2016年10月29日土曜日

★週俳の記事募集

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2016年10月28日金曜日

●金曜日の川柳〔岩田多佳子〕樋口由紀子



樋口由紀子






アフリカのもしもが燃えている箪笥

岩田多佳子(いわた・たかこ)

「アフリカのもしも」って、なんだ?それが「燃えている」。それも「箪笥」で。一般的な意味では解釈できない。けれども、「アフリカ」「もしも」「燃えている」「箪笥」の言葉のつながりになにかありそうな気がする。「箪笥」には何かを仕舞う。本来箪笥には入れないものも入っている。それは恋文・現金・秘密だったりする。「箪笥」のある一面を捉えているのかもしれない。

ふと、天狗俳諧のようだと思った。天狗俳諧は上五字・中七字・下五字を各自がそれぞれ無関係に作り、それを無作為に組み合わせて一句にするものだが、出来上がった句はそれなりに読めておもしろく、意外に句意が通ったりすることもある。あるいは句意が通じなくても、何かを感じさせるものができ上がる。

〈喉の奥から父方の鹿 顔を出す〉〈いちにちの広さコンニャクひとつ分〉〈ステンレスの集中力に触れている〉 『ステンレスの木』(2016年刊 あざみエージェント)所収。

2016年10月26日水曜日

●水曜日の一句〔森澤程〕関悦史


関悦史









一点のゴリラがぬくし観覧車  森澤 程


観覧車の上からの眺めにゴリラがいる。むろん数は多くはなく、動物園に飼われているものらしい一匹が目に入るのみである。観覧車から外を見下ろすならば視線をはるか遠くに向けてもいいはずだし、ゆるやかに移動するにつれて変わっていく高さのなかから、さまざまなものに次々に視線を向けてもかまわない。

しかしある高さまで来たときに、たまたま目に入ったゴリラは、その黒い裸体を上空から見られていることには、おそらく気づくこともなく、語り手の目を絡め取ってしまい離さない。「一点の」から、かなりの距離をもって眺められていることがわかるのだが、点にまで縮減されたことで、そのなまなましさはかえって強められ、「ぬくし」との体感をもたらし複合することになる。

ゆるやかに大きく回るしかなく、また乗ってしまった客の立場からはもはや統御もきかない観覧車と「一点」のゴリラとは、その持っているエネルギーが全くつりあい、対等になってしまったかのようで、となれば点に集約されたゴリラの方がそのテンションは強い。いわばゴリラに目は支配されている。

高野素十の《ひつぱれる糸まつすぐや甲虫》の、真っ直ぐな糸のようなものが、語り手とゴリラとの間に不意に組織されてしまった格好だが、観覧車はその間にも回り続け、その緊張をゆるやかにはぐらかしてゆく。ほどなく観覧車は地上に戻り、ゴリラは視界から消え去ることになるだろう。それを予感しつつも、語り手は、神の視点じみた高所から、しかし自力で移動することもさしあたりできず、宙吊りになったままだ。

視野への予想外の闖入者「ゴリラ」は、滑稽にも共感にも至ることなくその手前で止められ、語り手と感覚的につながり続けているのである。「ゴリラ」が風景のなかの点として「ぬくし」となりおおせるには、この距離と偶然が必要だったのであり、この奇妙な関係は、俳句という形式と出会うことなしには、気づかれないまま潜在したきりになっていたかもしれない。

句集『プレイ・オブ・カラー』(2016.10 ふらんす堂)所収。

2016年10月25日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダムについて 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダムについて

福田若之


あれらのメモは、ただ、僕がそこに書かれたことを忘れるためだけに、書かれている。単に、僕がそれらを忘れることを、僕自身に許すために。ただし、この心の動きは、なんらかの成長がもたらしたものではない。僕は、決して、あれらのことがらについて自らに忘却を許すことができるほどの何者かになったわけではないはずだ。

幼稚園から逃げるように卒園し、小学校からも中学校からもやはり逃げるようにして卒業した僕は、結局のところ、その頃と何も変わらないまま、今度は自分の記憶から逃げることを望んでいる。

もちろん、悪いことばかりではなかった。恥ずかしいことばかりではなかった。一方には、これからも大切にしていきたい思い出がたくさんある。それなのに、悪い記憶ばかりがときおりやたらと鮮烈にぶり返してくるのは、どういうわけだろう。

