2022年2月28日月曜日

●月曜日の一句〔佐藤友望〕相子智恵



相子智恵







猫の恋シャワーの水が湯に変わる  佐藤友望

『むじな2021』(通巻第5号)所収「畑」(2021.11 むじな発行所)より

〈シャワーの水が湯に変わる〉とは、些事中の些事である。しかしながら、シャワーが水からお湯に変わるまでの時間ほど、待ち遠しいものもないのかもしれないな、と掲句を読んで思う。為すすべもなく、裸でぼんやり耐えているしかない、わずかな時間。

そんな時、風呂の窓の外から恋猫の激しい鳴き声が聴こえた。猫の声に気を取られているうちに、シャワーの水はお湯に変わる。

あ、もうお湯になった。そういえば、水が湯に変わる時間が短くなってきたかもしれない。もう季節は確実に春なのだ、と思うのである。

俳誌『むじな(https://mujina-tohoku575.amebaownd.com/)』は平成元年以降の生まれの東北ゆかりの俳人によって、年1回発行されている。今号の特集は「【むじな勉強会×哲学カフェ】災害と俳句」であった。これは多くの人に読まれるべき特集である。

2022年2月25日金曜日

●金曜日の川柳〔普川素床〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




俳句自動生成ロボット「忌日くん」(三島ゆかり制作)は衝撃でした。

10句作品「おとといの人体」はこちら↓↓↓

いったいぜんたいなんなんですか。テレビ忌とか。半分忌とか。

「~忌」といえば、広島忌等の例外はあるものの、人に付くものでしたが、「忌日くん」という血も涙もないロボットは、なんにでも「忌」を付けて、俳句にしてしまう。そこが衝撃的であったのです。

ところが、『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)をめくっていると、「忌日くん」よりも以前に、とんでもない忌日が用いられているではありませんか。

怪獣の肉をほおばる鉛筆忌  普川素床(ふかわ・そしょう) 

「鉛筆忌」なるものの正体について、あれこれ考えたい人は、ああでもないこうでもないと考えてみることをおすすめします。きっと愉しいはず。

「怪獣の肉」という箇所も、私には軽い衝撃で、斃れたあと、その肉を食用にするなんて、誰も考えなかったのではないか。食べられるなら、ずいぶんな量です。

ふたつの衝撃的な謎・不思議が合わさって、この食事シーンは、宇宙の果て・時間の果て、どころか、もっと遠い場所、つまり、どこをどう探してもどこにもない部屋で進行しているかのような気になってきて、結果、読者たる私の思いの馳せた距離のせい、そのはるかさのせいでしょう、いま、軽く、めまいがしています。

2022年2月24日木曜日

【新刊】小津夜景・須藤岳史『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』

【新刊】
小津夜景・須藤岳史『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』

≫素粒社ウェブサイト


2022年2月23日水曜日

西鶴ざんまい #22 浅沼璞


西鶴ざんまい #22
 
浅沼璞
 

化物の声聞け梅を誰折ると  裏一句目(打越)
 水紅ゐにぬるむ明き寺   裏二句目(前句)
胞衣桶の首尾は霞に顕れて  裏三句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「三句目のはなれ」の吟味にかかります。ここでの転じは、因果関係をたどると分かりやすいようです。

打越/前句では「明き寺」になった原因が「化物」なわけで、いわゆる異物の付けです。

かたや前句/付句では「明き寺」になった原因が「胞衣桶の首尾」なわけで、恋の付け。

同じ結果(前句)から打越とは別の原因を描くことによって恋へと転じたのが付句という次第です(裏も三句目ですから、恋も出所かと)。

さらにいうと、打越≪原因≫→前句≪結果≫の付けから、前句≪結果≫→付句≪原因≫という逆付(後ろ付)への反転でもあります。
 
 
 
以上を「眼差し」の観点からみるとどうなるでしょう。

結果を描くホラー作家の「眼差し」から、新たな原因を描く風俗作家の「眼差し」へと転じているのがわかるでしょう。

浮世草子作家としてのさまざまな眼差しは、俳諧の「転じ」によって培われていたわけですね(このへんは拙著『西鶴という鬼才』を参照頂ければ幸いです)。
 
 
 
