2017年6月30日金曜日

●金曜日の川柳〔福永清造〕樋口由紀子



樋口由紀子






孫の写真に俺の顔が半分

福永清造 (ふくなが・せいぞう) 1906~1981

孫の写真を見ていたら、隅っこの方に自分も写っていた。顔の半分だけだったが、確かに俺。思いがけないものを見つけて、嬉しくなったのだろう。七五三とか入学式とか、なにか記念の時だろうか。そのころを思い出し、孫の成長と今よりも若かった自分を懐かしんでいる。日常のちょっとして喜びをうまく表現している。

自分の顔が半分しか写ってないのが不満というのではない。半分でも自分の顔が孫と一緒に写っていたことが何より嬉しいのだ。川柳が人生の哀歓を詠む文芸であると掲句を読んでつくづく思う。ほのぼのとした人間味が出て、現実感がある。合同句集『甍』(1972年刊)所収。

2017年6月28日水曜日

●水曜日の一句〔若林波留美〕関悦史


関悦史









光速を超えしさびしさ月夜茸  若林波留美


光速を超える物質は存在しないということに、今のところなっているらしい。数年前に光速を超えるニュートリノが観測されたとの実験結果が報じられたことがあったが誤りだった。

なのでこの句の「光速を超えしさびしさ」は、字義通りに取れば、現実を超えたところで初めて味わい得る感情ということになる。

いや、常識的に取れば《月夜茸には光速を超えたようなさびしさが感じられる》といった句意となるのだろう。発光する毒茸に対し、「光速」と「さびしさ」はそれぞれ《光》と《人への拒絶》という共通性を通じて連想が及び、しかしイメージとしては詩的な飛躍をもたらしている。月夜茸が宇宙を越えて飛来した生物のようにも見えてくるのだ。

だがそれにしても、「光速を超えしさびしさ」とは、孤立しているには違いないとしても、それは陶然たる自足に近い。その自足が発光をもたらすのだろうか。

あえて比喩的にではなく取った場合、光速を超えたのは「月夜茸」か、それともそれを見ている語り手かといった設問はおそらく無意味で、「光速を超えしさびしさ」はその両者が一瞬のうちに果たした邂逅と理解のうちに共有されている。地球の生命の起源は宇宙からの飛来物という説もあることを思いあわせれば、「月夜茸」とわれわれの間に大差はなく、別々の姿を取るにいたっているとはいえ、どちらも同根の、宇宙のなかの一現象と見えてくる。「光速を超えしさびしさ」とは、全ての生命を産み出すマトリックスなのだろう。


句集『霜柱』(2017.5 東京四季出版)所収。

2017年6月27日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム9 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム9

福田若之


ゆるい坂道沿いにばったもんのベイブレード白いかごで売るみせ

古くから古くてトポス、その前には宝くじ売り場があって

母がなくして今も北第一公園にきっと落ちている錆びた鍵

左右ひろい畑で電柱にぶつかった僕は自転車できんたまを打った生きててはじめての感覚

冷えピタ付けたまま摂氏42度の熱でリビングを駆けずり回る「死ぬ死ぬ!」

インフルエンザ以後ながらくの痰の時代

友達んちのそばの公園の前のラーメン屋いつも開いてんのかどうかもわかんなくて暗くて

蕎麦屋の裏のビデオ屋いつから日に褪せたぺらぺらのバットマンのほほえみ

2017/6/20

2017年6月26日月曜日

●月曜日の一句〔松井眞資〕相子智恵



相子智恵






時の日や宙に停まる観覧車  松井眞資

句集『カラスの放心』(文學の森 2017.06)所収

そういえば「時の記念日」というものがあったな……と、掲句を読んで思い出したくらい、私の中では認識が薄くなっていた日であり季語だった。どういう句があるのだったかと歳時記の例句も見てみたが、特に人口に膾炙した句も見られず、象徴性が湧きにくいのだろうと思う。

掲句、営業終了後の観覧車だろうか。観覧車は宙ぶらりんのまま、次の営業開始時刻まで止まっている。ただただ風に吹かれるのみの、その寂寞とした時間に、そういえば時の日が過ぎようとしているという静かな感慨が重なる。

