2020年7月31日金曜日

●金曜日の川柳〔楢崎進弘〕樋口由紀子



樋口由紀子






いい加減にしろとは意味がわからない

楢崎進弘 (ならざき・のぶひろ) 1942~

「いい加減」ならよい程度、適度という意味だが、日常よく使われる「いい加減にしろ」の「いい加減」はあまりよくない加減の意味で、確かに意味がわからない。「いい加減にしろ」と相手に言うこともあり、「いい加減にしろ」と言われて、あっと反省することもあるが、どこがいい加減なのかと思うこともあり、確かに意味がわからない。皮肉のきいた、嫌味のある一句である。

誰もが思い、一度は言いたくなる。しかし、読み飛ばしてしまいそうな、つぶやきも川柳にする。それにしてもあまりにもストレートで、表現に工夫がなく、余白も余韻もまったくなく、言い切ってしまっている。しかし、そこがいい。意図的に、理屈や説明やあえて避けない恣意的な演出だろう。それはまちがいなく川柳ならではの魅力である。「逸」(42号 2020年刊)収録。

2020年7月27日月曜日

●月曜日の一句〔中西夕紀〕相子智恵



相子智恵







百物語唇なめる舌見えて   中西夕紀

句集『くれなゐ』(2020.6 本阿弥書店)所載

〈百物語〉は夜、数人が集まって交代で怪談を語る遊び。百本の蠟燭をともし、一話終わるごとに一本ずつ消す。最後の一本を消すと妖怪が現れるとされた。

暗い部屋の中で、蠟燭の明かりが話者の顔を照らしている。まるで顔だけが暗闇に浮かんでいるようだ。すると、語りの途中で話者が唇をなめた。乾いた唇のままでは語りきれない、ここからが話の盛り上がりなのだ。話の間がふっと空く。しんと息を詰め、怪談に聞き入る人たちは、唇をなめる舌の動きをじっと見つめる。おのずと緊張感が高まる。まるでジェットコースターを登り切った頂点での「溜め」の静けさである。これから落ちることは分かっている、あの溜めの独特な恐怖感。

〈唇なめる〉だけで〈舌〉であることは分かるから、省略する切り取り方もあっただろう。しかし、この〈舌見えて〉の執拗な描き方が、怪しくエロティックでさえあり、怪談の背徳感を際立たせている。

2020年7月24日金曜日

●金曜日の川柳〔妹尾凛〕樋口由紀子



樋口由紀子






雨あがる雨はいつでもあたらしい

妹尾凛 (せのお・りん) 1958~

雨の見せ方がうまい。雨があがると空気は一掃され、なにもかもがさわやかになる。しかし、掲句は雨あがりの爽快さを書いているのではなく、「雨」を書いている。さっきまで降っていた雨も、これからまた降り出す雨も、気づかなかったけれどあたらしい。そして、雨をあたらしいという視点で捉えていることがあたらしい。

いままでは思いつきさえしなかった「あたらしい」が雨ともに広がり、新鮮に立ち上がる。これからは雨の日の印象はずいぶん変わってくる。彼女はずっと以前からそう感じていたのだろう。なんでもないように、さらりと書かれているが、そこにはこの世をあるがままに受け止めている清潔な姿勢が見える。『Ring』(2020年刊)所収。

2020年7月21日火曜日

【名前はないけど、いる生き物】 わんこ一号 宮﨑莉々香

【名前はないけど、いる生き物】
わんこ一号

宮﨑莉々香

あぢさゐはどもるのにうなづいてくる
木苺を隠した自転車に今日が
からまり紐からまり指やあげはてふ
懐かしいなら蜘蛛は餌を啄み見ない
ゆふがたの通過する網目のメロン
ゐるとして虹から色へ目のなかを
わんこ一号あをしばはあをしばだらけ
のどぼとけ眠さがはえてくる金魚
えぞにうや歩くから遠のくうしろ
東から差す日を鷭はところどころ
メロンの網目少しだけ寂しいがある
誘蛾灯あしうらどこまでも歩く
きこえるよここはこゑこほりみづのここ


