〔祐天寺写真館 16〕
堀切菖蒲まつり
長谷川裕
さあどう思う、是か非かと、いきなり迫ってきた。無視して通り過ぎる
わけにもいかず、結局、笑ってしまうしかなくなる。暴力的なやつらだ。
2001年6月 葛飾区堀切 Canon IXY DIGITAL 200
●
2009年6月30日火曜日
2009年6月28日日曜日
〔ネット拾読〕大型徳用マッチ、とりわけ象の絵の
〔ネット拾読〕07
大型徳用マッチ、とりわけ象の絵の
さいばら天気
●発声練習 from B.U.819
http://819blog.blog92.fc2.com/blog-category-11.html
おもしろうございます。そこそこ泣きどころもございます。
* * *
さて日曜日の午後はおなじみ〔ネット拾読〕。くつろいでまいりましょう。なにしろ日曜日なんですから。
* * *
●アメ横 2009-6-25 from 無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51184003.html
* * *
●[俳句短歌]丁稚の云ひ分第4回 from 亭主の日乗
http://yaplog.jp/hiroshimaya/archive/1792
筋を通さずに第一句集を出して、結社にいられなくなったという話は聞きます。不寛容な主宰なら、そうなるんでしょう。
主宰(師匠筋)側からいえば、新しい書き手を、俳句世間に向かって紹介する、という感じ。「まあ、こんなんですが、ひとつ、よろしく」。最低限の保証みたいな機能もあるでしょう。
このスタイルの起源がどこにあるのか知りませんが、「そういうことになっているから、そうする」という、習俗・慣習の受容は、作り手側には、あってもいいと思います。読むとき目障りなら、そのページを繰らなければいいわけです。実際、私は「序」は飛ばして読みます。推薦や解説なしの白紙状態で一句目から読みたいから、句を読み、なんなら繰り返し読み、それから「序」を読みます。
ただその限りでなかったのが、鴇田智哉の第一句集『こゑふたつ』(2005年)の今井杏太郎の「序」。
それはそれとして、第一句集というのは、俳人/俳句愛好者にとって一大イベントだろう。だから例えば、ブログで告知する場合も、「大々的に」がよろしいのです。なのに…
●夏蝶 from 高柳克弘のページ
http://sun.ap.teacup.com/katsuhiro/181.html
なんですか、このちっちゃい扱いはw
(含羞か、絶大なる自信か。おそらくその両方)
* * *
●共感するってそんなに大事? 2009-6-24
from 千野帽子「毎日が日直。「働く大人」の文学ガイド」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090622/198219/?P=1
※読むにはログイン(無料入会登録)が必要。
きっと、こんな意見もたくさんあります。曰く、「共感も、俳句にとってひとつの価値。共感を否定することはない」。こうした言説に向かっては、前掲記事を繰り返すしかないわけで、引用の一部を、俳句に置き換えてみます。
「共感とか感情移入ができない俳句はダメな俳句」という考えかたは、俳句との出会いを狭めてしまう。それはとても恐ろしいことで、
「共感できない俳句のことは、まともに取り合ってやらなくていい」
という考えかたとどこが違うのか、私にはわからないのだ。
共感は、愛国心とちょっと似ています。それ自体は悪いこととはいえない。けれども、扱い方が難しくて、たやすく「排外」を呼び寄せてしまう。--共感できない句は視界の外へ、という排外。
ところで、なぜ少なからぬ俳句愛好者がかくも「共感」を求めるのか、わからない。共感とは、自分の中にすでに在るもの(記憶・経験、感情、嗜好…)と近しいものを、読んだものに感じ取ることだろう。ところが、これが私には不思議だ。「すでに在る」なら、読むこともないのでは?と思ってしまう。
これについて、ある人は、「他人と通じ合うもの、共通するものの存在を確かめて安心したいのでしょう」と言っていた。でも、そんなもの、確かめる必要はない。だいじょうぶ、あなたの精神が怪物的に特別である可能性は限りなくゼロに近い。莫大な数の似たような精神があり、われわれはそれをひとつずつ保有している。他人と似ているという事実など、確かめるまでもない。
とゆうようなことで、この件は、また別の機会に違うかたちで書きますね。
* * *
それではまた次の日曜日にお会いしましょう。
●
大型徳用マッチ、とりわけ象の絵の
さいばら天気
●発声練習 from B.U.819
http://819blog.blog92.fc2.com/blog-category-11.html
おもしろうございます。そこそこ泣きどころもございます。
* * *
さて日曜日の午後はおなじみ〔ネット拾読〕。くつろいでまいりましょう。なにしろ日曜日なんですから。
* * *
●アメ横 2009-6-25 from 無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51184003.html
東大というところは外国のようだ。外人(見るからに異国の人)が多くいて、あちこちから外国語(主に英語)が聞こえてくる。あざやかな対照。
そこから歩いて20分ほどの、上野御徒町も外国のようだ。外人(一見日本の人)が多くいて、あちこちから外国語(主に中国語)が聞こえてくる。
* * *
●[俳句短歌]丁稚の云ひ分第4回 from 亭主の日乗
http://yaplog.jp/hiroshimaya/archive/1792
で、最近ちょっと疑問に思っていることがあります。それは、句集(あるいは歌集)の冒頭に、その作者の師匠筋に当たる方の文章が掲載されていることです。で、それはだいたい「第一句集(歌集」である、ということなんですね。「短歌業界」には不案内ですが、句集のこの不文律は知っています。結社所属の場合ですけど、こうなってるようです。つまり、筋を通すってことですよね。ノヴィスたる著者(第一句集を出す人)にとっては、200~300句をモノすることができたのは主宰(師匠筋)のおかげという…。
これはなぜ?
また別の句集か歌集のあとがきに「これは第二句集(歌集)だから冒頭の文章はいらないでしょう、といわれたので」うんぬん、と書いてあったんですね。
うーん。いわゆる業界の不文律、慣習ってことですかね。一体これはいつからでしょうか? 何となく推測できるのですが、俳句業界も短歌業界も、ほぼ同じ、というのが面白いですよね。
筋を通さずに第一句集を出して、結社にいられなくなったという話は聞きます。不寛容な主宰なら、そうなるんでしょう。
主宰(師匠筋)側からいえば、新しい書き手を、俳句世間に向かって紹介する、という感じ。「まあ、こんなんですが、ひとつ、よろしく」。最低限の保証みたいな機能もあるでしょう。
このスタイルの起源がどこにあるのか知りませんが、「そういうことになっているから、そうする」という、習俗・慣習の受容は、作り手側には、あってもいいと思います。読むとき目障りなら、そのページを繰らなければいいわけです。実際、私は「序」は飛ばして読みます。推薦や解説なしの白紙状態で一句目から読みたいから、句を読み、なんなら繰り返し読み、それから「序」を読みます。
ただその限りでなかったのが、鴇田智哉の第一句集『こゑふたつ』(2005年)の今井杏太郎の「序」。
「いろいろと、胡乱のありそうな俳句ですが、この2行だけ。これほど短い「序」は見たことがない。たった2行だから、いやでも目に入り、ぜんぶ読んでしまいます。ずるい。
黙って、静かに、この作者の息遣いを読んであげてください」
それはそれとして、第一句集というのは、俳人/俳句愛好者にとって一大イベントだろう。だから例えば、ブログで告知する場合も、「大々的に」がよろしいのです。なのに…
●夏蝶 from 高柳克弘のページ
http://sun.ap.teacup.com/katsuhiro/181.html
なんですか、このちっちゃい扱いはw
(含羞か、絶大なる自信か。おそらくその両方)
* * *
●共感するってそんなに大事? 2009-6-24
from 千野帽子「毎日が日直。「働く大人」の文学ガイド」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090622/198219/?P=1
※読むにはログイン(無料入会登録)が必要。
(…)共感とか感情移入などといったものは、豊かな読書体験の必須条件ではない。こ の「共感病」は、読書だけでなく映画やドラマの見方にも言えるのですが、もちろん俳句も同様。いやむしろ俳句世間においてとりわけ深く広く蔓延・浸透している病かもしれません。句会でも一句観賞でもなんでもいいのですが、「共感」をキーワードにした句評・感想をこれまでどのくらいたくさん聞 いてきただろう→それはもう、うんざりするくらい。
むしろ、「共感とか感情移入ができない本はダメな本」という考えかたは、本との出会いを狭めてしまう。それはとても恐ろしいことで、
「共感できない人間のことは、まともに取り合ってやらなくていい」
という考えかたとどこが違うのか、私にはわからないのだ。
共感がないと楽しく読めない人って、どんな料理出しても「醤油ない?」って言う人なんですよね。〔引用者責任で改行・スペース適宜除去〕
きっと、こんな意見もたくさんあります。曰く、「共感も、俳句にとってひとつの価値。共感を否定することはない」。こうした言説に向かっては、前掲記事を繰り返すしかないわけで、引用の一部を、俳句に置き換えてみます。
「共感とか感情移入ができない俳句はダメな俳句」という考えかたは、俳句との出会いを狭めてしまう。それはとても恐ろしいことで、
「共感できない俳句のことは、まともに取り合ってやらなくていい」
という考えかたとどこが違うのか、私にはわからないのだ。
共感は、愛国心とちょっと似ています。それ自体は悪いこととはいえない。けれども、扱い方が難しくて、たやすく「排外」を呼び寄せてしまう。--共感できない句は視界の外へ、という排外。
ところで、なぜ少なからぬ俳句愛好者がかくも「共感」を求めるのか、わからない。共感とは、自分の中にすでに在るもの(記憶・経験、感情、嗜好…)と近しいものを、読んだものに感じ取ることだろう。ところが、これが私には不思議だ。「すでに在る」なら、読むこともないのでは?と思ってしまう。
これについて、ある人は、「他人と通じ合うもの、共通するものの存在を確かめて安心したいのでしょう」と言っていた。でも、そんなもの、確かめる必要はない。だいじょうぶ、あなたの精神が怪物的に特別である可能性は限りなくゼロに近い。莫大な数の似たような精神があり、われわれはそれをひとつずつ保有している。他人と似ているという事実など、確かめるまでもない。
とゆうようなことで、この件は、また別の機会に違うかたちで書きますね。
* * *
それではまた次の日曜日にお会いしましょう。
●
2009年6月26日金曜日
●祐天寺写真館15 三本立て
2009年6月25日木曜日
●俳句は遊侠街道だよ、ひばりの渡り鳥だよ 堀本吟
俳句は遊侠街道だよ、ひばりの渡り鳥だよ
堀本 吟
家の仕事が一段落すると、私の場合は買い物序でに散歩に出て雑誌をかって、近くのファミレスのドリンクバーで1時間。
もしくは、最近You-Tubeの演歌のところにはまってしまい、ぼーっときいている。これっていくらでも時間を食ってしまう。
ご贔屓は、美空ひばりの旅笠もの。そう言えば6月24日が二十回忌の命日だった。それもあって、昨日からたっぷりひばり漬けである。
いつだったか。週刊俳句で夏井いつきさんが「俳句は遊興だ」といっておられて、「いつきさん。ちゃうちゃう、遊興とちごて、俳句は遊侠ですよ」と、永年松山を離れているのでこちらのことばがでてきて、そのまえに、まあ歌を聴いてみようと検索したのが「遊侠街道」の病みつきである。いつきさん、演歌のこのノリ、わかるかな?