観覧車は風の中で回り、止まることを、いつか取り壊されるその日まで繰り返す。次々と乗せては吐き出す人々は観覧車の中に留まることはなく、来ては去ってゆくのみだ。まるで『方丈記』の冒頭のような無常を、静かに、正確に時が刻んでゆく。〈時の日〉という季語が活かされた句だと思った。

2017年6月24日土曜日

●さざなみ

さざなみ

藻の上をさざ波はしる障子かな  岸本尚毅

新涼のさざなみに似し手紙あり  峯尾文世

漣のさみしくなりし日傘かな  岡本眸

羽子落ちて木場の漣あそびをり  石田波郷

さざ波のたちて仔猫の通りすぐ  小林すみれ〔*〕

桜餅今日さざ波の美しく  大木あまり

〔*〕『椋』第76号(2017年6月)より

2017年6月23日金曜日

●金曜日の川柳〔高瀬霜石〕樋口由紀子



樋口由紀子






リア王もオセロもマクベスも 馬鹿だ

高瀬霜石(たかせ・そうせき)1949~

リア王もオセロもマクベスもシェークスピアの四大悲劇。悲惨な結末を迎えるのだから、確かに馬鹿だと言える。そうならないようになんとかすればよかった。が、何故「馬鹿だ」なんて身も蓋もない言い方をするのかと思った。

「馬鹿」という言葉は一見、単純で狭い一つの意味をしか持ち合わせてないと思ってしまいがちだが、存外、そうではなくて、広範囲にありとあらゆる感情が入り乱れている言葉である。「馬鹿だ」とあらためて言うことに意味があり、それによっての全体を照射する。愛情表現であり、アプローチの仕方なのだろう。

五四五三、計十七音で、川柳であると辛うじて保証している。この十七音がつぶやきで終わらない、なにがしかの意味をもたらす装置である。人名なので仕方がないと言えるのだが、強引な句跨りにも独自の捻じれがあり、それによってアイロニーとペーソスを生み出しているように感じる。『川柳作家全集 高瀬霜石』(2010年刊)所収。

2017年6月21日水曜日

●水曜日の一句〔長谷川晃〕関悦史


関悦史









オフェーリアの眼に笑ひあり万愚節  長谷川晃


オフェーリアはシェイクスピアの「ハムレット」で恋人ハムレットに捨てられ、父を殺され、身を投げて死ぬ悲運の女性。絵画の題材としてもよく取り上げられているが、最もよく知られているのはジョン・エヴァレット・ミレー(バルビゾン派のミレーとは別人)による水死体の油彩画ではないか。

特にその絵に限定して鑑賞しなければならない句ではないので、ひとまずそのイメージは振り払うとしても、生前の「笑ひ」ではなく、身投げした水死体と取らなければこの「笑ひ」の戦慄は生きてこない。

シェイクスピアの四大悲劇はみなそうだが、「ハムレット」そのものが、さして長い話ではないにもかかわらず混沌を含んでいて、先王の幽霊の登場する序盤から、ドミノ倒し的に登場人物がバタバタ死んでいく終盤まで、人のなかにありながら人のスケールを超えた力といったものが横溢している。

この「笑ひ」はその渦中で身を滅ぼしたオフェーリアの恐怖や諦念、侮蔑など、さまざまな感情が凍りついたような笑いである。

そこに季語「万愚節」が取り合わせられると、この悲劇をすべて嘘だといってほしいといった情緒纏綿たる悲しい「笑ひ」にも見えるが、一方、オフェーリアの人生そのものが一場の嘘という扱いにされてしまっているようにも見える。

いやしかし、そもそもオフェーリアは虚構の登場人物なので、本当の意味での人生というものはない。

「オフェーリアの眼に笑ひあり」という断定自体が嘘なのではないかということも考えられるが、これは真偽が確定できる命題ではない(虚構の話だからというのもさておき、劇中ではオフェーリアの死は「死んだ」という報せだけで済まされてしまい、直接描かれてはいなかったのではなかったか)。

