2019年1月28日月曜日

●月曜日の一句〔福田鬼晶〕相子智恵



相子智恵






凍鶴を飼はば百年ともに寝て  福田鬼晶

句集『リュウグウノツカイ』(ふらんす堂 2018.11)所収

飼うのは鶴ではない。凍鶴である。だからこの鶴は飛ぶことはおろか、動くこともしなければ、頭は翼の中に隠されているから顔を見ることすらできない。ただただ一本足で身じろぎもせずに立っているのみである。餌も食べなさそうだ。そんな凍鶴を飼うとするなら、百年間、ともに寝続けることだけだという句。

百年間、凍鶴と一緒にただ動かず、寒さの中に立ち眠ることが「飼う」ことなのだ。これは飼うのか、自分が飼われているのか。凍鶴と心中するという言葉がいちばん近い気がする。凍鶴に魅せられ、眠っているうちに百年が経ってしまった一人の男(男とは限らないけれど、なぜか男)を思う。民話めいた、うっとりと怖い句である。

〈ほーいほーいと繭玉の誰か呼ぶ〉

他に、句集中の掲句にも民話の味わいがあって好きだ。繭玉が一斉に(あるいはその中の一つが)誰かを〈ほーいほーい〉と呼んでいる。繭の多産を予祝し、願うために飾る繭玉。「予祝」という、まだ見ぬものを呼び寄せる行為が一句の物語の根底にあり、繭玉の本意が活きている。

2019年1月26日土曜日

●土曜日の読書〔夜〕小津夜景




小津夜景










夜の散歩に出る。 

砂浜を、てくてくてくてく、と歩いてゆく。

黄色いショベルカーが二台、砂浜に放置されている。近づいてみると、ヤンマーディーゼル車だ。せっかくなのでショベルカーの出っ張ったところに腰掛けて、小さな声でヤンマーの歌を歌う。大きなものから小さなものまで動かす力〜♪のあたりで頭の上を見ると満天の星だ。周りの散歩人たちは、おのおの夜空に没頭している。

すごいなあ。吸い込まれるのが怖くないのだろうか。

満点の星にドキドキしながら、眺めるともなしに暗い海を眺めていると、後ろから声がした。振り向くと、アパートの隣に住むポーランド人夫婦である。二人は、夜空を見にきたのだと言って、マフラーをきゅっと締め直した。

砂浜に佇み、夜空に顔を向けながら、隣に住む夫婦は語り出すーー外国で息子を育てるのは本当に大変だよ。親がフランス語を教えてやれないからね。しかも中学生だから、反抗期真っ盛り。たまに息子が一人きりになりたがるから、そんな日は彼のためにアパートを出て、こうやって夫婦で夜空を見にくるんだ。ああ、ポーランドの夜空と一緒だなあ。そう思いながら夜空に吸われるのは気分がいいね。今夜が満月でよかった。

なるほどーー吸い込まれるのが平気なのか。しかも吸われつつ、嬉しがる余裕まであるとは。

それとも、私が夜空を怖がりすぎなのかしら。

そういえば、岡本太郎『美の呪力』(新潮文庫)には、夜についての一章があったと思い、アパートに帰ってから読んでみた。
昼はひたむきに輝き、夜は透明でしかも混沌のままひろがる(…)私はビザンチンの「夜」をおもいおこす。たとえばサン・マルコ大聖堂のドームいっぱいにひろがる金色。(…)またラベンナのモザイクの、真青にはりつめた夜空のきらめき。(…)青くてもいいし、金色でも良い。少しもかまわないのだ。黒々とした宇宙への感動を、たまたまブルーにし、またたまたま金にして、迷わない。矛盾に対してまったく平気である。そこに「絶対」が出現する。中世において、人は矛盾に対面しながら透明でありえた。(…)「神は死んだ」と近代精神は宣言した。だがこの青の空間、金色の夜は、そのような思考を超えて生きている。
岡本の言葉でいうと、昼は「世界」で、夜は「宇宙」だ。そしてその宇宙は、単純なる畏怖に転化するようなものではなく、むしろ矛盾を秘めた澄明へとどこまでもひろがる性質を持っている。生活というものが完全に地に根ざし、誰もが汗水を流して働いた中世の人々にとって、昼の過酷さに対立するように、夜とは純潔だったのだ。