僕は、ただ単に、あれらのことをいつまでも腹の底にかかえこんだまま、ときどき不意にそれらを思い出してひとり苛まれるという生き方に、もう耐えられなくなってしまったのだと思う。僕は弱くなったのだと思う。

書いてしまったことは、読み返せばわかることだから、僕が覚えていなくてもいい。あれらのメモが俳句なのか何なのかよくわからないかたちをしているのは、僕にとって、そうしたかたちが、もっとも忘れやすいかたちだからなのだと思う。僕は、おそらく、あれらのメモを、もう二度と書かなくていいようにするために、書いているのだと思う。

あれらのメモは、さしあたり、そんな僕にとってしか切実なものではないだろう。ためしがきにおいてさえ自分よりも他の誰かにとって意味のありそうに思えることをつい書き並べようとしてしまう心の動きを、僕は、これらの極めて私的なメモによって、どうにか抑えようとしているのかもしれない。

メモは、今後も、誰が読もうが読むまいが、断続的に書かれることになると思う。書かずに覚えていることはまだいくつもある。


2016/9/28

2016年10月24日月曜日

●月曜日の一句〔九里順子〕相子智恵



相子智恵






去る者を秋の向うに置いてみる  九里順子

句集『風景』(2016.09 邑書林)より

「来る者は拒まず、去る者は追わず」ということわざがある。掲句はそれを意識して作られているのかもしれない。

去る者を追わずに「向うに置いてみ」たとき、どんな風景が広がるだろう。

まず「秋の向う」がどこなのかといえば、時の流れからして自然に「冬」が思われてくる。去る者は、冬の寒い場所に置かれる。

では「秋の向うに置いてみる」と言っている人はどこにいるのか。おそらく秋か、秋を挟んでひとつ手前の季節である夏かもしれない。

「去る者は追わず」ということわざでは、追わないのだから去る者とは一生会えない。しかし「秋の向うに置いてみ」た人とは、追わなくても季節が勝手に進んで、自然に巡りあえそうな気がしてくる。

だから、冬という寒い場所に置かれた「去る者」は、さほど寂しそうに感じられない。秋の向うに置いた人自身も、寂しそうではない。

「いつかは会える」という気持ちがありつつ、それが春や夏ではなく、秋や冬であるところが暑苦しくなく、さっぱりしている。冷ややかであるともいえるだろう。そんな二人の微妙な距離が感じられてくる面白い句だ。

2016年10月22日土曜日

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2016年10月21日金曜日

●金曜日の川柳〔藤井小鼓〕樋口由紀子



樋口由紀子






コンパスの巾、平面を生まんとす

藤井小鼓 1900~1925

こういう雰囲気の川柳はあまり見たことがない。コンパスを使うとその巾によって平面ができる。たったそれだけのことを書いている。しかし、こういうかたちで世界観を出すことができるのだと思った。

実際にコンパスを使って円を作ったのだろう。それともその光景を目にしたのだろうか。コンパスの巾を狭くすると小さな円、広げると大きな円、同じ円や大小異なる円が単純な作業で確かなものとしてつぎつぎと生まれる。そのあたりまえのことが自分自身も何かと繋がっていくような、不思議な増幅感をもたらしてくれたのだろう。平面の向こう側の知らない彼方、目の前の世界を確認しようとしている。不思議な句である。

〈今日此家に日の丸が赤い〉〈豆腐屋が昨日と今日を知っていた〉〈箒の不徹底を叫ぶ日が来る〉〈鰻、鰻、なるほど串に刺されやう〉 このような川柳が大正時代に書かれていた。

2016年10月19日水曜日

●水曜日の一句〔正木ゆう子〕関悦史


関悦史









降る雪の無量のひとつひとつ見ゆ  正木ゆう子


きりもなく降ってくる雪に見入る時、はじめはその全景が漠然と意識され、やがてひとつひとつの雪の動きを目が追うようになり、他の雪との動きや遠近のずれに身心が同調し始める。そのさなかにも雪は際限なく降ってくる。「無量のひとつひとつ見ゆ」とはそうした事態を指していると、ひとまず取ることができる。