一見、空想と理屈で付けられただけに見える「万愚節」だが、この句の、若い悲運の女性の水死体のイメージは、嘘-本当、虚構-現実という軸を混乱させ、いかなる物語に収まればよいのかを曖昧にたゆたわせたまま、「万愚節」という碇によって一句につなぎとめられている。その曖昧なたゆたいを体現しているのが「笑ひ」なのだ。


句集『蝶を追ふ』(2017.5 邑書林)所収。

2017年6月20日火曜日

〔ためしがき〕 uninstall.exe 福田若之

〔ためしがき〕
uninstall.exe

福田若之


世のなかには、さまざまなイデオロギーがある。資本主義、民主主義、社会主義、共産主義、植民地主義、無政府主義、全体主義、テロリズム、形式主義、写実主義、象徴主義、構造主義、ポスト構造主義、モダニズム、ポストモダニズム、構造主義、経験主義、イスラム原理主義、キリスト教原理主義、マルクス主義、フロイト主義、人種差別主義、フェミニズム……まだいくらでもあるけれど、もう充分だろう。ときに重なりあい、ときに対立しあいながら働くこうしたイデオロギーは、しばしば、「物語」という言葉を使って語られてきた。

だが、ここでは次のように言ってみよう。イデオロギーはプログラムである。 プログラムという語は、ギリシャ語のπρόγραμμαを語源としている。それは、「公に書かれたもの」を意味していた。これはまた、「前もって書かれたもの」をも意味するだろう。ところで、イデオロギーとは、公的な法として自らが共有されることを要請するものであり、ハードウェアとしての僕たちを何らかの運動へと駆りたてるソフトウェアであり、何かが書かれるときにその前提として働こうとするものであり、出来事の展開をひとつの工程に従わせようとする式次第であるはずだ。だから、こうした意味で、イデオロギーとはプログラムの一種だといえる。

ここで僕は、 そうしたイデオロギーの一切を空き缶のように蹴っ飛ばして、早々にそこからの逃走をくわだててみせたりするつもりはない。そんなことはこれまでにもさんざん繰り返されてきたことなのだし、僕たちは、そんな物語を、もう、前もって繰り返し聞かされてきた。

プログラムはインストールされる。僕たちは、言葉を読みとり、あるいは聞きとるなかで、さまざまなイデオロギーを身のうちにとりこむ。必要なことがあるとすれば、それは逃走ではない。アンインストールの手順を用意することだ。もちろん、それはただちに必要とは限らない。もしかしたら、ハードウェアが壊れるまで使わずにすませることもあるかもしれない。それでも、アンインストールの可能性は、ひとつのプログラムがもはや不要とされるときのために、つねにあらかじめ担保されていなければならない。たとえば、「遺産」という語がなんらかの権威をまとって響くときに、特定のイデオロギーがこの語と結びつくことに問題があるとすれば、それは、このアンインストールの可能性が担保されていないという点にある。「遺産」という語は、それが権威をまとったときには、それを放棄すること自体を悪として意味づけるからだ。

話が逸れた。つねにあらかじめ、用意された手順。そう、アンインストーラもまた、それ自体が一個のプログラムにほかならない。そして、アンインストールの手順を用意するというのは、事実上、アンインストーラをプログラミングすることにほかならない。

アンインストーラを書くうえで注意しなければならないのは、 ひとつのプログラムがもはや不要とされるときというのは、必ずしも、そのプログラムの目的が果たされたときであるとは限らないということだ。僕たちは、インストールしたプログラムを結局は一度も起動させないままアンインストールすることもあるし、起動させてみて駄目だなと思ってプログラムを強制停止させてアンインストールすることもあるし、そうかと思えば、さしあたりこのプログラムが役に立つことはもうないだろうと判断しながらも、なんだかんだアンインストールせずにそのままにしておくこともある。だから、アンインストーラは、そうしたさまざまな場合に対応している必要がある。

ちなみに、アンインストーラのアンインストーラはといえば、際限なくアンインストーラが必要になるという事態を避けるために、通常、そのアンインストーラ自体に内包されている。アンインストーラが機能を果たしたあとで、アンインストーラが残らないのはそのためだ。それは、たとえば、ミシェル・フーコーが「書物そのものは、その効果のうちに、その効果によって消滅すべきなのです」と語ったような仕組みが必要とされるということだろうか。だが、アンインストーラのそうした仕組みについて、僕はまだよく知らない。だから、これはほんのためしがきでしかない。