2019年1月25日金曜日

●金曜日の川柳〔菊地良雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






お悔やみのあとで体重計に載る

菊地良雄 (きくち・よしお)

お悔やみに行って、帰ってきてから体重を計った。たったそれだけのことを書いている。だから、それがどうだとは何も言っていないし、伝えようともしていない。亡き人を偲んでいるようでも体重を気にしているようでもなさそうで、何を考えているのかわからない。感情をまったく見せずに一句にしている。

なのに、掲句を読んで、私の感情の方が波打ってきた。物事を見る方向や位置が気になる。それは本質とか一面とかではなく、生きていくことの根っこに触れているような気がしてならないからだ。作者特有の世界観で人や社会を捉えているように思う。わかっているようでわからない日常を私たちは「私」として関わっている。「私」は何を見ているのか。何を考えているのか。独自の川柳的現実を立ち上げている。〈二年後に間違い電話だとわかる〉〈シンデレラ身元調査に泣かされる〉〈骨だけの傘でも泣ける私小説〉 「ふらすこてん」第60号(2018年刊)収録。

2019年1月24日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








かなしまむや墨子芹焼を見ても猶 芭蕉
墨子は芹が焼かれて料理されるのをみていて悲しむのだろうか、あるいは食欲が湧いてくるのだろうか。

「墨子」の出てくる意味は、墨子が白い練絹(=練り上げたばかりの白い絹糸)が彩色される様を見て悲しんだという故事をさす。練絹は黄にも黒にもどんな色にも染められるが、一旦染まってしまえばずっとその色になってしまうというのが理由だそうだ。(ちなみに、蕪村の句にも「恋さまざま願の糸も白きより」があり、墨子の故事を踏まえている。)

「芹焼」は、肉の匂いを消すために芹の葉などを一緒に加えて醤油で味付けする当時の高級料理。焼かれた芹の色が変わって行くことを練絹とひっかけた。芭蕉この時37歳。

小西甚一は『俳句の世界』(講談社学術文庫)で、延宝八年の「枯枝に鴉のとまりたるや秋の暮」を「蕉風開眼の句として有名な作だが、それほどの名作ではあるまい。」と述べる。談林時代の芭蕉の句を挙げ続けたが、どうやらこの辺りが分岐点のようである。「とまりたるや」は元禄二年の『曠野』で「とまりけり」に修正しており、小西はこの比較をもってして「とまりたるや」を「談林臭」とする。掲句の「かなしまむや」も談林臭と言えるだろうか。 

2019年1月21日月曜日

●月曜日の一句〔佐藤りえ〕相子智恵



相子智恵






人工を恥ぢて人工知能泣く  佐藤りえ

句集『景色』(六花書林 2018.11)所収

人工知能が身近な存在になってきている。掲句のように、そのうち人間によって造られた人工物であることを恥じて泣く人工知能が現れるのだろうか。けなげで愛らしく、哀しく、それでいてうすら寒い気持ちにもなる、不思議な魅力のある句だ。

『ピノキオ』のように昔から人工物の望みは「人間になる」だったけれど、現代の「VTuber」のAIキャラクターブームなどを見ていると、実際には、人工知能が人工であることを恥じるよりも、人間の方が天然の人間であることを恥じるようになるのかもしれないなあとも思うし、人工知能と人間という区切りがなくなり、もっとシームレスに生活していくことになるのが現実的なのかもしれないとも思う。

掲句は人工と天然は人工の方が恥じる立場だけれど、そのことを通じて天然物である人間がそれを恥だと思わせてしまうところが、どこか傲慢に、うすら寒く照らし出されている。

2019年1月19日土曜日

●土曜日の読書〔行商〕小津夜景




小津夜景







行商


俳句を始めて二年になる頃、句集を作ってみたくなった。

とりあえず二、三の出版社に連絡し、ソフトカバー二百頁の本の見積もりを出してもらう。すると思ったより高い。それで百六十頁で再度出してもらったところ、今度は妥当な金額になった。

よし。これならきっと大丈夫。私は句集五百冊分に相当する製作費を、銀行から丸ごと借りることにした。返済は毎月。期間は四年である。

十ヶ月後、完成した句集が届いた。僕の机の下に置くといいよ。僕は食卓テーブルで仕事するからと夫が言った。そうなのだ。よく考えてみたら、一間暮らしの我が家には、句集を保管する場所などなかったのである。

