春の部(二月)実朝忌
猫髭 (文・写真)
庭掃除して梅椿実朝忌 星野立子 鎌倉 昭和8年
初島は沖の小島よ実朝忌 遠藤韮城 東京 昭和14年
実朝忌由井の浪音今も高し 高浜虚子 昭和16年
虚子編『新歳時記』の二月の終わりの季題は「実朝忌」である。すなわち今日である。
陰暦一月二十七日は鎌倉三代将軍源実朝の忌日である。二十七歳右大臣に任ぜられ、翌承久元年この日鶴岡八幡宮にその拝賀の儀を行なつた帰途、甥の公暁のために殺されたのは皆人の知るところであらう。和歌は藤原定家の教を受けたことがあつた。家集金塊集は蒼古雄勁、独自の調をなしてゐる。鎌倉扇ヶ谷寿福寺では毎年実朝忌を修してゐる。寿福寺は、左手から墓所に上がると、右手の実朝の墓がある窟(やぐら。山腹に横穴を掘って墓所としたもの)の手前の窟に虚子の墓があり、立子、年尾、つる女と一族の墓が囲繞して、彼岸ともなれば「ホトトギス」俳人日和になるほど掃苔で賑わう。つまり、寿福寺は実朝の菩提寺であるとともに虚子の菩提寺でもある。
虚子は、歳時記を陰暦から陽暦へ舵を切った近代歳時記の生みの親だが、すべてに舵を切ったわけではない。例えば「実朝忌」。陰暦1月27日をそのまま陽暦に移せば、実朝忌は1月の季題になるが、『新歳時記』は2月の陰暦のままである。寿福寺の実朝忌が2月27日に修されるためである。「芭蕉忌」もそうで、「時雨忌」と言われる以上、陰暦10月12日で陽暦にそのまま移行すると秋になり「時雨」が陰暦10月を「時雨月」とも言うように、そぐわないので「芭蕉忌」は11月の陰暦の季題のままとなる。「蕪村忌」は逆で、蕪村は陰暦の12月25日が忌日なので、陽暦では陰暦は1月25日になるが、歳末の忌日を新年を迎えての忌日に移行させるのもおかしいので、そのまま新暦12月の季題に据え置く例外としている。
もともと月の満ち欠けの運行354日を基準とした陰暦と、太陽の黄道上の運行365日を元とした陽暦とでは年11日のずれがあるから、3年でひと月近いずれとなり、陽暦が閏日を挿入して誤差を調整するところを、陰暦はひと月の閏月を挿入して調整しなければならないため、陰暦から陽暦への完全な移行には無理があるので、こういう例外は少なからずある。
実朝忌は、鎌倉では2月27日に寿福寺で修されるが、京都の大通寺では平成8年より陽暦の1月27日で実朝忌が修されている。角川書店の『新版季寄せ』(傍題が豊富)では「実朝忌」は陰暦正月27日として、冬の部としている。
鎌倉三代将軍源実朝は『金槐和歌集』(岩波文庫)一集を遺している。「金」は鎌倉の「鎌」の偏、「槐」は大臣の意で鎌倉右大臣集という意味になる。歌人の斎藤茂吉が貞享四年の古写本を元に校訂したが、その後、昭和四年に佐々木信綱によって、それよりも古い健暦三年の、実朝の師である藤原定家が自ら巻頭を記した古写本が発見されるという劇的な出来事があり、茂吉はその対校半ばで他界したので、後世が定家所伝本を含む異稿を注に並べているため、興趣尽きない名歌集となっている。
実朝のよく知られた歌を定家本に添っていくつか挙げてみる。
萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
おほ海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも
くれなゐのちしほのまふり山の端に日の入るときの空にぞありける
山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
遠藤韮城の句は、実朝の「箱根路」の歌への返句と言える。「初島は沖の小島よ」と本歌取りして「実朝忌」の季題を付けただけだから、付き過ぎとも言えるが、忌日句は付き過ぎるくらいに思い入れて詠むものと言われるので、忌日句の見本のような句でもある。
韮城の生年月日は不明だが、この句の翌年昭和14年に、虚子は百花園で韮城の古稀祝に参じており、『武蔵野探勝』(有峰書店新社)にも同行して、韮城宅でも句会に参じているため、虚子には近い人である。昭和25年に虚子の序文で遺稿集『韮城句集』(潮花会)が出された。
虚子の掲出句も「おほ海の」の歌に照応した一句である。この句は同時に三句詠まれた実朝忌の句のひとつで、他の二句は以下の如し。
鎌倉に実朝忌あり美しき 昭和16年2月3日
寿福寺はおくつきどころ実朝忌 同上