けれど、ひとはアンインストーラを書くことができる。これまでにも、何度だって書いてきたはずだ。アンインストーラのプログラミングのやり方は、きっと、僕たちにプログラムされているはずだ。仮に、それもまたひとつのイデオロギーとしてでしかないとしても。

2017/6/11

2017年6月19日月曜日

●月曜日の一句〔横沢哲彦〕相子智恵



相子智恵






梅雨鯰利口な奴が増えてゐる  横沢哲彦

句集『五郎助』(邑書林 2017.06)

ここで言う「利口」とはどんな意味を持つのだろうか。〈利口な奴〉と「奴」が付くくらいだから、もちろん褒めてはいない。〈増えてゐる〉だから、裏側に「ある時点よりも」「近頃は」という時間が見えてくる。

その世界観は、取り合わせの〈梅雨鯰〉に託されている。梅雨鯰は鯰の傍題で、梅雨の頃に産卵のために水田などに姿を見せることからこう呼ばれる。

鯰の泥臭く、ゆっくりとしたイメージ、髭の生えたとぼけたような顔が思い出されることで、それと対比されるように「利口な奴」が指すイメージは、「都会的でスマートに生きる(計算高い)シュッとした奴」のように私には思われた。

利口な奴が増えたことへの皮肉の句なのだろうが、しかし、ふと鯰のパクパクとしたチャーミングな口を想像しながら「利口な奴が増えてゐる」と読んでみる。

すると皮肉だけではなく、「利口に行き過ぎだよ。少しは泥臭く、ゆっくり、ぼんやり行こうや」と鯰に言われているようにも思えてきて、肩の力も抜けていく。

鯰の取り合わせが、この句がきつくなり過ぎないチャーミングさを加えているのだ。

2017年6月16日金曜日

●金曜日の川柳〔石田柊馬〕樋口由紀子



樋口由紀子






妖精は酢豚に似ている絶対似ている

石田柊馬 (いしだ・とうま) 1941~

えっ、「酢豚に似ている」って。「妖精と酢豚」、どこも似ていないと誰もが思う。それを「絶対似ている」とまるで子どもの言いぐさのように、駄目だしする。妖精のイメージが一気に壊れる。読み手を引き込む確信犯である。

肝心なことに気づいた。妖精を見たことがない。絵かなにかでそれらしきものは見たことはあるが、架空の、想像のものである。だから、それがホンモノかどうかも疑わしい。酢豚には似ているはずがないと思いながらも、なにやら似ているような気もしてくるからくやしい。決まりきっているものへの嫌味である。

「絶対」がクセモノ。「絶対嘘はつかない」「絶対忘れない」は嘘をついてしまうから、忘れてしまうから、「絶対」をつける。そのような「絶対」に限りなく近いように思う。「絶対」はそう簡単に使いこなせる言葉ではない。たぶん、このようなヘンな川柳はいままでなかっただろう。どうでもいいことを真剣に言いたてているふりをして、現実とはどこか違うものを川柳に仕立てあげている。あくの強い語りに上手さがある。『セレクション柳人 石田柊馬』(2005年刊 邑書林)所収。

2017年6月14日水曜日

●水曜日の一句〔北大路翼〕関悦史


関悦史









柿ピーのわづかなる差異明易し  北大路翼


普段気にもとめない柿ピーの形状のわずかな違いに目が止まること、そしてそれをわざわざ客観写生風に五七五にしてみせることが持つ俳諧味が、さしあたりこの句の特徴のように見えるが、それだけではない。すぐに食われてしまうこともなく、その外観に目を止められた柿ピーは、実用性を離れた美術物件のような存在感をあらわにしつつ、その表面に「明易」の微光をまとい始めるのである。

これが早朝から柿ピーで朝食を済ませてしまっている景のはずもなく、朝の支度の気忙しさが微塵も見当たらない、放心を思わせる視線を受ける柿ピーは、前夜からの酒のつまみとしてその辺にあったものとでも見たほうがよい。柿ピーを目で彫り出すようなナンセンスに近い凝視は、暮らしのなかの倦怠の一場面をもその背後に浮き立たせることになるのだ。