敷居三寸 男がまたぎゃ、
そこは白刃のくらやみ街道
喰ってやろうか 喰われてやろか
勝負 勝負勝負の 火花のこの世
唄の文句は一番だけは気が利いているが、後は類型的。でも、これが演歌の定型で、単純なパターンをうたいこんでゆく歌手の表現力でしょうぶがきまる。いつのまにかその歌手の世界にひきこまれている。やっぱりこれはひばりでなきゃあ。とおもわせる。(「関東春雨笠」も沢山の歌手が歌ってはいるが、やはりひばりの歌いっぷりがいちばん、胸がすっとする)。
「ひばりの渡り鳥だよ」
これは明るくて、たのしい。
じれったいほどに
あの娘のことが
泣けてきやんす
チョイと 三度笠
けっして美人とはおもわないが(私程度!)、うたっている表情はとてもいい。つぎの歌詞のところが、リズムののりがいいのと、踊りの手つきがとてもきれい。
「雪の佐渡から 青葉の江戸へ」
ここの声が望郷をこめてとても澄んでいるのである。
雪の佐渡から
青葉の江戸へ
恋を振り分け
チョイと 旅合羽
意地とケンカにゃ負けないが
あの娘が俺のなきどころ
ほんに なんとしょう
渡り鳥だよ
物語の定型としては、これで充分である。聴いていると、こころにカラオケのスクリーンもが浮かんできて、頭がほぐれる。
堀本 吟
家の仕事が一段落すると、私の場合は買い物序でに散歩に出て雑誌をかって、近くのファミレスのドリンクバーで1時間。
もしくは、最近You-Tubeの演歌のところにはまってしまい、ぼーっときいている。これっていくらでも時間を食ってしまう。
ご贔屓は、美空ひばりの旅笠もの。そう言えば6月24日が二十回忌の命日だった。それもあって、昨日からたっぷりひばり漬けである。
いつだったか。週刊俳句で夏井いつきさんが「俳句は遊興だ」といっておられて、「いつきさん。ちゃうちゃう、遊興とちごて、俳句は遊侠ですよ」と、永年松山を離れているのでこちらのことばがでてきて、そのまえに、まあ歌を聴いてみようと検索したのが「遊侠街道」の病みつきである。いつきさん、演歌のこのノリ、わかるかな?
敷居三寸 男がまたぎゃ、
そこは白刃のくらやみ街道
喰ってやろうか 喰われてやろか
勝負 勝負勝負の 火花のこの世
唄の文句は一番だけは気が利いているが、後は類型的。でも、これが演歌の定型で、単純なパターンをうたいこんでゆく歌手の表現力でしょうぶがきまる。いつのまにかその歌手の世界にひきこまれている。やっぱりこれはひばりでなきゃあ。とおもわせる。(「関東春雨笠」も沢山の歌手が歌ってはいるが、やはりひばりの歌いっぷりがいちばん、胸がすっとする)。
「ひばりの渡り鳥だよ」
これは明るくて、たのしい。
じれったいほどに
あの娘のことが
泣けてきやんす
チョイと 三度笠
けっして美人とはおもわないが(私程度!)、うたっている表情はとてもいい。つぎの歌詞のところが、リズムののりがいいのと、踊りの手つきがとてもきれい。
「雪の佐渡から 青葉の江戸へ」
ここの声が望郷をこめてとても澄んでいるのである。
雪の佐渡から
青葉の江戸へ
恋を振り分け
チョイと 旅合羽
意地とケンカにゃ負けないが
あの娘が俺のなきどころ
ほんに なんとしょう
渡り鳥だよ
物語の定型としては、これで充分である。聴いていると、こころにカラオケのスクリーンもが浮かんできて、頭がほぐれる。
2009年6月23日火曜日
2009年6月21日日曜日
〔ネット拾読〕田ん圃のむこうにサイゼリアの見える風景
〔ネット拾読〕06
田ん圃のむこうにサイゼリアの見える風景
さいばら天気
先週、ホタルの画像を紹介しましたが、こんなアプローチも。
●http://plaza.rakuten.co.jp/sinmik/diary/200906150000/
from 日々,子持ち。
* * *
先週の話題の続きをもうひとつ。村上春樹に頻出する「やれやれ」に関して、おもしろい記事が見つかった。
●村上春樹的「やれやれ」の源流を探る 2009-6-9 from BUNGAKU@モダン日本
http://blogs.yahoo.co.jp/nonakajun/53833234.html
小説における「やれやれ」使用について直近の起源、というか先代を庄司薫「白鳥の歌なんか聞こえない」に見出しているところがミソといえばミソ。庄司薫→村上春樹という流れは周知で「類似」や「影響」への指摘は数多い(どの程度正当か的確かはさておき)。
余談ですが、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1969年)のあと、ラジオの深夜放送へのハガキの文体(口調)がやたら「赤頭巾」調になったという指摘が『〈盗作〉の文学史~市場・メディア・著作権』(栗原裕一郎・新曜社・2008年)にあり、なるほどと。自分もその年代なので、身に覚えがないわけではない。それに比べると、昨今のインターネットの文体・話法(2チャンネルに顕著)は、クールだなあ、と(註1)。
ま、クールはちょっと買いかぶり過ぎかも。と書いてから思った。
で、オマケ ●iq84の村上春樹
http://moukaru.livedoor.biz/archives/51222214.html
記事はたった3行ですが、随所にコクがあります。
お約束のように「iq(アイキュー)」。登場人物の箇所。…「くらい」ってw
ちなみにこのブログ、スパムブログの一種(誰かがどこかをクリックしてくれたら小銭が手に入るかもしれない、といった手合い)と思しいが、それでも、コクがあるんだから、コクとは、出自やこころざしや意義とは無関係に生じるということですね。
* * *
さて、俳句関連では、俳句甲子園の予選の報がちらほら。
●北海道ブロック大会 2009-6-14 from 無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51179704.html
●うつりき 2009-6-14 from B.U.819
http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-295.html
* * *
一方、大学生関連では、たいへん興味深い勉強会の記事。
●東大俳句会勉強会「文体」 2009-6-14 from wwwqpwww
http://ameblo.jp/wwwqpwww/entry-10280943205.html
http://ameblo.jp/haiku-u-tokyo/entry-10280733801.html
●『こゑふたつ』 2009-6-18 from 東大俳句会ブログ
http://ameblo.jp/haiku-u-tokyo/entry-10282646342.html
上記勉強会の梗概メモながら、鴇田智哉俳句のエッセンスを伝えています。
(註1)
文体(俳句の文体ではありません。為念)については、次の記述も。
●植草甚一本が届いた 2008-7-31 from ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ
http://abecasio.blog108.fc2.com/blog-entry-284.html
(千野帽子氏は、『俳句』2008年4月号の特集「「切れ」についての大問題」に寄せた「復本一郎『俳句と川柳』を再(誤)読する」が記憶に残っています。おもしろい切り口でした)
ブログの書き手・阿部嘉昭氏はさらに…
●
田ん圃のむこうにサイゼリアの見える風景
さいばら天気
先週、ホタルの画像を紹介しましたが、こんなアプローチも。
●http://plaza.rakuten.co.jp/sinmik/diary/200906150000/
from 日々,子持ち。
* * *
先週の話題の続きをもうひとつ。村上春樹に頻出する「やれやれ」に関して、おもしろい記事が見つかった。
●村上春樹的「やれやれ」の源流を探る 2009-6-9 from BUNGAKU@モダン日本
http://blogs.yahoo.co.jp/nonakajun/53833234.html
小説における「やれやれ」使用について直近の起源、というか先代を庄司薫「白鳥の歌なんか聞こえない」に見出しているところがミソといえばミソ。庄司薫→村上春樹という流れは周知で「類似」や「影響」への指摘は数多い(どの程度正当か的確かはさておき)。
余談ですが、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1969年)のあと、ラジオの深夜放送へのハガキの文体(口調)がやたら「赤頭巾」調になったという指摘が『〈盗作〉の文学史~市場・メディア・著作権』(栗原裕一郎・新曜社・2008年)にあり、なるほどと。自分もその年代なので、身に覚えがないわけではない。それに比べると、昨今のインターネットの文体・話法(2チャンネルに顕著)は、クールだなあ、と(註1)。
