2020年5月31日日曜日

〔週末俳句〕土産屋のコースター 小津夜景

〔週末俳句〕
土産屋のコースター

小津夜景





近所のお土産屋さんで、地元の120年前の風景写真をコースターにしたものを買った。ジャン・ジレッタ撮影。



海沿いの目抜き通りは120年前から人で賑わっていたようだ。この通りは「英国人たちの散歩道」と呼ばれるのだけれど、やっぱり英国人が多かったのだろうか。海の上の建物のはカジノ。1944年にナチスが攻めてきたときに、鉄骨が気に入られて丸ごと略奪されたそうで、現在は浮橋だけが残っている。

今日の海は、まあまあの人出。でも観光客がいないからちょっと寂しい。

2020年5月29日金曜日

●金曜日の川柳〔今川乱魚〕樋口由紀子



樋口由紀子






換気扇つければ走りそうな家

今川乱魚 (いまがわ・らんぎょ) 1935~2014

台所の窓や壁の一部を壊して設置し、調理中に出る煙などを外に排出するための換気扇があらわれたのはいつ頃だっただろうか。最初は台所には不釣り合いな闖入者であった。この句は60歳以上の人でないと実感できないかもしれない。

「つければ」は換気扇を取り付けるの「付ける」ではなく、作動するの「点ける」だろう。「点ける」とモーターでプロペラがすごいスピードで回り始め、轟音で一瞬何が起ったかわからないくらいで、家全体が飛び出していきそうだった。次々に登場した家電製品にあたふたとしていたことをなつかしく思い出す。便利になったが、戸惑いもあり、いつまでもなじめない、そんな昭和の時代を彷彿させる。掲句はなんといっても「換気扇」の役者ぶりが光っている。

2020年5月25日月曜日

●月曜日の一句〔岡田由季〕相子智恵



相子智恵







星涼し電卓のもう進化せず  岡田由季

俳句誌年刊「豆の木」No.24 アンソロジー「鳥人間」(2020.5 発行人 こしのゆみこ)所載

進化し続けている電化製品もあれば、なるほど、〈もう進化せず〉という電化製品もある。電卓は、言われてみれば確かにモノとしての進化がすでに止まっている。

「計算をする」という機能は人間にとって必要だが、ソフト(無形の技術)があればよいわけで、電卓はソフトウェアになり、様々なハード(道具)の中に取り込まれていった。〈電卓〉という道具としては進化しなくても、スマートフォンやパソコンのアプリ、あるいはGoogleの検索エンジンの中などに形を変えて存在し続けている。

掲句は進化を止めた道具としての〈電卓〉に対して〈星涼し〉の季語が優しい。読みながら「ガラパゴス化」ということにも連想が行き、そこから、ガラパゴス諸島できっと見えるであろう、満点の星空を思ったりもした。

2020年5月22日金曜日

●金曜日の川柳〔いなだ豆乃助〕樋口由紀子



樋口由紀子






にちょうめのぽすとが赤いといい日です

いなだ豆乃助 (いなだ・まめのすけ)

ポストのほとんどは赤だから、いつも「いい日」なんだろうか。「ぽすとが赤」ぐらいで「いい日」だと言ってしまっているが、「いい日」なんて、めったにやってこないから「いい日」なのであって、そもそも「ぽすとが赤」と「いい日」には何の因果関係もない。と、文句はいっぱい言えるけれど、そのおとぼけ感に惹かれた。

「二丁目のポスト」の実在を希薄にする、あるいは心象の「にちょうめのぽすと」なんだろう。そんなポストが実際にあろうとなかろうとどうでもよくなってくる。寓話のようで、虚だけれど、虚なりのリアリティがあり、ほのぼのしたはぐらかしにやられたと思う。「いい日です」と共感させるのではなく、「いい日」という方向性だけを見せるふてぶてしさもある。この世のすべては錯覚だというかのように、言葉が力みなく踊っている。「第八回卑弥呼の里誌上川柳大会入選作品集」(2020年刊)収録。

2020年5月20日水曜日

●宝石

宝石

啓蟄や宝石箱の細き脚  黒岩徳将〔*1〕

宝石の如きおへそや春灯  佐藤春夫

これといふ宝石もなく香水を  矢野玲奈〔*2〕

指先も宝石も冷え摩天楼  仙田洋子


〔*1〕『つくえの部屋』第5号(2020年4月)
〔*2〕矢野玲奈『森を離れて』2015年7月/角川書店

2020年5月18日月曜日

●月曜日の一句〔鈴木花蓑〕相子智恵



相子智恵







紫陽花のあさぎのまゝの月夜かな  鈴木花蓑

伊藤敬子著『鈴木花蓑の百句』(2020.2 ふらんす堂)所載

日が暮れていき、夜になった。紫陽花の浅黄色は暗闇にまぎれてしまうことなく、月の光を浴びて、その色のままに見えている。紫陽花が星雲のようにも思われてきて、一句全体がひとつの宇宙のようにも感じられる美しい句だ。

本書によれば、大正13年9月号の「ホトトギス」に掲載された句だという。〈経時的に考えてみると花蓑は四S(水原秋桜子、高野素十、山口誓子、阿波野青畝)出現の為に母胎の役割をした。(中略)俳壇において花蓑が居なかったならば、「ホトトギス」の純粋なる誌的遺産は、日本の文学史上に残し得なかったのではないか。〉と解説で伊藤氏は書く。資料の少ない鈴木花蓑の句をこうしてアンソロジーで読めて、その句業を知ることができるのは嬉しいことである。

