2012年1月31日火曜日

〔今週号の表紙〕第249号 楽隊

今週号の表紙〕
第249号 楽隊


ブラスバンド? 楽隊? 呼称は何が適切なのかよくわかりませんが、こういうものって横浜によく似合います。ピンクのジャケットがかわいらしい楽団員はお年寄り(ベテラン)揃い。それもまた古い港町にはぴったりです。(西原天気)


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2012年1月30日月曜日

●月曜日の一句〔長谷川耿人〕 相子智恵


相子智恵








一灯に見てとる雪のはやさかな  長谷川耿人

句集『波止の鯨』(2011.9/本阿弥書店)より。

今年は東京で雪に出会うことが多くて、幼い頃から雪に親しんできた私は、内心少しテンションが上がっている。

さて掲出句、夜の雪である。街灯や車のヘッドライトで雪に光が当たると、まるでそこだけスポットライトが当たったように、降る雪の動きがよく見える。

さらさらの雪の上に雪が降り積もるときは雨のように音はしないから、ついつい雪はふわりと、ゆっくり落ちているような気がしてしまう。が、その意外な速さに驚くのだ。このぶんだと明日の朝はきっと、かなり積もるのだろう。

無音の雪の存在感が目の前に迫ってくる。鮮やかな雪の一句である。


春はもうすぐだ、とうれしくなる「王道の風景句」である。


2012年1月29日日曜日

【俳誌拝読】『舞』no.21を読む


【俳誌拝読】
『舞』no.21(2012年1月号)を読む

西原天気


発行人・山西雅子。本文36頁。編集後記ほかによれば、結社の外に送るのはこの号がはじめて。これまで結社内部だけで読まれていたという。

山西雅子主宰の9句、同人会員諸氏の8句から3句組み(投句は8句)。散文は山西氏の連載「『明野』時代の岡井省二、秋津寺彦氏「レポート おくののそ道」ほか。スタンダードでコンパクトな結社誌といった佇まい。

以下、何句か。

林中に冬の紅葉や葉の小さ  山西雅子

秒針の音を残して山眠る  中沢城子

両岸は揃つて曲り曼珠沙華  榊原紘子

足音に夜のコスモスの震へをり  川瀬朋子

ミルクめく草の匂ひや雲の秋  陰山 惠

きらきらとしづまぬあをさ冬の海  小川楓子

日とあそぶふくら雀や目の細し  秋津寺彦

秋日染む夜具の香りを纏ひけり  佐々木京子

川の面をすべる一片紅葉せり  吉岡芳香

猟犬の降りだしさうな空見上げ  北原勝彦

2012年1月28日土曜日

●赤ん坊

赤ん坊

寒満月こぶしをひらく赤ん坊  三橋鷹女

帆に遠く赤子をおろす蓬かな  飴山 實

ちらと笑む赤子の昼寝通り雨  秋元不死男

月夜茸そだつ赤子の眠る間に  仙田洋子

風呂敷に包んで愛す赤ん坊  山崎十死生

冷蔵庫に入らうとする赤ん坊  阿部青鞋

2012年1月27日金曜日

●金曜日の川柳〔松永千秋〕 樋口由紀子


樋口由紀子








戦死者の中のわたしのおばあさん


松永千秋 (まつなが・ちあき) 1949~

戦場にかり出されて死んでいった男の人はたくさんいる。戦死者というとすぐにその人たちを思い浮かべる。しかし、その陰で「銃後の守り」という大義名分の下で、社会的拘束を受けて、死んでいった多くの女の人がいる。その人たちすべてが戦争の犠牲者であり、戦死者である。「おばあさん」というのがなんともやるせない。自分のために生きることなく、一生を終えた、そんなおばあさんがいたからこその今のわたしたちであろう。

「おばあさん」だけではなく、戦災というの名のもとに死んでいった多くの人がいたことを私たちは忘れてはならないと思う。〈戦争というタイトルの写真展〉〈戦争が通って行った父の眉間〉。セレクション柳人『松永千秋集』(2006年 邑書林刊)所収。



2012年1月26日木曜日

【新刊紹介】『俳句のための文語文法入門』

【新刊紹介】
『俳句のための文語文法入門』(佐藤郁良著)