すぐにはものを食う気にもならぬ二日酔いじみた消尽ぶりによって、いささか殺伐たる生活空間を思わせる句ではあるが、さしたる値段でもない柿ピーを、朝の微光のなかのオブジェに変容させてしまう「差異」という把握にユーモアがある。

そして、そのユーモアや倦怠が持つ灰汁すらも「明易し」がきれいに拭い去り、生活実感、というよりも、荒みに近い身の重みを殺さぬまま、一句を清浄なものへとまとめ上げるのである。安手な句材が静物画に化けた違和感の味わいは、同時代日本の、ある種の具象画表現に通じるところもある。


句集『時の瘡蓋』(2017.5 ふらんす堂)所収。

2017年6月13日火曜日

〔ためしがき〕 ひとはふつう裸でトランプを切らない 福田若之

〔ためしがき〕
ひとはふつう裸でトランプを切らない

福田若之


死も選べるだがトランプを切る裸   田島健一

ひとはふつう裸でトランプを切らない。それに、「死も選べるだがトランプを切る」なんてどこかのスパイ映画のヒーローみたいなことを、ふつう裸では考えない。だから、これは狂気か異常か極限なのだ。いや、狂気も異常も極限なのだから、極限なのだ。この裸の極限的なありさまは、この句を語るうえで、もっと注目されてよいはずだ。

『ただならぬぽ』(ふらんす堂、2017年)については、すでに二度書いた。けれど、そのたびに、僕はこの句集のもっとも魅力的に感じる要素のことを、書きそこなってきたように思う。なによりも、僕は次の一句に触れずに来たのだから。

鶴が見たいぞ泥になるまで人間は   同

この句集において、僕がもっとも好ましく思うのは、結局、おそらく同時代的には高野ムツオや北大路翼などの句と呼応しあうものであり、系譜的には加藤楸邨に連なるものであるのだろう、この泥臭さなのだ。それは、きっと先に挙げた句における裸の極限的なありさまとも関わっている。

そうだ。人間は、泥になってしまったら、行くところまで行ってしまっている。だから、泥というのは、裸とおなじく、狂気で、異常で、要するに極限的なありさまなのだ。

けれど、いま、僕がこうして『ただならぬぽ』についてやっと僕の核心を書きはじめたのは、決して、この二句の結びつきに起因してのことではない。

きのう、八王子駅で横浜線の出発を座席に腰かけて待ちながら、ふいに思い出してしまったのだ。夏目漱石の肖像が印刷された古い千円札の裏には、二羽の鶴が印刷されていたということを。

狂気だの異常だのと書いておいていきなりだが、引用した鶴の句は、以前から、労働にかかわる句だと考えていた。僕のそうした考えは、おそらく、書き手自身の次の発言に由来している。
僕は、以前自分が仕事に深くとらわれている時期があって、「鶴が見たいぞ泥になるまで人間は」っていう句を作った。
(「座談会II」、『オルガン』2号、53頁)
僕には、仕事をめぐって人間が泥になるということは、労働に、それも過剰な労働にかかわっているように思われてならない。だが、それにしても、「鶴が見たいぞ」がわからない。わからなかったのだ。労働の果てに見出される鶴、それはいったい何だというのか。

金銭、というのは、もちろん安易な答えである。そうなれば、泥というのも、ついには泥棒のことを意味することになってしまうだろう。人間は千円のためについには罪を犯してしまうだろう。けれど、そうではない。金銭には鶴を見出すことはできない。金銭がたんに金銭にすぎないかぎり、そこにひとが見出すことができるのは、ただ数字だけだ。

だが、そこにはたしかに、鶴が印刷されていたのだ。しかも二羽も。

思うに、ひとが紙幣の図柄のモチーフなどを気にしはじめるのは、それがそのひとにとって、もはやたんに紙幣ではなく、一枚の絵になってしまったときではないだろうか。ならば、引用した句は次のように読み替えることが可能になる。すなわち、人間が過剰な労働に極限的なありさまになるまで身を捧げるのは、金銭がもはや金銭でなくなるのを見たいからなのだ、と。これはさらに次のことを示唆している。人間が泥になってしまわないかぎり、金銭が鶴になることはない、ということだ。人間が人間でいるうちは、結局、金銭は金銭であるにとどまるのである。すくなくとも、この読みにおいては。

