2021年7月30日金曜日

●金曜日の川柳〔広瀬ちえみ〕樋口由紀子



樋口由紀子






夏野まで行ってどうでもよくなって

広瀬ちえみ (ひろせ・ちえみ) 1950~

「夏野」は日陰もなく、草いきれの激しい、見渡すかぎり夏草のおい茂っているところである。そんな夏野を詠んでいるのでも、夏野に癒されたというのでもないだろう。あくまでも自分の感情と機微を上位に置いている。夏野に行くまでにどんな葛藤があったのかわからないが、下した結論は「どうでもよくなって」である。最初からそのつもりだったのか、いくら考えてもしかたないから、ひとまず夏野を満喫しようと気持ちを切り替えたのか。そこを軽やかにユーモアに浮かびあがらせている。

「どうでもよくなって」のすっとぼけた喋り口調は句のバランスを崩し、文脈も意識もガラリと変える。この世は「どうでもよくなって」と思って、生きていくところである。『雨曜日』(2020年刊 文學の森)所収。

2021年7月28日水曜日

●西鶴ざんまい #12 浅沼璞


西鶴ざんまい #12
 
浅沼璞
 

 着るものたゝむやどの舟待ち  四句目(打越)
埋れ木に取付く貝の名を尋ね   五句目(前句)
 秘伝のけぶり篭むる妙薬    六句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
さて打越まで取って返し、「三句目のはなれ」の吟味にかかります。

 
まず前句が付いたことにより、磯歩きする人の眼差しが特定されました。その眼差しは埋れ木の貝をとらえ、貝の名を案内人に問うています。
 
この問いかけに対し、秘伝の貝の黒焼き(薬の製法)をもって転じたのが付句。眼差しは薬師(医者)のそれへとシフトチェンジします。【注】
 
前回ふれたように加藤定彦氏は前句/付句に関し、「やや物付(詞付)の気味がある」としています。そして『類船集』(1676年)における牡蠣&寝汗の付合を注に付すだけでなく、同集より貝&ねり薬の例も引いています。
 
じつは西鶴自註の続きにも、焼き貝の粉末を練香(ねりかう)に入れる由、書かれているのですが、そんな親句的要素が複数あるにしても、結果として眼差しの転じがなされている以上、物付がマイナス要因としてのみ働いているのではないことは明らかです。

 
 
さらに言えば、余情の映発による元禄正風体(心行≒移り)の疎句だけが特権的に「三句目のはなれ」を可能としているわけでもありません。
 
物付(詞付)であれ、心付(意味付)であれ、親句技法には親句技法なりの「三句目のはなれ」ひいては「眼差しの転じ」があります。
 
むしろ不用意な疎句の連発は「三句目のはなれ」の基準を曖昧なものにしてしまう恐れすらないわけではありません。

晩年になって親句から疎句への転向をはかった西鶴とて、そんなことは百も承知、二百も合点――

「せやから疎句・親句のバランスも肝心や、言うたやろ。つぎの七句目かて……」

あー、ネタバレ禁止ですって。

 
【注】
『日本永代蔵』(1688年)巻二ノ三「才覚を笠に着る大黒」に黒犬の丸焼きを〈狼の黒焼〉として売り歩くエピソードがあります。これには「薬食いの狼を騙った詐称だ」とする説がある一方、本文には〈疳の妙薬になる犬なり〉の一節もみえます。「黒焼の妙薬」へ向けた医者の眼差しは散文にもいかされていたようです。

2021年7月23日金曜日

●金曜日の川柳〔中村冨二〕樋口由紀子



樋口由紀子






犬交る、大野九郎兵衛昨日死せり

中村冨二 (なかむら・とみじ) 1912~1980

「大野九郎兵衛」は播州赤穂藩家老で諸説のある謎の人物である。「犬交る」と「大野九郎兵衛昨日死せり」は何の結びつきもなく、因果関係はどこにもない。生死を対比させるというよりは、生死そのものにある生々しさ、面妖さを反映している。生き物であるからには、瞬時に生を受け、瞬時に死んでしまう。いつどこで生まれるか、いつどのようにして死ぬのか当事者にはわからない。

読点の役割を充分に意識したところに冨二の息遣いが光っている。文脈を組み合わすことで迫力と存在感を充たしていく特別な感受性を感じる。その存在自体も不確定なものとして考えているのだろう。今、私は生のどの辺りにいるのかと思う。『中村冨二 千句集』所収。

