2022年11月30日水曜日

〔俳誌拝読〕『ユプシロン』第5号(2022年11月1日)

〔俳誌拝読〕
『ユプシロン』第5号(2022年11月1日)


A5判・本文28ページ。同人4氏の俳句作品各50句を掲載。散文etcはなく、小句集の集合のようなおもむき。

三月やノコギリ屋根を雨流れ  岡田由季

雨のカンナ映画の中に人を封じ  小林かんな

文鳥に冬晴れの窓ありにけり  仲田陽子

冬銀河イヤホンで聴く弦の音  中田美子

(西原天気・記)






2022年11月28日月曜日

●月曜日の一句〔生駒大祐〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




立木みな枯れて油のごとき天  生駒大祐

見上げた空が油のようなのだから、晴れているはずはなく、雨でもない、曇っているのだろう。地上の木々がすべて枯れ、さむざむとした景のなかに、ひとり読者としていると、頭上・天上の油が油膜に思えてきて、すると、ここが水の中のような気になってきた。つまり、句集名にある「水界」。

この句があるから、この本は『水界園丁』なのだと、誰も(作者も読者も)思わないだろうけど、私は思っている。

きょう2022年11月28日の空も、ちょうどこの句の感じ。

加うるに、空ではなく「天」という叙述が、上記の感興を生起せしむるにふさわしく、また、この句の何か、おそらく口調・口吻・語りぶり、つまりは響きがもたらす、水中の無音のようなおもむき。

『水界園丁』(2019年6月/港の人)所収。

2022年11月25日金曜日

●金曜日の川柳〔井上一筒〕樋口由紀子



樋口由紀子






動輪が轢いたんか瑪瑙の鰈

井上一筒 (いのうえ・いーとん) 1939~

視覚的な把握、直観的な認識で瞬間的に見た景を一句にしているように見せかけているが、たぶん、実際に見たものではないだろう。ほぼありえない日常のひとこまの、奇妙な着想である。

「轢いたんか」と問いかけているのか、確かめているのか。軽妙な言いまわしで間をつくる。「瑪瑙の鰈」はどこかにあるものだろうけれども、見たことはない。ましてや動輪が轢くなどいうことはまず考えつかない。容易にイメージできない架空の出来事を対象化して、「瑪瑙の鰈」の存在を思いもよらない形で色濃く打ち出している。

2022年11月23日水曜日

西鶴ざんまい #34 浅沼璞


西鶴ざんまい #34
 
浅沼璞
 

前回提示した「三工程」を更新しつつ、新たなフォーマットを考えてみました。

これまで「付け・転じ」を分けて解説してきましたが、以後は同時に考えてみたいと思います(若之氏のコメントは随意【若之氏】の項目で紹介していきます)。
 
 
 宮古の絵馬きのふ見残す   打越(裏六句目)
心持ち医者にも問はず髪剃りて 前句(裏七句目)
 高野へあげる銀は先づ待て  付句(裏八句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

【付句】雑。「高野」は高野山の意で、釈教。「銀」は上方使いの銀貨のことで「かね」。

【句意】高野山へ寄進する銀は一先ず見合わせろ。

【付け・転じ】打越・前句では病人のおめかしだった「髪剃りて」を、信心のための剃髪と取り成した。

【自註】万事は是までと病中に覚悟して、日ごろ親しきかたへそれぞれの形見分け。程なう分別(ふんべつ)替りて皆我物(わがもの)になしける。是、世の常なり。いづれか欲といふ事、捨てがたし。ありがたき長老顔(ちやうらうがほ)にも爰(こゝ)ははなれず。いはんや、民百姓の心入れ、あさまし。

【自註意訳】人生もここまでと病中に覚り、日頃親しい人に遺産分割を。と思ったもののすぐに考えが替わって全て自分のものにしてしまう。これは世の中に、ありありのパターンである。どのみち欲というものは捨て難い。あり難い住職面をしていても欲心は離れない。まして一般人の本心はあさましい限りだ。

【三工程】
心持ち医者にも問はず髪剃りて(前句)

形見分けなど思うてをりぬ  〔見込〕
  ↓
寺への寄進さらに思へる   〔趣向〕
  ↓
高野へあげる銀は先づ待て  〔句作〕

前句の、医者にも問わず剃髪した人物が〈形見分け〉を考えているとみて〔見込〕、〈そんな人物が更に何を思いつくか〉と問いかけながら、〈寺への寄進〉と思い定め〔趣向〕、〈高野山への寄進を思いついた病人を諫める隠居老人のせりふ〉という題材・表現を選んだ〔句作〕。
 
 
「なんやすっきりし過ぎて物言いしにくいなぁ」

いやいや、それでも物申すのが鶴翁かと。

「ま、そやけどな……」
 

2022年11月21日月曜日

●月曜日の一句〔天沢退二郎〕相子智恵



相子智恵






本文秋のまま註に雪降るらし  天沢退二郎

句集『アマタイ句帳』(2022.7 思潮社)所収

美しい句だなあ、と思う。「暦の上では冬」という言い方をよくするが、秋と冬の季節の「つながりつつずれる」感じが見事に描かれていて、書物の中の虚の景なのに、晩秋から冬にかけての冷たい空気の実感がたっぷりと呼び込まれてくる句だ。

