小津夜景
アナキスト
クリスマスイヴの前日、マロニエの落ち葉の中を一緒に歩いていたユキさんが、最近どうよと小突いてきたので、えへへと笑ってみた。
「いいなあ。私なんか『もっと稼いでこい』って家族に怒鳴られてるよ」
ユキさんはスペイン人の夫ならびにその両親と、ベルヴィルの低家賃住宅に暮らしている。義理の家族は、嫁とは酷使すべき動産であると信じて疑わない人たちだ。
「ひどいねえ。そういえばこの界隈って、昔、アナキスト機関紙のル・リベルテール社があったとこだよ。ほら、前にあそこの店でエスペラント語の……」
「アナキストか。私もなろうかな。夫も義理の親も捨てて」
それからしばらく大杉栄『日本脱出記』(土曜社)の話をする。この本は一九二二年、ベルリン国際アナキスト大会に招待された大杉が偽名を使って出国、途中フランスに遊び、メーデーの演説をしたところをパリの牢獄にぶち込まれ、ついには国外追放となるまでの顛末を綴った密航記で、当時大ベストセラーとなった。
のん気な牢屋だ。(…)窓のそとは春だ。すぐそばの高い煉瓦塀を越えて、街路樹のマロニエの若葉がにおっている。なすことなしに、ベッドの上に横になって、そのすき通るような新緑をながめている。そして葉巻の灰を落しながら、ふと薄紫のけむりに籠っている室の中に目を移すと、そこにドリイの踊り姿が現れて来る。彼女はよく薄紫の踊り着を着ていた。そしてそれが一番よく彼女に似合った。
獄窓に溢れる春。紫煙に泛べる女。思想的衒いのない、のびやかな文体がとてもいい。また実際この人の核にあるのは思想ではなく、生を謳歌する胆力と情感豊かなまつろわぬ精神なのだった。ヤケーさん詳しいね、彼が好きなんだ? うーん、正直手放しに好きとは言えないかな。なんで? 男性として、いささか問題がありすぎるから。私が本音を言うと、ユキさんは舗道に吹きだまるマロニエの落ち葉を蹴り上げてあははと笑った。
数日後、ふたたびユキさんと会う。イヴはどうだったと尋ねると「義理の親が、アパルトマンを爆破したわ」とユキさん。
「あらら。なんでまた」
「イヴの夜、べろんべろんに酔っ払って、隣の部屋でストーブをつけたまま寝たみたい。そしたら夜中にガス爆発が起こってすごい火事になったの。うち安普請だからさ。それで結局、全世帯が強制退去に」
「それは大変だったね」
「爆発寸前に苦しくなって目がさめたんだけど、いやあ壁ってあんなに膨らむんだね。隣の部屋との壁が、まるで餅みたいだった」
「はあ。で、義理の親御さんは」
「死にました」
カフェを飲んだあと、爆破したアパルトマンにふたりで向かう。近くまで来ると、強制退去の住人か泥棒かわからない謎の男が、建物の中からブツを運び出そうとして、ベランダの手すりにぶら下がっているのがみえた。
荒々しくも瑞々しい光景。いつも思うけど、人間ってほんとタフだよ。そうユキさんは言った。