前回予告しましたように、この番外編では小津安二郎の俳諧(≒連句)について述べてみます。
愚生が小津の連句について調べはじめたのは、拙著『「超」連句入門』(東京文献センター、2000年)執筆の折からで、20年以上前のこととなります。そこでは終戦後の小津のインタビュー記事から、以下の部分を引用しました。
〈マレイでは、軍の委嘱で記録映画をとる準備中でしたが、仕事が始らぬうちに情勢が悪化し、ひとまず中止のかたちとなり、やがて終戦となり、向うの収容所に入り、帰還するまで労務に従事してました。ゴム林の中で働く仕事を命じられ、そこに働いているあいだ暇をみては連句などをやっていました。撮影班の一行がその仲間なんです。故寺田寅彦博士もいわれていたが、連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがある。われわれには、とても勉強になりました。(略)〉(『キネマ旬報』1947年4月号)
拙著では寺田寅彦の映画連句論をすでに扱っており、渡りに船でこの引用につないだのですが、実を言えば小津の連句作品そのものは未見でした。
で、どこかにその記録がないかと、(ネット普及以前でしたので)図書館へ出向いたり、心当たりの方々に電話をしたりしました。
がしかし、なかなか手掛かりがつかめず、諦めかけたちょうとその頃です。
『文學界』特集「映画の悦楽」(2005年2月号)に小津のシンガポール時の手控え帖が掲載されたとの由、伝え聞きました。
さっそく求めて紐解くと、三冊あるという手帖の全文が3段組みで40頁にわたって掲載されていました(仮題「文学覚書」、貴田床・編纂)。
内容は正に手控えで、当時小津が興味を持ったであろう古典文学や絵画など芸術一般に関するメモが列記されていました。
二冊目には、俳諧師や浮世草子作家として西鶴の名も二カ所メモられていました。
そして三冊目、ありました、ありました。自作俳句や歌仙式目一覧とともに、三吟歌仙とおぼしき連句三巻がメモられておりました。
編者の解説によれば手帖の内容は初公開らしく、これまで連句の手がかりが掴めなかったのも当然と言えば当然だったわけです。
果たしてこの貴重な資料が世間でどのように受け止められたのか、寡聞にして知りません。連句に関しては、かろうじて松岡ひでたか著『小津安二郎の俳句』(河出書房新社、2020年)に【附録】として俳句や連句三巻が転載されたのが目新しいところではないでしょうか。(興味のある向きは是非)
では小津(俳号・塘眠堂)によるモンタージュを一巻に一組ずつ拾ってみましょう。(連句にタイトルはなく、連句㊀㊁㊂とのみ記載あり。)
フリージヤピアノ弾く娘の今ハ亡く 帚
三面鏡(かがミ)にうつる若芝の庭 塘 (連句㊀より)
コスモスや国ハ破れて山河あり 帚
城春にして うで玉子くふ 塘 (連句㊁より)
かしぎつゝ省線電車馳り去る 不
自働電話のペンキ塗り立て 塘 (連句㊂より)
ご覧のように「三面鏡」「うで玉子」「自働電話」といった俳言によるワンショットが効果的にあしらわれています。
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なお本年は小津の「生誕120年 没後60年」ということで、愚生の地元横浜では大規模展が催されました(4/1~5/28 神奈川近代文学館)。
出かけてみると「小津安二郎の戦争」というコーナーがあり、例の手控え帖の現物も展示されていました。開かれたページは、残念ながら連句の部分ではありませんでしたが、横書きの小さな手帳に縦書きでしたためられた、小津の丹念な筆跡を図らずも拝むことができたのです。合掌。
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