ま、クールはちょっと買いかぶり過ぎかも。と書いてから思った。
で、オマケ ●iq84の村上春樹
http://moukaru.livedoor.biz/archives/51222214.html
記事はたった3行ですが、随所にコクがあります。
お約束のように「iq(アイキュー)」。登場人物の箇所。…「くらい」ってw
ちなみにこのブログ、スパムブログの一種(誰かがどこかをクリックしてくれたら小銭が手に入るかもしれない、といった手合い)と思しいが、それでも、コクがあるんだから、コクとは、出自やこころざしや意義とは無関係に生じるということですね。
* * *
さて、俳句関連では、俳句甲子園の予選の報がちらほら。
●北海道ブロック大会 2009-6-14 from 無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51179704.html
●うつりき 2009-6-14 from B.U.819
http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-295.html
* * *
一方、大学生関連では、たいへん興味深い勉強会の記事。
●東大俳句会勉強会「文体」 2009-6-14 from wwwqpwww
http://ameblo.jp/wwwqpwww/entry-10280943205.html
蛇笏は(…)切れの文体について。とりあえず、バッキバキに切れてますね、この時期。という感じ。(…)切れ字率に驚き。「や」30%「かな」26%だとか。(…)句またがりが少ない、とか。オリジナリティよりベスト俳句を目指している感、よく分かりました。●第1回勉強会6月 2009-6-15 from 東大俳句会ブログ
智哉は(…)身体・時間・茫漠・緩衝・省略・当然・助詞・写生のキーワードから考察。因果関係(取り合わせだけど繋げちゃう感)や助詞マジックをとても感じる。
http://ameblo.jp/haiku-u-tokyo/entry-10280733801.html
(…)「文体」を中心に据えて、現代の作家の中で特徴的な"茫漠"とした世界を持つ鴇田智哉とそれと対照的に"古典"の中で堅牢な句風の飯田蛇笏をテキストに選びました。さらに、生駒氏による鴇田智哉分析。
●『こゑふたつ』 2009-6-18 from 東大俳句会ブログ
http://ameblo.jp/haiku-u-tokyo/entry-10282646342.html
上記勉強会の梗概メモながら、鴇田智哉俳句のエッセンスを伝えています。
(註1)
文体(俳句の文体ではありません。為念)については、次の記述も。
●植草甚一本が届いた 2008-7-31 from ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ
http://abecasio.blog108.fc2.com/blog-entry-284.html
千野帽子さんの原稿は植草→野崎『ライ麦』の影響下に庄司薫や村上春樹、昭和軽薄体の文体が開花し、それが現在のライターたちの「男子カジュアル文体」に継続する、としている。これは『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん』(晶文社編集部・2008)所収(と思しき)千野帽子の一文に触れた部分。野崎孝訳のサリンジャー『ライ麦でつかまえて』の文体(口調)が1970年代以降の青春文学に大きな影響を与えたことは了解事項と言っていいと思うが、植草甚一も、背景にあるのか、と、私にはちょっと新鮮。
(千野帽子氏は、『俳句』2008年4月号の特集「「切れ」についての大問題」に寄せた「復本一郎『俳句と川柳』を再(誤)読する」が記憶に残っています。おもしろい切り口でした)
ブログの書き手・阿部嘉昭氏はさらに…
喋り口調を文体に移す傾向はワープロ→パソコンと筆記用具が移行し、「喋るように書く」風潮がつよまったのち、さらにブログやSNSがメディアとして生じ、もはや文章書きの完全な趨勢になってしまった。…と捉える。先に書いた「昨今のインターネットの文体・話法(2チャンネルに顕著)は、クールだなあ」とは異なる捉え方にも思える。単純にいえば、昭和軽薄体のインターネット文体への浸透度。これについては、ブログ・日記文体と(2チャンネル等の)片言文体とは、はっきりと別のもののように思う。前者=昭和軽薄体(ウラハイのこの記事もあえて範疇化すればそこに入るのだろう)、後者=言うなれば「平成片言体」。
●
2009年6月20日土曜日
●シネマのへそ11 サッド・ヴァケイション 村田篠
シネマのへそ11
『サッド・ヴァケイション』
(2007年 青山真治監督)
村田 篠
つい先だって、『ハゲタカ』の物語性について書いた。この『サッド・ヴァケイション』にも物語はある。けれどもこの映画のそれは、『ハゲタカ』のように人物の行動を裏付けるための物語ではなく、「ただ、そこにある物語」だ。どうしてその人がそうするのかを説明することなく、その人がそこにいて、なにをするのか、どう思うのか、どう変わっていくのか、を伝える。
青山監督の「ただ、そこにある物語」として圧巻だったのは、やっぱり『EUREKA』(2000年)だったと思う。公開時、ほぼ4時間の長尺におののいて劇場へ行かなかったのだけれど、のちにDVDで観て、圧倒された。バスジャック事件に遭遇してしまった主人公たちとその周囲の人たちに起こるできごと、変わってゆく関係、壊れてゆくなにかを淡々と映し出す画面は、もうそれ自体、なんとも得体の知れない「不安」そのものだったが、主人公たちを追うカメラはゆるやかに、促すことも急かすこともなく、見守る速さであり続けたのが印象的だった。
『サッド・ヴァケイション』はその続編という作りだけれど、「不安」から180度の向こう岸にある、奇妙な「ゆるぎなさ」が描かれている。そして、この「ゆるぎなさ」にもまた、説明がない。主人公の母親(石田えりの怖ろしいばかりの怪演)のもつこの「ゆるぎなさ」がどこから来るのかよく分からないまま、観客はそれを見つめるしかない。
それはもしかしたら、「これが女というものか」というくくり方をされたらかなり抵抗を覚えるたぐいの「ゆるぎなさ」なのだけれど、それなのに、「それ」をただ見つめるしかないという愉楽――といって言い過ぎならば、体験――は、もう、どこまでも〈映画〉なのであって、思わずリビングの床に大の字に寝そべってしまうのであった。
それにしても、浅野忠信。分厚くなった顎の線だけで「中年」を体現したのは、監督の手柄か、本人のもつ存在感か。「ただ、映画の中に居続けて」いる役者にとっては、年をとることも「役者としてのありよう」のひとつだ、ということを、しみじみ感じさせてくれた。
「ただ、映画の中に居続ける」役者というと、西島秀俊もそういうタイプ(『2/デュオ』〈1998年 諏訪敦彦監督〉とか『ニンゲン合格』〈1999年 黒沢清監督〉とか、ほんと忘れられない)だと思うけれど、彼の場合はもう少しファンタスティックな部分を残している分、いろんなことができそうな気もする。
どちらも、これからどんどん年をとりながら、どんどん映画に出続けてほしい。
「さすらう男たち」度 ★★★★
「圧倒する女たち」度 ★★★★★
『サッド・ヴァケイション』
(2007年 青山真治監督)
村田 篠
つい先だって、『ハゲタカ』の物語性について書いた。この『サッド・ヴァケイション』にも物語はある。けれどもこの映画のそれは、『ハゲタカ』のように人物の行動を裏付けるための物語ではなく、「ただ、そこにある物語」だ。どうしてその人がそうするのかを説明することなく、その人がそこにいて、なにをするのか、どう思うのか、どう変わっていくのか、を伝える。
青山監督の「ただ、そこにある物語」として圧巻だったのは、やっぱり『EUREKA』(2000年)だったと思う。公開時、ほぼ4時間の長尺におののいて劇場へ行かなかったのだけれど、のちにDVDで観て、圧倒された。バスジャック事件に遭遇してしまった主人公たちとその周囲の人たちに起こるできごと、変わってゆく関係、壊れてゆくなにかを淡々と映し出す画面は、もうそれ自体、なんとも得体の知れない「不安」そのものだったが、主人公たちを追うカメラはゆるやかに、促すことも急かすこともなく、見守る速さであり続けたのが印象的だった。
『サッド・ヴァケイション』はその続編という作りだけれど、「不安」から180度の向こう岸にある、奇妙な「ゆるぎなさ」が描かれている。そして、この「ゆるぎなさ」にもまた、説明がない。主人公の母親(石田えりの怖ろしいばかりの怪演)のもつこの「ゆるぎなさ」がどこから来るのかよく分からないまま、観客はそれを見つめるしかない。
