〔ためしがき〕
批評の不要性
福田若之
2017年7月24日付の『朝日新聞』の11面に掲載された大辻隆弘の短歌時評、「歌会こわい」を読んだ。短歌欄と俳句欄のちょうどあいだに載るので、おのずと目にとまるのである。
「歌会こわい」がとりあつかっているツイッター上での出来事についてはよく知らないし、いまとなってはその全容を把握することも困難だろう。それに、「「歌会こわい」という声の背景には、短歌をコミュニケーションの手段だと考える人々の増大がある。そこではもはや他者の批評は不要だ。自己満足さえあればいい」という一節などは、そもそも筋が通っていないように思うし(短歌がほんとうに「コミュニケーションの手段」として求められているなら「自己満足さえあればいい」はずがない。したがって、すくなくともどちらかの記述は正確ではないはずだ)、実情を知るという意味ではこの記事はあまり役に立ちそうもない。だから、僕は、その出来事については、とくに訳知り顔で何か語ってみせるつもりもない。
だが、短歌欄と俳句欄のあいだに「批評は怖い。が、作品をそこにさらすことでしか文学は成立しない」と書かれているのを見ると、この末尾の一節についてだけは、どうにもよそごとでは済まないように思われてくる。「短歌は」ではなく、「文学は」と書かれているのだ。「歌会こわい」における「批評」や「文学」という言葉は、たとえば、「批評」とは歌会における意見交換のみを意味し、「文学」とは短歌における文学のみを意味するというように、もしかするとひどく限定された意味で用いられているのかもしれないが、そうした断りがない以上、僕には、この一節はもっと広い範囲を射程に入れた警句であるように思われてならない。なるほど短歌は書かないが、俳句を書き、句評や句集評にも手をつけている僕にとって、どうにも気にかかるのはこの一節なのである。
作品を批評にさらすことでしか文学は成立しないというのは本当だろうか。僕にとって興味深いのは、そうした言葉が新聞の短歌時評に書きこまれているということだ。そのことは、たとえば、蓮實重彥『『ボヴァリー夫人』論』(筑摩書房、2014年)のこんな一節を思いおこさせる。
あらゆるテクストはテクストを誘発するといういまではごく当然と思われがちな現象は、『ボヴァリー夫人』の書かれた十九世紀中葉のフランスでは、折から隆盛しつつあるジャーナリズムの要請により、新聞の文芸欄に掲載される時評として、文化的な商品の売れ行きを左右するという経済的な利害を惹起しつつ、理論とはいっさい無縁に一般化されたものにすぎない。それは、歴史的には未知の、当時としてはまったく目新しい文化現象だったといってよい。その「新しさ」は、多くの人が、「テクストをめぐるテクスト」を読んでから、そこで対象とされていた当の書物におもむろに目を向ける――あるいは向けずにおく――という文学的な「倒錯」を、ごく自然な事態でもあるかのように社会に定着させたことにある。それが「倒錯」たらざるをえないのは、読まずにおくために読む、あるいは読んだから読まずにおくという無意識の集団的な振る舞いが、あたかもその作品を自分が知っているかのごとき錯覚をあおりたて、その奇態な性癖が知らぬ間にあたりに蔓延し、それがごく自然なこととして社会に受け入れられてしまったからである。
もちろん、これがさしあたりあくまでもフランスに特有の事情として語られている点には注意が必要だが、作品を批評にさらすことでしか文学は成立しないという認識は、そもそも、一語で〈新聞‐の‐文芸‐欄的〉とでもいうべき錯覚にすぎないのではないか、ということは考えてみてもよいように思う。批評というのは、本来は作品にとって必要ないはずの代物ではなかったか。文学の成立のために作品が批評に自らをさらさなければならないというのは本当か、本当だとしたらそれはなぜか。ひとたびこう問いかけてみれば、書かれたテクストについて何らかの批評がなされるということを理論的に正当化することは――その批評が口頭のものであれ書かれたものであれ――不可能であるように思われる。もちろん、このためしがきもまた、そうしたことの例外ではない。
たしかに、歴史的な状況は、文芸時評の存在を前提とした読者の文学的な「倒錯」からの自由を文学にたやすく許してくれるわけではない。『『ボヴァリー夫人』論』にはこう書かれている。
それに深く影響されるか否かにはかかわりなく、名高い批評家が新聞や雑誌向けに執筆する文芸時評の存在を前提とするしかなかったのが、「近代」における読者の身にまとう歴史性にほかならない。あるいは、「テクストをめぐるテクスト」が誘発しがちな文学的な「倒錯」と同時に生まれるしかなかった不幸な存在が、読者なのだといいかえてもよい。文学は、いまなおこの「倒錯」から充分に自由たりえてはいない。
文学が「テクストをめぐるテクスト」ぬきには成立しえないという神話の歴史的な発生とその共有をぬきにしては「近代」の読者は存在しえなかったし、文学はこの神話のもとに成立する「倒錯」からいまだ充分に自由たりえてはいない。したがって、「歌会こわい」に示されている、作品を批評にさらすことなしに文学は成立しないという主張もまた、まさしく今日的な状況を物語る言葉として読むかぎりにおいては、おそらくある程度まで正しいのだろう(けれど、それはまったくもって「不幸」なことではないのか)。しかし、そもそも、作品は、その書き手や読み手がどう思っているかにかかわりなく、「テクストをめぐるテクスト」など決して必要としてはいない。他人の作品を批評するという行為には、いかなる理論的な正当性も与えられてはいないのだ。
批評は、歴史的な状況をとりあえずの背景として、いわばなしくずし的に成立してしまっているにすぎない。批評は、それゆえ、いつでもそれがめぐろうとする作品から突き放されてあるほかはない。したがって、批評の担い手が作品を怖がるというのならともかく、作品の担い手が批評を怖がらなければならない筋合いなどどこにもない。批評に作品をさらすことでしか文学が成立しえないという認識は、おそらく「近代」に生じた集団的な錯覚にすぎない(たとえば、今年の5月6日に開催されたイベント「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」では、川柳というジャンルのありようが「近代」の文学にまつわる諸前提とはおよそ異なる前提をもつものであるということがくりかえし指摘されていたように記憶しているが、その場で開かれた川柳の句会には、選はあっても批評はなかった)。
だから、僕としては、半ば備忘録的に、次のことをここに書いておきたいと思う――作品は怖い。が、さらなる言葉をそこにさらすことでしか批評は成立しない。ただし、批評の成立は、決して作品の期待するところではないのである。
2017/7/24