2017年2月28日火曜日

〔ためしがき〕 「法位に住す」 福田若之

〔ためしがき〕
「法位に住す」

福田若之


次に示すのは、道元『正法眼蔵』の「現成公案」のうちの一節である。
 たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とはならず。
 しかあるを生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。
 生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
僕は仏法については決して詳しくはないけれど、僕自身の読みを示すためにも、試みに現代語訳してみる。
 薪が灰となることは、決してもとにかえって薪となりうるはずはない。そうであるのを、灰はのち、薪はさきと見なしてはならない。知りなさい、薪は薪の法位に住まっていて、(薪のかぎりにおける)さきがありのちがあるということを。前後があるとはいっても、前後はその際で断たれている。灰は灰の法位にあって、(灰のかぎりにおける)のちがありさきがある。くだんの薪が、灰となったのちに、もう一度薪にならないのとおなじように、人が死んだのちには、決して生とはならない。
 そうであるのを「生の死になる」といわないのは、仏法のさだまったならわしなのだ、これゆえに「不生」という。死が生にならないのは、仏の教えの、さだまった、仏による伝えよう(法輪の、さだまった、仏による回しよう)なのである、これゆえに「不滅」という。
 生も一時のくらいなのだ、死も一時のくらいなのだ。たとえば冬と春とのように。冬が春となるとは思わず、春が夏となるとは言わないものである。
この一節は、俳句を書くものにとって、ただちに、俳句についてのいくつかの問いを喚起するように思われる。

第一に、「前後際断」ということと、俳句の「切れ」についての既存の教えとのかかわりについての問い。一句はその前後で切れているとするあの教えは、ここに説かれている「前後裁断」ということにつながることは明白であるように思われるのだが、だとすれば、はたしてそのつながりはいかなるものでありうるのか。

第二に、季節についての問い。たとえば、寺山修司が《かくれんぼ三つかぞえて冬となる》と書くとき、そこで言われているのは、いったい何が冬となることなのか。あるいは、英語などにおけるいわゆる形式主語を含んだ文を日本語訳する場合とおなじく、「何が」という問いかけ自体がそもそも不当なものであるのか。

これら二つの問いは、それぞれ、切れと有季という俳句にまつわる一般的なことがらに触れているという点で、重要なものに思える。だが、この一節がとりわけ僕の興味を惹くのは、人によっては俳句とさほど深いかかわりを持つものと思わないかもしれない、「住す」という語の特別な用法ゆえにである。

「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」。薪は、薪の法位に、住まっている、というのだ。「法位」というのは、すなわち、あるがままであること、真理、本質などを意味する言葉だという。だが、「法位に住して」という言い回し――『妙法蓮華経』の「方便品」にみられる「是法住法位」すなわち「是の法、法位に住す」と訓じられる一節に由来するとみられる、この言い回し――は、「法位」が「くらい」であると同時に「位置」であることに関わっていると考えられる。この「法位」という語は単純に「真理」や「本質」といった語に翻訳することはできないのだ。

もちろん、法位に住むとか住まないとかいうことは、まずもって、言い回しの問題である。だが、この一節においては、道元にとって、教えというものがすなわち法輪の回転に等しいということもまた示されているのではなかったか。そうでなくとも、教えるということは、言い回すということのひとつのありようにほかならないだろう。だから、道元のこの教えにおいて、言い回しというのは、それ自体、本質的な(あるいは、こう言い回してよければ、「法位的な」)なにかであるように思われてならないのだ。

僕がこの一節に思いをめぐらせてやまないのは、ついに概念的であるにもかかわらず、同時に、現に何かしらの場であるかのようにして想起される「法位」のありようが、言葉に住むことないし棲むことをめぐる問いと深くかかわりながら、なんらかの触媒作用によって、そうしたことがらについての僕自身の考えを変質させてくれそうだという期待、その可能性ゆえになのである。

