えてしまう日がくるかもしれない。そんな約束を交わすには、この息は白すぎ、潔白すぎるというのだ。実際に目に見える息の白さから、その息を吐く人物の心の中の潔癖さにまで、「息白し」という季語を深めていく。
句集の後ろのほうにこんな句が出てくる。

  息白く我より長く生きろと言ふ

〈約束を交はすには〉の句を読んできた読者としては、この〈我より長く生きろと言ふ〉の祈りの重さ、言葉でまっすぐに約束することの重さが「息白し」の季語でつながり、先の句と相まって、さらに強く印象づけられる。

本句集はこのように繰り返し出てくる季語、モチーフというのが、わりと多いほうだが、そのたびに前に出てきた句に心が立ち戻ったりする。流れで読める句集というよりは、ページが進むごとに暗さの深まりも、息白しのような眩しさも折り重なっていく。陰影が深まりながら、流れずに積み重なっていくような読後感であった。
 

2024年11月10日日曜日

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2024年11月8日金曜日

●金曜日の川柳〔奈良一艘〕樋口由紀子



樋口由紀子





なが~い廊下の話だが 聞くか?

奈良一艘(なら・いっそう)1947~2024

秋の夜長、あたりがだんだん漆黒の闇となり、し~んとしてきた。重い口をやおら開いて、静かに「聞くか?」と問いかけてくる。「廊下の話」は寓意だろう。過ってはピカピカで磨き上げられていたが、今は埃が積もっている。

子ども頃の祖父母の家の廊下を思い出した。トイレに続く廊下は長くて暗くて、どこまで行ってもトイレに着けないような気がした。そして、決して走ってはいけないところだった。

生きているということは人の死に出遭うことである。また一人、個性的な川柳人が亡くなった。『川柳作家ベストコレクション奈良一艘』所収。

2024年11月1日金曜日

●金曜日の川柳〔犬山高木〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



アントニオから届いた筋肉パイナップル  犬山高木

アントニオ。人物を特定できない人名の出てくる句は、川柳のことを言うこの場所で俳句を挙げるのは恐縮だが、俳句にもある。

 いのうえの気配なくなり猫の恋  岡村知昭

 エリックのばかばかばかと桜降る  太田うさぎ

作者と読者が「あの人」として共有できない人名は、いわゆる人名俳句とは区別するべきだと思うが、これはこれで固有人名とは別の感慨や驚きや呆気(あっけ)をもたらす。「それ、誰やねん?」といったたぐいの。

筋肉。これは一種の〈異物〉の挿入。

 白鳥定食いつまでも聲かがやくよ  田島健一

における《白鳥》に通じる。つまり、それをその句から抜けば、すんなりと散文的意味が伝わるような例。〈白鳥のいつまでも聲かがやくよ〉だと意味がよくわかるし、〈アントニオから届いたパイナップル〉だと、アントニオは例えば中南米ぽくもあるので、散文として「ふつう」に成立する。

《筋肉》が入ることで、それが筋肉とパイナップル(併置)だろうが、筋肉パイナップル(インパクトたっぷりに不味そうな果実)だろうが、句全体が、混乱する、謎めく、不穏となる。

アントニオって誰? 筋肉パイナップルって何? と、読者の思考を立ち止まらせる。それは川柳・俳句を問わず、句のとって一種の成功だと思う。

なお、白鳥定食を、例えば白鳥の見える湖のほとりのレストランのメニューであるとか、筋肉パイナップルを、例えば、奇をてらった商品名であるとか、現実的な了解のほうへと近づけて読む向き(混乱や謎や不穏の忌避・回避)もあるかもしれないが、わざわざつまらない理解へと読解することもない。ことばで起きた事件を、現実の退屈へとひきずりおろすこともない。へんなの! とただただ「ヘン」がっていればいいんじゃないかと思う。

掲句は『川柳ねじまき』第10号(2024年1月)より。