この一句だけ抜き出すと名句だと思う。ところが掲句は連作のうちの一句で、連作を(もっと言えば句集すべてを)読むと大変面白いのである。

連作のタイトルは「本文と註(冬の章)」。他に「本文と註(春の章)」「本文と註(春から初夏)」「本文と註(夏の章)」「本文と註(秋・終章)」と断続的に掲載されている。

「本文と註(冬の章)」の12句から他にも何句か引いてみよう。

  註淫すれば本文を冬去らず

  本文寒し地下納骨堂【クリプト】に註を彫る

  冬の本行間に註のこだまして

  註註註註註註と冬の風

  註註とタコのうるさい冬の本

これだけ読んだだけでも、どうにも自由で可笑しくて、そして凄味のある句集である。天沢退二郎は詩人。仏文学者でもあり、宮沢賢治の研究者として全集の編集・校訂でも知られる。

2022年11月18日金曜日

●金曜日の川柳〔尾藤三柳〕樋口由紀子



樋口由紀子






こぶしひらいても何もないかもしれぬ

尾藤三柳 (びとう・さんりゅう) 1929~2016

こぶしの中は目で見えない。あると信じているものが開いてみたらなくなっているかもしれない。あるいははじめから何もなかったのに、さもあるかように見せかけていたのかもしれない。ぎゅっとこぶしが握られていたら、その中には摑まえた蝶とか、大事なものとかきらきらしたものとか、なにかあるのかとつい思ってしまう。

そのつい思ってしまうことを、まずは「何もない」ときっぱり否定し、次に「かもしれぬ」と否定を揺るがせるかのような思わせぶりな表現をする。「ないかもしれぬ」というのは都合のいい便利な言葉である。もう一つの「何かある」をありありと呼び起こす。「ないかもしれぬ」には「あるかもしれぬ」がぴったりと貼り付いている。「こぶし」のなかは開けてみなければ、どうなっているのか本人もわからない。

2022年11月14日月曜日

●月曜日の一句〔鈴木光影〕相子智恵



相子智恵






根元よりスカイツリーの枯れてゐし  鈴木光影

句集『青水草』(2022.5 コールサック社)所収

「東京スカイツリー」の名前が決まった時、名前に「タワー」がつかないことに新しさを感じた。気づけば開業から10年が経つようだが、個人的にはまだ10年か、というくらい風景に馴染んだような気もしている。

直訳すれば「空の木」。掲句は、この「木」というところから冬の季語「枯木」が導かれて〈枯れてゐし〉が呼び出されているのだろう。ただ〈根元より〉とあるから、生きていることを前提とした冬の季語の枯木ではなく、枯死しているという感じを含んでいると思われる。塔の見立ての句としてなるほど、と思う。

そもそもが無機質なものの描写に、有機的な息吹を与え、さらにそれを枯れさせるという、いくつかの屈折をもたせた句だが、そこがかえって不思議と「(疑似的に)生きている印象」を強めていると思うのは私だけだろうか。

あのスカイツリーの色のなさ(電飾で様々な色がつくようにできている)がもつ、無機質なのに何かに擬態するように光が変化していく姿とも、妙に通っている気がする。

2022年11月12日土曜日

●週刊俳句の使い方

週刊俳句の使い方


古い資料ですが、きほんここから変わっていません。

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2022年11月11日金曜日

●金曜日の川柳〔月波与生〕樋口由紀子



樋口由紀子






羽根生えるまでははんぺんらしくする

月波与生 (つきなみ・よじょう) 1961~

関西人なので「はんぺん」にあまりなじみがない。今ではこちらのスーパーでも店頭に並んでいるが、買おうとは思わない。おでんに入れたはんぺんは他の練り物を圧倒するほどの、そのあまりの場所取りの、膨れ上がり方にどうしても慣れない。

その割に味はいたって淡白でふにゃとしている。
まさかいずれ羽根が生えてくるなどとは想像もしなかった。いずれはこの世から飛び立っていくつもりなのだろうか。正体をみせないはんぺんだがこんな一面があったのか。生きづらいのかもしれない。それまでは飛び立とうなどとは考えてもいないふりをして、はんぺんらしくするとは、なんと健気なんだろう。そして、なんと不気味なのだろう。「Picnic」(No.7 2022年刊)収録。

2022年11月10日木曜日

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2022年11月9日水曜日

西鶴ざんまい #33 浅沼璞


西鶴ざんまい #33
 
浅沼璞
 

さて久々に西鶴の自註絵巻を再開するにあたり、新たな試みをしようと思います。
 
 
というのも、これまで連句作品と自註との落差を埋める過程を、第一形態から最終形態へと辿ってきたわけですが、自註を頼りとしながらも、恣意的な側面がないわけではありせんでした。