この「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」という一文において言われているのは、「前後際断」ということでもあった。この「前後際断」ということは、いかなるかたちであれ、一句はその前後と切れているというふうな言い回しでしばしば教えられる、あの俳句の「切れ」に通じるものであるだろうということは、前述したとおりである。ならば、一句を書くことそれ自体によって生じる裂け目としての「切れ」の現象は、言葉のうちに住まうことと表裏一体のことがらなのではないか。そして、言葉はつねに言い回されつづけることによってしか言葉でありえず、すなわち、言葉はつねに回転し流転しつづけることによってのみ言葉でありつづけるのだとすれば、一句を書くということは、それにともなう「切れ」の現象によってこそ、旅を栖とするということたりうるのであり、それは、たとえば僕自身を含む種々の生き物が自転し公転する地球に住んでいるのと似たようにして、言葉に棲むということなのではないか(もしかすると、「宇宙船地球号」といういまや陳腐と化したあの隠喩も、舟の上に生涯を浮かべるということとのむすびつきようによっては、なんらかのかたちで息を吹き返しうるのかもしれない)。こうしたことは、もちろん、ただ一句を書くことを超えて、「切れ」をひとつの契機とした「転じ」の連続にほかならない俳諧の連歌、連句のありようにまで通じることに違いない。

ところで、これまで述べてきたような「切れ」は、区切り、仕切ることによる閾の発生にほかならない以上、書くことをただのなわばりづくりに還元する罠ともなりうるものだ。 たしかに、なわばりもまた棲むことを可能にする。しかしながら、そのとき、「切れ」とは領地の画定にほかならず、書くことは国境線を引くことにほかならないだろう。そのとき、僕らは定住することに甘んじて旅を失うに違いない。たしかに、俳句というものがもし植物的なものであるとすれば、それらの句はきっとそれらに固有の自生地を持つだろう。だが、そこであらたに立ち上がる問いは、この自生地にいかに繁殖しつづけるかではなく、この自生地からいかに出発するかなのだ。だからこそ、「切れ」を旅の可能性に転じるために、絶えざる回転運動が必要となる。

風に吹かれた草の種が、その綿毛をひろげ、散り散りになって宙に回りはじめる。まもなく、かまきりがそれを追い、あたらしい土地に向かうだろう。

次の一句を書くこと。

2017/2/7

2017年2月27日月曜日

●月曜日の一句〔田島健一〕相子智恵



相子智恵






晴れやみごとな狐にふれてきし祝日  田島健一

句集『ただならぬぽ』(2017.01 ふらんす堂)より

数年前に、この句の初出の瞬間(大きな句会だった)に立ち会えた時の感動はいまだに覚えていて、それは晴れた祝日のことだった。

晴れている、祝日であるということは詠めても、こんな俳句にはなかなか出会えるものではない。以来、祝日になると思い出す愛唱句となった。

〈西日暮里から稲妻見えている健康〉〈ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ〉〈白鳥定食いつまでも聲かがやくよ〉など、句中の「健康」や「ぽ」や「定食」など、それがあるから難解であり面白くもある言葉の意外性は、説明を拒みつつ強烈な印象を残す。

どこからその言葉は流れ着いたのか…という言葉同士が不思議な一句になるので、作者の実験工房の裏側を見たような気がして、冒頭の日のことが印象に残っているのだ。もちろんその日の現実という裏側を見たからといって、句の謎はさらに深まるばかりで、何にも分からない。なんとも美しく、晴れがましく、いかがわしく、楽しい、謎に満ちた句なのである。

日本の祝日というもの自体のわからなさ(由来と名前の乖離など)もあって、その分からなさが狐につままれたような気分と合う。しかし〈みごとな狐にふれてきし〉は逆に、狐を積極的につまみにいくような、自ら化かされにいくような感じであるのが面白い。快晴の日の光に反射して銀色に輝く狐の毛並みの美しさと、「ハレとケ」のハレの気分。ここに書かれた言葉のすべてが、美形の詐欺師の見事な嘘であるかのように、まばゆく輝いている。

2017年2月25日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年2月24日金曜日

●金曜日の川柳〔筒井祥文〕樋口由紀子



樋口由紀子






こんな手をしてると猫が見せに来る

筒井祥文 (つつい・しょうぶん) 1952~

猫がひょいと人の手に猫の手(正確には前足)をのせる動作をすることがある。猫好きにはたまらない仕草であるらしい。その所作を猫がこんな手をしているんですと見せに来ているという。いやいや、そうではない。もちろん作者だって見せに来ているのではないことはわかっている。が、人間側からの勝手な見方をおもしろく川柳に仕立てる。見つけの上手さがあり、あそびごころがある。

