2016年4月30日土曜日

●燐寸

燐寸

三月や燐寸の棒は四角柱  雪我狂流〔*〕

花種用喇叭印の燐寸箱  池田澄子

燃えさしの燐寸の頭春深し  小川軽舟〔**

昼寝覚マッチの頭燃え狂ふ  小林恭二

秋雨の瓦斯がとびつく燐寸かな  中村汀女

一本のマッチをすれば湖は霧  富沢赤黄男

秋の夜の燐寸の火色さす畳  加藤楸邨

数へ日や茶筒のうへに燐寸箱  小原啄葉


〔*〕雪我狂流句集『開運出世大黒天』(2016年2月/私家版)より

〔**『鷹』2016年5月号より



2016年4月29日金曜日

●金曜日の川柳〔佐々木久枝〕樋口由紀子



樋口由紀子






なのはなのなのはなのなかのはつねつ

佐々木久枝 (ささき・ひさえ) 1940~

表記がすべてひらがなである。<NANOHANANONANOHANANONAKANOHATUNETU>、前半はA音とO音だけ、あとにU音とE音が加わる。音韻の効果はよくわからないが、ぼおっとした景が一気に引き締まったような気がした。

一面に菜の花が咲いている。その痛いような黄色に自分と同じような発熱を感じたのだろうか。漢字にすると〈菜の花の菜の花の中の発熱〉。漢字の方が句の意味はわかりやすい。しかし、句の内容はさほど重要ではないというか、取り立てて言うほどのことを書いているわけではないと言っているようにも思う。わかってしまうことで終わってほしくないためのひらがななのか。それともそんなたいそうなことではなく、彼女らしい遊び心の表れなのかもしれない。ともあれ、不思議な存在感を醸し出している。「aの会」(1980年)。

2016年4月27日水曜日

●水曜日の一句〔加田由美〕関悦史


関悦史









落椿蛸這ひ上る崖といふ  加田由美


落ちる椿と這い上がる蛸。下降と上昇の相反する動きが一句に同居していて、こうした句はともすると一般論的な平板さに至ってしまうのだが、この句の場合、二つの動きが円環運動をかたちづくる趣きこそあれ、その中に妙なずれと諧謔が感じられる。落ちていった椿が蛸となって這い上がってくるという、奇怪なメタモルフォーゼのイメージが一句に仕込まれているからである。

この下降と上昇の円環を、くり返される生と死の生成運動の寓意などと取ってすませるには、椿と蛸という組み合わせが少々突拍子もなくて、さながら木の実から鳥が生まれる中世ヨーロッパの博物誌的図像につうじる味わいがあるのだが、それと同時に、実際にそうした場に作者その人が足を運んだのであろうという物質界の手応えをも、このメタモルフォーゼが宿らせることとなっている。

頭でこしらえるには組み合わせが意外過ぎるからということももちろん理由ではあるのだが、措辞の上でもそうした手応えをもたらしている箇所があるのだ。それが、ただの伝聞であることを明らかにしてしまうために、一見間接性が手応えを鈍らせてしまうかに見える、結びの「といふ」なのである。

いかなる必要に迫られてかは知らないが、ご苦労にも崖を這い上がってくる蛸は、さしあたり句中の語り手の前にも現前してはいない。そういう、おそらくは語り手にとっても思いがけない不意打ち的なものであろう情報が与えられた「崖」があるだけである。

この不在が、本当に蛸は上ってくるだろうかという興趣と期待の感覚を切り開く。そしてこの期待感に裏打ちされた想像は、「崖」にもわれわれ読者にも、蛸の足にまさぐられるのを待ち受けるような、それだけでくすぐったくなる実在感をもたらしてしまうのだ。

いわばこの句においては「崖」を中心とする風景全体が不在の這い上がる「蛸」によって異化されているのである。


句集『桃太郎』(2016.4 ふらんす堂)所収。

2016年4月26日火曜日

〔ためしがき〕 短歌と読む俳句、俳句を読む短歌 福田若之

〔ためしがき〕
短歌と読む俳句、俳句を読む短歌

福田若之


銅と同じ冷たさ帯びてラムうまし。どの本能とも遊んでやるよ   千種創一

『砂丘律』(青磁社、2015年)におさめられたこの一首は、おそらく、金子兜太の次の句を踏まえたものだろう:

