2025年12月5日金曜日

●金曜日の川柳〔中内火星〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



唐突にアグネス・ラムと言われても  中内火星

このところ、というか、以前よりたびたび、人名の入った句を取り上げることが多い。性癖として甘受するべきことで、いまさら慎み深くなることはできないし、必要もないのだろうが、はたと周囲に考えをめぐらせば、俳句世間では、人名を含む句は、たいてい、外道とされ、忌み嫌われ、鼻で笑われ、「ああ、このひとは、こういう句をつくる、こういう人なんだ」という目で見られる。

川柳ではどうなのだろう?

同じであってほしい。おおぜいから歓迎される句なんて、ろくなものじゃないから。だから、この句も、川柳世間で、白い目で見られていることを切に望むわけですが、それよりもまず、というか、それとはべつに、アグネス・ラムを知らない(若い)人が多くなってしまったはず。

私もよくは知らない。いや、若いからではなく、当時、やたら目にした気はするが、彼女の何を知っているのか? と自問してみると、あまり知らない。それでも、アグネス・ラムを詠み込んだ新年の句をつくったことがあるので、まるっきり縁遠いこともない。

興味をもった若い人は、ネット検索してみるといい。ついでに画像検索すると、アグネス・ラムは夏の季語(七五)かと思うにちがいない。

さて、くだらない前置きが長くなったが、掲句。アグネス・ラムの唐突感・唐突性について語るべきなのかもしれないが、それに紙幅を使うこともない。誰かに、どこかで、「アグネス・ラム」と声に出された瞬間を想像してみるだけでいい。ある人は「え?」だけで終わってしまうし、ある人は底なしの虚無を感じるかもしれない。

それでいいと思う。話題が広がり、話が弾むのは、気持ち悪くマスキュリンな世界なので、「は? なにゆってるの?」くらいがいい。

で、川柳も俳句も同じで、「は? なにゆってるの?」としか言えないような句がいいと、私はつねづね思っています。

2025年12月3日水曜日

●西鶴ざんまい 番外篇30 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇30
 
浅沼璞
 
 
今年も押しつまってきましたが、在原業平の生誕1,200年ということで、根津美術館が特別展「伊勢物語――美術が映す王朝の恋とうた」を開催(11/1~12/7)。紅葉狩を兼ね、後期展示に足をはこびました。

中世以前、写本時代の古筆・古絵巻の展示も充実していましたが、愚生の興味はやはり近世以降にありました。


西鶴生誕の少し前、江戸時代の初めに挿絵入「伊勢物語」の版本(嵯峨本)が出版。それまでの写本による「知の専有化」の時代は、版本によって「知の共有化」の時代へと大きく転換したわけです。

結果、嵯峨本「伊勢物語」は多くの庶民に読まれただけではありません。多様な絵画作品の原典ともなったのです。

例えば本展の出品作でいうと、第50段「行く水に数かく」の挿絵が、岩佐又兵衛「鳥の子図」や土佐光起「伊勢物語図」に影響を残しているのがわかります。(絵として圧倒されたのは又兵衛筆でしたが)


むろん西鶴もまた嵯峨本によって「伊勢物語」を享受したに違いなく、あの『好色一代男』(1682年)にさまざまな影響を残しているのは有名ですが、そればかりではありません。浮世草子以前、俳諧においても次の発句が知られています。

  こと問はん阿蘭陀広き都鳥      『三鉄輪』(1678年以前)

いうまでもなく第九段「隅田川」の詠〈名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと〉(古今集)のサンプリングです。

当時、旧派・貞門から阿蘭陀流と揶揄された談林の、その急先鋒として、「広き都の都鳥さんよ、オランダ流の広大さを世間に教えてやってくれ」というような心意気を感じさせます。

さて晩年の『西鶴独吟百韻自註絵巻』にその気概、ありやなしや。
 

2025年11月28日金曜日

●金曜日の川柳〔佐渡真紀子〕樋口由紀子



樋口由紀子





悪人になって動物園に行く

佐渡真紀子(さど・まきこ)

物語が始まりそうである。「善人」だと嘘っぽくなって、物語のワクワク感が薄れてしまう。が、この「悪人」もどうだろうか、ちっとも悪人らしくない。そもそも「悪人になって」いるのかどうかもわからない。自分に言い聞かせている。

「悪人になって」と「動物園に行く」には落差はあり、ちぐはぐである。動物園は癒されるというよりも意外と自分の見えない本音や心情がはっきりと見える場所なのかもしれない。なぜ「悪人になって」なのかは訳も理由もわからないが、意味や雰囲気は残る。そんな人の存在を確かに感じることができる。「What‘s」(9号 2025年刊)収録。

