2023年2月24日金曜日

●金曜日の川柳〔井上一筒〕樋口由紀子



樋口由紀子






転びバテレンが消火栓から覗く

井上一筒 (いのうえ・いいとん) 1939~

「転びバテレン」とは江戸初期にキリスト教徒が拷問や迫害にあって、棄教改宗したキリシタンである。そんな彼らが覗いている。それも消火栓からである。「消火栓」は火事になったとき素早く対応できるように建物の隅に設置されている。「転びバテレン」という、意味性をたっぷり吸った言葉に「覗く」という仕草を重ねる。過剰な情報が詰めこまれているが、不思議な余白がある。

その様子はちょっと滑稽で、どこか物哀しく、胸を衝かれる。彼らにこの世はどのように見えるのだろうか。どんな思いで覗いているのだろうか。現実にはありえない光景だが、「転びバテレン」も「消火栓」もメタファーとして使われているのではないだろう。安易にわからせてくれない。感じることしかできない。「第6回水の都まつえ川柳大会」(2023年刊)収録。

2023年2月22日水曜日

西鶴ざんまい #39 浅沼璞


西鶴ざんまい #39
 
浅沼璞
 
 
茶を運ぶ人形の車はたらきて   打越(裏十一句目)
 御座敷鞠しばし色なき     前句(裏十二句目)
春の花皆*春の風春の雨      付句
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

 
【付句】花の定座(春)。
*皆=「皆になす(なる)」の略。全部なくす(なくなる)。[新編日本古典文学全集より] 

【句意】春の花も散り、皆なくなってしまった。春の風や春の雨のせいで。

【付け・転じ】打越・前句を結果としてとらえ、その原因に思いを馳せた付け。 つまり室内遊戯の原因を風雨に求めた逆付け。
前句(原因)/付句(結果)とは逆に前句(結果)/付句(原因)となるので逆付けという。ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい #21 浅沼璞 (hw02.blogspot.com)

【自註】「それ花につらきは春の風*」と古人も言葉に惜しみしに、ましてや梢の盛りにふりつゞく雨のかなしく、はるかなる吉野・金竜寺(こんりうじ*)の山桜も思ひやられ、入相の比(ころ)、鞠に気を移しけるに、中々/\かはき砂の用意、鋸屑(おがくづ)などにて垣の中はおよびなく*、座敷鞠にぞ心をなしける。
*「 」内は謡曲取り。
*一般的には能因「山里の春の夕ぐれ来て見れば入相の鐘に花ぞ散りける」のトポスとされていた。
*乾き砂や鋸屑で鞠場(まりば)の泥濘を直すエピソードが『徒然草』177段にある。

【意訳】「それ花につらきは春の風」と古人も言葉にして惜しんでいるけれど、ましてや梢の花の盛りに、雨の降り続くのは一層惜しくもあるが、遥かな吉野や金龍寺の山桜も思いやられ、入相の鐘の鳴るころ、外で蹴鞠をしたい気持ちになったものの、とうてい用意した乾き砂や鋸屑では鞠場はよくならず、座敷鞠に心を移した。

【三工程】
御座敷鞠しばし色なき(前句)

日和なほ定まらぬまゝ昨日今日 〔見込〕
  ↓
乾き砂さへ役立たぬ春の雨   〔趣向〕
  ↓
春の花皆春の風春の雨     〔句作〕

打越・前句の室内遊戯を悪天候の結果とみて〔見込〕、〈どのような悪天候なのか〉と問いかけながら、降りつづく春の雨と思い定め〔趣向〕、花を散らす風雨という題材を「春の」のリフレインによって表現した〔句作〕。

 
また逆付けが出ましたね。
 
「ワシの十八番やけど、草子でも似たことしとるで」
 
あーそういえば『世間胸算用』だったか、登場人物が予想で話してた内容が実は結果だった、みたいな話、ありましたよね。
 
「そや、話の仕方と、俳諧の付合は似たとこあるんやで、ほかにもな――」
 
――はい、どんな?
 