さて、前回の拙稿に対する若殿(若之氏)の返信をこのへんで――

〈付け筋のことですが、「胞衣桶」は水をくむものではないとしても、「水」と「桶」は縁語ですよね。「明」と「顕」も、わりと字義が通じているような気もします。逆付けが本筋というのは確かだと思いますが、案外、言葉でも前句にしっかり付いている印象を受けました〉

なるほど、この若殿の印象から導き出せるのは、逆付の疎句ながら、詞付の親句が基調になっている、という逆説(≒真理)です。
 
むろん詞付に関する記述は自註に一言もありません。いわば全無視。これは以前、#3ウラハイ = 裏「週刊俳句」: ●西鶴ざんまい #3 浅沼璞でもふれたことで、親句から疎句をひねりだす談林西鶴の意地をみるような気がします。
 
 
 
「そやで、親句なくして疎句はなしや」

要するに詞付の隠し味なくして、疎句の美味なし、ということですね。

「そや、なくして→なし、失くして→無し、おもろいやろ」

いや、言いまわしの部分ではなくて、要は古い詞付も秘すれば花というか――

「――せやから、失くして→無し、や」

……わかりました。
 

2022年2月21日月曜日

●月曜日の一句〔仁科淳〕相子智恵



相子智恵







春荒れに煙と父と巻き上がる  仁科 淳

句集『妄想ミルフィーユ』(2021.6 ふらんす堂所収)

「春荒れ」は春の強風・突風を指す。「煙」は砂煙ではなく、火から立ち上る煙であろう。強い風に煙が巻き上がるのは分かるとして、〈父と〉というのが異様だ。父の存在がとても軽くなって、突風に翻弄されるように、煙とともに巻き上がっていってしまう。父に対する鬱屈した思いが〈春荒れ〉の荒々しさと〈巻き上がる〉の軽さに現れている。そうでありながら読後感は鬱屈を通り越し、浄化されたような寂しさがある。

〈看取られず父逝けどなほ千代の春〉や〈春ちかくうらら法衣のはためけり〉という句が近くにあり、もしかしたらこれは火葬の煙なのかもしれない。そのほうが景としてはしっくりくるが、それでも掲句の謎に満ちた複雑な読後感は変わらない。気持ちを直接吐露する句が多い本集において、掲句はそこを一歩抜けた昇華があると思った。

2022年2月18日金曜日

●金曜日の川柳〔西尾栞〕樋口由紀子



樋口由紀子






雨洩りの型ピカソともマチスとも

西尾栞(にしお・しおり)1909~1995

もうあまり見かけないが、家屋の天井や壁に雨漏りのしみがあった。生家でも祖父母の家でもそんな部屋があった。病気で伏せっているときに、そんな天井や壁に挟まれていると、熱にうなされて、必ず恐い夢を見た。天井や壁の染みは鬼や蛇に見えた。

ピカソやマチスの絵とはゆめゆめ思わなかった。いくばくかの揶揄の気持ちも含め、よくわからないという点からの発想だろうが、プラス思考の楽しみ方である。展開の自由さがあり、色彩までありそうだが、ピカソやマチスを持ち出してくるのはあざといともいえる。しかし、わざとさもあざとさも川柳の持ち味である。『水鶏笛(くいなぶえ)』所収。

2022年2月14日月曜日

●月曜日の一句〔遠山陽子〕相子智恵



相子智恵







蝶も蜂も来よわれは腕から枯れはじむ  遠山陽子

『遠山陽子俳句集成』所収 第6句集「輪舞曲(ろんど)」(素粒社)より

「輪舞曲(ろんど)」は新作句集として、『遠山陽子俳句集成』の中に収められている。掲句はそこから引いた。

帯裏に採られた「白蛾も来よわが九十の賑ひに」の方が代表句になるだろうが、掲句の過剰さも私は好きだ。「輪舞曲」には、老いてゆく自分が、虫たちの憩いの場になるようなイメージが折々に現れくる。老いて枯れていく身辺は、飛んでくる虫たちによっていつも華やかで、死と生が交錯するような祝祭的な時間が流れている。