それはもしかしたら、「これが女というものか」というくくり方をされたらかなり抵抗を覚えるたぐいの「ゆるぎなさ」なのだけれど、それなのに、「それ」をただ見つめるしかないという愉楽――といって言い過ぎならば、体験――は、もう、どこまでも〈映画〉なのであって、思わずリビングの床に大の字に寝そべってしまうのであった。
それにしても、浅野忠信。分厚くなった顎の線だけで「中年」を体現したのは、監督の手柄か、本人のもつ存在感か。「ただ、映画の中に居続けて」いる役者にとっては、年をとることも「役者としてのありよう」のひとつだ、ということを、しみじみ感じさせてくれた。
「ただ、映画の中に居続ける」役者というと、西島秀俊もそういうタイプ(『2/デュオ』〈1998年 諏訪敦彦監督〉とか『ニンゲン合格』〈1999年 黒沢清監督〉とか、ほんと忘れられない)だと思うけれど、彼の場合はもう少しファンタスティックな部分を残している分、いろんなことができそうな気もする。
どちらも、これからどんどん年をとりながら、どんどん映画に出続けてほしい。
「さすらう男たち」度 ★★★★
「圧倒する女たち」度 ★★★★★
●
2009年6月19日金曜日
2009年6月18日木曜日
2009年6月17日水曜日
●山田露結 誰かに似た女
誰かに似た女
山田露結
はっとして目が覚めた。
「シマッタ、今何時だ。」
布団から体をのばして枕元の時計を見る。デジタル時計が7時13分を表示している。
「ここからなら駅まで急げば10分。8時前に電車に乗ればとりあえず会社の始まる時間には間に合うな。」と胸の中で小さくつぶやく。
それにしても、もすごい頭痛。昨夜はどれくらい飲んだのだろう。途中からはあまり覚えていない。
時間を確認して少し安心したものの、もうひとつやっかいな問題があった。隣に女が寝ているのである。知らない女だ。
女の顔をそっと覗き込むと口を半開きにして涎を垂らしていた。
昨夜この女と何の話題で盛り上がったんだっけ。
最初の店を出た後、二人で何軒かハシゴしたこと。そして、そのままこのホテルへ入ったことを二日酔いの頭を抱えながらぼんやりと思い出していた。
女はお世辞にも美人とはいえないが、その顔は誰かに似ている。どこかで見たような顔だが、さて誰に似ているのか、すぐには思い出せなかった。
それよりも何よりも今はとにかく急がなくては。
「おい、起きるぞ。朝だぞ、朝。」
熟睡している女の体を揺すった。
「えー、今何時?」
女が目をこすりながら体を起こすと上半身があらわになった。赤くてずいぶん大振りな乳首を見て、梅干みたいだなと思った。
「もう7時過ぎてるよ。オレ仕事なんだから、早くしろよ。」
シャツのボタンをはめながら女を急かした。
「モウ、サイアクゥ。」
女は不貞腐れた感じで頭をボリボリ掻きながら立ち上がった。
「オマエ、どうするの? 今日、仕事じゃないのか?」
「アタシ、友だちのとこ行く用事あるから。」
「そ、そうか。何でもいいから早くしろっ。急げ。」
女に早く服を着るように言い、支払いを済ませると慌ててホテルを出た。
「ふーっ。」
大きく息を吐き出しながら腕時計に目をやった。
「7時半か。何とか間に合いそうだ。」
自分で自分の息が酒臭いのがわかった。しかも、シャワーも浴びずに出てきたので体中がべたべたして気持ち悪い。
空は雲ひとつなく晴れていた。健康的な初夏の日差しがやけに鬱陶しく感じた。
「オマエ、どうするの?」
「アタシ、友だちの家まで歩いて行けるから。」
「あ、そう。じゃあな。」
そう言ってホテルの前で女と別れた。女は駅とは反対方向へ面倒くさそうに歩き出した。名前も連絡先も聞かなかった。
ケータイでメールを打ちながら歩いて行く女の後ろ姿をしばらく見ていたが、やたらに丈の短いデニムのパンツから伸びている太腿が歩くたびに小刻みに震えるのが可笑しかった。
オレは小走りで駅へと急いだ。途中、まだ開店前の駅前商店街のあちこちに「五木ひろし座長公演」のポスターが貼ってあるのが目に入った。オレはあっ、と思った。
「い、五木ひろしだ。」
その時、ポスターの中で時代劇のカツラをかぶって“決め顔”をしている五木ひろしとあの女の顔とがいきなり重なったのである。
誰かに似ていると思ったが、そうか、五木ひろしか。
女の顔が五木ひろしに似ているとわかった途端、オレは吹き出しそうになった。込み上げてくる笑いを必死に抑えながら駅に向かった。
(つづきません)
●
山田露結
はっとして目が覚めた。
「シマッタ、今何時だ。」
布団から体をのばして枕元の時計を見る。デジタル時計が7時13分を表示している。
「ここからなら駅まで急げば10分。8時前に電車に乗ればとりあえず会社の始まる時間には間に合うな。」と胸の中で小さくつぶやく。
それにしても、もすごい頭痛。昨夜はどれくらい飲んだのだろう。途中からはあまり覚えていない。
時間を確認して少し安心したものの、もうひとつやっかいな問題があった。隣に女が寝ているのである。知らない女だ。
女の顔をそっと覗き込むと口を半開きにして涎を垂らしていた。
昨夜この女と何の話題で盛り上がったんだっけ。
最初の店を出た後、二人で何軒かハシゴしたこと。そして、そのままこのホテルへ入ったことを二日酔いの頭を抱えながらぼんやりと思い出していた。
女はお世辞にも美人とはいえないが、その顔は誰かに似ている。どこかで見たような顔だが、さて誰に似ているのか、すぐには思い出せなかった。
それよりも何よりも今はとにかく急がなくては。
「おい、起きるぞ。朝だぞ、朝。」
熟睡している女の体を揺すった。
「えー、今何時?」
女が目をこすりながら体を起こすと上半身があらわになった。赤くてずいぶん大振りな乳首を見て、梅干みたいだなと思った。
「もう7時過ぎてるよ。オレ仕事なんだから、早くしろよ。」
シャツのボタンをはめながら女を急かした。
「モウ、サイアクゥ。」
女は不貞腐れた感じで頭をボリボリ掻きながら立ち上がった。
「オマエ、どうするの? 今日、仕事じゃないのか?」
「アタシ、友だちのとこ行く用事あるから。」
「そ、そうか。何でもいいから早くしろっ。急げ。」
女に早く服を着るように言い、支払いを済ませると慌ててホテルを出た。
「ふーっ。」
大きく息を吐き出しながら腕時計に目をやった。
「7時半か。何とか間に合いそうだ。」
自分で自分の息が酒臭いのがわかった。しかも、シャワーも浴びずに出てきたので体中がべたべたして気持ち悪い。
空は雲ひとつなく晴れていた。健康的な初夏の日差しがやけに鬱陶しく感じた。
「オマエ、どうするの?」
「アタシ、友だちの家まで歩いて行けるから。」
「あ、そう。じゃあな。」
そう言ってホテルの前で女と別れた。女は駅とは反対方向へ面倒くさそうに歩き出した。名前も連絡先も聞かなかった。
ケータイでメールを打ちながら歩いて行く女の後ろ姿をしばらく見ていたが、やたらに丈の短いデニムのパンツから伸びている太腿が歩くたびに小刻みに震えるのが可笑しかった。
オレは小走りで駅へと急いだ。途中、まだ開店前の駅前商店街のあちこちに「五木ひろし座長公演」のポスターが貼ってあるのが目に入った。オレはあっ、と思った。
「い、五木ひろしだ。」
その時、ポスターの中で時代劇のカツラをかぶって“決め顔”をしている五木ひろしとあの女の顔とがいきなり重なったのである。
誰かに似ていると思ったが、そうか、五木ひろしか。
女の顔が五木ひろしに似ているとわかった途端、オレは吹き出しそうになった。込み上げてくる笑いを必死に抑えながら駅に向かった。
(つづきません)
●
2009年6月16日火曜日
2009年6月14日日曜日
〔ネット拾読〕思うところあって昼ごはんは西瓜
〔ネット拾読〕05
思うところあって昼ごはんは西瓜
さいばら天気
まずは映像美の世界を。
●ほたる 2009-6-6 from けふえふえふとふてふ
http://yaplog.jp/ef_ef/archive/174
嗚呼、この写真、いいですねえ。儚うございます。
* * *
ところで、RSSリーダーには、目当てとは違うものも引っ掛かってきます。釣り針には魚よりも長靴ばかりという感じですが、時折、おもしろい長靴も。例えば、こんなの。
http://writer.jobportal.jp/jobinfo/show/id/17
在宅句評? ……募集記事に曰く…
http://hw02.blogspot.com/2009/06/blog-post_11.html
* * *
●小川軽舟『現代俳句の海図』 2009-6-9 from ono-deluxe
http://www.kanshin.com/diary/1847370
季語と句の関係、季語と作者の関係に、更新・刷新がはたらいてこそ、という部分もあります(小野さんはそれも込みで季語/歳時記を捉えていらっしゃるのでしょうが)。ここのところは、先週までの話題、≪ポストモダンと俳句≫とも関わってきます。
* * *
●SUNAOSUNAO 2009-6-12 from wwwqpwww