ところで、鶴を見るとはどういうことだろう。見ることについて、田島健一は『オルガン』7号の座談会で次の発言をしている。
田島 前に若ちゃんが「見るってことは書くことなんだ」と言っていて、それと関わってくるのかなと。書かないとならない感じが俳句にはある。
(「オルガン連句興行&座談会 「沼を背に」の巻」、『オルガン』7号、46頁)
けれど、弱った。僕はそんなことを言った覚えはないのだ。うっかりそんなことを言ったことがあっただろうか。言ったよ! と強く言われれば、そうかもしれないと思うくらいには、自信がない。けれど、すくなくとも、2016年9月10日に開かれたこの座談会のおよそふた月前にこの「ウラハイ」に掲載されたためしがきでは、僕はむしろそれと逆のことを言っていたはずだ。引用しよう。
僕にとって、「写生」は、見ることの一形態であるよりも、むしろ、描くこと、書くことの一形態なのである。
福田若之「視聴することと写生すること」
だから、僕にとって、見ることと書くことは、「写生」を通じてかかわっている。けれど、それはまったく別のふたつのこととして、たがいにかかわっているのだ。けれど、僕のことはまあいい。ここで大事なのは、どうやら田島健一にとっては、そうではないらしいということだ。ならば、鶴と書くことが、すなわち鶴を見ることなのだろうか。

もちろん、書き手がどうやってこの句を書いたのかを僕は知らない。だが、仮に、句を書くときに二音の空白を鶴という言葉で埋めることを想像してみよう。そのとき、鶴はその二音の価値のために支払われているということができる。たとえば一万七千円の支払いのとき、一万円札と五千円札を一枚ずつ出したあと、その埋め合わせのためにもう二千円を差し出すのは、その二枚に、余った二千円分の価値があるからだ。それと同じように、鶴は二音ぶんの代金として支払われるのである。

では、そのようにして支払われた鶴は、金銭的であるにとどまるだろうか。そうではない。埋めあわせとして持ち出された鶴は、鶴であるがゆえに、もはや抽象的な二音の価値以上のものを持っている。鶴と書かれてあれば、もはや、それをたんなる二音の埋め合わせとして見ることはできない。そこで、鶴は、鶴として見られるのだ。だから、そのようにして、書くことは見ることにかかわっている。それを、田島健一ならば、「書くことは見ることである」と書くだろう。

もちろん、これは僕がかつて千円札の裏に二羽の鶴の絵が印刷されていたことをふいに思い出してしまったことを契機とした、まったく恣意的な読みのひとつにすぎない。きっと、もっと自在に、この句を読み替えていくことはできるだろう。けれど、僕はこの思い出しの衝撃をまだ忘れることができないから、たぶん、しばらくはこのまま同じように読みつづけるだろう。
 
それにしても、トランプは紙幣に似ている。ひとは、実にしばしば、 トランプを数と記号に還元してしまう。けれど、そのとき、ひとはジャックがどんな表情をしているかすっかり忘れてしまう。そもそもジャックの表情など誰も見てはいないのだ。人間は、誰も。だから、トランプを切りながら、それをもはやただのトランプではないものにしていくためには、ひとは裸でトランプを切らなければならない。死ぬのではなく、切りつづけなければならない。

2017/6/4

2017年6月12日月曜日

●月曜日の一句〔高畑浩平〕相子智恵



相子智恵






大空へ早苗つぎつぎ投げ込めり  高畑浩平

句集『高畑浩平句集』(ふらんす堂 2017.05)

一読、気持ちのよい句だ。

田植えをする田に、苗の束を投げ込んで配る「苗打ち」の風景である。苗を下方の田んぼへ投げ込むのではなく、上方の〈青空へ〉としているので、できるだけ遠くへ投げようとしている様子が伝わってくる。また、空の青に放物線を描く早苗の緑の二色だけに焦点が絞られて、色彩も鮮やかだ。