『俳句』誌連載を1冊にまとめたもの。通して読めるのはありがたく、俳句の文語文法というもの、一度はきちんとおさらいしておいて損はない(と私などは思う)。

文法のおさらいは、俳句を作る際よりもむしろ読む際に役立つとも思える。例えば、本書にある《一本のマッチをすれば湖は霧》(富沢赤黄男)の「すれば」。これを口語文法で解すると仮定条件になる。現代人の私たちは、そう読んじゃいますよね。ところが、文語文法だと、「する」の已然形+接続助詞「ば」で、確定条件を示す。すなわち、「一本のマッチをすったところ」といった句意。

これだけでも、タメになったと、浅学な私などは思うわけです。

2012年1月25日水曜日

●ふぐり

ふぐり

人生に大寒小寒という睾丸  清水哲男

なまはげのふぐりの揺れてゐるならむ  太田うさぎ〔*〕

きんたまのころげて出たる紙帳哉  正岡子規

秋のくれ祖父のふぐりを見てのみぞ  其角

はじめよりふぐりは軽し秋の風  小島 健

2012年1月24日火曜日

〔今週号の表紙〕第248号 煉瓦

今週号の表紙〕
第248号 煉瓦


お茶の水か秋葉原か、そのあたり。もうずいぶん前に撮った写真なので場所は忘れました。煉瓦壁はそうめずらしくもないようでいて、まとまった大きさのきちんとした煉瓦積みは案外少なくなってしまったような気もします。かつての町づくりの、あるいは文明化のひとつのシンボルかもしれません。

(西原天気)


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2012年1月23日月曜日

●月曜日の一句〔松永浮堂〕 相子智恵


相子智恵








待春や一樹せり出す水の上  松永浮堂

句集『遊水』(2011.5/角川書店)より。

今年は大寒らしい大寒となった。寒いだけに春を待ち遠しく思う気分も強い。

掲句、一本の裸木が水の上に張り出している。池や湖の上に張り出した木なのだろう。

冬の水面はピンと張りつめ、そこに張り出す木にも冷たい緊張感がある。ちょうど中村草田男の〈冬の水一枝の影も欺かず〉を思い出す眺めだ。

ただ草田男の句が〈静〉だとすれば、掲句は、息吹のような〈動〉の力を感じさせる。

もちろんそれは〈待春〉という、芽吹きの春を意識させる季語の働きが大きいのだが、〈せり出す〉という言葉の選び方にもあるだろう。

〈せり出す〉は状態だが、同時に力強い木の意志のようなものを感じさせるのだ。水の上にグッと伸びようとする木の意志、そして樹がせり出した先にたたえられた〈水〉の包容力。

春はもうすぐだ、とうれしくなる「王道の風景句」である。


2012年1月22日日曜日

●週俳はいつも記事募集

週俳はいつも記事募集

小誌「週刊俳句がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


【記事例】

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から小さな同人誌まで。号の内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。

『俳コレ』の一句 〔新〕

これまで「新撰21の一句」「超新撰21の一句」を掲載してまいりました。『俳コレ』も同様記事を掲載。一句をまず挙げていただきますが、話題はそこから100句作品全般に及んでも結構です。

同人誌・結社誌からの転載

刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。


そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2012年1月21日土曜日

●新型携帯懐炉 野口裕

新型携帯懐炉

野口 裕


駅前で物を配っている人から、マンションのチラシを受け取ると、チラシの間に入っている物がティッシュにしては重い。今朝、開いてみるとティッシュではなく携帯カイロが入っていた。新型の携帯カイロで、繰り返し使用可能とのこと。

先ほど調べてみると、

  wikipedia(最近の各種懐炉の項

エコカイロ」という商品名らしい。中に入っているものは酢酸ナトリウムで、一般の携帯カイロのように鉄の酸化反応を利用するのではなく、酢酸ナトリウムの過冷却状態を利用するようだ。中に入っている金属製のボタンをねじ曲げると、液状の酢酸ナトリウムが一気に結晶化し始める。

過冷却状態はすぐに理解できたのだが、金属製のボタンをなぜねじ曲げるのか、ちょっと首をひねった。どうもボタンに仕掛けがあるわけではなく、ねじ曲げるときに発生する熱を利用するようだ。