それからまた数ヶ月経ったある日のこと。仕事から帰ってきて、ベランダの窓ガラスを拭いていると、夫の机の下を占領している句集の山がふと頭に浮かんだ。

と、その瞬間、その山を売ってみたくなった。

この、句集を売ろうと思った瞬間のフィーリングは、それを作ろうと思った瞬間よりはるかに純粋かつ直感的だった。つまり私は、なんのためでもなく、ただ売買という行為をしてみたくなったのだ。だから「何の経歴も人脈もない上に、フランスにいる自分がどうやって売るのか。書店に出向くことも、実物を見せることもできないのに」といった疑問は思いつかなかった。

はじめて句集が売れた時のことはよく覚えている。それが記念すべき第一通目の営業メールだったからだ。ご出版おめでとうございます。綺麗ですね。うちでも一冊扱わせてください――ご主人からの返信はこの上なくシンプルだった。なんて素敵な手紙だろう!  それからは句集が売れるたびに「あのね、今度はこの本屋さんが買ってくれたよ」と、食卓テーブルで仕事をする夫に書店の写真を見せた。すると夫は、すごいねえ、よかったねえ、とにっこりするのだった。

その後、週刊俳句の著者インタビューを受けた時、聞き手の西原天気さんが教えてくれたのが鴨居羊子『私は驢馬に乗って下着を売りにゆきたい』(ちくま文庫)である。ひらいてみると、ある日急に思い立って新聞社をやめた著者が下着の会社「チュニック」を立ち上げ、ペンと紙で夢あふれる作品を描き続けて、日本の女性下着業界に一大革命を起こすまでの物語だった。もっとも著者の資質は少しも起業家ではない。もの作りが好きで、わがままで、しかも臆病だ。会社の成功とひきかえに多くのものを失いもする。ただ絵を描いている時だけは、わずか一坪の会社を立ち上げた頃のように自由であると感じていて、その気持ちをこんな風に綴っている。
絵を描くときは、瞬時にして現実の刻や現実の世界はなくなった。/そこには長く細い野道を、花を摘んで歩む無声映画のような刻のない世界があった。あわただしい仕事を抜けてカンバスへ向うと、瞬時にそこに菜の花やれんげ畠がひろがるのが私にはうれしかった。私は描ききれない夢想をよく夢想した。/私がいまほしいのは、近代的なビルディングでも何百坪の合理的なオフィスでもない。/海と野原に囲まれた工場で、できたての商品をロバで運んでいる自分の妙な姿だった。
一頭の驢馬でゆく、片田舎の行商。たしかに自由とはかくも意気揚々で、かつ端からみると不恰好なものに違いない。そして、だからこそ素敵なのである。自ら俳句を書き、それをまとめた一冊を手ずから売るとき胸にこみ上げる、生産者/生産物/流通の感動的な三位一体感。思わず泣けちゃうような。一度ものを作ってみて、そして売ってみて、良かった。私はそう思った。

句集は刊行から十ヶ月で三刷となった。

句集の印税。田中裕明賞の賞金。出版を契機として入るようになった原稿料。そしてこの手で売った分の収入。これらを全部足して、私は四年のはずの借金を結局一年で完済した。


2019年1月18日金曜日

●金曜日の川柳〔房川素生〕樋口由紀子



樋口由紀子






水車小屋戸が開いている一人いる

房川素生 (ふさかわ・そせい) 1900~1969

水車小屋を近頃はあまり見かけない。水車小屋のある田園風景は人を惹きつけ、水車小屋自体にも風情がある。目の前の世界がひょいと別の世界につながっていくような気もする。そんな水車小屋を見つけた。近づいてみると戸が開いている。もっと近づいてみると、中の様子が見えて、人がいた。水車小屋は景観のためのものではなく、水車によって製粉などの機械的の工程を駆動する場所である。そこで人は仕事をしている。

景の発見や目の動きが五七五のリズムや呼吸に合わせてつぎつぎと運ばれていく。そして、最後に「一人いる」。そこに人を見つけたことで俄然と生気を帯びる。人がいることでもたらせる安堵感、豊かさと親しみを感じたのだろう。人を詠んでいる。