  八十歳ただの黄蝶の来ては去る (平成二十七年)

  蝶も蜂も来よわれは腕から枯れはじむ (平成二十九年)

  白蛾も来よわが九十の賑ひに (平成三十一年/令和元年)

一句目は、八十歳。自分は一本の花や樹木のように立っていて、ただ黄色い蝶が来ては去って、来ては去って……を繰り返している。淋しいようで案外楽しそうなのは、黄色の明るさと、繰り返しを仄めかす下五のためだろう。

二句目は春。自分は、枝のように伸ばした腕の先から枯れていく死に向かう植物であり、しかし〈蝶も蜂も来よ〉と春の虫たちを呼んでは戯れている。枯れ進みながらも華麗で、うっとりとする。

三句目の白蛾も美しい。「輪舞曲」には白髪を詠んだ句が散見されるのだが、「しろが」の読みが「白髪」に通じることから、この句にも、どこか白髪のイメージが漂う。きらきらと光って飛び回る白蛾と白髪。〈九十の賑ひ〉の何と楽しいことか。新美南吉の童話「木の祭り」を思い出したりもする。

遠山の師である三橋敏雄には、言わずと知れた「かもめ来よ天金の書をひらくたび」の名句があって、これは遥かなものへの憧れを内に秘めた動的な〈来よ〉(来よと言いつつ、本当は自分が飛び立ちたい)なのだが、遠山の〈来よ〉は、自分は一本の植物のように動かないことを自明としてその場で枯れていき、虫たちに来訪を呼びかけるイメージなのは面白い。

「天金」に呼応するように「白蛾」は白銀のイメージとでもいえようか。色だけでなく、華やぎに動と静があるとするならば、静の華やぎがある。

2022年2月13日日曜日

【新刊】広渡敬雄『俳句で巡る日本の樹木50選』

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広渡敬雄『俳句で巡る日本の樹木50選』

2022年2月11日金曜日

●金曜日の川柳〔須崎豆秋〕樋口由紀子



樋口由紀子






葬式で会いぼろいことおまへんか

須崎豆秋 (すざき・とうしゅう) 1892~1961

一昔前の葬儀風景を切り取っている。今や過去の景となりつつあるが、当時はふつうの家庭でも数十人の参列者があり、企業などの関係者の葬儀では百人単位の弔問があった。「葬式外交」という言葉まであったのだから、どこでも見られたごくありふれた景である。

しかし、この場面を句材として、川柳のカタチにしようとはなかなか思いつかない。「葬式」と言うと悲しみとか喪失感が先行し、その感情をまず優先させてしまうが、豆秋の目のつけどころは違っていた。ユーモアとアイロニーを加味して、葬儀のリアリティを強烈に確保しつつ、アトクサレなく、あっさりと川柳に仕上げた。関西弁のしゃべり言葉の不思議なちからを生かし、平板な文体に味を出している。『ふるさと』所収。

2022年2月9日水曜日

西鶴ざんまい #21 浅沼璞


西鶴ざんまい #21
 
浅沼璞
 

 水紅ゐにぬるむ明き寺       西鶴(裏二句目)
胞衣(えな)桶の首尾は霞に顕れて  仝(裏三句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「水温む」に「霞」で春の付合です。

「胞衣」は胎児を包んだ膜・胎盤・臍帯などの総称。「胞衣桶」はそれを入れる桶で、恵方を選び、縁の下や墓地等に埋めました。

「首尾」は事のてんまつ。「胞衣桶の首尾」で恋句になります。


句意は「胞衣桶のてんまつが霞の中から露見して」といった感じ。

前句の血の池地獄のイメージから、産血(うぶち)を連想しての付けでしょうか。
 
かなり飛躍があるようですが、そこは自註をみてみましょう。

「……いかに世間寺(せけんでら)なればとて、魚鳥を喰ふのみか、見事な者をしのび抱て、後にはやゝうませける事、旦那聞き付け、傘(からかさ)壱本にして追出されし。是は見ぐるしき取沙汰也」