2021年7月19日月曜日

●月曜日の一句〔川嶋一美〕相子智恵



相子智恵







琉金の鈴鳴るやうに寄りきたる  川嶋一美

句集『円卓』(2021.4 本阿弥書店)所載

〈琉金〉は、ぽってりと丸い金魚で、体をくねらせて尾びれを懸命に振りながら水中を進んでいく。スマートではないので推進力はあまり感じられない。なるほど、〈鈴鳴るやうに〉と言われてみれば、どことなく紐のついた鈴を振るように跳ねる感じがあって、面白い比喩である。〈寄りきたる〉が健気でかわいい。

「琉金」と「鈴」という金属を感じさせる涼しい字面と、リンリン、リンリンという鈴の音が想像されてくることで、目にも耳にも涼しさが感じられて、本格的に暑くなってきた今読むのにぴったりの、心地よい読後感のある一句である。

2021年7月16日金曜日

●金曜日の川柳〔吉田三千子〕樋口由紀子



樋口由紀子






指で潰せるものの総ての一覧表

吉田三千子 (よしだ・みちこ) 1947~

世の中にはいろいろな一覧表がある。こんなものにもあんなものにもと思うくらい様々にある。それらはきっと必要で、役に立ち、何かの参考になるからである。しかし、ここでの「指で潰せるもの」はまったく個人的なもので心情の一端だろう。

「指で触れる」「指で押す」ではなく「指で潰せる」というところに作者の気持ちと意志が見える。さらに「総ての」とだめだしに感情の表出がある。生産性のない、無意味な行為に本質がにじみ出ている。私にもいっぱいありそうで、気まぐれにあれこれ探すと思いもよらないものが次々と出てくる。心の裡が顕わになりそうで怖い。「蟹の目」(2021年刊)収録

2021年7月14日水曜日

●西鶴ざんまい #11 浅沼璞


西鶴ざんまい #11
 
浅沼璞
 

埋れ木に取付く貝の名を尋ね
   西鶴(五句目)
 秘伝のけぶり篭むる妙薬     仝(六句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
六句目も雑。「秘伝の黒焼き製法のその煙をこめた妙薬なり」といった感じの薬師(医者)の口上です。

 
自註に曰く「石花(かき)がら・さるぼ、かゝる貝類を黒焼きにして妙薬さまざまに世に売り広め、新竹斎坊と名に、長羽織、長口上をかし……」。
 
「かき」は牡蠣、「さるぼ」は赤貝に似たもの。「黒焼き」は薬用のため動植物を炭化するまで蒸し焼きにすることです。
 
「新竹斎坊」とは藪薬師・竹斎の世継。つまり仮名草子『竹斎』(1623年?)を受けた『新竹斎』(1687年)の主人公・荀斎(じゅんさい)のこと。「長羽織」は当時の医者のトレードマークでした。

 
 
本家の竹斎といえば、つぎの一句が知られています。

  狂句木枯の身は竹斎に似たる哉    芭蕉(『野ざらし紀行』1685年)

ご承知のように、これは『冬の日』(1684年)巻頭歌仙の発句でもあり、尾張の連衆への挨拶吟。竹斎も東海道を下る途次、尾張に滞在したので、それに引っかけた挨拶です。

かような風狂精神とは無縁な西鶴も、同時代人としてロングセラー『竹斎』に影響を受けたのは間違いなく、竹斎が古畳・古紙子を黒焼きにし、さる侍の瘧を治したという尾張のエピソードなど、『西鶴諸国ばなし』(1685年)のルーツかと見紛うばかり。

もっとも牡蠣殻&寝汗は『類船集』(1676年)でも付合とされ、焼き牡蠣殻の粉末に寝汗止めの効用あり、というのは確かなようです。

 
そんなこんなで、自註と最終テキストとの落差を埋める過程を想定すれば――

牡蠣の黒焼き伝授致さう 〔第1形態=黒焼きくん〕
    ↓
 秘伝のけぶり篭むる妙薬 〔最終形態=妙薬さん〕

前句の「お尋ねさん」から第1形態「黒焼きくん」の伝授へ。そして秘伝の「妙薬さん」へ、という飛ばし形態。つまりは「黒焼きくん」の抜けです。

 
ところで新編日本古典文学全集『連歌集 俳諧集』(小学館)には「やや物付の気味がある」と加藤定彦氏の指摘があります。言葉の連想による「物付」という親句……。

「なんや学者はんのツッコミかいな。談林は古いゆうたかて、疎句オンリーやったら疲れる。疎句・親句のバランスも肝心やで。よーく読んでや」

 
では次回、打越へ取って返し「三句目のはなれ」をよーく吟味させて頂きます。

2021年7月9日金曜日

●金曜日の川柳〔天谷由紀子〕樋口由紀子



樋口由紀子






風の日はおぼろ昆布をひとつまみ

天谷由紀子 (あまや・ゆきこ)