酒止めようかどの本能と遊ぼうか   金子兜太

「酒止めようか」の句では、さしあたり、酒を止めることが何かしらの本能と遊ぶことの契機であるように読める。すなわち、酒を止めるとき、はじめて、何かしらの本能と遊ぶことになるということ。あるいは、酒を呑むことも本能のひとつだとするならば、それを止めるとき、はじめて、別の本能と遊ぶことになるということ。

だが、こうした読みに対して、「銅と同じ冷たさ」の歌では、別の読みが示唆されている。酒を止めることは何かしらの本能と遊ぶこと自体の契機ではなく、むしろ、遊び相手とする本能をどれかに絞ってしまうことの契機であるという読みの可能性が提示されているのだ。だとしたら、酒を止めなければ、遊び相手となる本能を選ぶことも必要ではなくなる。どの本能とも遊ぶことができるのだ。「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」という問いは、あたかも酒を止めなければ何らかの本能と遊ぶことなどできないかのように、僕たちに選択を迫る。だが、この歌において示唆された読みにおいては、これは偽の問いだということになる。だからこそ、一首は、この問いに真面目に回答するのではなく、問いを無効にすることによってそれに応答しているのだ。

ところで、この一首は、もしかすると、俳句を参照しながら「銅と同じ冷たさ帯びてラムうまし」という一節を「。」で閉じることによって、この一節を短歌に含みこまれた俳句として提示しているのかもしれない。この一節は、ラム酒という液体を、俳句めいた仕方で、ある程度まで即物的に把握している。僕には、「酒止めようか」の句のほうが、書きぶりとしては、「銅と同じ冷たさ帯びてラムうまし」というこの一節よりも短歌めいているようにさえ思える。

それだけであれば俳句として読むこともできたかもしれない言葉に、下の句がつくことで、短歌として仕上がっている。だが、この下の句こそが、特定の俳句への参照にほかならない(「どの本能とも遊んでやるよ」という言葉がなかったなら、兜太の句とのつながりは明確にならなかっただろう)。だから、もしかすると、この短歌は、ある俳句に応答すると同時に自らが俳句であることを失った言葉なのかもしれない。「あとがき」に「感情は、水のように流れていって、もう戻ってこないもの、のはずなのにシャーペンや人差し指で書き留めた瞬間に、よどんだ湖やまぶしい雪原になる、感情を残すということは、それは、とても畏れるべき行為だ、だから、この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う」と記す書き手の歌として僕の心を強く惹きつけるのは、たとえば、《月の夜に変電所でみたものは象と、象しか思い出せない》や《一葉の写真のせいで組みなおす鳥居と鳥居の後の記憶を》などの、記憶の風化を言葉にした歌なのだけれど、「銅と同じ冷たさ」の一首にも、もしかすると、俳句であることを失うという仕方での記憶の風化を読むことができるのかもしれない。

2016/3/29

2016年4月25日月曜日

●月曜日の一句〔嵯峨根鈴子〕相子智恵



相子智恵






逃げ水やむりよくむりよくと噛む駱駝  嵯峨根鈴子

句集『ラストシーン』(2016.04 邑書林)より

砂漠の逃げ水である。

地面が熱せられて水溜りができたように見え、近づくと遠方に逃げて行ってしまうように見える蜃気楼の一種、逃げ水。そんないつまでもたどり着けない水溜まりを背景に、駱駝はただゆっくりと口を動かし、食べたものを反芻するのみである。砂漠の水溜りといえば貴重なオアシスを思うが、それが逃げ水なのだと想像されてくる。

〈むりよくむりよく〉は「無力無力」だろうか。水にたどり着けない駱駝に悲壮感はまるでなく、ただのんびりと、無力、無力と口を動かしている。明るい内容ではないのに、ほのかな諧謔があり、口の中で唱えていると不思議と安らかになってくる一句である。

2016年4月23日土曜日

●浄土

浄土

橙や浄土というは奥行きか  野間幸恵〔*〕

虚子忌はや落花の浄土なまぐさし  飯田龍太

湯あがりの極楽浄土虫浄土  阿部みどり女

浄土にも秋茄子くらい在つて欲し  橋間石

浄土これ畳のヘりにとろゝ汁  攝津幸彦

穢土浄土風の撓みに松納む  角川源義

一蝶を放ちて蓮華浄土かな  富安風生

きみが髪わが髪ほどき浄土とや  大西泰世


〔*〕野間幸恵『WATER WAX』(2016年1月/あざみエージェンシー)