「降る雪の無量のひとつひとつ」に人の世の無常やそのなかの自分といったことを観想することも無論できるのだが、この句はそうした一般論的な感慨や情趣に接近しながら、必ずしもそればかりに終始するわけではない。「見る」ならば能動性が際立つが、「見ゆ」はどちらかといえば受動的で、この視点人物は無量のひとつひとつとして立ち現われる雪という状況に巻き込まれつつ、それを視認するばかりである。

いわばこの句の感動や発見は、無量の雪のなかから「ひとつひとつ」が個別に見え始めたという点にかかっている。この「無量」の無限性と「ひとつひとつ」の個別性が同時に立ち現われていることが眩暈を誘うのだが、最後が「見ゆ」としめられている点、没入しているわけではなく、局外の視点にとどまってはいる。

スケールの違いが同時に見えてしまうこと、それによって自分の立ち位置が明晰なまま曖昧になること、この句のものがなしいような情感はそうした「降る雪」によって空無化される身体から来ているのである。「~ひとつひとつかな」でも「~ひとつひとつなり」でもない「~ひとつひとつ見ゆ」は、そのような空無化される身体に対応している。


句集『羽羽』(2016.9 春秋社)所収。

2016年10月18日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム6 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム6

福田若之


かさぶたが剥げて元通りの手相

野良犬が車に轢かれそうになる

動物病院では野良犬をどうにもできないという

保健所は友人Bが許さない

まきこむ前輪そして宙がえりの自転車

意識されたくつしたのように不愉快牛乳瓶のふたを指で開けるときの感触

くだらないことばかり覚えているしいつのまにかかなかなの声も聞かなくなったね



2016/9/20

2016年10月17日月曜日

●月曜日の一句〔鈴木多江子〕相子智恵



相子智恵






完結は愉悦のかたち晩白柚  鈴木多江子

句集『鳥船』(2016.09 ふらんす堂)より

単に「完結とは、愉悦である」といえば、完結するものならば何にでも当てはまりそうだが、「愉悦のかたち」で最後に晩白柚が出てくるので、ここでは円や球体が完結のかたちであるのだな、ということが伝わる。取り合わせとも、一物仕立てとも取れる句だ。

晩白柚は大きいとは思っていたが、調べてみると世界最大級の柑橘だという。大きいものでは直径約25cmにもなるそうだ。黄色いつやつやとしたボーリング球みたいな見た目である。

ずっしりと、巨大で明るい黄色の果物。なんともめでたくて満ち足りていて、楽しく喜ばしい感じがする。

なるほど「完結は愉悦のかたち」であることだ。

2016年10月14日金曜日

●金曜日の川柳〔石川重尾〕樋口由紀子



樋口由紀子






カレーライスにぶすぶす埋める平均値

石川重尾 (いしかわ・しげお) 1925~

カレーライスは手軽ですぐに満腹感を与えてくれる優良な料理である。カレーライスが嫌いな人はあまりいない。そんな満足度の高いカレーライスに八つ当たりしている。「カレーの好きな人は現状維持を求める保守派」と寺山修司は言ったらしい。

今の世の中はいろいろなことを一様化しようとする時代のいきおいのようなものがある。それは心にも感受性に対しても平均化がはかられる。平均値から外れたくない、外れていると思われたくない風潮。そのようなものに対峙し、対抗するための、いや、どうすることもできなくて、「ぶずぶす」なのだろう。

「ぶすぶす」の擬音語にいやな感じがでている。「ぶすぶす」は尖ったものを柔らかい厚みのあるものに繰り返し刺す音で、切実感もあり、強い意思表示がある。石川重尾は反骨の人である。〈そして河口に青い刃物が捨ててある〉〈足早に人を逝かせて冬したたか〉。

2016年10月12日水曜日

●水曜日の一句〔山本敏幸〕関悦史


関悦史









白梅は完全犯罪である  山本敏幸


直観的に言いきった句で、読者としても瞬時に深く説得されるか、逆にわからないとなれば、どう考えても鑑賞の扉が開かないという作りである。その取りつく島のなさ自体が密室性を帯びてくるあたりも「完全犯罪」的であるといえる。

