2023年1月30日月曜日

●月曜日の一句〔伊藤幹哲〕相子智恵



相子智恵






大寒の底に落ち合ふ峡の径  伊藤幹哲

句集『深雪晴』(2022.9 文學の森)所収

〈径〉の字が使われているので、幅の狭い小道である。「大寒の」の「の」は軽い切れと読むのが普通だろう。峡谷の底に、あちら側の山からの小道と、こちら側の山からの小道が落ち合っている。峡谷の底には水の流れがあるようにも想像された。小さな橋がかかっているのかもしれない。高い山に囲まれた小さな集落を思う。

さらに掲句は頭から読んだ時に、すっと〈大寒の底〉と読めるようにできている。つまり、今が寒さの底である、という意味も二重写しになってくるのだ。硬質な美しさのある一句である。

  大寒の一戸もかくれなき故郷  飯田龍太

を思い出した。掲句も龍太の句も、共にK音がよく響く作りになっていて、調べの中にも厳しい美しさが感じられてくる。

2023年1月27日金曜日

●金曜日の川柳〔雨森茂樹〕樋口由紀子



樋口由紀子






もう無性にキリン産みたくてたまらん

雨森茂樹(あまもり・しげき)

キリンを産みたくてたまらないというはどういう心のありようなのだろうか。まさか、あんなに首の長い大人のキリンだったらさぞかし難産だろうと余計な心配をする。少なくても赤ちゃんキリンだろうと勝手に安心したりもするが、それでも、わかるとはとうてい言いがたい。

人はそれぞれに、いつでも、ときどき、たまたま、そういうわけのわからないことを突然思ったりもする。そんな心情を一気に「たまらん」と畳みかけている。こんなに現実感もリアル感もないのに、現実感やリアル感で迫ってくる川柳はめずらしい。「おかじょうき」(2023年刊)収録。

2023年1月23日月曜日

●月曜日の一句〔安井浩司〕相子智恵



相子智恵






保食(うけもち)の神の放尿鳩翔つや  安井浩司

句集『天獄書』(2022.11 金魚屋プレス日本版)所収

保食神(うけもちのかみ)は『日本書紀』に出てくる食物をつかさどる神(女神とされる)。口から飯や魚や動物を出して月夜見尊(つくよみのみこと)を供応したため、汚いと怒った尊に殺された。死体の頭からは牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦と大豆と小豆が生まれたという。

掲句、この時陰部から(放尿として)生まれた麦と大豆と小豆に、鳩が一斉に群がり、やがて飛び立ったさまを想像した。鳩は一羽ではないのだろう。美しい白い鳩が浮かんだ。

〈麦秋の厠ひらけばみなおみな〉という安井の有名句をふと思い出したりもした。聖と俗、生と死が異界の鍋で混ざり合ってぐつぐつと煮えている。『天獄書』は安井が生前最後にまとめた遺著であり新句集(第18句集)である。

2023年1月20日金曜日

●金曜日の川柳〔ササキリユウイチ〕樋口由紀子



樋口由紀子






椅子は椅子だったとしてもママが好き

ササキリユウイチ (ささきり・ゆういち) 1998~

「椅子は椅子だった」ことと「ママが好き」に必然性を持てないのにわからないままに誘導される。さらっと普通に言うので、想像力が刺激され、様子が違ってくる。「椅子」と「ママ」がそれとなくだぶる。「好き」とはどういうものなのかとまわりくどく考えてもしまう。生き方を肯定してくれているようにも思う。

既存の枠にとらわれないで川柳を変貌させる句が生まれつつある。言葉の動きが従来の尺度を超えて、世界を作っていく。川柳はまやかしでエンターテインメントであるといまさらながら思う。抒情性の中にポップさがきらめいている。『馬場にオムライス』(2022年刊)所収。

2023年1月18日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇12   浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇12
 
浅沼璞
 

近刊の『江古田文学』111号「特集・小栗判官」において「『をぐり絵巻』大和言葉の変奏――連歌ジャンルとの類似性を視野に」という小論をこころみました。
 
大和言葉とは、主に和歌の言葉(雅語)を用い、その意味を解く謎ことばの一種で、『をぐり』をはじめとする説経浄瑠璃の、その恋文において多く変奏されています。
 
その変奏が軍記物における連歌の変奏と類似性を持っていることを、時衆との絡みであれこれ考えてみました。



じつは大和言葉や連歌の変奏は、近現代的ジャンルにおいても、それぞれ継承されているのですが、論の拡散をおそれて敢えてふれませんでした。

ここで具体例を一つずつあげてみましょう。



まずは連歌の継承。
 
西鶴と芭蕉を隔てなく享受した幸田露伴の『評釈 続猿蓑』(岩波書店、1951年)を繙いてみます。

   日は寒けれど静(しづか)なる岡   芭蕉
  水かるゝ池の中より道ありて      支考

この支考の付句について露伴は、〈飯盛城の連歌の会に、すゝきに交る蘆の一むら、の句あり、三好長慶これに、古沼の浅き方より野となりて、と付けて人々の称賛を博したり。此句長慶が句を云直したるまでなり〉と評釈しています。