http://ameblo.jp/wwwqpwww/entry-10277937037.html
この記事で紹介されているマンガがとてもおもしろい。
Webで読める「スナオとコーラ」
* * *
●やれやれ 2009-6-11 from 僕が線を引いて読んだ所
http://d.hatena.ne.jp/mf-fagott/20090611
村上春樹に頻出する「やれやれ」に関する随想。
http://rose-music-etc.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/06/1q84_dfb2.html
もう一箇所。
「グーグル先生」などと呼ぶ趣味はありませんが、便利なものを便利に使う。それだけの話です。
* * *
そういえばひと頃(現在も、か?)俳句世間では、インターネットを(いわゆるリテラシーを含め)ふつうに使えるところまで行っていないような人が、インターネットについてなんやかんやと語っているのを目にしました。そういう記事は、世間で流通している古ぼけた「インターネット像」と自分の狭隘な使用範囲で「思ったこと」が材料なので、悲惨に陳腐。
書くのはかまわないのですが、自分の知らないことを書くときにはそれなりの書き方があります。運転もおぼつかないのに、ドライヴフィールがどうの、クルマの伝統と歴史がどうのと言い出すようなもので、「そんなことはいいから、ちゃんと前見て運転しなさい」という話。
あ、私? 私はもちろん、おぼつかないので、どうやれば便利にうまく使えるか、それだけを考えております。ほら、この「ウラハイ」や「週刊俳句」関連とかで、ね。
●
思うところあって昼ごはんは西瓜
さいばら天気
まずは映像美の世界を。
●ほたる 2009-6-6 from けふえふえふとふてふ
http://yaplog.jp/ef_ef/archive/174
嗚呼、この写真、いいですねえ。儚うございます。
* * *
ところで、RSSリーダーには、目当てとは違うものも引っ掛かってきます。釣り針には魚よりも長靴ばかりという感じですが、時折、おもしろい長靴も。例えば、こんなの。
http://writer.jobportal.jp/jobinfo/show/id/17
在宅句評? ……募集記事に曰く…
弊社発行誌に投稿された俳句や短歌に評論文を書く文芸ライターを大量募集します!ウラハイの6月11日の記事「「あなたの俳句を本にしたい」? ふむふむ」(↓)と併せて読むとコクが出ます。
批評や酷評はNGです。作者の意向をくみとりつつ、良い点をみつけて評論してください。
その他、俳句に含まれる季語や、漢字の間違い、現旧仮名遣いの混在などを指摘できる方は優先します。
http://hw02.blogspot.com/2009/06/blog-post_11.html
* * *
●小川軽舟『現代俳句の海図』 2009-6-9 from ono-deluxe
http://www.kanshin.com/diary/1847370
要するに、俳句は「歳時記という健全なフィクションに接する楽しみ」の文芸として、今後も進化するだろう。書き手の小野さんは、季語/歳時記の信奉者(という言い方はヘンですか?)の立場が一貫。季語/歳時記が偉大なリファレンス(参照)であることは認めますし、そこに寄り添う、そのこと自体が「健全」な俳句愛好の態度であろうとも思います。しかし、小野さんが他で用いる「詩嚢」という語には若干の引っ掛かりを感じます。フィクションですから、現実世界がどうであろうと、嚢(ふくろ)の中は豊かなまま保たれる。俳句作者は、そこに手を入れるだけでよい、という一種の楽観とも受け取れ、楽観主義を否定するのではないのですが、季語が万能調味料のようになってしまっては、作る側はともかく、読者には少々退屈なことになってくる気もします。
季語と句の関係、季語と作者の関係に、更新・刷新がはたらいてこそ、という部分もあります(小野さんはそれも込みで季語/歳時記を捉えていらっしゃるのでしょうが)。ここのところは、先週までの話題、≪ポストモダンと俳句≫とも関わってきます。
* * *
●SUNAOSUNAO 2009-6-12 from wwwqpwww
http://ameblo.jp/wwwqpwww/entry-10277937037.html
この記事で紹介されているマンガがとてもおもしろい。
Webで読める「スナオとコーラ」
* * *
●やれやれ 2009-6-11 from 僕が線を引いて読んだ所
http://d.hatena.ne.jp/mf-fagott/20090611
村上春樹に頻出する「やれやれ」に関する随想。
ところで、話題の『1Q84』にはこの「やれやれ」は出てくるのだろうか。もし頻出するようなら(多分そんなことはないだろうと思うけれど)、きっともの足りない小説だと感じるだろう。「やれやれ」は世渡り上手な賢い大人の台詞だが、それは思考停止の宣言でもあるからだ。で、「1Q84」で「やれやれ」は激減したそうです。↓↓↓
http://rose-music-etc.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/06/1q84_dfb2.html
もう一箇所。
インターネットというのは、自分が考えようとすることは既に別の誰かが考えているのだということをあっという間に知らせてくれる。とってもベンリでありがたいツールだ。まったくおっしゃるとおりです。とりあえず「ググれ」と。
「グーグル先生」などと呼ぶ趣味はありませんが、便利なものを便利に使う。それだけの話です。
* * *
そういえばひと頃(現在も、か?)俳句世間では、インターネットを(いわゆるリテラシーを含め)ふつうに使えるところまで行っていないような人が、インターネットについてなんやかんやと語っているのを目にしました。そういう記事は、世間で流通している古ぼけた「インターネット像」と自分の狭隘な使用範囲で「思ったこと」が材料なので、悲惨に陳腐。
書くのはかまわないのですが、自分の知らないことを書くときにはそれなりの書き方があります。運転もおぼつかないのに、ドライヴフィールがどうの、クルマの伝統と歴史がどうのと言い出すようなもので、「そんなことはいいから、ちゃんと前見て運転しなさい」という話。
あ、私? 私はもちろん、おぼつかないので、どうやれば便利にうまく使えるか、それだけを考えております。ほら、この「ウラハイ」や「週刊俳句」関連とかで、ね。
●
2009年6月12日金曜日
●シネマのへそ10 ハゲタカ 村田篠
シネマのへそ10
『ハゲタカ』
(2009年 大友啓史監督)
村田 篠
テレビサイズでドラマを観ているときは特に思わなかったのだけれど、映画になってみると、これが「NHKドラマ」であることがしみじみと身にしみる。聞けば、NHKのドラマが映画化されるのは、はじめてなのだそうだ。
なにしろ、人間の描き方がドラマティックなのである。そういえば、映画の中に「日本人は情緒的な民族だ」という中国人のセリフが出てくる。日本人を十把一絡げで評する気は私にはないけれど、少なくとも、このドラマの作りは多分に「情緒的」である。
もしかしたら、「お金」についての物語だからよけいにそうなるのかもしれない。「金儲け」というものに対する心理的反作用がどこかで働いて、それに関わる人々の造型に「この人がこうなったのには、深いワケがあるのだ」という理由を(過去を)つくってしまう。それは非常に昔ながらの「ドラマ作り」の骨法かもしれないけれど、映画サイズになると、どうしてだか過剰なものに映ってしまう。スクリーンの不思議である。
逆に、説明シーンが足りなくて、状況がよく分からないくだりもあった。テレビの連ドラとして観ているとなんとなく分かるのだけれど、2時間尺の映画では、それではキビシイ。
それにしても、せっかくリーマン・ブラザーズの崩壊や派遣雇用問題を意識して盛り込んでいながら、随所でプロットの甘さが感じられたのは残念だ。例えば【以下ネタバレ:白字・マウスでドラッグ】、これだけ互いに情報戦にしのぎを削っているにもかかわらず、主人公・鷲津側が、土壇場で敵役・劉側に打って出る動きを、劉一派はどうして読めないのか、そんなにお間抜けでいいのか、【以上ネタバレ】と感じたのは、私だけだろうか。こういう、日常からかけ離れた話はただでさえ嘘っぽいのだから、きちんと構成されていないとほんとうに嘘っぽくなる。ただもし、これほど「情緒的」でなければ、もしかしたら「経済ファンタジー・ドラマ」として面白くなったのかもしれないけれど。
とはいえ、主人公がタメをつくって決めゼリフを言うようなドラマ、決して嫌いではない。
柴田恭兵「これから、君はどうするんだ」
大森南朋「……見にいくさ、資本主義の焼け野原を」