この句、「白梅」が完全犯罪のあったしるしや手がかりであるわけではない。「白梅」そのものが「完全犯罪」なのである。これを暗喩的に取ってしまえば話は簡単で、「白梅はあたかも完全犯罪のように完全性を持っていて犯罪的に美しい」とでもいったことになるし、じっさいそう取る余地があるからこそ読めるという読者もいるはずだが、このようにパラフレーズしたのでは、句から消えてしまうものがある。

口語調の「は~である」がそう思わせる当のものだが、断言していることが必ずしも重要であるわけではなく「~であろう」などの推量に変えても、事態はあまり変わらない。とはいうものの、断定されていることによって、この句はそっくり命題と化すように見えてくる。つまり、真であるか偽であるかが判定可能な平叙文となり、偽であった場合は「白梅は完全犯罪ではない」と判定しうる可能性も出てくるのだが、しかし、一見命題のように見えながら、じつのところこの言明の真偽を明らかにする手段はない。「白梅」が何ものかの犯行であるということが、そもそもナンセンスだからである。

かくしてこの句は命題に見えてそうではなく、真偽の判定の彼方に去るというか、むしろ反対に読者へと迫ってきて、適切な距離を取ることを不可能にしてしまう。その意味では禅の公案にも似ているが、この句が目指しているのはもちろん禅的な指導要綱と化すことではない。また造化のすべてが、人間にとっては解けない謎や奇跡だということをいっているわけでもない。

「白梅」が「完全犯罪」であるという世界律が、われわれの住む世界をひっくり返す異物として不意に立ち現れる。その衝撃がこの句の詩的内実であり、その辺に咲く現物の白梅は、現物として愛でられる余地を保ったまま、その足がかりに変えられてしまう。

「白梅」の向こう側にいかなる世界が構築されているのかは、われわれにうかがい知ることはできない。それが「完全犯罪」であるということである。


句集『断片以前』(2016.8 山河俳句会)所収。

2016年10月11日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム5 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム5

福田若之


僕の手に祖父の手が噛みついてくる

人形が広間に三つ冴え返る

キャベツ畑は夜生首が並んでいる

暗く赤い終バスの行き先表示

2016/9/10

2016年10月10日月曜日

●月曜日の一句〔恩田侑布子〕相子智恵



相子智恵






落石のみな途中なり秋の富士  恩田侑布子

句集『夢洗ひ』(2016.08 角川文化振興財団)より

景は明瞭でありながら、哲学的な味わいのある句だ。

富士山の均整の取れた美しい姿。そこにごろごろとある岩石は、みな落ちてゆく途中にあるというのである。

富士の名前の由来のひとつ「不死」という語にも象徴されるが、富士は不老不死の、永遠の美しさを持つ山と思われている。が、実際には今は休んでいるものの、火が吹いて形が変わることも考えられなくはない。

それでなくとも、長くその場にあるように見える岩石は、今その場所にあるだけで、いつ転がりだすかわからない。斜面にある石はみな落ちる途中なのだ。石が落ちていくだけでも、富士の輪郭は変わるだろう。不死の山でさえ、永遠ではなく変化の中に置かれている。

同様に哲学的な句といえば永田耕衣の〈いづかたも水行く途中春の暮〉を思い出すが、こちらは春の柔らかさがあり、恩田の「落石」と「秋の富士」には、くっきりした固さと清々しさがあって、どちらもとても魅力的だ。

掲句は、他の季節の富士ではだめで、「秋の富士」でなければ出ない味わいだと思う。空気の澄んだ秋の富士は岩石の固さも際立つ。さらに移ろいを感じさせる秋が「みな途中なり」を感慨深いものにしてくれるのである。

2016年10月8日土曜日

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2016年10月7日金曜日

●金曜日の川柳〔熊谷冬鼓〕樋口由紀子



樋口由紀子






渡された蛍に両手ふさがれる

熊谷冬鼓 (くまがい・とうこ) 1949~

蛍を手渡されたなら籠がなければ両手で受けるしかない。もう両手は他のことに使えない。それどころか開くことすらできない。両手は蛍に占有される。

だれに蛍を渡されたのか。蛍は何を告げているのか。ふさがれたのは両手よりも心の方ではなかったか。その後どうなったのか。などなど初夏の夜のできごとをいろいろと想像する。うしろの事情の方に関心がついいってしまうのが川柳の一般的な読みのような気がする。