前述の拙稿では、飯盛城の連歌の逸話について、『常山紀談』『群書類従』『翁草』などの近世資料にあたりながら、そのルーツを『朝倉始末記』(1577年頃)に探ってみました。
 
その『朝倉始末記』からほぼ四世紀を経ての露伴の指摘はとても貴重なものと思われます。
 
しかし芭蕉研究の第一人者・佐藤勝明氏によると、この露伴の見方は最近の諸注にほとんど踏襲されていないとの由(『続猿蓑 五歌仙評釈』ひつじ書房、2017年)。
 
とても残念です。



では次に大和言葉の継承。
 
劇作家・演出家である白石征氏の『小栗判官と照手姫――愛の奇蹟』(あんず堂、1997年)を取りあげます。
 
本書は1996年9月、藤沢遊行寺(時宗本山)の本堂で遊行舎により上演された同名作品の脚本です。
 
中盤、小栗の恋文を読みあげる三人の女房と、その謎をとく照手の掛け合いは、大和言葉の変奏をみごとに再現しています。

引用しましょう。
〈女房たち〉
弦なき弓に羽ぬけ鳥、この恋、謎と申するは、
〈照手姫〉
思いそめたるその日より
弦なき弓のごとくにて
射るに射られぬわが心
羽ぬけ鳥のごとくなり
拙稿では、羽ぬけ鳥について「飛び立つに飛び立てず」と註しておきました。



なお本書には「恋の謎とき」と題されたJ・A・シーザー作曲の楽譜も掲載されています。

1996年の初演は見逃してしまいましたが、昨年10月、運よく湘南台市民シアターで遊行舎による再演を観ることができました。
 
かの演劇実験室「天井桟敷」を髣髴とする抒情的なシーザーのメロディーにのり、大和言葉の謎はみやびやかに解かれ、胸に迫るものがありました。

がしかし、これまた残念ながら、遊行舎の最終公演との由。パンフレットの表紙にも「さよなら記念公演」と記されていました。

以上ふたつの貴重な継承が、決して忘れ去られぬよう、今は願うばかりです。

2023年1月16日月曜日

●月曜日の一句〔小津夜景〕相子智恵



相子智恵






雪の澱(よど)ほどよく夢を見残して  小津夜景

句集『花と夜盗』(2022.11 書肆侃侃房)所収

様々な詩型と遊ぶ本句集から冬の句を。音の美しいこと、と思う。「雪」と「ゆめ」「見残し」あたりの流れ。「の澱」と「ほどよく」と口ずさむ心地よさ。風景としては、吹き溜まりのやや薄汚れた雪と、夢の途中で目覚めた時のぼんやりとした、けれども「ほどよく」だから、さほど名残惜しくもなさそうな、ゆるやかな気分が重ねられている。

字面も音も美しくて、目と耳と心が喜ぶ。本句集にはそういう句がとても多い。特にリズムがいいのだ。そして章ごとに数々の趣向があって、それはもう楽しい。

 架空の島も昏れてゆくのか

「貝殻集」より。武玉川調(七・七音)、このK音の響き。

 うその数だけうつつはありやあれは花守プルースト

「サンチョ・パンサの枯野道」より。たっぷり唄う都々逸(七・七・七・五音)。

 英娘鏖 はなさいてみのらぬ/むすめ/みなごろし

「水をわたる夜」より。訓読みの長い漢字の組み合わせによる三文字俳句。この章に最も驚いた。異化作用がすごい。

他にも原采蘋(はらさいひん)の漢詩「十三夜」の短歌による翻案、「研ぎし日のまま」の章も美しかった。詩型によって内容の弾み方というか、気風が違うのも面白い。

私は遥か昔、俳句を習い始めると同時に連句の演習を受け、その後も細々と連句を楽しんできたからか、七七を見ると、五七五をつけてみたくなる。

  架空の島も昏れてゆくのか

の句に、本句集の別のページの色々な句をつけて遊んでみた。そしてたいそう美しい五七五七七ができあがっては、ひとりで喜んだ。そういうひとり遊びができるのも面白いし、きっと作者も許してくれると思う。そんなふうに軽やかに楽しみたい、宝石箱のような不思議な句集である。

2023年1月13日金曜日

●金曜日の川柳〔鈴木せつ子〕樋口由紀子



樋口由紀子






いい風が吹いて来たので手を上げる

鈴木せつ子 (すずき・せつこ) 1935~

「いい風が吹いてきた」とは運が向いてきたとか。社会が自分に都合のいい風が吹いてきたとかを思い浮かべてしまうけれど、ここでは余計なことを考えずに、そのままに、気持ちのいい風が吹いてきたと読むべきだろう。風が来て、条件反射のようにすっと手が上がる。素直な川柳である。

風に親しみをこめて、「やあ」とあいさつするように、あるいはタクシーを呼び止めるように手を上げる。風を止めて、風に乗っていきそうな雰囲気がある。生きているといろいろなことに出会う。しかし、ときにはこの風のように心を和ませてくれるものに出会う。だから、なんとか、元気に、生きていける。今年こそはいい年でありますように。

