2024年5月1日水曜日

西鶴ざんまい #59 浅沼璞


西鶴ざんまい #59
 
浅沼璞
 
 
和七賢仲間あそびの豊也  打越
 銅樋の軒わらひ捨て   前句
神鳴や世の費なる落所   付句(通算39句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、裏五句目。雑(当時、神鳴は雑。『最新俳句歳時記』では「俳句の季題」に分類)。
や=軽い間投助詞(ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい 番外編9 浅沼璞)。
費(つひえ)=損失    落所(おちどころ)=落雷発生地点

【句意】雷や、(よりにもよって)世の損害となる落下場所である。

【付け・転じ】打越・前句=和賢人の目線(無常観)から上層階級の贅沢(銅樋)を冷笑する付け。前句・付句=銅樋への冷笑から、そこに落ちた神鳴への嘲笑・迷惑感情へと転じた。

【自註】神のまゝにも仏のまゝにも成がたき物は、神鳴の落所ぞかし。人にかまはぬ広野(ひろの)大海(だいかい)もあるに、住家に落て軒端を崩し、植込の大木を引割き、国土の費なる物なり。人、皆、其の落ける跡を見物して、「太鼓わすれてあらぬか」、「竜の駒の爪はないか」と大笑ひせし。目に見えずして、是はおそろしき物、桑原(くはばら)/\。*
*桑原=雷除けの呪文。神鳴―桑原(類船集)。

【意訳】神の心のままにも、仏の心のままにもならないのは、落雷の発生地点である。人間と無関係な広い野原や大きな海もあるのに、人の住家に落ちて軒端を壊し、植込みの大木を引裂き、世の損害となるものだ。人はみな落雷の跡を見物して、「太鼓を置き忘れてないか」「神鳴龍の駒の爪痕はないか」と大笑いしたりするが、目に見えないから、じつは怖ろしいもの、くわばら、くわばら。

【三工程】
(前句)銅樋の軒わらひ捨て
  神鳴や太鼓わすれてござらぬか  〔見込〕
    ↓
  神鳴や目に見えずしておそろしき  〔趣向〕
    ↓
  神鳴や世の費なる落所      〔句作〕

笑いの対象を軒へ落ちた神鳴へと転じ〔見込〕、世間において神鳴はどんな存在かと問いながら、人々の本音(迷惑感情や恐怖心)へと目を向け〔趣向〕、社会インフラの損失を詠んだ〔句作〕。

 
そういえば『日本永代蔵』にも年末決算のころ、家でたった一つの釜に冬雷が落ち、それを買い替えた分だけ赤字になったっていう笑えない話がありましたね。

「そや、迷惑な話やろ」
 
『西鶴諸国ばなし』では旱魃がらみで神鳴様が出てきましたね。
 
「あれは夜這い星に戯れた神鳴様が精液を出しきって日照りになってな、困った村人が牛蒡の供物で神鳴様の精力を回復するいう話やで、おもろいやろ」
 
でも、けっきょく神鳴様は性病ぎみでオシッコが出にくくなってしまったというオチで。
 
「そや、尿が出にくいいうことは、降っても小雨いうことやで、おもろいやろ」

2024年4月27日土曜日

■竹岡一郎 敬虔の鎧 42句

竹岡一郎 敬虔の鎧 42句




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建国日山雨に燃ゆる眼はをろち

父たちの離ればなれに征く焼野

天譴偽り黙契照らし野火は里へ

憑依の誤差とは薔薇の芽か童貞か

咲ひ閉ぢバレンタインの日の鋏

白魚の煮え閨怨を煽るらし

殴打の継承断つに霞の心身を

母たちは崖に泣き合ふ凧は沖

娘遍路の眺め殺すは自瀆漢

涅槃絵に骨とどめ置く外道かな

渦潮の巫山雲雨のうなさかへ

水憑く白さ雛の夜の仰臥とは

銀鉱の露頭に蒔きて毛深き種

囀りの昏きに母ら喰らひ合ふ

打ち揚がる手が摑みをり流し雛

春眠のたび霊となり月の裏へ

わらび湧くひそかな殉死さらすべく

貝のうち裂ける莟や卒業式

心中ごつこ蝶のつがひの出づるまで

雪のはて笛臥すのみの柩担ぐ

蘖を総身に生やし不死の志士

心拍を凧の糸から天へ拡ぐ

春を似て鏡のシケとわが鏡像

己が尾を欲り花衣まくるのか

電子にも香を聴く霊の春愁

花吐けり翼重くてならずもの

春の瀧無念の巨き顔降りつぐ

落人の杓文字鳴らすが花ざかり

鳥の巣の要とならむ透る髪

夢の老ゆるに耐へず落花は顔覆ふ

遍路ふたり蛹どろりと曳き摺つて

百千鳥忘られし忌が森に染む

頂点に蝶あまた噴く観覧車

花守の悔悟に猛る篝百

譜の孔うごめく招魂祭の自鳴琴

隕石は礫と散りて花うながす

雲雀野を火の粉散るごと逃げよ追ふよ

乳房へと海胆もどかしく匍匐せり

心音を海女に褒められ覚めやらぬ

土蜘蛛の網いちめんの桜の香

鉄鉢へ降り積む花の阿鼻を聴け

敬虔の鎧を組み直す遍路


2024年4月26日金曜日

●金曜日の川柳〔渡辺和尾〕樋口由紀子



樋口由紀子





僕のてのひらでひとのてのひらかな

渡辺和尾(わたなべ・かずお)1940~2021

自分のてのひらを見て、このてのひらは自分のためのてのひらであり、ひととつながり、ひとのためにも使う、やわらかいてのひらであるとつぶやいているのだろうか。

「僕」だけが漢字であとはすべてひらがな表記である。<僕の掌で人の掌かな>とは別の様相を呈する。ひらがなの並びには表情がある。ただ、てのひらをみつめているだけで、そこに理由や理屈を嵌め込む必要ないのかもしれない。ひらがながころころところがりながらひろがり、ひらがなでかたちづくられた世界が顔を出す。その素直さを感受する。『回歸』(2003年刊 川柳みどり会)所収。

2024年4月25日木曜日

【新刊】『全国・俳枕の旅62選』広渡敬雄

【新刊】
『全国・俳枕の旅62選』広渡敬雄




2024年4月22日月曜日

●月曜日の一句〔坪内稔典〕相子智恵



相子智恵






今午前十時三分チューリップ  坪内稔典

句集『リスボンの窓』(2024.3 ふらんす堂)所収

時間とチューリップだけが置かれた句。〈今午前十時三分〉という時間設定がなかなかである。まず、午前午後も含めてきっかりと今の時刻を描きこんだことで、時間に敏感になる平日を想像する。チューリップが咲く、年度初めの忙しい頃だ。

そして、〈午前十時三分〉というオンタイムに、たぶん晴れていて、チューリップがよく見える場所。例えば公園の花壇など……で、チューリップを眺めていられる人というのは、ビルの中で働く人や学業にいそしむ人などは、自然と想像から省かれるわけで、それだけで不思議とのんびりした気分が出てくる。リタイアして時間に余裕のある人か、あるいはちょっと「さぼり」の気分がある感じ。

さらに掲句の音、「ジュージサンプン/チューリップ」あたりの口が喜ぶ語呂のよさは、無造作なようで実はよく練られたものである。

偶然性を喜び、技巧を凝らさないようでいて、読者に与える印象は作者としてしっかり構築している。こういう「抜け感」(ファッション誌でいうところの、気取らずにリラックスした雰囲気を感じさせる、余裕のある洋服の着こなしのこと)のつくり方が、いつも見事な作者だと思う。