なんていうラスト近くのやりとりは、私にはひたすら面白かった。
それから、玉山鉄二演じる中国人・劉一華の「出自が貧しく、野心家で、美しい」という造型は、昭和24年組(大島弓子、萩尾望都、山岸凉子)登場以前の少女マンガにおける「ヒール」の典型であって、いやもう、個人的に大いに楽しんでしまったのでありました。
ドラマティック度 ★★★★★
敵役イケメン度 ★★★★★
『ハゲタカ』
(2009年 大友啓史監督)
村田 篠
テレビサイズでドラマを観ているときは特に思わなかったのだけれど、映画になってみると、これが「NHKドラマ」であることがしみじみと身にしみる。聞けば、NHKのドラマが映画化されるのは、はじめてなのだそうだ。
なにしろ、人間の描き方がドラマティックなのである。そういえば、映画の中に「日本人は情緒的な民族だ」という中国人のセリフが出てくる。日本人を十把一絡げで評する気は私にはないけれど、少なくとも、このドラマの作りは多分に「情緒的」である。
もしかしたら、「お金」についての物語だからよけいにそうなるのかもしれない。「金儲け」というものに対する心理的反作用がどこかで働いて、それに関わる人々の造型に「この人がこうなったのには、深いワケがあるのだ」という理由を(過去を)つくってしまう。それは非常に昔ながらの「ドラマ作り」の骨法かもしれないけれど、映画サイズになると、どうしてだか過剰なものに映ってしまう。スクリーンの不思議である。
逆に、説明シーンが足りなくて、状況がよく分からないくだりもあった。テレビの連ドラとして観ているとなんとなく分かるのだけれど、2時間尺の映画では、それではキビシイ。
それにしても、せっかくリーマン・ブラザーズの崩壊や派遣雇用問題を意識して盛り込んでいながら、随所でプロットの甘さが感じられたのは残念だ。例えば【以下ネタバレ:白字・マウスでドラッグ】、これだけ互いに情報戦にしのぎを削っているにもかかわらず、主人公・鷲津側が、土壇場で敵役・劉側に打って出る動きを、劉一派はどうして読めないのか、そんなにお間抜けでいいのか、【以上ネタバレ】と感じたのは、私だけだろうか。こういう、日常からかけ離れた話はただでさえ嘘っぽいのだから、きちんと構成されていないとほんとうに嘘っぽくなる。ただもし、これほど「情緒的」でなければ、もしかしたら「経済ファンタジー・ドラマ」として面白くなったのかもしれないけれど。
とはいえ、主人公がタメをつくって決めゼリフを言うようなドラマ、決して嫌いではない。
柴田恭兵「これから、君はどうするんだ」
大森南朋「……見にいくさ、資本主義の焼け野原を」
なんていうラスト近くのやりとりは、私にはひたすら面白かった。
それから、玉山鉄二演じる中国人・劉一華の「出自が貧しく、野心家で、美しい」という造型は、昭和24年組(大島弓子、萩尾望都、山岸凉子)登場以前の少女マンガにおける「ヒール」の典型であって、いやもう、個人的に大いに楽しんでしまったのでありました。
ドラマティック度 ★★★★★
敵役イケメン度 ★★★★★
2009年6月11日木曜日
●「あなたの俳句を本にしたい」? ふむふむ
「あなたの俳句を本にしたい」? ふむふむ
金額、以前より上がってる気がします。
1年前には石川県でニュースに。
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20080626103.htm
で、あの、業者は1社とは限りませんので。
●
金額、以前より上がってる気がします。
「あなたの俳句本にしたい」 不審電話にご用心 現金8万円を要求とりあえず「句集 詐欺まがい」でgoogle
(2009年6月10日 読売新聞)
県内の民間俳句団体「青森県俳句懇話会」が発行する句集の投句者に、「あなたの句を本にしたい」などと持ち掛け、掲載料を要求する不審な電話が今年3月以降、相次いでいる。2~3年前にも同様の電話が確認されており、少なくとも計30人近くに電話があった。掲載料を振り込む被害はないが、懇話会で注意を呼び掛けている。
句集は「新青森県句集」で、年に1回発行している。今年4月発行の第20集には590人が投句し、毎号、名前や住所、電話番号が掲載されている。投句者に配布されるほか、県内の図書館や都内の国立国会図書館などにも寄贈している。
懇話会によると、電話の多くは、都内の出版社を名乗り、「国会図書館で句集を見た。あなたの句はすばらしい」と褒め、「本を作って載せたい」と、掲載料名目で現金8万円を要求する。金額が24万円の場合もあった。懇話会の事務局が確認できた分だけでも、計30人近くに電話があった。なかには、都内の大手新聞への掲載を持ちかけるケースもあったといい、下北地方の女性(68)方にかかった電話は、「はがき半分のスペースに5句載せたい。広告料が必要」との内容だった。
事務局長の木村秋湖さん(76)も先月から3回の電話を受けたといい、「句集の電話番号に片っ端からかけているのではないか」と推測。親睦(しんぼく)を深める目的で掲載している電話番号が悪用されている可能性に困惑している。今後も、各地の俳句大会などで注意を促す。
県消費生活センターの横内艶子・消費者相談リーダーは、俳句愛好者に高齢者が多いことを踏まえて、「高齢者は在宅率が高い上、勧誘されやすい傾向がある。特に注意が必要」と話している。
1年前には石川県でニュースに。
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20080626103.htm
で、あの、業者は1社とは限りませんので。
●
2009年6月10日水曜日
〔俳誌拝読〕『なんぢや』第5号
〔俳誌拝読〕
『なんぢや』第5号(2009年5月27日)32頁
榎本享(みち)氏(発行人)をはじめとする8氏による同人誌。表紙の英語表記「nandja」に「d」が入るのはアンドレ・ブルトン「ナジャ Nadja」を気取った趣向。
巻頭から石田郷子、西野文代と、招待作家おふたりの5句作品と短文(西野文代は「文」所属だった榎本享氏の師)。
綾なせる水の面やさくらんぼ 石田郷子
蛙の子蛙泳ぎを致さねば 西野文代
続いて同人8氏の10句と短文。
みぎひだりなきが軍手や磯あそび 榎本享
豆の花頬ふつくらと眠りゐる えのもとゆみ
松露かな砂をわづかに持ち上げて 中村瑞枝
いつもより大きな茶碗豆ごはん 井関雅吉
苗札の飛んできてをり椿坂 林和輝
初夏の忌と貼られある兎小屋 高畑桂
天下の嶮蹴つて鞦韆かへりくる 土岐光一
石鹸玉はなから縫ひ目なかりけり 鈴木不意
遊び心と節度の伝わる句が多々。
造りの面では、吟行録など数ページのカラー印刷が目を引くが、地味というか基本的なところにも神経の行き届いたレイアウト。短文の文字組みの2段・3段等の使い分けるなど変化を持たせ、読みやすい。
(さいばら天気)
●
2009年6月9日火曜日
2009年6月7日日曜日
〔ネット拾読〕乗用車1台を食べ尽くす豚の話
〔ネット拾読〕04
乗用車1台を食べ尽くす豚の話
さいばら天気
前回、5月31日の〔ネット拾読〕03「鳴らなくなったアンプを叩いて鳴らす」で、春日武彦『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』(集英社新書・2005年)を注文したと書いた、その数日後に入手。この本が、まあ、おもしろいおもしろい。
関悦史さんの紹介記事(豈weekly第40号)では俳句との絡みが中心となっているが、俳句が出てくるのは全体のほんの一部。副題にもあるとおり、ミニチュア・境界線・贋物・蒐集の4つの話題から「リアル」(あくまで著者にとってのリアル)を叙述。それぞれが「ことば」と密接に結びついているところがミソ。そのあたりはかいつまんで説明できかねるので、この本に当たってください。
で、隠れキーワードを挙げるなら「キッチュ」。著者はヘヴィで目利きのキッチュ嗜好者と思しく、キッチュへの関心のある人なら、まちがいなく楽しく読めます。
* * *
●ウェブの収益化は不可能なのか? 相次ぐサービス停止と日本のウェブについて(追記あり) 2009-6-2 from metamix
http://www.metamix.com/4037.php
インターネットの各種無料サービスがつぎつぎと停止されつつあるという、ニュースのまとめ。
週刊俳句もこのウラハイも blogger という無料ブログサービスを利用しているのはご承知のとおり。創刊前、どこのブログサービスにするか決めるときの基準のひとつ(優先順位上位)が「サービス停止にならないこと」。bloggerはグーグルの運営、グーグルなら当分は潰れないだろうし、ぱたっとサービス停止ということもないだろうし、どこか別の会社に買われてシステムが大幅変更となる(掲示板その他サービスのOTDがライブドアに買われた例)こともないだろう、との読みからですが…。
さて、どうなんでしょう?