2023年1月9日月曜日

●月曜日の一句〔小田島渚〕相子智恵



相子智恵






やがて鳥の心臓が生む冬銀河  小田島 渚

句集『羽化の街』(2022.10 現代俳句協会)所収

鳥が生むのではなくて、〈心臓が生む〉というのが不思議で、惹かれる句だ。心臓が動き、鳥は力強く空を飛ぶ。空を果てしなく行けば冬銀河という澄んだ冷たい宇宙にたどり着く。心臓は血を送り出す、血なまぐさい肉体でありながら「こころ」というものも同時に想像させる。空を飛ぶ鳥の心臓の中の冬銀河、外側と内側が循環しながら広がってゆく。

今の時季の句では他に、

 微動だにせぬ寒卵割りて呑む

という句もあって、こちらは卵という生命の源でありながら〈微動だにせぬ〉には死の静寂があり、それを飲み込む、生きているわたくし、という構造が意識されてくる。生と死というもの、それが冬銀河のように拡散したかと思えば、卵の殻の中に凝縮されて閉じ込められたりもして、生と死、凝縮と拡散、そんなイメージが立ち上ってくる。

 倒木はゆつくりと朽ち浮寝鳥

こちらも好きな句。倒木が朽ちる長い時間と、浮寝鳥の眠りの時間。静かな二つの時間が流れている。チェックしていく句は、気づけば鳥に関係するものが多かった。これは読者である私の好みでもあるかもしれないが、それ以上に、空という遥かなものと肉体という限りあるもの、その両方を句に取り込もうとする作者の心にチューニングされたからかもしれない。

 型抜きに抜かれ白鳥つぎつぎと

この句などは、『銀河鉄道の夜』の鳥捕りを思い出したりした。

2023年1月4日水曜日

西鶴ざんまい #37 浅沼璞


西鶴ざんまい #37
 
浅沼璞
 
 
 姫に四つ身の似よふ染衣    前句(裏十句目) 
茶を運ぶ人形の車はたらきて   付句
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
【付句】雑。車=歯車。  参考〈本稿・番外篇5〉ウラハイ = 裏「週刊俳句」: ●西鶴ざんまい 番外編#5 浅沼璞 (hw02.blogspot.com)

【句意】茶を運ぶからくり人形の歯車がよく働いて。

【付け・転じ】前句の、正月小袖が似あう娘を、茶運び人形として取り成す。

【自註】是は、前の少女をからくり人形に付けなしける。江戸播磨・大坂の竹田、唐土人(もろこしびと)の智恵をつもりて、ぜんまいの車細工にして、茶台もたせておもふかたへさし向へしに、目口のうごき、足取りのはたらき、手をのべて腰をかゞむ、さながら人間のごとし。是をおもふに、古代の飛騨の工(たくみ)が靏(つる)を作りて、其身(そのみ)乗りて飛ばせしもまこと成べし。爰(ここ)は一句仕(つか)まつつたり、うつたり太鼓。

【意訳】これは前句の娘をからくり人形に取り成したのである。江戸の播磨掾(はりまのじょう)、その弟子・大坂の竹田近江掾は、唐人の知恵から工夫して、ゼンマイ仕掛の歯車細工で、人形に茶托を持たせて、思う方向に向わせると、目や口の動き、足取りもよく、手をのばし、腰をかがめ、さながら人間のようである。思えば、古い伝説の飛騨の匠が鶴を細工して、みずから乗って飛ばしたというのも本当だろう。ここは会心の一句、囃子太鼓でも打ち鳴らしたいほどだ。

【三工程】
姫に四つ身の似よふ染衣(前句)

からくりの人形として手をのべて  〔見込〕
  ↓
茶を運ぶ人形として手をのべて   〔趣向〕
    ↓
茶を運ぶ人形の車はたらきて    〔句作〕

前句を、からくり人形の姿とみて〔見込〕、〈どのようなからくり人形なのか〉と問いかけながら、茶運び人形と思い定め〔趣向〕、「茶運び人形の歯車がよく働く」という題材・表現を選んだ〔句作〕。

【若之氏メール】前句、句意からすると「四つ身の染衣」とつなぐのが自然かと思われますが、そうせずこの句形に落ち着いているのは、やはり四三を嫌ってのことでしょうか。
[注]四三(しさん)=短句下七が四/三で分かれる語調のこと。連歌以来の韻律的タブー。
 

「あいかわらず鋭いツッコミやな。大矢数はスピード勝負やったから、時に四三も口をついたけどな、ここはじっくり四三は避けてんねん」
 
そういえばこの百韻絵巻、ほとんどが三四調で、四三は皆無。数えたら二五や五二すら僅かですね。どーしてですか。
 
「そらな、季吟翁の『埋木』(1673年)にな、〈すべて三四をよきにさだめ、四三をあしきにさだめたり。二五と五二とハ其句によるべきにや〉ってあるねんで。知らんのかい」
 
あー、 でも季吟さんて貞徳門で、蕉翁の先生だった人ですよね?
 
「意外やろ(笑)。談林いうたかて『埋木』や『山之井』は必読書やったんやで」