最近話題の『猫俳句パラダイス』(倉阪鬼一郎編 幻冬舎新書)にも取り上げられていて、帯にも載っている。「こういった奇想をさらりと表現できるのも現代川柳の持ち味です」と倉阪さんが書いている。『セレクション柳人 筒井祥文集』(2006年刊 邑書林)所収。

2017年2月22日水曜日

●水曜日の一句〔伊丹三樹彦〕関悦史


関悦史









机上春塵 稿債 積読(つんどく) 嵩成すまま  伊丹三樹彦


書き終わっていない原稿、読み終わっていない本が机に積み上がり、そこに塵までが積もる。

片付かないものばかりが山積みとなった鬱陶しい日常以外の何ものでもなく、特に詩趣も諧謔もない光景のはずなのだが、句を読み下してみると、どこかうきうきしているような気分も感じられる。

「稿債」は俳句でときどき見かけるが、辞書には収録されていない言葉らしい。こういう少々なじみのうすい単語が「机上春塵 稿債」と硬い語感の並びをかたちづくると漢詩か何かのような韻律を生み、情報量も圧縮されて増えるので、妙な張りが出てくるのである。そしてそれは作者当人の心の張りもうかがわせる。

果物などと違って静物画の画題にはなりそうにない、また描きようによってはいくらでも殺伐たるものになる素材だが、この机、未完成原稿、読みさしの本は全て、脳の活動を外在化させている物件といえ、自分の内と外の両側にまたがっている。どれも活動中の知能と関わりあいつつ、具体物として「嵩」を成しているのだ。いわゆるアニミズムとは別の経路かもしれないが、その意味でこれらは、作者と連続した生気を帯びていて何の不思議もない物件なのである。

しかし「春塵」はそれらをうっすらと覆い、その物件性を際立たせる。大げさにいえば自分の知的活動からの自己疎外である。時間は過ぎていく。春塵は積もる。古びつつ次第に縁遠くなり、忘れられてもゆくおのれの知的活動の痕跡たち。その静かな時間と物の暴流のなかで、それに反発しつつ、句をなす心は華やぐ。そして「春」の塵は、その片付かぬ途中性の一切をおだやかに肯定する。


句集『当為』(2016.4 沖積舎)所収。

2017年2月21日火曜日

〔ためしがき〕 亀の声、蛇の肺 福田若之

〔ためしがき〕
亀の声、蛇の肺

福田若之


亀には声帯がない。けれど、たとえば、ウェブマガジン「スピカ」に掲載された折勝家鴨「あから始まるあいうえお」の2016年12月27日分のショートエッセイにも記されているように、亀は鳴くことがあるそうだ。

声帯がないのに「鳴く」というのはおかしいという向きもあるかもしれない。しかし、それを言うなら、蟬や鈴虫だって声帯はないけど、日本語ではそれらが音を出すことを「鳴く」と表現してさしつかえない。そうした意味では、亀についても「鳴く」と言ってよいはずだ。

キューと亀鳴いたる事実誰に告げむ》という三橋敏雄の句は、したがって、たしかに「事実」を前にした戸惑いとして成立しうる。

ただし、藤原為家が《川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなる》と詠んでいるのはやはり虚飾があるのだろう(「亀鳴く」を春の季語とみなす場合、一般に、この歌がその典拠とされている)。亀はたしかに鳴くことがあるのだが、決まった鳴き声があるわけではないようなのだ。だから、この歌のように音を聞いただけで鳴いているのが亀かどうかを判断することは、まず不可能だと思われる。

だから、話は非常にややこしい。亀はたしかに鳴く。けれど、「亀鳴く」という言葉がもつ季語としての風情は、むしろ、亀が鳴いたわけではない音を亀が鳴いたのだと聞きならわすことにある。「亀鳴く」が春の季感を持ちうるのは、「亀鳴く」という言葉を春の季語として認識している人間が、なにか些細な物音について、春だからもしかすると亀が鳴いているのかもしれないなどと冗談半分に思いながら「亀鳴く」と書いてみる、そのこころによってであろう。

それにしても、亀の鳴き声について調べていたら、蛇の肺は左右非対称で右だけがすごく長い、ということまでついでに知ってしまった。誰に告げよう。


2017/1/26

2017年2月19日日曜日

◆『週刊俳句』10周年記念オフ会のお知らせ〔第1弾〕

『週刊俳句』10周年記念
オフ会のお知らせ〔第1弾〕

小誌『週刊俳句』はこの4月、10周年を迎えます。そこで、皆様とともに記念祝賀の集まりを楽しみたいと考えました。

日時:2017年416日(日) 12:30~20:30
※昼はイベント、夜は懇親会。詳細は追ってお知らせいたします。
まずは、この日、スケジュールをあけておいていただけますでしょうか。