2016年4月22日金曜日

●金曜日の川柳〔飯尾麻佐子〕樋口由紀子



樋口由紀子






紙の雪ふらせ一族鳥になる

飯尾麻佐子 (いいお・まさこ) 1926~2015

紙の雪を降ってきてクライマックスになり、そして幕が下りた芝居を観たことがあった。内容はよく覚えていないがそのシーンだけが妙に印象に残っている。確か、観客は誰もが泣いていたと思う。

「紙の雪ふらせ」だから自らの意志で、「一族」は自分も含めて、「鳥になる」だから自らの行動だろう。ここではないどこかへ、今とは違う世界に飛び立ち、鳥になって飛翔する。多少芝居がかってはいるが、新たな決意と覚悟の程をうかがわせる。飯尾麻佐子が確かにそこに立っていると思わせるものがある。

飯尾麻佐子が昨年に亡くなっていたことを知った。彼女は1978年女性だけの川柳誌「魚」を創刊し、多くの女性川柳人を育てた。私も川柳の駆け出しの頃に何度もエールを送っていただいた。〈鏡屋の夜 神さまは鈴なりに〉〈日がな一日 喉の裂けたる裔のうた〉〈軋む五十音 宙にブリキの陽が昇る〉 「魚」62号(1995年刊)収録。

2016年4月20日水曜日

●水曜日の一句〔嵯峨根鈴子〕関悦史


関悦史









静かの海に濡らすてのひら桜守  嵯峨根鈴子


この「てのひら」は限りなく稀薄に遠くまで拡散する身体であり、同時に、非在の水に濡れることすらできる身体のようだ。「静かの海」は言うまでもなく月面の「海」で、水はなく、手が届くはずもないからである。

いや、遠くまで拡散するなどと異形化してとらえるよりも、距離を無化し、今ここと月面の二つの世界に同時に重層的に存在し得るとでも言った方が適切なのかもしれないし、あるいは、乾ききっているはずの、言葉だけの「海」に濡らすことができる「てのひら」とは、外界をもその名にふさわしい形に変容させてしまう力を持った身体であるのかもしれない。

そのような「静かの海に濡らすてのひら」というポエジーを担った身体が存在し得るのは言葉の内においてのみなのだが、とはいうものの、この句の言葉はファンタジー小説に近い世界をきれいに作り上げており、詩的言語の権能を限界まで使い切ったという性質のものではない。

桜と手を濡らす動作という組み合わせでは、触覚や体感にじかに訴えてくるような〈手をつけて海のつめたき桜かな〉岸本尚毅があり、「桜守」と「静か」では、朧化法が謎めいた感触をもたらす〈櫻守しづかなることしてをりし〉田中裕明がある。いずれもリアリズムの枠内で鑑賞できる句ではあり、これらと比べても空想性に富んだ、他界を直接描いてしまった句であることがなおのことはっきりするばかりなのだが、それにしてはこの句には妙に浮ついたところがない。

ことさら奇跡や驚異を描いているわけではなく、句の世界においてはごく当たり前なことが起きているに過ぎないという顔つきをしている上、空想的な他界を、海面に触れる「てのひら」が肉感的なリアルさの領域へと引き込んでいることによるのだろう(「桜守」が比較的新しい言葉で、由来や職業的実態がさほどはっきりイメージできない点からも、この句の芯は「濡らすてのひら」の意外性と触感にあるといえる)。

見かけに反して、ポエジーに富んだきれいな場面を描くことがこの句の主眼であるわけではない。「てのひら」を通して、世界の重層性(地上と宇宙、現実と空想、物と言葉等々)と、その重層的な世界に同時に生きているわれわれを描き出すことが主眼なのである。「静かの海」に濡れてしまった「てのひら」の驚きとは、そうしたわれわれのありようをいきなり認識させられた驚きにほかならない。そうした認識が、離魂や物狂いの気味を帯びた身体によって行われるのが、おそらくこの作者の特徴であり、ファンタジー的な仕掛けはそれゆえに要請されたのだ。