2025年11月21日金曜日

●金曜日の川柳〔月波与生〕樋口由紀子



樋口由紀子





斎藤と齋藤の夫婦別姓

月波与生(つきなみ・よじょう)

私の本名はワタナベで、いろいろな渡邊、渡辺、渡邉、渡部があるが、どのワタナベも戸籍上と異なる。市役所で正確に書いてくださいと注意されたが、その漢字は市のパソコンに出て来なくて、便宜上、渡邊にした。以後、渡邊と渡辺とパソコンに出ないワタナベをその都合で使い分けている。

「斎藤」普段使いしている夫と「齋藤」と普段使いしている妻はそれも夫婦別姓なるのか。疑問を呈して、皮肉を込めて、呟いている。その皮肉に共感する。法務省のホームページには「現在の民法のもとでは、結婚に際して、男性又は女性のいずれか一方が、必ず氏を改めなければなりません。」と明記されている。夫婦別姓はいまだに認められていない。「What‘s」(9号 2025年刊)収録。

2025年11月19日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #86

西鶴ざんまい #86
 
浅沼璞
 
   野夫振揚げて鍬を持ち替へ  打越

  其道を右が伏見と慟キける  前句

   朝食過の櫃川の橋    付句(通算68句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】 
三ノ折・裏4句目。  雑。   朝食過(あさめしすぎ)=時分(じぶん)の仕立。  櫃川(ひつがは)=山科川の古名。其場の仕立。  櫃―飯・川(類船集)。

【句意】
朝めし過ぎ時分の櫃川の橋(にさしかかった)。

【付け・転じ】
前句で農夫に道を尋ねた旅人の目線へと転じ、その後の旅の朝景色に照準を合せた。

【自註】
*古哥に「ふし見につゞく櫃川のはし」と読み残せし。都出でて、東福寺の前に渡せし**一の橋の事也。前句の旅人、道いそぐ甲斐ありて、はやくも爰(こゝ)に来て、此あたりはいまだ朝景色を見し一体也。句作りは食の櫃(めしのひつ)として、いやしからぬやうにいたせし。しかし、此句のはたらきは、***中古句むすび也。

*古哥=出展不明。ただし藤原俊成に「都出でて伏見を越ゆる明け方はまづ打渡す櫃川の橋」(新勅撰集)の作あり。  **一の橋=〈東福寺門前、伏見街道の今熊野川に架かる橋。三の橋まであり。これを「櫃川の橋」と呼ぶこと所見なし〉(定本全集・頭注)。西鶴の誤りか(下記【テキスト考察】参照)。  ***中古(の)句むすび=貞門的な古風な付け方。具体的には「伏見→櫃川のはし(箸)←朝食」の縁語仕立て。

【意訳】
古い歌に「伏見に続く櫃川の橋」と詠み残したのがあった。都を出て東福寺の前に渡した一の橋のことである。前句の旅人は道を急いだ甲斐があって早くもここに来て、あたりを見るに未だ朝景色の様子である。句作りは飯櫃(めしびつ)を素材に、卑しくないように表現いたした。しかしこの句の技法は貞門的な古風な付け方である。

【三工程】

(前句)其道を右が伏見と慟キける

  道を急げば櫃川あたり 〔見込〕
   ↓
    朝景色とて櫃川あたり 〔趣向〕
     ↓
   朝食過の櫃川の橋   〔句作〕

前句で農夫に道を尋ねた旅人の目線へ転じ、伏見に続く櫃川あたりとした〔見込〕、〈どのような時分か〉と問うて、朝景色とし〔趣向〕、「朝食→櫃川のはし(箸)」の縁語を貞門風に駆使した〔句作〕。

【テキスト考察】

『新編日本古典文学全集61』には〈京都から伏見街道への出口にあたる「一の橋」と、「都出て……」と詠まれる「櫃川の橋」とを錯覚したようである〉と書かれています。

真偽のほどは不明ですが、もし錯覚だとしたら、その要因は何なのでしょうか。

談林時代の『両吟一日千句』(1679年)では青木友雪との次のような付合がみられます。

   櫃川わたれば樗最(サイ)中   西鶴
  眠りては落るもしらぬ一のはし   友雪

樗の花の咲く最中、櫃川から一の橋へと向かう途中、我知らず眠りに落ち、花が落ちるのすら意識にない、というような付合でしょうか。

「櫃川」→「一の橋」の付筋に錯覚の遠因があるのかもしれません。

今後、他の作例にも当ってみたいと思います。