無料サービスが停止になったらなったで、なんとかなるんでしょうけど。
* * *
ところで結社サイトはどのくらいあるのか。想像もつきませんが(多いという意味ではなくて)、最近は、よく整備されたサイトも目につきます。結社サイトは基本的に、結社メンバーをまず読者に想定し(掲示板などは内輪の連絡・コミュニケーション)、それから広告(結社への興味の入り口)機能を持たせたものですが、入会する気のない部外者にも、使い道はあります。例えば、主宰の句が毎月掲載されるサイトはひじょうに有り難い(マンスリーで覗いているサイトが私にもあります)。
で、この6月1日にリニューアルしたのが…
●銀化俳句会 http://ginkahaiku.web.fc2.com/
豊富な情報量です。
* * *
●『林田紀音夫全句集』読書会 2009-6-4 from 海馬 みなとの詩歌ブログ
http://umiuma.blog.shinobi.jp/Entry/565/
週刊俳句で「林田紀音夫拾読」を連載中の野口裕さんも参加の読書会(5月31日・大阪)の模様を伝え、含蓄。
* * *
さて。
●テクスト論やらポストモダンやら 2009-6-3 from Tedious Lecture
http://haiku-souken.txt-nifty.com/01/2009/06/post-e8b2.html
~やら~やら、ってw
分けて分けてー。
テクスト論とポストモダンはとりあえず違うもんだし、別の場所で展開してるし、別のほうがいいし。
なお、テクスト論に関するくだりは、俳句の具体的な業績を挙げて、きちんと膨らませていただいていますが(秋尾敏氏の『子規の近代』はおっしゃるとおり良いお仕事です。加えて『虚子と「ホトトギス」』も)、要旨は、私が週刊俳句第110号「『俳句』2009年6月号を読む」の脚注で書いたこととほぼ同じ(自分がトンデモないことを書いたわけではないことが確認できて安心しました)。
* * *
ポストがどーした、モダンがどーしたの話題については、週刊俳句第111号(はじめてのフィーバー。もっぱら確変)に上田信治氏の記事がアップされ、併せて「里」掲載の参照記事を転載。
●上田信治「ポストモダンについて 今言えそうなこと」 2009-6-7 from『週刊俳句』第111号
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/06/blog-post_2593.html
俳句に関連させたポストモダンの話題がこれからまだ発展していくかどうかはわかりませんが、なんだかぐじゃぐじゃの不毛に陥らないためにいちばん必要なのは、スキームです。
この記事は、『知った気でいるあなたのためのポストモダン再入門』(高田明典)を典拠に、話題・問題を整理して、クリアカット。とりわけ、ポストモダニティ(ポストモダン状況)、ポストモダニズム(ポストモダン思想)、ポストモダン(思潮における時代区分。「モダンの後に位置する(今は分からない)何か」、ポストモダンX(ポストモダン建築、ポストモダン文学、ポスト構造主義等の、ポストモダンの要素を持つ文化的現象)の4概念を峻別したところ、有意義です。
ちなみに、文化流行としてのポストモダンは、4つめの「ポストモダンX」に引きずられる傾向があります(どうしても目の前に供される料理のことに話題が行きがち)。
上田氏の記事は断章スタイルをとりながら、典拠のサマリー、自身の見解披瀝ともに網羅的・構造的だから、全文をていねいに読むのがよいのですが、ひとつ、俳句に絡めて興味深い指摘を抜き出すなら…
2点目は、季語も含め、根源的な指摘だと思う。
3点目は、榮猿丸さんのスタンスのことが頭に浮かんだ。
* * *
このところの俳句とポストモダンについて言及したブログ記事がいくつか見つかります。例えば神野紗希氏の2記事。
●浅利×白ワイン 2009-5-31 from 鯨と海星
http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/421
●ポストモダン追記 2009-6-2 from 鯨と海星
http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/422
素材と文体を峻別する必要性を指摘して有益。
このところ漠然と話題にのぼる「新しい俳句」についても同様。
余談めくが、なりゆきとして榮猿丸氏の句が素材方面の例示として俎上にのぼること、たびたび。このへん御本人には不本意かもw
「猿丸さんの句のいいとこは、実は素材じゃないんだよ」という記事は、以前「ウラハイ」に書いた。↓
●宅配ピザのある暮らし http://hw02.blogspot.com/2009/01/blog-post_24.html
●
乗用車1台を食べ尽くす豚の話
さいばら天気
前回、5月31日の〔ネット拾読〕03「鳴らなくなったアンプを叩いて鳴らす」で、春日武彦『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』(集英社新書・2005年)を注文したと書いた、その数日後に入手。この本が、まあ、おもしろいおもしろい。
関悦史さんの紹介記事(豈weekly第40号)では俳句との絡みが中心となっているが、俳句が出てくるのは全体のほんの一部。副題にもあるとおり、ミニチュア・境界線・贋物・蒐集の4つの話題から「リアル」(あくまで著者にとってのリアル)を叙述。それぞれが「ことば」と密接に結びついているところがミソ。そのあたりはかいつまんで説明できかねるので、この本に当たってください。
で、隠れキーワードを挙げるなら「キッチュ」。著者はヘヴィで目利きのキッチュ嗜好者と思しく、キッチュへの関心のある人なら、まちがいなく楽しく読めます。
* * *
●ウェブの収益化は不可能なのか? 相次ぐサービス停止と日本のウェブについて(追記あり) 2009-6-2 from metamix
http://www.metamix.com/4037.php
インターネットの各種無料サービスがつぎつぎと停止されつつあるという、ニュースのまとめ。
週刊俳句もこのウラハイも blogger という無料ブログサービスを利用しているのはご承知のとおり。創刊前、どこのブログサービスにするか決めるときの基準のひとつ(優先順位上位)が「サービス停止にならないこと」。bloggerはグーグルの運営、グーグルなら当分は潰れないだろうし、ぱたっとサービス停止ということもないだろうし、どこか別の会社に買われてシステムが大幅変更となる(掲示板その他サービスのOTDがライブドアに買われた例)こともないだろう、との読みからですが…。
さて、どうなんでしょう?
無料サービスが停止になったらなったで、なんとかなるんでしょうけど。
* * *
ところで結社サイトはどのくらいあるのか。想像もつきませんが(多いという意味ではなくて)、最近は、よく整備されたサイトも目につきます。結社サイトは基本的に、結社メンバーをまず読者に想定し(掲示板などは内輪の連絡・コミュニケーション)、それから広告(結社への興味の入り口)機能を持たせたものですが、入会する気のない部外者にも、使い道はあります。例えば、主宰の句が毎月掲載されるサイトはひじょうに有り難い(マンスリーで覗いているサイトが私にもあります)。
で、この6月1日にリニューアルしたのが…
●銀化俳句会 http://ginkahaiku.web.fc2.com/
豊富な情報量です。
* * *
●『林田紀音夫全句集』読書会 2009-6-4 from 海馬 みなとの詩歌ブログ
http://umiuma.blog.shinobi.jp/Entry/565/
週刊俳句で「林田紀音夫拾読」を連載中の野口裕さんも参加の読書会(5月31日・大阪)の模様を伝え、含蓄。
野口さんも単純に句の評価ではないものを紀音夫の後期の作品に見ようとしておられるようで、なぜ紀音夫に興味をもつのか、という質問に、「姿勢」と答えておられたのにはなるほどと唸らされました。この「姿勢」は(もっとよい言葉があるのかも、と思いますが)、「境涯」と「作品(テクスト)」に分裂しがちな詩歌評・論において、その両側へと落ち込んでしまわないために保っておいたほうがよい視点である気がします。
* * *
さて。
●テクスト論やらポストモダンやら 2009-6-3 from Tedious Lecture
http://haiku-souken.txt-nifty.com/01/2009/06/post-e8b2.html
~やら~やら、ってw
分けて分けてー。
テクスト論とポストモダンはとりあえず違うもんだし、別の場所で展開してるし、別のほうがいいし。
なお、テクスト論に関するくだりは、俳句の具体的な業績を挙げて、きちんと膨らませていただいていますが(秋尾敏氏の『子規の近代』はおっしゃるとおり良いお仕事です。加えて『虚子と「ホトトギス」』も)、要旨は、私が週刊俳句第110号「『俳句』2009年6月号を読む」の脚注で書いたこととほぼ同じ(自分がトンデモないことを書いたわけではないことが確認できて安心しました)。
* * *
ポストがどーした、モダンがどーしたの話題については、週刊俳句第111号(はじめてのフィーバー。もっぱら確変)に上田信治氏の記事がアップされ、併せて「里」掲載の参照記事を転載。
●上田信治「ポストモダンについて 今言えそうなこと」 2009-6-7 from『週刊俳句』第111号
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/06/blog-post_2593.html
俳句に関連させたポストモダンの話題がこれからまだ発展していくかどうかはわかりませんが、なんだかぐじゃぐじゃの不毛に陥らないためにいちばん必要なのは、スキームです。
この記事は、『知った気でいるあなたのためのポストモダン再入門』(高田明典)を典拠に、話題・問題を整理して、クリアカット。とりわけ、ポストモダニティ(ポストモダン状況)、ポストモダニズム(ポストモダン思想)、ポストモダン(思潮における時代区分。「モダンの後に位置する(今は分からない)何か」、ポストモダンX(ポストモダン建築、ポストモダン文学、ポスト構造主義等の、ポストモダンの要素を持つ文化的現象)の4概念を峻別したところ、有意義です。
ちなみに、文化流行としてのポストモダンは、4つめの「ポストモダンX」に引きずられる傾向があります(どうしても目の前に供される料理のことに話題が行きがち)。
上田氏の記事は断章スタイルをとりながら、典拠のサマリー、自身の見解披瀝ともに網羅的・構造的だから、全文をていねいに読むのがよいのですが、ひとつ、俳句に絡めて興味深い指摘を抜き出すなら…