場所:東京・小石川後楽園 涵徳亭
東京都文京区後楽1-6-6
〔アクセス〕都営地下鉄大江戸線「飯田橋」(E06)C3出口下車 徒歩3分
JR総武線「飯田橋」東口下車 徒歩8分
東京メトロ東西線・有楽町線・南北線「飯田橋」(T06・Y13・N10)A1出口下車 徒歩8分
東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園」(M22・N11)中央口下車 徒歩8分

2017年2月17日金曜日

●金曜日の川柳〔草地豊子〕樋口由紀子



樋口由紀子






乳のある方が表でございます

草地豊子 (くさち・とよこ) 1945~

一読して大笑いしてしまった。確かに「乳のある方が」おもてであり、まえである。まちがったことはなにも言っていない。でも、もっと他の言い方があるでしょう、よりにもよって「乳」なんて言葉を平気で使うなんて、ここまでよく言うわと感心した。でも、どんな問いをかけられたのだろうか。

「こんな恥ずかしい句はよう書かんわ」と作者に告げると、「恥ずかしがっているうちはいい川柳は書けへんわ」と笑って言われてしまった。私はまだまだ修行が足りず、どこかで恥ずかしがっていて、ええかっこして川柳を書いていると痛感させられる。インパクト抜群の川柳で、何度読んでも降参するしかない。〈文化の日「乳」という題ひねっている〉〈用もない乳が未だにぶら下がる〉 「杜人」(2016年冬号)収録。

2017年2月16日木曜日

●地下鉄

地下鉄




地下鉄にかすかな峠ありて夏至  正木ゆう子

地下鉄を出るより三社祭かな  倉田春名

秋の蚊の声や地下鉄馬喰町  大串 章

地下鉄に下駄の音して志ん生忌  矢野誠一

地下鉄によく乗る日なり一の酉  松本てふこ〔*〕

地下鉄に息つぎありぬ冬銀河  小嶋洋子


〔*〕『俳コレ』(2012年1月/邑書林)より。

2017年2月15日水曜日

●水曜日の一句〔田島健一〕関悦史


関悦史









夕立を来る蓬髪の使者は息子  田島健一


幻想的な作風で知られる小説家の森内俊雄に『使者』という中篇があって、そちらも息子が他界性を帯びたキャラクターとなっていた。本が手元にないのでうろおぼえで書くが、しかも出だしは、帰ってくる息子を主人公が風呂場で待つシーンだったはずである。つまり使者=息子の帰還と、それを待ち受ける視点人物との間に、どちらも水が介在している。

ここに何か普遍的な想像力のパターンのようなものが介在しているのかは判然としないが、七つまでは神のうちという子供観は昔からある。新しい命がどこからやってくるのかはわからないし、乳幼児死亡率の高かった時代であれば、なおのこと幼子はこの世に定着している存在とは見えなかっただろう。「水にする」といえば堕胎を指すということもある。子=水=他界的な使者という観念連合自体は無理のないものだ。

無理がないということはそれだけでは句になりにくいということでもあって、この句の場合、そこにずらしをかけているのは「夕立」「来る」「蓬髪」の三語となる。

「夕立」は静かに湛えられた水ではなく、空間と視界を激しくかき乱す水である。ここでは視界全体が他界と地続きになっている。「蓬髪」も尋常の形容ではない。「夕立」と合わさると単に「神のうち」というよりは、鬼神に近いワイルドな(しかもおそらく性的魅力すらある)何かと見えてくる。その中での「来る」は、受胎告知か何かのような重みを持つ。そして、それを受けられる視点人物も、息子と同じ他界性をいささかは分有する資格のある者ということに、突然なるのだ。

分解していくとこのようなことになるが、語順から見れば「夕立を来る蓬髪の使者」というひとまとまりの異様な認知がまずあり、それが「息子」であったという急展開が視点人物をもいきなりこの世から浮き上がらせてしまうわけで、重みのある言葉の組み合わせが、かえって重力を剥奪してしまう辺りがこの句特有のダイナミックな愉悦を成している。