「鎌倉に」の句は歳時記でよく見かけるが、虚子自身は掲出句を『新歳時記』には残している。虚子のスローガンと言えば「客観写生」と「花鳥諷詠」だが、「美しき」と言われても、実朝忌がなぜ美しいのかはわからない。虚子しか与り知らぬ主観句だからであり、この句が詠まれたのは2月3日とあるので、実朝忌の法要に際しての句ではないから、「寿福寺は松高く苔清らかな寺である」という法要の景でもない。この「美しき」は虚子が何を美しいと感じたかの伝達性が無い句と言える。にも関わらず「美しき」の句は「鎌倉右大臣実朝の忌なりけり 尾崎迷堂」という、どかんとした一句と並んでよく引かれる。
手毬唄かなしきことをうつくしく 虚子 昭和15年12月1日
という、この「うつくしく」のようには一読響かない。この「かなしきことを」受けての「うつくしく」には、そのまま手毬を唄と同時に渡されたような手触りがある。つまり、心情という主観を客観として虚子は詠んでいることになる。
忌日句を味わうには、実朝への読者の思い入れが必要となるということになるだろうが、28歳で弑された青年歌人への哀惜が「美しき」という言葉を導き出していると解しても、実朝の歌を知らない読者には伝わらない。が、幸いな事に、教科書で実朝の歌が載らない古典はないから、「箱根路」や「おほ海の」の歌は人口に膾炙しており、これらの歌は虚子も述べているように「蒼古雄勁」と解されることが多い。
とはいえ、小林秀雄の『実朝』(昭和18年)のように「大変悲しい歌」と読む者もあり、「おほ海の」歌も「かういふ分析的な表現が、何が壮快な歌であらうか」と「誰も直かに作者の孤独を読まうとはしなかつた」と子規だけが実朝の孤独に驚嘆したと書かれると、実朝の歌が皆悲劇の歌のように思えて来るという小林節の強烈さはある。
つまり、虚子の「美しき」の句は実朝の歌へと誘うが、それは各読者の解釈によって「美しき」は千差万別であり、虚子は、逆に伝達性のない詠み方をすることによって、読者の恣意的な読みをすべて包含してしまう、ということになり、その各人が「実朝忌」を修することへの誘い水のような詠み方が印象に残るので、よく引かれるのかもしれない。
わたくし個人にとってみれば、実朝と言えば「萩の花」の歌が白眉である。
萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ
幽玄の極致とも言える美しさで、我が家のそばの巡礼古道の入口は秋になると萩の花が咲き乱れるが、月の美しい夜はひとり萩の道を歩き、ひそかにこの歌を偲び、この道を「実朝の道」と名づけている。富士の見える高台まで行けばそこには「実朝の海」が月光に光る。
それにしても、冒頭の星野立子の、
庭掃除して梅椿実朝忌 星野立子
の明るさは際立つ。忌日という思い入れには一切ふれずに、このように普段着で「実朝忌」を詠める自然さに驚く。「梅」「椿」「実朝忌」と季ぶくれ三連発だが、「庭掃除して」という毎日の繰り返しの中で、梅が綺麗、椿も綺麗、で、実朝忌だったわ今日は、といった風情で、実にさりげなく季題が納まる。まさしく、「あるがままをあるがままに」という「客観写生」であり「花鳥諷詠」であり、それも虚子のように御託を並べずに、作品ですっと差し出す。虚子が写生を立子に逆に教えられたと言うのもむべなるかなの自由な一句である。
今週は「春寒」から一転、気温が20℃近くまで上がる春一番が吹きまくり、26日より風雨となって、夜半に入って鎌倉は篠突く雨となった。2・26事件の時は雪だったが、今年は雨である。今朝も雨脚は衰えて春雨の風情となり、谷戸の上から見下ろす鶴岡八幡宮は霞んで見えない。写真は4日前の23日の快晴の日の、鶴岡八幡宮の実朝を暗殺した公暁が隠れていたとされる大銀杏の写真である。見上げると真上に上弦の昼の月がかかっていた。実朝が弑された時、実朝が最後に見たものはこの昼の月だったかも知れない。
補遺:
本連載第三回の「大寒」の「大寒や白々として京の町 木犀 昭和三年」について「作者の木犀は、大阪の俳人とのみで、詳細は不明。識者の助言を乞う。」と書いたところ、「ホトトギス」の今井肖子氏が、昭和二年と三年すべての「ホトトギス」を調べるという労をおとりくださり、作者は桂木犀氏と判明した。そればかりか、雑詠に掲載された桂木犀氏の句を拾い出して送っていただいた。佳句が並ぶ。記してここに感謝と敬意を表したい。
鬼灯の色つくまゝに枯れにけり 昭和2年1月号
燈籠のまたゝき細り消えにけり 同2月号
雲雀野をめぐる内山外山かな 同5月号
春の夜の石段上る女かな 同7月号
大琵琶の水ひく池や濃山吹 同9月号
簀の影の顔に流るゝ茶摘かな 昭和3年7月号
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