句集『ラストシーン』(2016.4 邑書林)所収。

2016年4月19日火曜日

〔ためしがき〕 日付の誤りについての訂正 福田若之

〔ためしがき〕
日付の誤りについての訂正

福田若之


あやうく、もういちど2015年を過ごしてしまうところだった(もしかすると、いくらか過ごしていたのかもしれない)。

今日、「ためしがき」のうち、2016年になってからこれまでに書かれた分について、記事の末尾の年号の記載を遡って訂正したことを、ここに記しておくことにする。もちろん、ほかの部分については、いっさい手を加えていない。

この訂正についての記載は、インターネットを通じての伝達としては驚くほど遅ればせに、読まれることになるだろう。なにしろ、訂正から一か月以上の間をあけて読まれることになるのだから。おそらく、いくらかの人は、この記載を読むよりも前に、すでに訂正がなされたことに気づいていることだろう。とはいえ、下手な報告の仕方をしてこの訂正の記録が迷子になってしまう可能性を考えると、おそらく、このかたちで残しておくのがもっとも確実だと思うので、そうしておくことにしたい。

2016/3/15

2016年4月18日月曜日

●月曜日の一句〔藤井あかり〕相子智恵



相子智恵






花冷のそのうち失くす傘と思ふ  藤井あかり

「俳句」2016.4月号 「遺失」(2016.03 角川文化振興財団)より

〈花冷〉は急な冷え込みと桜の華やぎが同居し、寂しくもあるが、冬の寒さとは違う明るさがある。華やぎと寂しさが同居する美しい季語だ。

そして、おそらく失くした時に雨が降り、急きょ買った傘なのであろう。「ずっと大切にしよう」と気合を入れて買ったのではなく、「そのうち、この傘もきっと失くしてしまうのだろう」と、買ったときから別れを予感し、諦めている傘。その新品の傘の華やぎと結末を考えてしまう寂しさが、〈花冷〉と響きあっている。

〈花冷の〉で切れていないから、花冷の時に傘をさしているのだと思う。桜の花の儚さと、いつか失くす傘の儚さ。その冷え冷えとした一瞬の出会いが、寂しくて美しい。

2016年4月15日金曜日

●金曜日の川柳〔柴崎昭雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






闇ばかり見て来たじゃがいものかたち

柴崎昭雄 (しばざき・あきお) 1965~

じゃがいもを掘るといろんなかたちのものが出てくる。へっこんだり、でっぱたり、同じかたちのものはひとつもない。しかし、その凹凸を「闇ばかり見て来た」と捉えることはまずない。土の中でいろいろあったのだ。

結婚して久しぶりに実家に帰ったときに母に結婚して性悪になったと言われたことがあった。結婚を闇と一緒にするのはどうかと思うけれど、掲句を読んで思い出した。親の庇護の元で責任のない娘時代と比べて、結婚するといろんなことに突き当たる。無理したり、傷ついたり、見えていることも見えないようにしたり、言いたくないことも言わなくてはならない。そりゃ性悪になり、でこぼこもできてしまう。丸いままではおられない。じゃがいもを通して、人生の哀歓を詠んでいると思った。

2016年4月13日水曜日

●水曜日の一句〔野間幸恵〕関悦史


関悦史









昆虫の仕組み夜明けの音がする  野間幸恵


機械状の何ものかとして捉えられた昆虫の生命と「夜明けの音」との組み合わせから、読者としてはつい「夜明けに昆虫が動く音がし、それがあたかも夜明けそのものの音のようだ」という物語やイメージを形成してしまいそうになる。「夜明けの音」と「昆虫」という、単なる生命讃歌に終わりかねない組み合わせを「仕組み」が異化しているというわけである。

それはそれで斬新さやポエジーもあるというものであろうし、そういうイメージを含み込みつつ、言葉の組織の仕方としてはズレているから、この句はそうなり得ているのだとも言えるのだが、実際にはもう少し多義的な揺らぎがありそうだ。

「昆虫の仕組み」と「夜明けの音がする」の間にはいろいろな関係が考えられる。「昆虫の仕組み(は)夜明けの音がする」、「昆虫の仕組み(により)夜明けの音がする」、「昆虫の仕組み(について考えていると、それとはさしあたり関係なく)夜明けの音がする」等々。