そこで何がしかの客観的指標のようなものがないか、とずっと考えていたのですが、灯台下暗し。芭蕉研究の第一人者・佐藤勝明氏が予てより提唱されている「見込・趣向・句作」という三工程がそれに相応しいのではないかと、今さらながら思い至りました。[註1]
 
 
もともとこの三工程は、蕉門連句の多様すぎる評釈にあって、「何か客観的な基準のようなものはないか」という命題のもと、佐藤氏が模索・案出したものです。
 
しかも佐藤氏の独断というわけではなく、中村俊定・山下一海など先達の優れた業績をアウフヘーヴェンしており、客観性はじゅうぶん担保されています。
 
(最近では永田英理氏が捨女の恋歌仙・注解でこの方法を見事に援用。[註2]
 
付句作者の脳内活動を追うこの三工程を具体的に記すと――
 
前句への理解である「見込」、それに基づき付句では何を取り上げるかという「趣向」、実際に素材・表現を選んで整える「句作」ということになります。
 
さらに最近では「見込」から「趣向」を導く際に、一種の自問自答を想定しているようです。[註3]
 
 
ではこれを、西鶴ざんまい#31で想定した第一形態~最終形態に当てはめてみましょう。

心持ち医者にも問はず髪剃りて(前句)

形見分けなど一時のこと  〔見込〕
  ↓
仏ごころも一時のこと   〔趣向〕
  ↓
高野へあげる銀は先づ待て 〔句作〕

前句の、医者にも問わず剃髪した人物が、形見分け(遺産分割)を一時考えているとみて〔見込〕、〈そんな一時の思いは何によるのか〉と問いかけながら、仏への信心と思い定め〔趣向〕、「高野山へ寄進を思いついた病人を諫める隠居老人のせりふ」という題材・表現を選んだ〔句作〕わけです。
 
 
「なんや、わしの脳みそ、見すかされとるみたいで気色わるいな」

いや、鶴翁がそう仰るなら、さらにこの方法で自註絵巻を読み続けたいと思います。

「嗚呼、口は災いのなんとかや、呵々」
 
 
[註1]『続猿蓑五歌仙評釈』佐藤勝明・小林孔(ひつじ書房、2017.5)
[註2]「近世文芸 研究と評論」101号(2021.11)
[註3]日本文学芸術学部文芸学科「特別講座」(2022.10)
 

2022年11月7日月曜日

●月曜日の一句〔秦夕美〕相子智恵



相子智恵






正夢に赤のきはだつ寒さかな  秦 夕美

句集『金の輪』(2022.1 ふらんす堂)所収

冬が立った。今週から冬の句を楽しみたい。

掲句、正夢とは夢を見た後に現実に同じことが起きてはじめて、「ああ、あの夢は正夢だったのだな」と気づくものである。正夢だったかどうかは、覚醒した後に(多くはしばらく経ってから、何かの機会に)分かるものだ。

ところが掲句の〈正夢に赤のきはだつ〉は、助詞の「に」の効果もあって、どうも今まさに夢の中にいて、その場面を描いているように読める。まだ正夢かどうかも分からない時点で、正夢であるという確信があるのが不思議で、夢と現実の間があいまいなままに〈寒さかな〉に収れんしていく。

本句集の冬の句には他にも、

 その時は目をつむりませう玉子酒

という句もあって、この〈その時〉はどんな時なのかは明示されていないのだが、〈目をつむりませう〉で受けているから、どことなく死の匂いが感じられてくる。そして、取り合わせられた〈玉子酒〉は、風邪気味の時に回復のために飲む滋養強壮の飲み物であり、病中ではありつつも、生命力へ向かうベクトルがある。ベクトルが真逆のものが、一句に取り合わされた面白さがあるのだ。

この「生死のあわい」や「夢と現実のあわい」の曖昧さの中に遊べるのが、秦氏の句の面白いところだ。

2022年11月4日金曜日

●金曜日の川柳〔八上桐子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




向こうも夜で雨なのかしらヴェポラップ  八上桐子

掲句では「プ pu」だけど、製品名はヴェポラッブ(VapoRub)。vapor(蒸気)でrub(こする)みたいなネーミングなのだろう。外国語がカタカナ化するときに「プ pu」「ブ bu」の変容はよく起こる。

って、「鼻づまり、くしゃみ等のかぜに伴う諸症状を緩和する、体にぬるラブ・オン(塗布)タイプの鼻づまり改善薬」(メーカー説明)の正しい商品名を語っている場合ではなかった。

掲句。《向こう》という曖昧が示す距離を《夜》と《雨》がつなぐ。夜の色と質感、雨の湿度と質感が、愛すべき対象の胸に手のひらでひろげる(たしかヴェポラッブのテレビCMは赤ん坊だか幼児だかの胸に母親が手でこの薬を塗り込む様子だった)塗り薬のように、気持ちの表層にひろがっていく。

別の人・別の場所に思いをはせる、その瞬間の機微(たいせつさ・愉しさ・せつなさ・愛おしさ…)が読者の胸にじゅんわりとしみてくる句ですね。

八上桐子『hibi』(2018年1月/港の人)より。