当時、僧侶の肉食妻帯は、思うほど一般的でなかったようです。
 
意訳すると「……いかに世俗化した寺とはいえ、魚や鳥を食うだけでなく、美しい女房を隠れて抱き、そののち赤子を生ませてしまった。その事を檀家が聞き付け、慣習どおり唐傘一本だけ与え、追放――これは醜聞というほかない」といった感じです。

つまり「明き寺」となった原因を「胞衣桶」に求めたわけで、一種の逆付け(『婆心録』)。前句(原因)/付句(結果)とは逆に前句(結果)/付句(原因)となるので逆付けというわけです。【注】


では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。

霞にて隠す産血のあまたなる 〔第1形態〕
    ↓
胞衣桶の首尾は霞に顕れて  〔最終形態〕

このように最終形態はやはり「産血」の《抜け》と解釈できます。
また「霞」は実景であると同時に、ベールの意味も含んでいるのは言わずもがな。

「〈霞に顕れて〉はわての十八番やで」

たしかに『大句数』(1677年)にも〈竜の息雲に霞に顕れて〉という第三がありましたね。そういえば雲も霞も天象、しかも聳えたなびく天象ですから、ふたつとも聳物(そびきもの)かと。

「そやけど、ベールいうんは何や」

やはり聳物のひとつです……(笑)。

「ふーん、霞めいたこと言いはるな」

● 
 
【注】連歌の四道における逆(向付けの一種)を「逆付け」という場合もあります。
 

2022年2月7日月曜日

●月曜日の一句〔西川火尖〕相子智恵



相子智恵







認証に差し出す瞳冬旱  西川火尖

句集『サーチライト』(2021.12 文學の森)所載

春は立ったが、冬の最後の句として掲句を。

デジタル社会の防犯システムの進化は早く、つい最近だと思っていた暗証番号やパスワードの時代から、すでに生体認証によるセキュリティも生活に馴染みのあるものとなった。
掲句は、人間の瞳の中の「虹彩」で本人確認を行う「虹彩認証」を詠んでいる。他にも「顔認証」や「指紋認証」「静脈認証」「声紋認証」など様々な生体認証技術があり、私自身もスマートフォンのロック解除には指紋認証を使っている。確かに便利ではあるが不思議なものだ。現代美術展「これも自分と認めざるをえない」が行われたのも、もはや10年以上も前のこととなった。

掲句、〈認証に差し出す〉の〈差し出す〉が見事な批評であり、哀しみである。私たちは私たち自身を機械に認証してもらうために、自分の一部である〈瞳〉を生贄のように差し出すのだ。しかし何のために?――私が私であることを、私以上に知らなければならない社会のために。その薄気味悪さは、カラカラに乾いた〈冬旱〉の空気のように、私たちの心と体から水分を奪い去っていく。

2022年2月4日金曜日

●金曜日の川柳〔草地豊子〕樋口由紀子



樋口由紀子






痒いのは真後ろにあるプラスネジ

草地豊子 (くさち・とよこ) 1945~

生きているといろいろなことに出遭う。人間は無理しなくては生きてはいけない。けれども、困難や哀しみをそのままにしておくわけにはいかず、どうにかしなくてはならない。その対処の仕方、立て直しのための「真後ろ」であり、「プラスネジ」だろう。ネジを締めながら、あるいは緩めながら、どうってことない顔をして日々をやり過ごしていく。

しかし、時としてはそのネジが痒くなる。痒いというのは身体が抵抗してのことで、身体感覚をリアルに呼び起こす。ムズムズするのだろう。構えなく、本質をついていて、どこかユーモアラスである。決して「痛い」とは言わない。「からだ」と「こころ」を誠実に見つめている。