相子智恵
雨季蟬は優しく鳴くですとBON氏 橋本 直
句集『符籙』(2020.6 左右社)所載
「タイ・カンボジア十二句」と題されたうちの一句。〈BON氏〉は日本語を話せる現地の人なのだろう。現地の蝉について教えてくれた言葉が、話者〈BON氏〉の名前と共にそのまま一句になっている。
〈雨季蟬は優しく鳴くです〉という片言の日本語と、蝉の声に対する〈優しく鳴く〉という形容が意外すぎて、ふいに胸がぎゅっと掴まれる。蝉の鳴き声を優しいと思ったことなど、私は一度もなかったのだ。雨季と乾季のあるその国では、乾季の蝉はきっと激しい求愛の鳴き方をするのだろう。そして雨季には弱々しい、優しい鳴き方になるのだ。
もっとも雨の日、蝉は飛べないから雌を求めて鳴いたりはしない。だから雨季にはあまり蝉の声が聞こえなくて、静かな感じがするということなのかもしれない。そう考えると、〈BON氏〉がもしも、母国の人に母国語で同じことを説明するとしたら「優しい」と形容しただろうか、とも思うのだ。母国語が違う人と交わした、一回性の言葉との出会い。それを反射神経で受け止めた作者のオープンマインドと、言葉に対する感性と思考力、それらが重なって、この不思議な魅力のある一句が生まれたのだと思う。
句自体はゴツゴツとした破調でありながら「S」の音が響いていて、その内容とも相まって、まるごと覚えてしまう口誦性がある。今夏、まだ蝉の声は聞いていないけれど、鳴いたらきっとまた、口から出てきそうな一句だ。
ところで、この句集は「自跋」も面白いことを書き添えておきたい。近代の個人句集の始まりから説き起こしたすぐれた句集論で、句集を編むということそのものにゆさぶりをかける跋文なのである。「メタとしての句集論が共存する句集」というユニークな構造の一冊で、それがそのまま句の持ち味とも重なっている。ノンブルが最初からと最後からの両方から振られているのは(自跋の方からも読めるように、ということか)、俳句研究者と創作の両輪で生きる作者の矜持なのかもしれない。
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