「今日は言わんでおくは」
 
え、そんな。
 

2023年2月20日月曜日

●月曜日の一句〔秦夕美〕相子智恵



相子智恵






まことではないがまあいゝ朝桜  秦 夕美

句集『雲』(2023.1 ふらんす堂)所収

この句集が、秦夕美の遺句集となってしまったことを、句集に同封されていた版元の挨拶状で知る。秦夕美の書く世界は、いつも虚実のあわいにあった。

句集の最後の方に掲句を見つけて、〈まことではないがまあいゝ〉のおおらかさがいいな、と思った。真実であろうがなかろうが、まあいいのだ。朝の清々しい眼前の桜もまた、数日後には散って記憶のこととなるのである。そしてそのうちに、まことであったかどうかなど、薄れていく。乱歩の〈夜の夢こそまこと〉も下敷きにあるのかもしれない。まことの夜の夢の次には朝が来て、そこには桜が咲いていて、どれもまことで、どれもまことではない。だからまあいいのだ。

  欲シガリマセン銃後には恋の猫

  語りても一日は一日敗戦日

『雲』には戦争の句が多く、今の社会への不安が書かせたのだろうか。あとがきには次の句集の題名を楽しく考えながら、体力の不安も書かれていたから、予感もあったのかもしれない。

もう十年以上前になるだろうか。会ったこともない若造の私に句集やエッセイ集『赤黄男幻想』(富士見書房)などをお送りくださった。ただただ楽しみに読んでいた俳人のひとりだった。ご冥福をお祈りすると共に、読み継がれてほしいと思う。

2023年2月19日日曜日

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週刊俳句の記事募集


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2023年2月17日金曜日

●金曜日の川柳〔大西泰世〕樋口由紀子



樋口由紀子






火柱の中にわたしの駅がある

大西泰世(おおにし・やすよ)1949~

かなりテンションの高い、情熱的な川柳である。そう言い切る作者の像が鮮明に浮かび上がる。「火柱の中」という特定の仕方に強さと迫力があると同時に切ない思いがある。実景と比喩が重なり合う。ここまで言い切るのは一体どんな覚悟があってのことなのだろうか。

以前までは「わたしの駅」は「火柱の中」ではなかった。しかし、出来事などの何かが原因で、そのために環境や価値などの何かが変化し、そう決意した。「私」がいまここに存在し、これが私の生き方なのだ。「私小説」スタイルの川柳である。『椿事』(1983年刊 砂子屋書房)所収。

2023年2月13日月曜日

●月曜日の一句〔太田うさぎ〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




蝌蚪の尾を震はせてをり蝌蚪の脳  太田うさぎ

脱力を誘うほどの「あたりまえ」性が一周廻ってユニークに俳句的であるところ、例えば《噴水のがんばつてゐる機械かな・岸本尚毅》などと近いかもしれない(違うかもしれない)。

この世における多くの生き物においては、おおむねのところ、脳が肉体の末端まで司っているらしく、ほら、私も足の指を動かそうと脳が思えば、ちょっと不器用にではあるが、床に落とした鉛筆をつかめるくらいには動く。けれども、同じ端と端でも、蝌蚪(おたまじゃくし)のこの姿は格別に滋味深い。

ひとつには、頭部と尾のなだらかなひとつながりというあの形状の魅力。ひとつには、幼生であることのキュートさ・玄妙さ。つまり、脳も尾も、早くもこんなに〈がんばつてゐる〉のだ。

素敵な一句が私たちにもたらすもののひとつに、それ読んで以降、事物の見方が変わる、ということだと思う。この春から、蝌蚪を見つめては、脳と尾のひとつながりの連絡を、電気信号に感電するごとくビリビリと感じざるを得ない(ちょっと大袈裟)。

掲句は『豆の木』第6号(2002年2月)より。

2023年2月10日金曜日

●金曜日の川柳〔伊藤為雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






おじいさんのシャツを着ているおばあさん

伊藤為雄

近年は男女兼用の、あるいはユニセックスの服は多く売られているが、一昔前までは男性用と女性用の衣類は明らかに区別されていた。そんな時代におばあさんはおじいさんおシャツを着ていた。そんな日常の小さな一瞬を、実体からアプローチしている。

おじいさんが愛用していたシャツを主が居なくなったあとにおばあさんが着ているのだろう。少し大きめで丈も長く、おせいじにも身に合っているといえないけれど、そんなことはおかまいなしに飄々と着ている。そのようにして、おばあさんはおじいさんの亡き後を生きていく。そのおかし感とぬけぬけ感で日常とのズレを修復している。

2023年2月8日水曜日

西鶴ざんまい #38 浅沼璞


西鶴ざんまい #38
 
浅沼璞
 
 
 姫に四つ身の似よふ染衣   打越(裏十句目)
茶を運ぶ人形の車はたらきて  前句(裏十一句目)
 *御座敷鞠しばし*色なき   付句 *=註
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

 
【付句】雑。 *御座敷鞠(おんざしきまり)=雨天・雨後、鞠場(まりば)の湿潤なる節、座敷にて興行する蹴鞠。[定本全集より]  *色なき=「色」は鞠の回転の状態をいう。ここは蹴鞠を中断する意。[同前] 