「は」はメタレベルからの定義付けとなるので、理屈っぽくなりがちな助詞なのだが、それも逆手に取られた格好で不思議な衝撃の演出に役立てられている。


句集『ただならぬぽ』(2017.1 ふらんす堂)所収。

2017年2月14日火曜日

〔ためしがき〕 「俳句入門書」について 福田若之

〔ためしがき〕
「俳句入門書」について

福田若之


「俳句入門書」を、額面通りに読むなら、たぶんそれはさほど面白くもないし、さほど役にも立たない(少なくとも僕にとっては)。

だが、俳句の作り手の思想なり思考なりのあらわれとして読めば、あれらの書物にも、面白み(すくなくとも、面白みの契機)はある。たとえば、虚子の『俳句の作りよう』は、写生による俳句を、あたかも感覚器官・感覚神経と中枢神経のみからなるシステムにおいて生成可能なものであるかのように語っている。これを、たとえばアレクサンドル・ベリャーエフのSF小説である『ドウエル教授の首』などを念頭に置きながら読むということは、僕にとっては、ただ虚子の俳句だけを読むこととは全く異質の、面白い読書体験だった。

原石鼎の『俳句の考え方』も、秋元不死男の『俳句入門』も、彼らの思想や思考の過程、そして何より彼らの個人的な思い出などが書き込まれたものとして読めば、相応の豊かさをもっている。

要は読み次第だ。それ次第で、多くのさほど面白くもない「俳句入門書」は、面白い書物に化けうる。そして、その面白みは句集を読む面白みとはまったく別のものでありうる。

ちなみに、額面からして「俳句入門書」ではないように思われるものが「俳句入門書」として紹介されてしまっているという場合もある。たとえば、ひらのこぼ「俳句入門書100冊を読んで」の末尾に付された『俳句開眼100の名言』の目次の100冊には、句集である三橋鷹女『羊歯地獄』 や、エッセイ・書評などを中心に収めており「俳句入門書」的要素のほとんどみられない攝津幸彦の全文集である『俳句幻景』をはじめ、「俳句入門書」として読むほうが珍しいであろう多くの書物が含まれている(この際だから自分の考えをはっきり書いておくと、鷹女の『羊歯地獄』の自序というのは、「俳句入門書」的な短文などではさらさらなく、むしろ鷹女が「俳句入門書」を書くなどということとはついぞ無縁であったことを証しだてるもののはずだ)。

自分が面白いと感じられる本を探すのに必要なのは、「俳句入門書」というレッテルと向き合うことではなく、一冊一冊の書物と向き合うことだ。僕は、リンク先に掲げられた100冊のリストが「俳句入門書」を拒む読者にとっての「読むことなく敬遠すべき100冊」のリストとなってしまわないことを祈る。

2017/2/1

2017年2月13日月曜日

●月曜日の一句〔宗田安正〕相子智恵



相子智恵






啓蟄の何も出て来ぬ日も来るとか  宗田安正

句集『巨人』(2016.11 沖積舎)より

土の中から冬眠していた虫が出てくる啓蟄。その啓蟄に、いつか何も出てこない日も来るとか…という。虫たちが死に絶えた後のことを指しているのだろう。「来るとか」と伝聞の形で書かれていて、主体が物語を語る立ち位置にいるような感じがある。この当事者でない立ち位置が、飄々とした味わいを生んでいて、諧謔とも諦念ともつかない感じが漂う。

この句の数句前には〈蛇穴を出づホモ・サピエンス滅びしかと〉という句もある。蛇が土中から出てきて、人類は滅びたのだろうかと。こちらもやはり語り手の位置は神の視点というか、神話的な趣がある。

滅びたのは地中のものらか、地上の人類か。作者が描く句世界はそのどちらでもあるのだろう。どちらも終末的な句なのに、なぜかほの明るい。

2017年2月12日日曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年2月11日土曜日

●日暮里/西日暮里

日暮里/西日暮里


日暮里へ師走の道のつゞきけり  久保田万太郎

西日暮里から稲妻見えている健康  田島健一


2017年2月10日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋白兎〕樋口由紀子



樋口由紀子






夢を彫るには異論のない空だ

高橋白兎 (たかはし・はくと)

二月の空が好きだ。きりりとした冬晴れであり、春が近いと思わせる明るさがある。その澄んだ空に絵を描きたいと思ったことはあったかもしれないが、「彫る」という発想はまったくなかった。空を平面的にしか見ておらず、立体的には捉えていなかったからだろう。