2019年1月12日土曜日

●土曜日の読書〔無駄〕小津夜景




小津夜景







無駄


この年始、まだ乗ったことのない市バス路線の、始発から終点までを何線か旅してみた。

もともとバスに乗るのが好きなのだ。今月もバスで4時間かけてミラノまで行く。田舎のバスは列車よりも佇まいが素朴で遠足っぽい。また始発から終点までの間に、隣村のお祭りに出くわしたり、山の上に達してしまったり、よそ者が決して来るべきではない地区に迷い込んだりと、しょっちゅう思いがけないことが起きる。

もっと遠くへ行くのも昔はバスが多かった。周囲からは時間が無駄な上に体に悪いと言われ、また実際一人で乗れる体ではなかったのだけれど、旅上の心もとなさが好きだし、明日死ぬかもしれないし、夫も別にいいよと言うので、合理性は無視してしまう。パリからだとフィレンツェは片道13時間。プラハは片道16時間。これだけ長時間バスに乗るといわゆる求道的な何かを極められそうな気分になるが、何かがどうかなった兆候は今のところない。

もっとも私のしていることはささやかな、あまりにささやかな遊興だ。パラダイス山元『パラダイス山元の飛行機の乗り方』(新潮文庫)を読むと、実力派の無駄とはここまでくだらないものなのかと感慨する。

マンボミュージシャンの著者はヒコーキに乗るのが大好き。それで乗り方の指南書を書いたということなのだけれど、ヒコーキに年間1022回も搭乗してみたり、一日11便に乗ってみたり、東京から名古屋までフランクフルト経由で行ってみたり、一年間ほぼ機内食だけで生きてみたりと全く役に立たない指南ばかり。おまけに本書のエッセイも全篇機上で執筆したとのこと。どうかしている。

しかし年間1022回ともなるともはや「乗っている」というより「住んでいる」と言ったほうがよく、浮世離れしたお金の使い方込みで、これほどまで文字通りの「雲の上の暮らし」を綴った本は稀であろう。なかでも唸ったのは、到着空港から一歩も出ずに、乗ってきたヒコーキで同じ客室乗務員とそのままトンボ帰りするという遊びだ。著者はこれを「タッチ」と命名しているのだが、このタッチ、バスであれば自分も数え切れないほど経験しているから心境はよくわかるものの、乗り物がヒコーキとなると無駄加減が半端じゃない。
遠くへ移動したからといって、いちいち旅情を感じなければならない、なにかその土地のものを味わったりしなければいけない、という呪縛から解放されると、移動そのものが途端にとてもラクになり、「純粋な飛行機の移動」に集中することができます。
ううむ。さようでござるか。あ。これを読んで、ドライヴも似たようなものだと思った人に一言。バスや鉄道や飛行機のわくわくは、「時刻表」と「乗り継ぎ」といった二つの装置が絡んでいることをお忘れなく。これらが絡まなければ、妄想の翼は天国への飛翔を決して試みないのである。


2019年1月11日金曜日

●金曜日の川柳〔丸山進〕樋口由紀子



樋口由紀子






大雪のため初夢が遅れてる

丸山進 (まるやま・すすむ)1943~

目覚めたら、初夢を見ていないことに気づいた。初夢は新年のある夜にみる夢。この夢で一年の吉凶が占えるというのにどうも見なかったようだ。そういえば、昨夜は大雪だった。そのせいだったのか。それならばしかたがない。

新千歳空港が大雪のために欠航が相次いでいると年明けのニュースが報じていた。大雪のために飛行機や列車が遅れたり、物資が届かなったりすることはあるが、初夢はその類ではない。そもそも初夢が遅れるという発想自体がへんだが、そのおかしみに心がふわっと軽くなる。そして、噛み合わない場面展開の軽妙さがファンタジーの世界にかろやかに運んでくれる。「大雪」と「初夢」の意外な組み合わせが掲句の醍醐味である。