【句意】お座敷での蹴鞠がしばし中断した。

【付け・転じ】同じ室内遊戯による其場(そのば)の付け。*単数の人物(姫)から複数の人物(蹴鞠の一座)への転じ。
*其角・嵐雪の伝書『二弟準縄』(珪山編、1773年)「多・小」の項にみえる〈単数の人物/複数の人物〉による転じに同じく、人情他の細分化として捉えることができよう。(法政大学図書館蔵「正岡子規文庫」参照)

【自註】慰みさまざまに替へあそぶ人、何がなと世に有る程の物好み、前句の人形、書院に仕掛けて、是をあゆませければ、しばし座敷の鞠をもやめて、其の細工の様子など見し*心行(こゝろゆき)に付けよせ侍る。百韵ともつゞけたる俳諧には、行かた句作り迚(とて)、軽ぅつかうまつる事有り。
*心行=「蕉風などの《心付》に同じい」とは乾裕幸氏の弁(『俳句の現在と古典』1988年)。ウラハイ = 裏「週刊俳句」: ●西鶴ざんまい #9 浅沼璞 (hw02.blogspot.com)

【意訳】慰み事をさまざまに変えて遊ぶ人が、何かないかと世間にある全てのことをしてみたい好奇心から、前句のからくり人形を座敷に仕掛けて、歩かせてみると、しばし人々は蹴鞠をもやめて、その細工の様子を注視した、というような心行の手法で付けました。百句も続ける俳諧では、時にさらりとした句作り(遣句)で、軽く付けることがあるものです。

【三工程】
 茶を運ぶ人形の車はたらきて(前句)

  何がなと世に慰みの種  〔見込〕
    ↓
  お座敷鞠の一座催す   〔趣向〕
    ↓
  御座敷鞠しばし色なき  〔句作〕

前句を慰み事とみて〔見込〕、〈ほかにどのような室内遊戯があるのか〉と問いかけながら、座敷鞠と思い定め〔趣向〕、「人形が蹴鞠を中断させる」という題材・表現を選んだ〔句作〕。
 

ひさびさに「心行」というキーワードが出てきましたね。
 
「忘れたころに出さんと、忘れらるるよってな」
 
はあ、たしかに。
 
「せやけどワシの心行、蕉門と比べられとうはないねんけどな」
 
でも後に元禄正風体と呼ばれる同時代性は否めないんじゃないですか。

「元禄正風体? そんなん知らぬがほっとけや」
 

2023年2月6日月曜日

●月曜日の一句〔山岸由佳〕相子智恵



相子智恵






うらみつらみつらつら椿柵の向う  山岸由佳

句集『丈夫な紙』(2022.12 素粒社)所収

面白い句だ。〈つらつら椿〉は、椿が連なって咲いている様子で、『万葉集』では〈巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を 坂門人足(巻一・五四)〉など〈つらつら〉のリズムが好まれて詠まれた。掲句の〈うらみつらみ〉もまた、この〈つらつら〉が引き出した遊び心なのだということが、平仮名の表記から分かる。また、「恨みつらみ」とは無縁な、さっぱりとした心境にあることも、〈柵の向う〉と隔てて見ている下五から分かるのである。

じっさい、本句集は穏やかな光を感じる句集で、「恨みつらみ」のような内面ではなくて、感覚の方が立っている句集なので、透明感と浮遊感がある。「うらみつらみ」と「つらつら椿」のような言葉のつながりとずらし方(「取り合わせ」とも「衝撃」ともどこか違う感覚)も特徴的だ。例えば春の句から少し引いてみよう。

  鳥雲に入る階段をたなびかせ

  春水の揺れゐし奥の歯に力

  覚めぎはのひかり白梅のひかりとも

  金色の川越ゆ受験生の頬

鳥雲と一緒にたなびく階段など、あるようでないような風景。その滲ませ具合が絶妙なのである。

2023年2月3日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



家で餃子を食べるときは、餃子とごはんだけ食べます。他のおかずは用意しない。ひたすら餃子を食べます。だから、バットや大皿に並べきれない数の餃子を包み、そして焼く。で、食べます。ルールでもないのだけれど、この習慣はなかり前から変わらない。理由は、べつに、ない。

それぞれの街の大沼家の餃子  きゅういち

うちは大沼さんじゃないけど、街にひとつくらいは大沼家がありそうだ。で、餃子を焼いて喰うこともあるだろう。

大沼さん家だけのこだわりがあるかもしれないし、ないかもしれない。違う街の大沼さん家の餃子とは、きっと違う味、違う焼き方だろう。

日本中の大沼さん家で、年に何度か、餃子が焼き上がる。

こういうことって、すごく感動的だと思うのですが、それは私だけかもしれない。

掲句は『晴』第6号(2023年2月1日)より。