・「無意識のポストモダニズム」は、多くのすぐれた俳人に共有される素質であるように思う。…という部分。続いて、その背景・理由として、3点が挙げられる。
・それは俳人が、他ジャンルの文学者に比べて、近代的進歩の幻想から自由だからかもしれないし。1点目は、俳人である前に20世紀を暮らした人間であることからすれば(それは雑駁な反証にすぎないことはわかったうえで)、それほど説得力をもつように、私には思えない。
・定型それ自体が、定型に対する「問い」を生むものだからかもしれない。
・俳近現代人にとっては、俳句が、そもそも古典的詩形というものを選択するところから、「あえて」「わざわざ」やるものだからかもしれない。
2点目は、季語も含め、根源的な指摘だと思う。
3点目は、榮猿丸さんのスタンスのことが頭に浮かんだ。
猿丸●そう。発見といえば、文語や歴史的仮名遣いも同じじゃないかな。最初から歴史的・伝統的文脈を踏まえているわけではなく、まさに「萌え」的な感じで(笑。ともかくも、稔りの多い記事ですが、一点、若干の曖昧さが残るのは次の箇所。
「サバービアの風景・前篇」in『週刊俳句』第60号
・「現代」が、単なる「今という時代」の別名であれば、それを「ポストモダン」と呼ぶことは、言葉の定義上できない。「今という時代」の次に来るのは、常に、次の「今という時代」だから。「現代」のあとに来るものは「現代」。「モダン」のあとに来るものは「モダン」。(同 p.66)だから、モダンとは単に「今という時代」のことではない、ということなら、明快。論の流れからすれば、そうだとは思うが。
* * *
このところの俳句とポストモダンについて言及したブログ記事がいくつか見つかります。例えば神野紗希氏の2記事。
●浅利×白ワイン 2009-5-31 from 鯨と海星
http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/421
でも、俳句において、もしポストモダンがやってくるとしたら、それは「季語」の問題と絶対に関わってくるんじゃないかな。季語を「大きな物語」とまで言ってしまっていいのかはちょっと疑問だけど、俳句にあきらかなポストモダンが訪れないのは、逆にいえば、信じるべき季語体系が、手放されずに手元にあるからなんじゃないかなあ。季語を「大きな物語」とまで言ってしまって「いい」と私は考えています。いずれにせよ、季語・季題の問題は射程に入ってこざるを得ない。俳句史上の前衛俳句/無季俳句という「モダン」を含めて。
●ポストモダン追記 2009-6-2 from 鯨と海星
http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/422
素材と文体を峻別する必要性を指摘して有益。
このところ漠然と話題にのぼる「新しい俳句」についても同様。
余談めくが、なりゆきとして榮猿丸氏の句が素材方面の例示として俎上にのぼること、たびたび。このへん御本人には不本意かもw
「猿丸さんの句のいいとこは、実は素材じゃないんだよ」という記事は、以前「ウラハイ」に書いた。↓
●宅配ピザのある暮らし http://hw02.blogspot.com/2009/01/blog-post_24.html
●
2009年6月5日金曜日
〔ぶんツボ〕平山夢明『独白するユニバーサル横メルカトル』
〔ぶんツボ〕
平山夢明『独白するユニバーサル横メルカトル』
光文社文庫
【讃・文庫本】
ポケットに(というと青春っぽすぎますね)、カバンにすっぽり入る手軽さは出先で読むのに最適。寝床でも腕が痛くならない軽さ。1頁700字ほどですから、すいすいページが進む快感もあります。値段は、昔と比べると高くなりましたが、単行本の半分程度でしょう。と言いつつも、自分自身、文庫で読む比率は高くない。読む本全体の1割くらいでしょうか。読みたいものがすべて文庫化されるわけでもないし、単行本で目に付いたときに買ってしまうことも多い。それでも文庫本は魅力です。
さて、この〔ぶんツボ〕シリーズですが、俳句の文庫刊行は少なく(絶版の朝日文庫・現代俳句の世界シリーズを思い出します)、したがって俳句以外の分野になると思います。「ウラハイ」では、中嶋憲武さんが団鬼六『真剣師 小池重明』(幻冬舎アウトロー文庫)という名作を紹介してくれていました。これを後追いで〔ぶんツボ〕シリーズの第1回とし、今回第2回は「「独白するユニバーサル横メルカトル」です。
●
表題作は2006年に第59回日本推理作家協会賞を受賞。2007年「このミステリーがすごい!」第1位を獲得した短編集。といっても分野としてはミステリーよりもホラー。著者もwikipediaには「ホラー作家」とある。
9つの短編の題材をかいつまんでいくと、ホームレス惨殺、人肉食、DV、洗脳など、いわゆる明るい話題は皆無。明るくないどころか、とことんどす黒い。血やら肉やら内臓やらで全編が埋め尽くされ、物語の湿度・温度が内臓的。
DVやホームレスなどの語を挙げたが、社会問題的な扱いは皆無。ただただ、怖く、残虐に、クールに、気持ち悪く、描かれる。そこに生半可さがないので、虚構としての純度が高い。結果として読者は「なんというおもしろさ!」という読む快感に包まれ、それぞれの短編が神々しく輝くようでさえある。
と、こう大袈裟に褒めちぎると、ホラー小説ファンのように思われるかもしれないが、ぜんぜんそんなことはなく、平山夢明もこの本が最初。人肉食や猟奇残酷趣味への興味もない。それどころか、他人が注射されているのを直視できないくらいに「痛いこと」が苦手。そんな私が物語に没入してしまうくらい、この短編集、この作家は巧みかつユニーク。
単行本の帯の惹句に「脳内麻薬様物質」の語があったことを解説で知ったが、「読むドラッグ」に位置づけていい本なのだろう。痛いこと、残酷なこと、死にまつわること、鬼畜なこと、それらへの拒否感が強い人間のほうがむしろ、ふだん耐性や免疫がないぶんこのドラッグはよく効くのかもしれない。
〔amazon〕『独白するユニバーサル横メルカトル』
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平山夢明『独白するユニバーサル横メルカトル』
光文社文庫
文庫のツボ、略して「ぶんツボ」
さいばら天気【讃・文庫本】
ポケットに(というと青春っぽすぎますね)、カバンにすっぽり入る手軽さは出先で読むのに最適。寝床でも腕が痛くならない軽さ。1頁700字ほどですから、すいすいページが進む快感もあります。値段は、昔と比べると高くなりましたが、単行本の半分程度でしょう。と言いつつも、自分自身、文庫で読む比率は高くない。読む本全体の1割くらいでしょうか。読みたいものがすべて文庫化されるわけでもないし、単行本で目に付いたときに買ってしまうことも多い。それでも文庫本は魅力です。
さて、この〔ぶんツボ〕シリーズですが、俳句の文庫刊行は少なく(絶版の朝日文庫・現代俳句の世界シリーズを思い出します)、したがって俳句以外の分野になると思います。「ウラハイ」では、中嶋憲武さんが団鬼六『真剣師 小池重明』(幻冬舎アウトロー文庫)という名作を紹介してくれていました。これを後追いで〔ぶんツボ〕シリーズの第1回とし、今回第2回は「「独白するユニバーサル横メルカトル」です。
●
表題作は2006年に第59回日本推理作家協会賞を受賞。2007年「このミステリーがすごい!」第1位を獲得した短編集。といっても分野としてはミステリーよりもホラー。著者もwikipediaには「ホラー作家」とある。
9つの短編の題材をかいつまんでいくと、ホームレス惨殺、人肉食、DV、洗脳など、いわゆる明るい話題は皆無。明るくないどころか、とことんどす黒い。血やら肉やら内臓やらで全編が埋め尽くされ、物語の湿度・温度が内臓的。
DVやホームレスなどの語を挙げたが、社会問題的な扱いは皆無。ただただ、怖く、残虐に、クールに、気持ち悪く、描かれる。そこに生半可さがないので、虚構としての純度が高い。結果として読者は「なんというおもしろさ!」という読む快感に包まれ、それぞれの短編が神々しく輝くようでさえある。
と、こう大袈裟に褒めちぎると、ホラー小説ファンのように思われるかもしれないが、ぜんぜんそんなことはなく、平山夢明もこの本が最初。人肉食や猟奇残酷趣味への興味もない。それどころか、他人が注射されているのを直視できないくらいに「痛いこと」が苦手。そんな私が物語に没入してしまうくらい、この短編集、この作家は巧みかつユニーク。
単行本の帯の惹句に「脳内麻薬様物質」の語があったことを解説で知ったが、「読むドラッグ」に位置づけていい本なのだろう。痛いこと、残酷なこと、死にまつわること、鬼畜なこと、それらへの拒否感が強い人間のほうがむしろ、ふだん耐性や免疫がないぶんこのドラッグはよく効くのかもしれない。
〔amazon〕『独白するユニバーサル横メルカトル』
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2009年6月3日水曜日
●祐天寺写真館14 どらごんぼうる
2009年6月2日火曜日
〔かしつぼ〕Hymn For Nobody 山田露結
かしつぼ
Hymn For Nobody(1995)
山田露結
曲:佐山雅弘
愛してることさえ
忘れてしまうほど
日常の中で いつも
君が 好きさ
限りある 生命が
やがて 幕をとじても
永遠の 夢のように
君に 夢中さ
「Hymn」は賛美歌のこと。
ジャズ・ピアニスト佐山雅弘のアルバムに忌野清志郎がゲスト・ボーカリストとして参加して録音されたもので、一般にはあまり知られていない曲かもしれない。
知られていないのをいいことに、私はこの曲をオリジナル曲であるかのような顔をして自分の結婚式の披露宴でギター弾き語りで歌ったという恥ずかしい思い出を持っている。
それにしてもこの歌詞、である。
キヨシロー・ファンにとっては彼がいなくなってしまった今、この曲を聴くのはツラすぎるかも。
Hymn For Nobody(1995)
山田露結
かしつぼ=歌詞のツボ
詞:忌野清志郎曲:佐山雅弘
愛してることさえ
忘れてしまうほど
日常の中で いつも
君が 好きさ
限りある 生命が
やがて 幕をとじても
永遠の 夢のように
君に 夢中さ
「Hymn」は賛美歌のこと。
ジャズ・ピアニスト佐山雅弘のアルバムに忌野清志郎がゲスト・ボーカリストとして参加して録音されたもので、一般にはあまり知られていない曲かもしれない。
知られていないのをいいことに、私はこの曲をオリジナル曲であるかのような顔をして自分の結婚式の披露宴でギター弾き語りで歌ったという恥ずかしい思い出を持っている。
それにしてもこの歌詞、である。
キヨシロー・ファンにとっては彼がいなくなってしまった今、この曲を聴くのはツラすぎるかも。
2009年6月1日月曜日
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