そういえば、長さ15センチほどの針金を中央で折り曲げ、山にしたり谷にしたりの折り曲げを二三回繰り返すと、折り曲げた部分がかなり熱くなる。下手に触れるとやけどする場合もある。結局、その応用なのだと得心した。酢酸ナトリウムを利用することを思いついただけでは、まだ商品にはならない。中に金属ボタンを入れ、初めて商品として完成する。なかなか象徴的ではある。

ところで商品としての欠点は、発熱時間の短いこと。一時間ほどしか効果がない。朝、発熱させたカイロはもう冷えている。

  はや冷えて酢酸ナトリウムは机上  裕

2012年1月20日金曜日

●金曜日の川柳〔大山竹二〕 樋口由紀子


樋口由紀子








五十より歳をとらねば五十良し


大山竹二 (おおやま・たけじ) 1908~1962

このリズムがなんともいい。五十というのは人生の一番面白味のわかる年齢なのかもしれない。しかし、竹二の場合は事情が異なる。竹二は肺結核のために長く療養生活をしていたので、人一倍に、想像以上に生を意識して、死を見据えていたはずである。竹二にとっての五十は複雑で切実な年齢だったのだろう。

実は私は竹二のことは知らないで、この川柳が好きだった。五十よりずっと若い頃に、偶然にこの句を目にして、歳をとるのもいいものだと呑気に鑑賞していた。後に作者が病気だと知って、ちょっと複雑な気分になった。

大山竹二で有名な句は〈門標に竹二としるすいのちかな〉であるが、私は〈花火黄に空の重心全く西〉〈明快に冷えて全くメロンたり〉など作者の事情を考慮しなくても味わえる句の方が好きである。大山竹二は昭和37年に53歳で亡くなった。『川柳 大山竹二句集』(竹二句集刊行会・昭和39年刊)所収。

2012年1月19日木曜日

【評判録】関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』【続】

【評判録】
関悦史
『六十億本の回転する曲がつた棒』
【続】

承前

(2011年12月・邑書林)

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七曜詩歌ラビリンス 7 冨田拓也:詩客 SHIKAKU

三宅やよい・2012年1月12日:『増殖する俳句歳時記』

黒谷くろやぎ・棒:krtan kryag
黒谷くろやぎ・屹立感:krtan kryag

よみあう 2012年1・2月 第二回  皿皿皿皿皿血皿皿皿皿  関悦史(野口る理推薦):spica

尻の花:槐の塊魂

2012年1月18日水曜日

●イヤホン

イヤホン

イヤホンに熱の籠れる初詣  小野あらた〔*〕

イヤホンを外す夕焼跨ぐとき  三木基史

イヤホンのコードのごとく血の垂るる  山口優夢


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より


2012年1月17日火曜日

●書初 近恵

書初

近 恵


月島で書道教室。今年の書初。…ってことは、正月からこっち、正確には前回のお稽古から筆を握っていなかったということだね。

前日に買った20枚で150円の半紙は、やっぱり島忠の100枚で200円くらいの半紙に比べて書きやすい。紙が違うと筆の滑り方が全然違う。

そういや書道教室は小一からの6年間は週に3回、中学校の時は月に1度くらいだけどとりあえず3年間通った。小学校を卒業するとき先生がお祝いに仮名用の筆をくださって、中学生になってからは行書の仮名もお稽古した覚えがある。それまでは普通の筆で楷書をかいていたから、仮名は難しかった。文字も小さいし、バランスも取りにくい。小筆で書く自分の名前もなかなか上手く書けなかった。画数が多かったしなあ。

そう思えば、子供の頃に9年も筆を持っていた訳だから、ある程度は筆を体が覚えていたということもあるんだろう。スケートやスキーと同じだな。体で覚えたことは随分久しぶりでも出来る。体力的なことは別にして。

で、まあ書初めは漢字10文字くらい書いて、そこから好きな文字を4文字選んで清書した。流れるような躍るような書体だった。比較的太い線を書きがちなので、今回は少し力の抜けた細い線にチャレンジだ。