2020年5月17日日曜日

〔週末俳句〕使いきる 西原天気

〔週末俳句〕
使いきる

西原天気



インクひとびん使い切るのはうれしいもので、それは、ひとつには、その色を気に入り長く付き合えたことのうれしさであり、また、ひとびんぶん字を書いたのだなあ(かなりの文字数です)という感慨のようなもの。

万年筆で書いたもののなかには俳句も含まれ、それは他人様の句であったり、自分の作句であったり(かなりの句数です)。

というわけで、私にとって、俳句とは、手もて為すもの、と言えそうです。

2020年5月15日金曜日

●金曜日の川柳〔前田雀郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






退屈な猫に出て行くとこがあり

前田雀郎 (まえだ・じゃくろう) 1897~1960

コロナ自粛で、ゴールデンウイークはどこへも行かなかった。こんなことははじめてである。どこにも行けないので本の整理をしていたら、こんな句を見つけた。掲句は半世紀以上前に作られた川柳である。

作者も猫も退屈していた。しかし、猫には行くところがあるようで、悠々と自分の前を通り過ぎて、外に出て行った。で、自分一人が残された。飼い猫が外へ出てゆくうしろ姿は誰もが目にすることで、たったそれだけの、とりたてていうほどのことではない、いつもの日常の一場面である。それを自分はあたかもどこへも行くところがないかのようにつぶやいている。自嘲気味に、軽く一句にし、何やらの余韻を残す。そのように見てしまう作者が情けなくもあり、おかしくもある。

2020年5月11日月曜日

●月曜日の一句〔田島健一〕相子智恵



相子智恵







ほほざしの肺まざりあうから来るな  田島健一

季刊同人誌「オルガン」21号 俳句作品「来るな」(2020.5.5 発行人 鴇田智哉)所載

〈ほほざし〉は「頬刺」で、季語「目刺」の傍題。藁や竹串をイワシの目に刺して干せば目刺、口から鰓に刺したものが頬刺である。スーパーで見かけるものは頬刺が多い気がする。

頬刺にされ、他者と自分の鰓が密着したイワシたちが、互いに〈肺〉が〈まざりあうから来るな〉と恐怖に駆られて怒鳴りあっている。イワシたちは離れることもできずに、苦しそうに大きく口を開けた状態で干されている。

掲句は、新型コロナウィルスの感染拡大の恐怖から来る、社会のあれこれが想起させられるように書かれた句である。イワシのことを描きながら、今現在の社会をあぶり出した秀句だと思う。

密閉・密集・密接の「三密」、それでも乗らなければ生きていけない理不尽さに、叫び出したい気持ちを抑えながら、みんな無言で乗っている満員電車。いわゆる「自粛警察」に見られるヒステリックな社会。コロナ禍で見えてきたこうした社会の軋みのあれこれが、口と鰓を無理やりこじ開けられ、密着させられ、恐怖に叫ぶイワシたちの姿から感じられてくるのである。

2020年5月9日土曜日

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2020年5月4日月曜日

●月曜日の一句〔宮﨑莉々香〕相子智恵



相子智恵







花の蜜のあんた何時まで吸ふストロー  宮﨑莉々香

「できあいの郊外」(ウラハイ 2020.4.28号【名前はないけど、いる生き物】)所載

〈花の蜜の〉〈ストロー〉で、ストローのような蝶の口が想像されるように書かれている。そこに唐突な〈あんた何時まで吸ふ〉が妙に可笑しい。ここで急に、喫茶店でずっと飲み物のストローを啜っている子どもや若輩の者に向かって、「あんたいつまでストロー吸ってんのよ」とあきれ顔で指摘する人の姿がカットインされてくるのだ。〈花の蜜の〉で切れずにつながりながら、場面がゆがむように変わり、最後の〈ストロー〉で再びごちゃっと蝶と人とが統合されていく感じが、妙な遠近感と手触りで面白い。〈ストロー〉というキーワードが不思議に働いている。

そういえば私にとって、それまで何とも思ったことのなかったストローが喫緊の課題となったのは、子育てをしている過程でのことだった。哺乳瓶の次に使わせるのがストローだったからだ。ストローが使えないことは水分が摂れないことを意味するので、覚えさせるのに必死だった。哺乳瓶という直感的な分かりやすさから、一段違った形と概念への移行。まずは「これを吸えば液体が出てくる」という原理を知らせるところから始めなければならなかった。そういう意味では、ストローはスプーンと共に、一番最初に覚えさせた「文明」だったと思う。

横道にそれてしまい、鑑賞ともいえぬ文章になってしまったが、そんな個人的なことも思い出させる不思議に可笑しい手触りの一句である。

2020年5月1日金曜日

●金曜日の川柳〔真島凉〕樋口由紀子



樋口由紀子






砂時計コドモコドモと落ちてゆく

真島凉 (ましま・すず) 2004~

何を計っているのだろう。大人になるまでの時間だろうか。砂時計はふつうさらさらと落ちていく。それを「コドモコドモ」と聞こえる感性に驚いた。作者は中学三年生。中途半端で微妙な年齢、大人と子どもの境界にいる。大人や社会の都合で大人だといわれたり、子どもだといわれたりする。「コドモ」という言葉になにがしかの思いや多少の反発がある。だから、そう聞こえてしまうのだろう。

「さらさら(SARASARA)」ならA音だが、「コドモコドモ(KODOMOKODOMO)」はO音である。プラス「ド」と濁音が入る。A音に比べてO音には引っかかり感が出る。「コドモコドモ」を音と意味の両面から捉えている。さて、砂時計が全部落ちたら、どんな大人になるのか。今しか聞こえない音だから、よく聞いて、今を大切にしてほしいとおばあさんは思う。「川柳の話」(第1号 2020年刊)収録。