「風に日」は風が爽やかに吹いている日というよりは風の強い日だろう。あるいは心に風が吹いて、ざわざわしているのかもしれない。大したことではないと自分に言い聞かせるように、おぼろ昆布をひとつまみ口に入れたり、汁物に入れたり、温かいご飯にのせる。おぼろ昆布の塩味とやわらかい感触が心をやわらげてくれる。

内容はおぼろ昆布をひとつまみしたというだけの日常を書いている。生きているとどうすることもできないことが起こる。なにがあっても気持ちを切り替えていくしかない。なんでもなさそうな顔をして、人はこの世を遣り過す。「風の日」と捉えてからの一句の流れがきれいで、「おぼろ昆布」がいい味を出している。書かれている以上の、言葉にはできない気持ちが含まれている。「蟹の目」(2021年刊)収録。

2021年7月5日月曜日

●月曜日の一句〔本多遊子〕相子智恵



相子智恵







父の日や煮れば骨出るスペアリブ  本多遊子

句集『Qを打つ』(2021.5 角川文化振興財団)所載

〈煮れば骨出るスペアリブ〉は、料理としてはじっくりと煮込まれていて美味しそうではあるのだけれど、〈骨出る〉に着目したことにドキリとしてしまう。さらに上五の〈父の日や〉との取り合わせによって、どことなく複雑な感情がもたらされているのだ。実際には父の日に、父が好きなスペアリブを煮込んでいるだけかもしれないのだが。

家族というのは近すぎるがゆえに様々な衝突があるものだ。血のつながっている者同士の諍いや争いを「骨肉の争い」と呼ぶこともあって、〈骨出る〉というスペアリブの写生と〈父の日〉という季語の取り合わせの後ろに、どこか不穏な感情が立ち上がる。

しかし、この一句自体はあくまでおいしそうな料理の句なのであり、時間をかけてスペアリブをコトコト煮込むような余裕もあるのだから、「そんな喧嘩も、かつてあったなあ」とでもいうくらいの過去になっているのであろうな……と想像させる。

家族という不思議な関係、家族でいる不思議な時間の長さを、取り合わせの妙味で味わえる一句である。

2021年7月3日土曜日

●の中【同音異句2】

の中【同音異句2】
compiled by 佐藤りえ

一月の川一月の谷の中  飯田龍太

薔薇の実の雨の中なる甲斐の国  橋本直

目のなかの冬ぞら庭木せめて立つ  阿部青鞋

雪の日の餃子の中に眠るかな  中村安伸

天道虫だましの中の天道虫   高野素十

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2021年7月2日金曜日

●金曜日の川柳〔木村半文銭〕樋口由紀子



樋口由紀子






夕焼の中の屠牛場牛牛牛牛牛牛牛牛牛牛

木村半文銭 (きむら・はんもんせん) 1889~1953

昭和11年に作られた川柳である。これも写生句といえるだろうか。放牧されている牛を夕焼けの中で見ることはある。それは一枚の絵になる。しかし、「屠牛場」となると事態は一転し、夕焼けの抒情は一気にかき消される。それは作者の発見ではなく、意図だろう。夕焼けの美しさは儚く、真っ赤な彩は現実を刻印する。夕焼けが消えれば漆黒の夜がやってくるように、多くの牛の運命も否応なく思いおこさせる。

「牛牛牛牛牛牛牛牛牛牛」がとびきり斬新で、言葉の力がストレートに発揮されている。牛たちの姿が鮮明に次々と現れ、牛一頭ずつのいのちを見据えているまなざしがある。どんな表記よりも濃密に、大きな存在感を持つ表現になっている。

2021年7月1日木曜日

●マンボ

マンボ

汗垂れて庶民モツ喰ふヘイ・マンボ  岸田稚魚

密集して蚋腰高に振るマンボ  赤尾兜子

ウーと出てマンボと続く潮干狩  佐山哲郎