そんでもって、宿題を出されたよ。今回はやろう。宿題。

  冬の月文字にならない声で泣く  恵

2012年1月16日月曜日

●月曜日の一句〔田島風亜〕 相子智恵


相子智恵








ゆるキャラが流行る寒くて悲しい国  田島風亜

句集『秋風が…』(2011.12/私家版)より。

寒い日々が続いているが、掲句を読んだらもっと寒くて悲しくなって、それでいてふと笑ってしまった。〈ゆるキャラ〉という存在の悲しさに、いまさらながらに気づく。

少し前までは、キャラクターの制作側は決して「ゆるい」と思いながらそのキャラクターを生み出したのではなかった。「かわいい、みんなに愛されるキャラクター」を作ろうと願って作ったはずだ。

しかし「ゆるキャラ」という言葉が流行り出してから、キャラクターはみんなどこか「ゆるキャラ狙い」で作られてゆくようになる。はじめから、ゆるさの「ハズシ要素」込みで。

最初から「ゆる」を狙ったキャラクターの「コピー感」「頑張らないわりに媚びている感じ」はたしかに悲しく、寒く、妙に虚しい明るさを放っている。そういう「コピー感」が流行する国は〈悲しい国〉かもしれないなぁと、ちょっと思ったりもする。


2012年1月15日日曜日

〔今週号の表紙〕第247号 左義長

今週号の表紙〕
第247号 左義長


谷保天満宮(東京都国立市)ではお正月に焚き火をやっている。左義長(どんど焼き)と銘打っているようでもなく、左義長にしては小規模なのだが、お飾りや破魔矢、達磨などが投げ込まれているので、左義長の役割を果たしているとは言えるだろう。この規模の火を見ていると心が落ち着き懐かしい気持ちにもなるのは、太古の記憶(火の発明)などではなく、人類と火にまつわる「物語」へと気分が傾くせいだろう。

(西原天気)


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2012年1月14日土曜日

【新刊紹介】『ねこよみ』(砂山恵美子著)

【新刊紹介】
『ねこよみ』(砂山恵美子著)

二十四節気七十二候をすらすら言える人は俳句愛好者でも少ないかもしれません。覚えておいて損はないですよね。で、オススメなのが、この「ボス猫オレンジ君と仲間たちの春夏秋冬を二十四節気七十二候の風景とともに描いた新感覚の暦の本」(amazon紹介文)。読んでると、「あっし」「~でがんす」など主人公の口調がちょっとクセになるでがんす。(西原天気)

「ねこよみ」ウェブ  ≫ツイッター

2012年1月13日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







恋せよとうす桃色の花が咲く


岸本水府 (きしもと・すいふ) 1892~1965

恋するのは佳きことである。この川柳は水府19歳のときの作である。「うす桃色の花が咲く」なんて、なんと余裕があって、大人びて、おおらかであろうか。

岸本水府は日本最大の結社「番傘」を築いた。〈人間のまん中辺に帯を締め〉〈電柱は都につづくなつかしさ〉〈ぬぎすててうちが一番よいといふ〉。どの句も決していやな気分にさせないでじっくりと味わわせる。川柳の立ち姿、有り様を見せている。

水府の作風は肯定的な人生観に基づいているように思う。本当にそう思っていたのかどうかはかなり疑問だが、その方が生きやすく、この世をうまく通過していくコツであると言っているような気がする。

2012年1月12日木曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】読む欲望へ ~『俳コレ』という本 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
読む欲望へ ~『俳コレ』という本

西原天気


『俳コレ』(週刊俳句編・2011年12月・邑書林)を取り上げる記事がウェブ上にチラホラ。例えば、
(…)年齢、地域、結社にはほとんどこだわりが見られず、若手発掘、という大義名分を否応なく背負っていた『新撰』シリーズの緊張感がないぶん、いい意味で、編集部のわがままな、私撰のアンソロジーとして受け取ることができる。かといって個人の選ではないから作品のバラエティ、振れ幅も楽しむこともできる。
俳コレからスピカ:曾呂利亭雑記
と好意的な捉え方。この部分を引用するのは販促の意図も少し、と、わざわざ魂胆を白状しておいて、同じ記事の次の部分。
改めて思うに、私が「週刊俳句」やspicaの人々に共感するのは、「詠む」だけでなく「読む」意識があるからだ。
このあたりは、『俳コレ』まえがきで上田信治さんが提示している《読み手の欲求》と密に関連します。
作品を他撰とした理由は「「その方が面白くなりそうだったから」ということに尽きます」(はじめに)と上田信治は書いている。年齢制限もなく、19歳から77歳までに渡っている。「この人の作品をまとまった形で読みたい」「俳句はどこまでも多面的であっていいし、もっと紹介されていい作家や、もっとふさわしい価値基準があるはずだ」「同時代の読者の潜在的欲求の中心に応える一書となること」など編集部のスタンスは徹底して「読む側の立場」に立っている。
『俳コレ』のことから川柳アンソロジーに話は及ぶ:週刊「川柳時評」
文芸が《読み手の欲求》によって支えられる、あるいは成立するという事情はごく当たり前のことなんですが、俳句の場合、ちょっと違う。《書き手の欲求》が大きく幅をきかせる。つまり、「読みたい」という《読み手の欲求》と同等か、それ以上に、「読ませたい、読んでもらいたい」という《書き手の欲求》が肥大気味で、他の文芸分野にも増して前面に出やすい。