勢いのよい〈つぎつぎ投げ込めり〉によって、田植えがはかどっている様子や、青空の下で田植えの人々の心が浮き立つ感じまで想像されてくる。

一つの物や動作に絞って描写することで、読者に周囲を想像させる、俳句という詩型の持ち味を最大限に生かしているような、印象明瞭な一句。

2017年6月10日土曜日

●パスタ

パスタ

遅日このパスタ天使の男性器  佐山哲郎

湯の中にパスタのひらく花曇  森賀まり

蠟製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ  関悦史




2017年6月9日金曜日

●金曜日の川柳〔堀豊次〕樋口由紀子



樋口由紀子






石けん箱と詩人銭湯の隅にいる

堀豊次 (ほり・とよじ) 1913~2007

「石けん箱」と「詩人」に似ているところなどなにもないと思っていた。二物をぶつけての詩的飛躍でもない。掲句を読んで、ああそういうことなのかと気づいた。ちょっとした、一風変わった、が、たしかにと思う共通項を現実の場面で見つけた。「詩人」を「石けん箱」と一緒にユニークに再生した。

湯のいきおいに流されて銭湯の隅に転がる石けん箱。たしかにあるある。誰とでも気安く打ち解けられず、すぐに世間話の輪に入れず、銭湯の隅でだまって湯につかっている詩人。たしかに居そうである。詩人とはどういう人なのかはなかなか言えないが、詩人の実在感と一面をうまく言い当てている。作者自身のことのような気がする。〈少年の捜すものつぎつぎ消えてゆく〉〈肉箸にはさみその時敵はなし〉〈眠っている妻に埴輪の口がある〉<妻と見し映画は五指に みたざるか〉

2017年6月8日木曜日

●ロンドン

ロンドン

ロンドンに着きは着きたれ夜半の夏  久保田万太郎

霧黄なる市に動くや影法師  夏目漱石

「しばれる」と訳す倫敦塔真裏  櫂未知子


2017年6月7日水曜日

●水曜日の一句〔高石直幸〕関悦史


関悦史









無量大数越えて矜羯羅去年今年  高石直幸


「無量大数」まではまだ耳に馴染みがあるが、「矜羯羅(こんがら)」もここでは不動明王の従者の矜羯羅童子ではなく、数の単位を指すらしい。「越えて」の一語があるおかげで、知らなくともこれが数にかかわるらしいと見当はつく。ネットで何ヶ所か検索してみると華厳経が出典で、正確な数値にはさほどの意味もないだろうが、10の112乗になるという。人のとうてい把握しきれない数であり、カントのいう数学的無限による「崇高」に達している。

「去年今年」と抽象的巨大さとの句といえば高浜虚子の《去年今年貫く棒の如きもの》が浮かぶ。この「矜羯羅」の句もそのヴァリエーションと取れるが、虚子の句においては抽象的な巨大さを持つ流れが人に接し、人が触知できる一部分のみに限定されて捉えられ、その前後は茫々たる遠さのなかに霞んでいるのにくらべ、「矜羯羅」の方は相当な遠距離まで認識だけはされている。虚子の句が、果てのしれない長さをもつ大蛇の胴体に不意に触れたかのような感触を帯びているのに対し、こちらは星空を見上げつつ、自分の存在の微小さを開放感とともに味わっているような趣きがあるのだ。

ただしその数量的無限も「矜羯羅」なる宗教味を帯びた語が用いられると、ただの抽象ではなく、あるキャラクター性を帯びてくる。この言葉は元のサンスクリット語では召使、奴僕を意味するらしいので、そこまで読み込んでしまった場合、この句の語り手にも、法理にしたがう順良さがまつわることにもなってくる。

しかしそこまではあえて踏み込まず、国宝級の伽藍の類を一観光客の目で見て悠久の時の流れに思いをはせているといったようなごく卑近な感懐を、年の変わり目と巨大な数の単位から引き出したというくらいの軽い受け止め方にとどめたほうが、「無量大数」も「矜羯羅」もかえって利く気がする。