それ以前に「夜明けの音」も正体不明であって、昆虫がその「仕組み」により立てている音でないならば、鳥の鳴き声や、新聞配達のバイクの走行音とも思われ、そうした「夜明け」を連想させる音の総体が「夜明けの音」と呼ばれているらしい(いや、そう考えるのも早計であって、この句の世界には夜が明けること自体が発する音というものがあるのかもしれない)。

そうしたものとしての「夜明けの音」が「昆虫の仕組み」の暗喩になっているとも考えられる。この場合、一旦機械化された「昆虫」が再び「夜明けの音」の爽快感に回収されることにより、自然とも人工ともつかない、その両者の風合いを同居させた、いわば詩的に進化した「夜明け」が訪れるわけである。

いや「昆虫の仕組み」も、昆虫の生命維持や動作の仕組みに限られるという保証はべつにないので、「夜明け」の取りようによっては、「昆虫」を発生させた進化論的な仕組みを指していると考える余地もあるのだが。

以上のようにくだくだしく分解して考えなくとも、この句はそれらの全て(及びそれら以外の取り方の可能性も)を含みつつ、全て同時に直観的に感じさせてしまう句である。そうした別次元に属する内容を一度に日常空間に引き入れてしまうさまを見せられる受容体験に、特に神秘性などを強調するわけでもない「夜明け」の語はふさわしい。


句集『WATER WAX』(2016.1 あざみエージェント)所収。

2016年4月12日火曜日

〔ためしがき〕 意味からの逃走とは別の可能性 福田若之

〔ためしがき〕
意味からの逃走とは別の可能性

福田若之


意味からの逃走とは別の可能性:「意味する」という言葉の意味を変えてしまうこと。

そのために考えなければならないのは、「意味する」という言葉がそのとき何を「意味する」のか、ではない。「意味する」という言葉がそのときどう「意味する」のか、だ。

∵「意味する」という言葉の意味が変わったあとでは、「意味する」という言葉もまた、変わった後の意味においてしか「意味する」ことはないはずだ。だとすれば、そのとき、「意味する」という言葉が何か「意味する」ということさえ、もはや確実ではない。

2016/3/8

2016年4月11日月曜日

●月曜日の一句〔甲斐由起子〕相子智恵



相子智恵






夕星(ゆふづつ)へ囀りの樹の揺れやまず  甲斐由起子

「俳句」2016.4月号 作品12句「春楡」(2016.03 角川文化振興財団)より

「囀り」は求愛のための鳴き声。人間はその声を、ただ美しいものとして聴くが、鳥たちにとっては切実な呼びかけであろう。〈樹の揺れやまず〉に鳥の求愛の切実な様子が表れていて、そのことに気づかされる。

鳥が囀る木が揺れ止まないまま、夕方、西の空に宵の明星が現れる。木は揺れ続けながら、だんだんとシルエットになってゆき、やがて見えなくなる頃には囀りも止むのだろう。目に見えるものが少なくなる分、耳に聴こえる囀りの印象が強く残り、余韻が深い。

「夕星や」のように上五で切ることなく、「夕星へ」と全体の風景が繋がることで一枚の映像にすべてがおさまり、絵本の絵のような柔らかさが生まれている。囀りの声が星まで届きそうだ。

2016年4月8日金曜日

●金曜日の川柳〔森東魚〕樋口由紀子



樋口由紀子






雨滴の音が宇宙へつっ走り

森東魚 (もり・とうぎょ) 1889~1945

雨が続くとうっとうしくなり、心は晴れない。しかし、作者は雨滴の音に独自の見方をした。雨滴の音は聞く人の心境によってはいかようにも聞こえる。しかし、宇宙と関係づけることはそんなにない。どんな心持ちでそのように感じたのだろうか。

「つっ走り」とは鋭い表現である。力を感じさせ、ぐっと魅かれた。つっ走っていくのは自分の心中である。それはまぎれもなく「つっ走り」の感情が作者の内に持っていたからである。かなしさなのか、どうすることもできない心のありようなのか。抒情性のある心象表白である。夢に向かって、あるいは誰かのもとに、限りある人生を「つっ走り」たい。それは誰にも止めようがない。

2016年4月6日水曜日

●水曜日の一句〔大塚迷路〕関悦史


関悦史









空蝉の見つめる蝉の七日間  大塚迷路


「蝉の七日間」が何やら『風の谷のナウシカ』の「火の七日間」を連想させ、世界の終末か何かのようだが、実際セミにとってはこの七日間で生命は終わる。ただし句としては、それが儚いというまとめ方にはならず、終末観じみたものへと広がっていて、そのスケールの狂いがまず面白い。