2020年7月20日月曜日

●月曜日の一句〔太田うさぎ〕相子智恵



相子智恵







フラダンス笑顔涼しく後退る   太田うさぎ

句集『また明日』(2020.5 左右社)所載

一読、笑ってしまう。何と言っても〈後退る〉である。

作者の視点の位置から、フラダンスショーのステージを観ているところが想像された。一列に並んで踊るフラダンサー達は皆、涼しげな笑顔で踊っている。もちろんフラダンスを愛する人達だから、心からの笑顔なのだろうが、同時に、ずっと笑顔で踊り続けることがショーの大事な演出でもあるのだ。その「演出味」を露わにしてみせたのが〈後退る〉なのである。

〈笑顔涼しく〉というウエルカムな態度でありながら〈後退る〉という、文字にするとちょっとシュールなギャップ。踊りには様々な動きがある中で〈後退る〉の一点を捉えた作者は、実際の動きを描写しながら、自身の心理的な距離感も、そこにのせている。この距離感によって、飄々とした諧謔味が一句から立ち現れている。

2020年7月17日金曜日

●金曜日の川柳〔夏草ふぶき〕樋口由紀子



樋口由紀子






あばら骨の曲がり具合がマティス色

夏草ふぶき (なつくさ・ふぶき)

あばら骨をレントゲン写真で見せてもらうときれいなカーブで整然としていてうっとりとする。このような身体に支えられているのだと誇らしくもなる。

「あばら骨の曲がり具合」とはあばら骨の曲線のようなだが、「曲がり具合」とは少しニュアンスが異なる。マティスは「色彩の魔術師」と言われ、その色遣いは独特で、鮮明である。しかし、「マティス色」は具体的にわからない。

それぞれの名詞を助詞で繋げて一句が構成され、周辺を緻密に埋めている。しかし、「の」と「が」の助詞は意味をつないで、句意をあきらかにしているのではない。「の」と「が」で空間を作り、どんどん意味から遠ざかり、より抽象度が増している。体感なのだろうか。独特の雰囲気と感覚を浮かびあがらせている。「おかじょうき」(2020年刊)収録。

2020年7月13日月曜日

●月曜日の一句〔なつはづき〕相子智恵



相子智恵







梅雨曇りキリンのような恋人と   なつはづき

句集『ぴったりの箱』(2020.6 朔出版)所載

〈キリンのような恋人〉は、背の高い人なのだろう。首もすっと長い。スマートだけれど肉食ではなくて草食。よく見るとちょっと眠そうな目だし、高い木の葉を食べてずっと反芻しているような、のんびりとした感じの人。そんな恋人はなんだか落ち着くし、愛嬌があっていい。

一緒に歩いていて〈キリンのような恋人〉を見上げれば、その先には〈梅雨曇り〉の一面灰色の空が見える。これが抜けるような夏の青空でも、ドラマチックな夕焼けでも、恋のキラキラみたいな星空でもないところがいい。どんよりとした〈梅雨曇り〉は鬱陶しいけれど、このはっきりとしない〈梅雨曇り〉からくる日常感が好きだ。晴れの日もあれば嵐の日もあるけれど、人生はだいたい曇りの日なのである。

〈キリンのような〉と言われると、やっぱりあの黄色が思われてきて(もちろん黄色い服を着ているわけではないけれど)その人のまわりだけ、曇天の重苦しい空気がぽっと明るく緩む気がする。

2020年7月10日金曜日

●金曜日の川柳〔久保田紺〕樋口由紀子



樋口由紀子






キリンでいるキリン閉園時間まで

久保田紺 (くぼた・こん) 1959~2015

動物園で見るキリンはおとなしい目をして、のんびりと首を伸ばして、餌を食べ、ゆらりゆらりと歩いている。色川武大がどこかで書いていたが、その姿は「平和に遊んでいる」ようで、見ているこちらも平和な気分になる。