「彫る」と言われて、のっぺりとした平面を越えて、どこまでも高く青い空がなにやら立体的に思えてくる。それも「夢を彫る」。それも「異論のない空」。言葉のチョイスにセンスを感じる。それぞれの言葉が互いに呼応しあい、豊かな味わいがある。均質化された言い方ではなく、このように空の美しさを表現した川柳があった。第28回川柳塔きゃらぼく忘年句会報(平成4年刊)収録。

2017年2月9日木曜日

●夢殿

夢殿


夢殿のほとりの別れゆきのした  八木三日女

夢殿にさげて一穂の麦青し  大木あまり

夢殿やくらげの脚をくしけづる  小津夜景〔*〕

ほたるなす夢殿に椅子殿のアナスターズ  加藤郁乎

夢殿のくらさをおもふ穴惑  藺草慶子〔**

夢殿にもたれて冬の一日かな  松瀬青々


〔*小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』(2016年10月/ふらんす堂)
http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_23.html

〔**『星の木』第17号(2017年2月3日)

2017年2月8日水曜日

●水曜日の一句〔鈴木多江子〕関悦史


関悦史









春眠のところどころに水溜り  鈴木多江子


この「水溜り」は春眠のなかで見る夢のようでもあり、逆に覚醒を指しているようでもある。眠りのなかにいるのか、それとも、ときどき目が覚めて外に出てしまっているのかは、何とも定めがたい。

「水溜り」をそうした喩としてではなく、もっと即物的に捉えることもできる。その場合、「ところどころに水溜り」は、在る。これは外界のことだ。個人の眠りのうちの夢や入眠幻覚ではない。そして、その外界がそっくり「春眠」と名指されることになる。世界は全て「春眠」のうちにあるのだ。「水溜り」の水もただの水ではなく、それ自体、意識を持った何ものかのように見えてくる。

そうした汎生命的な妖しげな生気を帯びつつも、水溜りはあくまで物としての水の重みを手放さず、地を這うように溜まり続ける。ここには「春眠」の漠然たる統合性からは、いささか食み出すものがある。水の側から見ても、水が果たして「春眠」の内にあるのか、外にあるのかは判然とせず、ささやかな違和を成しているのだ。句の語り手と「春眠」と「水溜り」は、互いに包摂しあうのか排除しあうのか、わからないまま奇妙にリアルなものであり続けるのである。

この奇妙なリアルさは「水溜り」の重さが身体感覚に直結していることによるのだろう。それは覚醒の瀬戸際でもある。その破れ目に接していることにより、かえって「春眠」の自足的な完結性と、そこにやすやすと入ってしまう、われわれの生の不思議さが感じられるのである。


句集『鳥船』(2016.9 ふらんす堂)所収。

2017年2月7日火曜日

〔ためしがき〕 障子 福田若之

〔ためしがき〕
障子

福田若之


冬の季語とされる建具の「障子」は一般にあかり障子のことだけれど、それとは別に、アルミサッシにはめこまれた硝子の部分も、「障子」というのだそうだ。

ほかに、お城の堀の底に土を盛った障害物を作ることがあって、それも「障子」という。こちらは、「堀障子」とも言われる。文字で書くとまるで人の名前のようだ。

「障子」の擬人化というのは寡聞にして知らないけれど、妖怪化は古くからある。目々連や影女あたりが、比較的よく知られているだろうか。いずれも鳥山石燕の創作らしい。

障子たん、受容ないのだろうか。めくるめく障子萌えの世界、なんて、いかにも「くうるじやぱん」な感じがするのだけれど。

2017/1/29

2017年2月6日月曜日

●月曜日の一句〔黒澤あき緒〕相子智恵



相子智恵






うつふんと止まる遅日の昇降機  黒澤あき緒

句集『5コース』(2017.01 邑書林)より

エレベーターが止まる時に、何とも形容しがたい音が鳴ることが確かにある。モーター音なのだろうか。エレベーターが通る四角い空間に、くぐもった音が反響する。「うっふん」と、言われてみればそんな感じだと思い、ニヤリとする。停止時に「うっふん」に合わせて体が上下する感じも思い出す。遅日という季語と「うっふん」という昇降機の取り合わせが長閑で楽しい。

