〔ためしがき〕
ひとはふつう裸でトランプを切らない
福田若之
死も選べるだがトランプを切る裸 田島健一
ひとはふつう裸でトランプを切らない。それに、「死も選べるだがトランプを切る」なんてどこかのスパイ映画のヒーローみたいなことを、ふつう裸では考えない。だから、これは狂気か異常か極限なのだ。いや、狂気も異常も極限なのだから、極限なのだ。この裸の極限的なありさまは、この句を語るうえで、もっと注目されてよいはずだ。
『ただならぬぽ』(ふらんす堂、2017年)については、すでに二度書いた。けれど、そのたびに、僕はこの句集のもっとも魅力的に感じる要素のことを、書きそこなってきたように思う。なによりも、僕は次の一句に触れずに来たのだから。
鶴が見たいぞ泥になるまで人間は 同
この句集において、僕がもっとも好ましく思うのは、結局、おそらく同時代的には高野ムツオや北大路翼などの句と呼応しあうものであり、系譜的には加藤楸邨に連なるものであるのだろう、この泥臭さなのだ。それは、きっと先に挙げた句における裸の極限的なありさまとも関わっている。
そうだ。人間は、泥になってしまったら、行くところまで行ってしまっている。だから、泥というのは、裸とおなじく、狂気で、異常で、要するに極限的なありさまなのだ。
けれど、いま、僕がこうして『ただならぬぽ』についてやっと僕の核心を書きはじめたのは、決して、この二句の結びつきに起因してのことではない。
きのう、八王子駅で横浜線の出発を座席に腰かけて待ちながら、ふいに思い出してしまったのだ。夏目漱石の肖像が印刷された古い千円札の裏には、二羽の鶴が印刷されていたということを。
狂気だの異常だのと書いておいていきなりだが、引用した鶴の句は、以前から、労働にかかわる句だと考えていた。僕のそうした考えは、おそらく、書き手自身の次の発言に由来している。
僕は、以前自分が仕事に深くとらわれている時期があって、「鶴が見たいぞ泥になるまで人間は」っていう句を作った。
(「座談会II」、『オルガン』2号、53頁)
僕には、仕事をめぐって人間が泥になるということは、労働に、それも過剰な労働にかかわっているように思われてならない。だが、それにしても、「鶴が見たいぞ」がわからない。わからなかったのだ。労働の果てに見出される鶴、それはいったい何だというのか。
金銭、というのは、もちろん安易な答えである。そうなれば、泥というのも、ついには泥棒のことを意味することになってしまうだろう。人間は千円のためについには罪を犯してしまうだろう。けれど、そうではない。金銭には鶴を見出すことはできない。金銭がたんに金銭にすぎないかぎり、そこにひとが見出すことができるのは、ただ数字だけだ。
だが、そこにはたしかに、鶴が印刷されていたのだ。しかも二羽も。
思うに、ひとが紙幣の図柄のモチーフなどを気にしはじめるのは、それがそのひとにとって、もはやたんに紙幣ではなく、一枚の絵になってしまったときではないだろうか。ならば、引用した句は次のように読み替えることが可能になる。すなわち、人間が過剰な労働に極限的なありさまになるまで身を捧げるのは、金銭がもはや金銭でなくなるのを見たいからなのだ、と。これはさらに次のことを示唆している。人間が泥になってしまわないかぎり、金銭が鶴になることはない、ということだ。人間が人間でいるうちは、結局、金銭は金銭であるにとどまるのである。すくなくとも、この読みにおいては。
ところで、鶴を見るとはどういうことだろう。見ることについて、田島健一は『オルガン』7号の座談会で次の発言をしている。
田島 前に若ちゃんが「見るってことは書くことなんだ」と言っていて、それと関わってくるのかなと。書かないとならない感じが俳句にはある。
(「オルガン連句興行&座談会 「沼を背に」の巻」、『オルガン』7号、46頁)
けれど、弱った。僕はそんなことを言った覚えはないのだ。うっかりそんなことを言ったことがあっただろうか。言ったよ! と強く言われれば、そうかもしれないと思うくらいには、自信がない。けれど、すくなくとも、2016年9月10日に開かれたこの座談会のおよそふた月前にこの「ウラハイ」に掲載されたためしがきでは、僕はむしろそれと逆のことを言っていたはずだ。引用しよう。
僕にとって、「写生」は、見ることの一形態であるよりも、むしろ、描くこと、書くことの一形態なのである。
(福田若之「視聴することと写生すること」)
だから、僕にとって、見ることと書くことは、「写生」を通じてかかわっている。けれど、それはまったく別のふたつのこととして、たがいにかかわっているのだ。けれど、僕のことはまあいい。ここで大事なのは、どうやら田島健一にとっては、そうではないらしいということだ。ならば、鶴と書くことが、すなわち鶴を見ることなのだろうか。
もちろん、書き手がどうやってこの句を書いたのかを僕は知らない。だが、仮に、句を書くときに二音の空白を鶴という言葉で埋めることを想像してみよう。そのとき、鶴はその二音の価値のために支払われているということができる。たとえば一万七千円の支払いのとき、一万円札と五千円札を一枚ずつ出したあと、その埋め合わせのためにもう二千円を差し出すのは、その二枚に、余った二千円分の価値があるからだ。それと同じように、鶴は二音ぶんの代金として支払われるのである。
では、そのようにして支払われた鶴は、金銭的であるにとどまるだろうか。そうではない。埋めあわせとして持ち出された鶴は、鶴であるがゆえに、もはや抽象的な二音の価値以上のものを持っている。鶴と書かれてあれば、もはや、それをたんなる二音の埋め合わせとして見ることはできない。そこで、鶴は、鶴として見られるのだ。だから、そのようにして、書くことは見ることにかかわっている。それを、田島健一ならば、「書くことは見ることである」と書くだろう。
もちろん、これは僕がかつて千円札の裏に二羽の鶴の絵が印刷されていたことをふいに思い出してしまったことを契機とした、まったく恣意的な読みのひとつにすぎない。きっと、もっと自在に、この句を読み替えていくことはできるだろう。けれど、僕はこの思い出しの衝撃をまだ忘れることができないから、たぶん、しばらくはこのまま同じように読みつづけるだろう。
それにしても、トランプは紙幣に似ている。ひとは、実にしばしば、
トランプを数と記号に還元してしまう。けれど、そのとき、ひとはジャックがどんな表情をしているかすっかり忘れてしまう。そもそもジャックの表情など誰も見てはいないのだ。人間は、誰も。だから、トランプを切りながら、それをもはやただのトランプではないものにしていくためには、ひとは裸でトランプを切らなければならない。死ぬのではなく、切りつづけなければならない。