それがごくあたりまえのキリンで、動物園が閉まった後も、その姿は何ら変わらないと思っていた。しかし、「閉園時間まで」と言われて、はっとする。それは来園者用の、演出用のキリンだったのだ。人前では無理をして、期待どおりのキリンでいてくれている。色川武大でさえも、「平和に遊んでいる」と見ていたくらいのキリンを作者はこのように見る。たぶん、そんな姿を自分自身と重ねているのだろう。閉園後のキリンはやっと解放され、自由に、首だって、くにゃくにゃにして、せかせかと歩いているのかもしれない。そんなキリンと出会ってみたい。『大阪のかたち』(2015年刊)所収。

2020年7月6日月曜日

●月曜日の一句〔橋本直〕相子智恵



相子智恵







雨季蟬は優しく鳴くですとBON氏   橋本 直

句集『符籙』(2020.6 左右社)所載

「タイ・カンボジア十二句」と題されたうちの一句。〈BON氏〉は日本語を話せる現地の人なのだろう。現地の蝉について教えてくれた言葉が、話者〈BON氏〉の名前と共にそのまま一句になっている。

〈雨季蟬は優しく鳴くです〉という片言の日本語と、蝉の声に対する〈優しく鳴く〉という形容が意外すぎて、ふいに胸がぎゅっと掴まれる。蝉の鳴き声を優しいと思ったことなど、私は一度もなかったのだ。雨季と乾季のあるその国では、乾季の蝉はきっと激しい求愛の鳴き方をするのだろう。そして雨季には弱々しい、優しい鳴き方になるのだ。

もっとも雨の日、蝉は飛べないから雌を求めて鳴いたりはしない。だから雨季にはあまり蝉の声が聞こえなくて、静かな感じがするということなのかもしれない。そう考えると、〈BON氏〉がもしも、母国の人に母国語で同じことを説明するとしたら「優しい」と形容しただろうか、とも思うのだ。母国語が違う人と交わした、一回性の言葉との出会い。それを反射神経で受け止めた作者のオープンマインドと、言葉に対する感性と思考力、それらが重なって、この不思議な魅力のある一句が生まれたのだと思う。

句自体はゴツゴツとした破調でありながら「S」の音が響いていて、その内容とも相まって、まるごと覚えてしまう口誦性がある。今夏、まだ蝉の声は聞いていないけれど、鳴いたらきっとまた、口から出てきそうな一句だ。

ところで、この句集は「自跋」も面白いことを書き添えておきたい。近代の個人句集の始まりから説き起こしたすぐれた句集論で、句集を編むということそのものにゆさぶりをかける跋文なのである。「メタとしての句集論が共存する句集」というユニークな構造の一冊で、それがそのまま句の持ち味とも重なっている。ノンブルが最初からと最後からの両方から振られているのは(自跋の方からも読めるように、ということか)、俳句研究者と創作の両輪で生きる作者の矜持なのかもしれない。

2020年7月3日金曜日

●金曜日の川柳〔酒谷愛郷〕樋口由紀子



樋口由紀子






茫茫と父厠より沖に出る

酒谷愛郷 (さかたに・あいきょう) 1944~

学生時代に海水浴で民宿に泊まったことがある。トイレは部屋になく、部屋から少し歩いた廊下の先にあった。廊下はふきっさらしで、庭に面していた。夜中に恐る恐るトイレに行き、急いで帰ろうとしたら、さっきは気づかなかったが、波の音が聞こえた。暗くてわからなかったが、庭の向こうは海だった。日中はあんなに賑やかだった海の本当の声を聞いたようで、しばらく立ち止まって聞いていた。しかし、すぐに部屋に引き返した。

掲句の「父」は70代ぐらいだろうか。実感としてわかるようになった。「茫茫と」だから、「沖」に誘われて、ふらふらとである。父はもう戻ってこないかもしれない。私も今ならば、恐いものももうそんなになく、茫々と沖に出て行ってしまうだろう。歳を取るとはそういうことのような気がする。「父」というものの一面を見ている。

2020年7月2日木曜日

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