その背景には、書き手の数(作者人口)と読み手の数(読者人口)が拮抗するという俳句特有の現状があります。いや、作るだけ作って他人の句はろくに読まないという人も多いようですから、拮抗どころか、作者人口が読者人口を上回るかもしれません。これはふつうに考えて異常事態なのですが。

俳句世間に身を置いていると、《読む》よりも《詠む》《俳句を作る》が優先されているとさえ思えてきます。俳句総合誌のノウハウ記事の多さ、投稿雑誌の体裁と機能を累々と維持する結社誌、句集よりも入門書・歳時記・実用書のほうが売れる出版状況等々を見るにつけ。

これを産業用語に言い換えると、プロダクト・アウトの世界です。読ませたい人、作る人の事情から、「俳句」というものが成り立っている(それが正常か倒錯かは別にして)。

そこで《読み手の欲求》です。

「週刊俳句」の創刊(2007年4月)は、ある意味、「俳句を読みましょうよ、そのうえで俳句について語りましょうよ」という呼びかけでした。そのへんは前述の上田信治さんの「まえがき」にもあります。その「週刊俳句」が編集するアンソロジーが《読み手の欲求》をベースにするのは当然といえば当然です。プロダクト・アウトではなく、マーケット・イン、と言ってもいいかもしれない。

『俳コレ』の成否は、ここにかかっていると思います。つまり《読み手の欲求》を色濃く反映したものになっているかどうか。なっていれば成功です。欲求を叶えるかどうかも大事ですが、そこはそれ、読者の好みもありますから、まずは、反映されているかどうか、なのです。

編者が、読み手の側、作り手の側、どちらに立つか、という問題でもありましょう。もちろんどちらの側にも立つわけですが、作り手に寄りすぎた刊行物は、それが良いとか悪いとかではなく、業界誌(各種年鑑がその例)あるいは回覧板(内向的結社誌・同人誌がその例)として機能します。それらはいずれもプロダクト(作り手)アウトな媒体。

再び産業用語・経済用語で言えば、供給過多の俳句市場で、それでも需要を見出して、そこを出発点にしてアンソロジーを編むという作業は、その核に《読み手》としての欲求、《読む欲望》がなければなりません。角度を換えて言えば、『俳コレ』の編集の中心となった上田信治さんが《読み手》の表象(representation)となっているか、ということです。

話がちょっと入り組んでしまいましたが、要は、編者の上田信治/週刊俳句を、読者が身近に感じるような本になっているかどうか。

『俳コレ』が読者に親密な本、読み手の欲望にまみれた本であればいいなあ、というのが、週俳に関わる私の切なる願いなのであります。


2012年1月11日水曜日

●新年詠に見る《近恵》の変遷 近恵

新年詠に見る《近恵》の変遷

近 恵


週刊俳句に出した新年詠を年代順に、自虐的妄想で鑑賞しつつ、年を追うごとに作者がどのように変遷してゆくのかを読み解く。これは自句自解ではなく妄想を駆使した自句鑑賞であります。


獅子舞のビルの隙間に獅子を脱ぎ (2008年1月

俳句を始めて1年足らず。まだ初々しさが残る。街角スナップ俳句か。

作者はまだ初々しい目でいろんな事や物を観察しようとしている。メモ帳を片手に新年のネタを探して町をうろついている様子が伺われる。ビルの隙間の獅子を目 に留めたくらいだから、獲物を追う目はまだ確か。この後喫茶店に入り、珈琲でも飲みながらこの句を記憶が新鮮なうちに仕立てたりしたのでありましょう。