ブログ「あほうどり」1月1日

2019年1月7日月曜日

●月曜日の一句〔川島葵〕相子智恵



相子智恵






ボクシングジムごと枯れてゐたりけり  川島 葵

句集『ささら水』(ふらんす堂 2018.9)所収

掲句には、最近の“女性も明るくストレス発散”を謳うような「ボクササイズ」のポジティブさはない。『あしたのジョー』の丹下ジムのような、暗くて喧嘩のイメージが強い“ひたすら強くなりたい人”のための昭和のボクシングジムが思い浮かぶ。

ジム入口の草木の手入れも行き届いておらず、冬枯がボクシングジムに及んでいる。枯草の蔓が壁を這っているのかもしれない。すでに廃業しているようにも思われる。

中途半端に古い“昭和感”が漂っていて、味があり、とても好きな句。やがていつかこんなふうに平成の景物のあれこれも「枯れて」と詠まれていくことになるのだろうか。

2019年1月5日土曜日

●土曜日の読書〔とりぶえ〕小津夜景




小津夜景







とりぶえ


近所の人が、素焼きの鳥笛をあげるというので、のこのこもらいにゆく。

居間に入ると、ラベンダー色のクロスを掛けたテーブルに、鳥笛がふっくらと鎮座していた。頭には穴がある。ここから水を入れるの。水と息の量でいろんな歌ごえになるよ、とその人。試しに吹くと、ぴーろぴろぴろろろんっと意表をつく大音量だ。室内だとうるさいから、浜辺で練習するといいと言われ、さっそく帰りしな海に寄り、鳥の気分でさえずりあそんだ。

浜辺から自宅に戻り、プーアル茶を淹れ、生涯の愛を鳥に捧げた中西悟堂の『フクロウと雷』(平凡社)をひらく。明治生まれの著者は、鳥といえば食うか飼うかだった当時の日本において、「野鳥」という言葉をつくり、日本野鳥の会を創立し、「野の鳥は野に」を標語に自然の中での愛鳥の思想を普及させた人物である。と、こう書くと見識ある趣味人っぽいが、実際の彼は人里離れて採集生活を送ったり、何十年も全裸で暮らしたりと、ごく標準的奇人なのだった。
仮眠の断続の間にも、ホトトギスが鳴き、フクロウが鳴く。やがてヨタカや慈悲心鳥の声が聞こえ、トラツグミのヒー、ヒョーが耳に伝わって、午前三時を過ぎ、四時が来ようとする。と、もう暁の小鳥たちの歌が始まるのだ。アカハラが何時何分、キビタキが何時何分、三光鳥が何時何分、ヒガラが何時何分、キジバトが何時何分、センダイムシクイが何時何分。(…)懐中電灯で時計を睨み据えながら、小鳥たちの朝起時間を記録してゆく。大切な記録だから、時計が狂っていては用をなさない。(…)これが早朝の仕事始め。
これはとある山の上で、赤犬の毛皮をかぶって寒さをしのぎながら鳥を観察したときの描写である。他にもカイツブリの観察のために十二時間も水の中でじっとしていたり、野営で幾日も絶食したりと苛烈な描写は枚挙にいとまがない。ちなみに水の中でじっとするには坐禅の素養が要る。さもないと、蚊も寄ってくるし、雨も降ってくるしで、必ず動いて鳥に勘づかれてしまうのだ。

次の日、仕事の帰りにまた浜辺に寄る。鳥笛を取り出し、練習をはじめると、近くを通りがかった犬がぴたりと足を止めた。

犬は鳥笛にじっと耳をすまし、大きくて静かな笑みを繰り返しこぼしている。幻のようなその表情を見て、「音楽」という語が登場する日本最古の文章が、ふと脳裏をかすめた--「天の鳥琴、天の鳥笛は、波に随ひ、潮を逐ひて、杵島唱曲(きしまのうたぶり)を七日七夜、遊び楽ぎ歌ひ舞ひき。時に賊党、盛りなる音楽を聞き、房(いへ)挙(こぞ)りて、男も女もことごとに出で来て、浜を傾けて歓び咲(わら)へり。

浜辺で笑いころげる賊党ら。夢とはこのようなものか。

もういちど、鳥笛を吹く。

犬が笑う。

笛の音は魂みたいに、ひょるるる、と空に吸われていった。


2019年1月1日火曜日

●2019年 新年詠 大募集

2019年 新年詠 大募集

新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。

※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2019年11日(火)0:00~15日(土) 12:00 正午

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html