〈脱水機げたげたと春遠からじ〉〈葉桜やテニスラリーのぺこぱこと〉〈ぶつくさと火中の生木一茶の忌〉〈菜の花やはたはた止まりスクーター〉など、同句集には物が出す音が魅力的に描かれた句が結構ある。まるで物たちが喋っているようだ。

脱水機の音は「ガタガタ」であってはいけないし、テニスラリーも「ぽこぽこ」ではいけない。一般的な擬音語ではない音に、そういえばそう聞こえるかも、というリアルさと諧謔が宿っている。

2017年2月3日金曜日

●金曜日の川柳〔清水美江〕樋口由紀子



樋口由紀子






噛んであるから鉛筆は君のもの

清水美江 (しみず・びこう) 1894~1978

歯型のついた鉛筆を子どものころはよく目にした。今はあまり見かけない。私自身も勉強がしたくないとき、問題が解けないとき、なんとなくいらいらしたときなどに鉛筆を噛んでいたようなおぼえがある。

君のものなんていくらでもある。よりにもよって「噛んである鉛筆」なのか思う。しかし、そこに着眼することに、そのひねくれ方というか、なにか違うなと思わせものがある。

清水美江は句会吟よりも雑詠(創作吟)に重きをおき、「雑詠こそが生命だよ」というのが口癖であったらしい。十四字作家としても活躍した。〈落暉くるくる先駆者は黒い天馬で〉〈この妻の肉が欲しいか鳥が啼く〉〈はちの句に果てなき道をただひとり〉。

2017年2月2日木曜日

【俳誌拝読】『奎』第0号(2016年12月12日)

【俳誌拝読】
『奎』第0号(2016年12月12日)


創刊準備号の位置付け。代表・小池康生、編集長・仮屋賢一、副編集長・野住朋可。本文28頁。



同人諸氏各一句。

取り返しつかぬところへ来し毛玉  小池康生

一切を零さず菊の立ちてをり  仮屋賢一

数え日の吹けば倒るる炎なり  野住朋可

水を飲む目白に目白埋まりをり  安岡麻佑

冬の蠅七人掛けに五人座す  高岡秀旭

曼荼羅の真中を食みし雲母蟲  玉貴らら

ばらばらに重なつてゆく牡蠣の殻  野名紅里

枝豆の飛び出してきて未だ夜  牧 萌子


ほか同人による吟行記、短歌探訪など。


(西原天気・記)

2017年2月1日水曜日

●水曜日の一句〔黒澤あき緒〕関悦史


関悦史









ガムシロップめらめら沈む晩夏かな  黒澤あき緒


日野草城の有名句に《ところてん煙のごとく沈みをり》がある。水気のなかへ沈む飲食物を火気の喩えであらわしている点は共通するが、「沈みをり」の静に対して「めらめら沈む」の動、「煙のごとく」の直喩に対して、「めらめら(と燃え上がるように)沈む」の暗喩と、随所に違いがある。何より「ところてん」と「ガムシロップ」では、固体か液体かが異なる。そして句全体の狙いとしても「ところてん」が一物の写生に徹しているのに対し、「ガムシロップ」は「晩夏かな」に開けていく。

元より類句には当たらないのだが、草城の句との違いを拾うと、この句の特質が自然に浮き上がってくる。

アイスコーヒーかアイスティーに流し入れられたガムシロップが沈降していくさまは目を引くものだし、その重量感や抵抗感は、グラスのなかの冷たい天地に情念そのものの如く不規則な動きを繰り広げる。球体をひっくり返すとなかに雪が降るスノードームに似た、玩具的な誘目性と完結感があるのだ。「めらめら沈む」という上下が逆転したような表現は、そうした質感をよくとらえている。

下五「晩夏かな」は、どっしりとその一切を受けとめる。「めらめら沈む」がこの一夏を送りつつある憤怒にも似た何らかの感慨を担っているようにも見えるが、一句はそうした重苦しい情念性には何ら収束することなく、ただ「晩夏」を体現する「ガムシロップ」の透明な流動を起ちあがらせるのみ。

この句の涼しさは、必ずしも材料からだけ来ているわけではなく、「晩夏」を担いつつもすぐ飲み干されてしまうはずのたかだか「ガムシロップ」が、人間と無関係な物質の相を不意に見せたことから来ているのだ。


句集『5コース』(2017.1 邑書林)所収。