初富士や丈の短き体操着 (2009年1月

あれから1年、なにか少し怠惰な生活になってきた様子が伺われる。

元日の朝に家のベランダかどこかからみえた初富士を拝んだ、そのときの部屋着か寝巻き代わりかのジャージの袖が丈が短かったのである。ジャージの丈が詰まる とは、どれほど洗濯を繰り返したジャージだというのか。あるいはジャージのズボンの裾かも知れない。臙脂色で脇に二本線が入っていて、足の裏に引っ掛ける ゴムが付いていたりして、そんでそれがつんつるてんで脛が少し見えている。正月だというのになんとも寒々しい光景。そんな格好で新年を寿ぎ、日本人の心で もある初富士という目出度さをぶつけたことで、なんともおめでたい作者の姿が見えてきます。


簡単に済ませし御慶御神酒樽 (2010年1月

あれから更に1年。御神酒に並々ならぬ関心を寄せ始める。

御神酒樽ということは神社。初詣に行ったら知人にでも会ったのであろう。お参りも既に済んでいて、さて次は御神酒をいただきに向かおうかとしたところ、ばっ たりと出くわす知人。こちとら心はもう御神酒に向かっているというのになんというタイミングの悪さ。簡単に御慶を済ませて、じゃあまたねと御神酒をいただ きに向かいたいというのに、知人はどうでもいいような共通の知人の噂話を始めたりして。視界の隅にはちらちらと御神酒樽。もういっそのこと「よいお年を」 などと新年だというのに年の暮れまで会わなくてもいいです的な勢いで挨拶を切り上げてしまいたい。。。知人の噂話よりも御神酒をいただく方が大切なので す。


光るもの転がつてゐる御慶かな (2011年1月

更に経つこと1年。元日の日の光がまぶしいの的正月休み。

元日に起きだしたらもうお昼近く。ちょっと頭が痛い。初日の出を見つつ初詣に出かけ、御神酒をいただいた後に神社の屋台で引っ掛けた日本酒がまだ残っている のか。それとも年末にひいた風邪のせいか。年賀状が来てはいないかと集合ポストまで降りて行くと、隣近所の人がお参りを済ませたのか破魔矢なんぞを持っ て。あけましておめでとうございます、と軽く会釈をするとなにやら目に痛い光。そんでもってクラクラ。2時間くらい寝てもお酒は抜けません。さっきのなに やら光るものが転がっていると思ったのは、500円玉ではなく、タイヤでつぶれた瓶ビールの王冠。


初御空へと酒臭き息を吐く (2012年1月

5年もたつと初々しさのかけらもなく。

そろそろ二年参りの人達も引いたんじゃないかという頃合を見計らって暗いうちに初詣に。ピークの第一波が過ぎ、屋台の兄さんたちにもどっぷりとした疲れが見 えている。がたつく椅子に座り、樽酒、熱燗、それからウーロンハイなどを呑み始める。兄さん達と話が弾み、サービスだよと焼酎をたくさん入れてくれた。 こっちもご祝儀代わりにお釣は珈琲でものんどくれと500円のところ千円札を渡したりして。熨斗烏賊のおまけでもらった烏賊の足を出し、ちょいとストーブ で炙り、兄さんにもおすそ分け。もちろんおでんや煮込みも頼んでいる。調子よくやっていたら東の空が明るくなってきて、鎮守の杜の隙間から初日の光が。今 年1年いい年でありますように、などと酔った頭で思いつつ帰路に着く。ふらふらと歩いていると、風が気持ちいい。思わず空を見上げて深呼吸。。。ああ、自 分ではよくわかりませんが、まちがいなく今吐いた息は酒臭いです。。。


この調子だと来年の新年詠では、酔っ払って31日のうちに御慶を言い出すとか、大きな龍が神社からやってきて一斗樽を置いていってくれたなどと幻覚めいたことを言い始めるとか、そんな心配をせずにはいられません。