だがこの句の主眼は、そこよりもむしろ「空蝉」「蝉」の自己の二重化と、その主客関係の逆転にある。ただの抜殻に過ぎない空蝉の方が中心となっており、実体感が強いのだ。

そこには諧謔の要素ももちろんあるのだが、観念による生死の逆転とか、自分のドッペルゲンガーを目にした者は死ぬという怪奇小説的な俗信に通じる味わいもあり、しかも、それがあからさまな虚構としてではなく、現実にその辺にある空蝉と蝉の関係からのみ引き出されているのである。

自分の抜殻に地上での全生涯を観察されていること(その七日間の存在論的むず痒さよ)をはたしてこの蝉は知っているのだろうかと思えば、置き去りにして忘れ去ってしまった自分の過去に復讐されているようでもあり、少々うすら寒い思いが湧いてくる。

そして蝉の七日間を見つめ終わった後の空蝉が送る、空虚きわまる時間がそれに続く。ドゥルーズのベケット論にあった「消尽したもの」を俳句化したらこうもなろうかという句。


句集『誰か居る』(2016.4 マルコボ.コム)所収。

2016年4月5日火曜日

〔ためしがき〕 リトル・チャロと芭蕉 福田若之

〔ためしがき〕
リトル・チャロと芭蕉

福田若之


ふいにテレビを点けたら、『リトル・チャロ』に芭蕉の幽霊が出ていて驚く。

英語で話す芭蕉は、英語で話す犬よりも新鮮だった。物語は、伝記的な部分にやや雑な感じはあったけれど、それなりに愛の感じられる仕上がりだった。

300年もさまよっていた芭蕉の幽霊が、ほんの数分のアニメーションのなかで成仏してしまうというのは、たしかにあまりにも軽いように感じられはする。けれど、この軽さがいい。幽霊はあまり重すぎると幽霊ではなくなってしまう。

芭蕉を、俳聖としてでも宗匠としてでもなく、ふつうの人として敬うこと。会うまで芭蕉を知らなかったチャロの仕方で、芭蕉を敬うこと。チャロにお札をプレゼントして成仏していく芭蕉の笑い声が、どことなくサンタクロースを思わせたとしても。

2016/3/4

2016年4月4日月曜日

●月曜日の一句〔藤木倶子〕相子智恵



相子智恵






みちのくや炎と遊ぶごと畦を焼き  藤木倶子

句集『無礙の空』(2016.02 東奥日報社)より

〈みちのくや〉の古語の地名が効いていて、一気に句の世界が大きくなっている。

〈炎と遊ぶごと畦を焼き〉だけだと、炎の大きさは小さく感じられるのだが、そこに〈みちのくや〉と置かれたことで、炎が大きく、その大きな炎と戯れるように豪快に畦を焼く様子が目に浮かんでくるのだ。青森ねぶたの力強い武者絵の赤色のような、豪快な炎の色。

永田耕衣の〈舐めにくる野火舐め返す童かな〉にも似たプリミティブな楽しさと怖さがあり、原始から火に対して人間が抱いてきた感情がそのまま、現代に生きているような句である。

2016年4月1日金曜日

●金曜日の川柳〔濱山哲也〕樋口由紀子



樋口由紀子






母さんが信仰しているママレモン

濱山哲也 (はまやま・てつや) 1961~

ママレモン、なつかしい。「ママレモン~♪」というCMがよく流れていた。まだ売られているのだろうか。新しい商品の陰に隠れて、今はあまり名前を聞かなくなったが、30年ぐらい前の食器用洗剤の代名詞だった。それ以前の食器用洗剤よりも油汚れを落し、泡切れもよく、レモンの香りがして、なによりおしゃれで新しい時代の息吹を感じさせた。

次々と進化したいろいろな新製品が売り出されているのに母さんはママレモン一筋、それは確かに信仰以外のなにものでもない。そんな信仰を持てる母さんはかなり貴重な人だと作者は思っている。そんな母さんが大好きなのだろう。「ママレモン」という懐かしい物と、同時にそれを使っていた時代を、軽やかなユーモアと共に浮かび上がらせ、明るい楽しさがある。「触光」(45号 2015年刊)収録。