〈花火と花火の合間に話し合えたこと〉〈折り返し地点で貰う紙コップ〉〈百円の傘にひゃくえんぶんの骨〉 『雨の日は』(2016年刊 東奥日報社)所収。

2016年10月6日木曜日

●蕎麦

蕎麦

友二忌の昼いちまいの蕎麦せいろ  星野麥丘人

蕎麦の香のはや夏痩の眉目かな  石田波郷

蕎麦よりも湯葉の香のまづ秋の雨   久保田万太郎

新蕎麦や宿出でてすぐくさはらに  田中裕明

一茶忌の蕎麦を雀のごとく食ふ  青柳志解樹



2016年10月5日水曜日

●水曜日の一句〔齋藤愼爾〕関悦史


関悦史









枯山から葬の手順を指図せり  齋藤愼爾


既に死んでいる立場から、自分の葬儀の手順を指図しているというのが、さしあたり妥当な句意ということになるのだろう。死んでいながら葬儀のあれこれにこだわるあたり、まだ成仏できていないどころか、そろそろ妄執の域に入るが、こだわりの対象が遺産や人事でない点は、脱俗の徒であるともいえて、死後の話なのだから当然と言えば当然なのだが、実利を放り出して儀式の形式に執しているところなど、スタイリッシュな人物なのではないか。その過度のスタイルへのこだわりが、はたから見れば滑稽ともなり、グロテスクともなるのだが。

死後の話と見た場合、「枯山」はその比喩や象徴であることになるが、そうした説明に終わる言葉としては、枯木のひしめく山という場は、「空」や「あの世」に比べて、錯雑たるところ、枯木のように細った身が軋んでいるような妖気があり、古代の殯(もがり)の最中の身体のような、奇妙ななまなましさがある。また「指図せむ」と先々の意志をあらわすのではなく、「指図せり」と既にその渦中にある句形となっている点もそのなまなましさを強める。

生身はまだこの世で動きながら、その本質的部分は既に他界しているという、非直線的な、重層した時間感覚と生命感覚を詠んでいるが、その、あの世この世の位置関係が、たとえば永田耕衣のような無限の球体じみた包摂性ではなく、歩いて行けそうな地続きの距離感を持ちながら、あきらかにつねの世ではない「枯山」との、直線的で、なおかつ同時に別次元の場という関係として提示されている点がこの句の特色だろう。世界観自体が、ふくよかさよりも細さのなかに凝縮させられている。

平地よりはいささか高いとはいえ、そちらはそちらであまり自由自在におのれを解放したり無化したりできる場でもなさそうである。その枯木の稠密なこみあいと静粛のなかに、からめとられてあり続けること自体に、多少の悦びがひめられていはしまいか。


『陸沈』(2016.9 東京四季出版)所収。

2016年10月4日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム4 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム4

福田若之


過去に棲むちいさなひとでなしの僕

親が留守包丁のありか押さえておく

眠るちちはは刺すこと思いひとりで泣く

いじめられっ子にいじめられる子だった夏

復讐の馬乗りの僕嗤っていた

尊ぶという語の理解までの霧



2016/9/8

2016年10月3日月曜日

●月曜日の一句〔松枝真理子〕相子智恵



相子智恵






忘れ物あへて届けず秋うらら  松枝真理子

句集『薔薇の芽』(2016.09 ふらんす堂)より

「秋うらら」という明るい季語によって、この忘れ物はどんな物か、忘れ物をした場所、忘れ物をした人と、された人との間柄……などがよく見えてくる句だ。

忘れ物を届けないのに麗らかな秋を感じられるということは、この忘れ物が財布や携帯電話など、重要かつ緊急に必要になる物ではなく、忘れていってもさほど支障のない、ハンカチのような物だろう。

忘れた場所も、もちろんレストランなど外出先ではなく自宅だ。

また、あえて届けなくてもよい間柄だから、電話などで忘れ物の連絡をしつつも「じゃあ、次に来る時まで置いておくね」「よろしく」と言えるくらいの親しさであることもわかる。お互いの家の行き来も頻繁だということも想像されてくる。

「忘れ物」「あへて」「秋うらら」のア音の繰り返しも明るく、弾むような感じが楽しい。忘れ物でさえ、この二人が過ごした楽しい時間の名残に感じられてくる。