2012年1月10日火曜日

●台所

台所

煤ちるやはや如月の台所  加舎白雄

厨房に貝があるくよ雛祭  秋元不死男

水中に芽吹く種ある台所  対馬康子

あやめ咲くことを思へり厨房に  三橋鷹女

口切や湯気ただならぬ台所  与謝蕪村


2012年1月9日月曜日

●月曜日の一句〔宇多喜代子〕 相子智恵


相子智恵








川明り一気に開く屏風にも  宇多喜代子

句集『記憶』(2011.5/角川学芸出版)より。

日暮れた後の川がほのかに明るい。夜のはじまりの景である。

この屏風は川辺の料亭のようなところにあるのだろうか。窓辺に置かれた屏風に、川明りがほのかに反射して、ぼうっと明るい。

それだけではなく、この句には重層的なイメージの広がりがある。

折り重なった屏風が一気に開かれ、まるで屏風が一本の蛇行した川のように一枚に広がるからだ。川のように蛇行した屏風は、室内に川明りを放つかのように周囲をさっと照らす。

ひとすじの川明りと、ぱっと川のように伸びてゆく屏風の明るさ。

きらびやかで美しい相似形である。


2012年1月8日日曜日

〔今週号の表紙〕第246号 辰年

今週号の表紙〕
第246号 辰年


今から2年前の2010年正月の東京・浅草の浅草寺。当時、浅草寺は改装中で、覆いのテントに、辰年でもないのに竜の絵が描かれていた。

(西原天気)


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2012年1月7日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】反・実用 『俳コレ』竟宴シンポジウムを聞いて

【裏・真説温泉あんま芸者】
反・実用 ~『俳コレ』竟宴シンポジウムを聞いて

西原天気


昨年2011年12月23日、『俳コレ』竟宴に行ってきました。シンポジウム第2部のテーマは「撰ぶこと・撰ばれること」。上田信治(コーディネーター)が進行。パネリストには筑紫磐井、櫂未知子、榮猿丸、村上鞆彦、依光陽子、矢口晃、松本てふこ、福田若之の各氏という大所帯。上田信治さんの捌きが良くて、この手のシンポジウムにありがちな「ダンドリどおり発言が何巡かして終わり」、あるいは「討議がぐじゃぐじゃになって空中分解」、どちらとも違う、おもしろいシンポでした。

「撰ぶこと・撰ばれること」というテーマ設定は、『俳コレ』が他撰から成るという事情からの発想ですが、話は、いきおい、ふだんの「選句・被選句」、つまり結社所属なら、主宰(先生)の選をどう捉えているかといったところへ展開。聞いていて、みなさん、それぞれ自分なりのスタンスを確立しているのだなあ、と感じ入りました。

逆にいえば、そうでなければ(自分のスタンスがふらふらしっぱなしでは)、俳句を作り続けることはできないということでしょう。同時に、スタンスは、人それぞれでいい、ということか、とも思いました。

(途中、進行役の上田信治さんがしきりに「おもしろいですねえ」とひとりごとのように言っていたのは、その「人それぞれ」な事実をいまさらながら確認できたことが「おもしろい」のだったと想像しました)

ところが、その後、話は「実用」へと傾いていきます。実用というのは、つまり、結社に所属する(師の選を仰ぐ)こと/そうではないことの、有利・不利(アドバンテージの有無)、メリット・デメリット、得かどうか(ベネフィットの有無)といった話題です。

俳句を作るのに、どちらがいいか、どれが最適か。この切り口は、この数年くりかえし話題にのぼる「(特に若い人が)結社に所属すべきか否か」という話題(やや耳タコ)とセットになっている感があり、話の流れとしては自然です。

俳句を作っていくうえで、自分にとってのアドバンテージやメリット、損得を考えるのは、至極当然。そう考える人は多いようです。でも、そう考えない人もいます(例えば私)。

では、アドバテージやメリット、損得じゃなければ、何が基準か。それはもう人それぞれで、快・不快かもしれないし、仁義かもしれないし、なりゆきかもしれない。

アドバンテージやメリット、損得をうんぬんするとなると、例えば、結社に所属していない若い俳人・福田若之さんは、結社の「良さ」を突きつけられて、「そんなことなら、仲間内の句会でも得られる」と抗弁するしかありません。

この応答は、しかし、聞いている私からすると、すこし不満でした。「アドバンテージもメリットも得も要らない」と答えてほしかったところです。そうした「実用」的なもの、一切と無縁なまま、俳句を作っていくのだという姿勢を示してほしかったところです(個人的な夢想ですよ、もちろん)。