句集『素数』(2017.5 文學の森)所収。

2017年6月6日火曜日

〔ためしがき〕 偏見 福田若之

〔ためしがき〕
偏見

福田若之


ツイッターをどう思うかについて正直に書くなら、僕は、システムとして、リツイートも「いいね」もフォローもミュートもブロックも好きになれない。そして、なにより、そこに書かれた言葉のいっさいを《つぶやき》に還元してしまう、名称の神話作用(と考えていいと思う)が、好きになれない。だから、僕に、そうしたことから来るツイッターに対しての偏見があるのではないかと訊かれたら、おそらくあるだろう、と答えざるをえない。

たぶん、僕は「おしゃべり」にほとんど肯定的な価値を見出すことができないでいるのだ。ただし、「おしゃべり」という語の選択は的確ではないかもしれない。僕がここでひとまず「おしゃべり」という語に意味させたいと考えているのは、誰かに聞かれることを欲望しておきながら、それにもかかわらず、もし聞き手が誰ひとりとしてその言葉とまともにかかわりあいにならなかったとしても一向に差し支えない、そうした発話のことだ(逆に考えれば、僕は、他のひとに読まれることをもはや欲望しないもの、かつ/または、もし読み手が現れるならばそのときにはまともにかかわりあいになってもらわないと差し支えのあるものを、書きたいのだろう)。ツイッターというのは、僕には、基本的に「おしゃべり」のために用意された場に思えてならないのである。システムやそこでの用語がまさしく「おしゃべり」に最適化されているように見えるのだ。

けれど、認めよう。これは、おそらく、僕のごく個人的な偏見にほかならない。

2017/5/28

2017年6月5日月曜日

●月曜日の一句〔長谷川耿人〕相子智恵



相子智恵






苦潮のゆらりと魚になき瞼  長谷川耿人

句集『鳥の領域』(本阿弥書店 2017.06)

海中の微生物の大繁殖によって海水が異常な変質を起こし、極端に酸素が少ない層が生まれる苦潮。養殖魚の大量死など、漁業にも大きな被害がある。

そんな苦潮がゆらり、じわりと魚に近づいているのだろうか。そういえば魚には瞼がないと気づく。苦しくても閉じられない目で、その潮を魚はどう見ているのだろう。

「苦潮のゆらりと/魚になき瞼」のスラッシュの前後で、視点が転換するのが印象的だ。苦潮がゆらりと近づく危機感と、瞼がない魚の目のクローズアップが、不気味に、悲しくぶつかり合う。

2017年6月3日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年6月2日金曜日

●金曜日の川柳〔森田栄一〕樋口由紀子



樋口由紀子






遥かな空に木があり補聴器を吊るす

森田栄一 (もりた・えいいち) 1925~2006

空を見上げたら、空は高く広く澄みわたり、どこまでも自由で、木ものびのびと茂っている。「吊ってある」のではなく、「吊るす」だから、自分の意思で吊ったのだろう。「遥かな」だから空想かもしれない。補聴器を一刻外してみたくなった。補聴器には感謝している。おかげで日常生活を支障なく過ごすことができる。だから、日頃の感謝を込めて、補聴器も耳も自由にして、風に揺れる。しばし、私も現実から解放する。それほど解放感のある気候だったのだ。

空があり、木があり、そこに補聴器、一枚の絵画を見ているようだ。補聴器は異質だが、それだから個性的である。作者は絵画も玄人はだしだったから、余計にそう思ったのかもしれない。〈パンで消す真っ黒に消す 自画像〉〈ダダ発の宇宙行きの鈍行列車〉〈鳥の骨格多くの言葉知っている〉〈穴が掘れたらマニュアル通り死ねるかな〉

2017年6月1日木曜日

●電波

電波

電波の日田はひろびろと田植すむ  田川飛旅子

ブタクサに宇宙の電波飛来せり  桑原三郎

汗ばむや電波暗夜をとびみだれ  和田悟朗

木犀が強き電波を浴びてゐる  攝津幸彦

ジーンズの乾く音する電波の日  吉永興子〔*1〕

家中にあくびが移る電波の日  上田貴美子〔*2〕

空中に無数の電波飛び交いて脳の快楽限りもあらぬ  藤原龍一郎


〔*1〕吉永興子句集『パンパスグラス』(2015年12月/角川書店)
〔*2〕上田貴美子句集『暦還り』(2016年4月/角川書店)