自分の作句にとってどのような環境(どの結社に所属し、どんな人の選を仰ぐか、等)が最適か。その正解を選んでいくことは、賢明な行動ではあるでしょうが、美しい行動ではありません。別に美しくなければいけないってことはないのですが。

結社や同人に所属すること/しないこと、選を仰ぐこと、さらには句会をやること、俳句を読むこと、それらをみずからの「実用」の観点で捉えることは、必要ではあっても、それに大きく覆われてしまうようでは、ちょっとさびしいのではないかなあ、と。

そんなことを思いつつ、市ヶ谷の夜が更けていったですよ。


※俳コレ竟宴の模様については、邑書林のリンク集でどうぞ。≫こちら

2012年1月6日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







鉄棒にとびついてみるお正月


門脇かずお(かどわき・かずお)1956~

冬の公園も校庭も寒い。冬の鉄棒はさらに冷たい。その鉄棒にとびつくという。お正月に、年の初めに、気を引き締めなくてはならないことがあるのかもしれない。ひやっとする鉄棒に触れて、しゃっきとして、また、何食わぬ顔で慌てず騒がずに、この一年を過ごすと決めているのだろう。

〈おもしろいことを元旦から言おう〉〈仏壇の前でいい顔をしよう〉。日常身辺の事象を普段使っている言葉でごくふつうに、何の衒いも演出もなく、思ったことを率直にそのまま書いている印象を受ける。しかし、自らを客観視しての人間描写には鋭いものがある。

さあ、私もこの一年、しゃきっとしなければ。

2012年1月5日木曜日

●歌留多

歌留多

掌に歌留多の硬さ歌留多切る 後藤比奈夫

むさし野は男の闇ぞ歌留多翔ぶ  八田木枯

しづかなるひとのうばへる歌留多かな  野口る理〔*〕

歌留多とる皆美しく負けまじく 高浜虚子


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2012年1月4日水曜日

●雑煮

雑煮

めでたさも一茶位や雑煮餅  正岡子規

蒲鉾の紅あたたかき雑煮かな  徳川夢声

父の座に父居るごとく雑煮椀  角川春樹

雑煮食うてねむうなりけり勿体な  村上鬼城

人類に空爆のある雑煮かな  関 悦史

2012年1月3日火曜日

●初湯

初湯

めでたさは初湯まづわきすぎしかな  久保田万太郎

初湯中黛ジユンの歌謡曲  京極杞陽

からからと初湯の桶をならしつつ  高浜虚子

初湯出し鉄工あかし鉄の間に  石田波郷

初湯出て臍もまたたくことをせし  野中亮介

初湯して江戸の鴉もオノマトペ  筑紫磐井

ちんぽこの短く見えし初湯かな  雪我狂流〔*〕


〔*〕『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2012年1月2日月曜日

●月曜日の一句〔小原啄葉〕 相子智恵


相子智恵








初夢の手と手離れしとき目覚む  小原啄葉

『俳句』1月号「初日」(2011.12.14/角川学芸出版)より。

切ない句である。

親しい人、あるいは会いたいけれど会えない人かもしれない。そんな人を初夢に見た。どんなにか嬉しかっただろう。そして、その人とつないだ手が離れたと同時に、目が覚める。

手と手が触れ合っている途中に目覚めたのではなく、〈離れしとき〉に目が覚めたことに注目したい。

初夢の終わりの瞬間と、手と手が離れた瞬間。その二つの区切りが同時にくるというのは、覚めるべくを覚悟して覚めた気がするのである。手が離れて「さあ、そろそろいってらっしゃい」と、この世の朝に送り出されて、戻ってきたかのように。

「めでたさ」が初夢の本意だとすれば、それとは異なるかもしれないが、この区切りに、私は切ない中にも一瞬の清々しさを見る。

さあ、目覚めてこれから、新しい年が始まるのだと。


2012年1月1日日曜日

●元日

元日

元日に田ごとの日こそこひしけれ  芭蕉

元日のつぶやき寒しオルゴール  久保田万太郎

昼深く元日の下駄おろすなり  千葉皓史

午後の茶を飲めば元日すでに蒼し  相馬遷子

元日を白く寒しと昼寝たり  西東三鬼

元日や手を洗ひをる夕ごころ  芥川龍之介