小津夜景
紙ヒコーキに乗る
友人の伴侶が紙ヒコーキにはまっている。
空力デザインを理詰めでかんがえながら、紙ヒコーキを手ずから折りあげ、家の外でとばす。ただそれだけのシンプルな遊びだ。
で、ある日、ホームメイドの紙ヒコーキをたずさえて埼玉の空き地に出かけ、夫婦でのんびり過ごしていたら、見たことのない男性が、
「まだまだシロートですね」
とかなんとか言いつつ近づいてきた。そして、わたしはさる紙ヒコーキの会に所属している者ですと名乗り、紙ヒコーキについて講釈を垂れたあと、なんと友人夫婦を紙ヒコーキ愛好家たちの会合に招待してくれたのだそうだ。後日、友人夫婦が案内された室内には、いつまでも空中を旋回しつづける神秘的な紙ヒコーキが実在したとのことだった。
「すごかったよ。紙ヒコーキが室内を、勝手にくるくる回ってるの。」と友人。
「そんなことあるの」とわたし。
「ふふ。これがあるんだねえ」
そんな狐につままれたような話を聞いたのはこの春のこと。さいきんふと思い出してネット検索したら、発泡スチロールペーパーでつくった紙ヒコーキは、無風の室内でゆっくりふわふわととぶ、との記述を科学方面のサイトに見つけた。とばすときは、けっして投げてはいけない。そうではなく、前方にしずかに押し出すようにして、空気の層の上に乗せるよう意識するのである。さらに、とんでいるヒコーキのうしろの空気をダンボールなどの板でかすかに押してやると、ヒコーキが上昇気流に乗っていつまでも宙に浮きつづけることもわかった。
映像作家にして民俗学者のハリー・スミスはとらえどころのないものを集めるコレクターでもあった。そんなハリーに、収集物を写真で紹介した『
紙ヒコーキ/ハリースミスコレクション vol1』(J&L Books)という本がある。この本に登場する251機の紙ヒコーキはニューヨークの街路や建物でスミス自身が拾ったもので、機体にはいつどこで手に入れたのか記されている。ページをめくると、メニューだったり、政治ビラだったり、聖書だったり、マニラ封筒だったり、段ボールの端だったり、ルーズリーフだったりと、いろんな素材で作られた、ゴミから生還した紙ヒコーキが愉しめる。素材だけでなく、色も造形も、紙に書かれた文字も、なにもかもが生き生きとしておもしろい。
スミスの友人たちの話によると、スミスは新しい紙ヒコーキを、つねに、つねに、つねに探していた。友人の一人は、一度タクシーの中からそれを見つけたときの彼の興奮具合は尋常ではなかったと証言している。スミスは一瞬ですっかり心ここに在らずとなり、その一機を追って街中を探し回ったそうだ。
非常に興味深いのは、スミスがなぜここまで紙ヒコーキを探していたのか、友人たちの誰にもさいごまでわからなかったことである。スミスはなにも語らなかったのだ。とはいえささやかなヒントはある。たとえばこの本の冒頭には、こんな一文が存在する。
まあ、当然のことながら、私の真の使命は人類学であると私は考えています。……しかし、それは単なる娯楽であり、私の真の使命は死の準備です。その日、私はベッドに横になり、私の人生が私の目の前から去りゆくのを見るでしょう。
なるほど。たしかに拾った紙ヒコーキには、人間が触覚的存在としてよみがえる不気味さがあり、またその造形に製作者たちの幼少期の遺物を確認することができるという意味で、人類学や死につうじているーーというのは穿ちすぎで、もしかするとスミスはなにもかんがえず、ただ紙ヒコーキを集めながら、きたるべきその日、死者としていかに空気の上にうまく乗るか、そのエレガントな手順を、さまざまな遺物から考察していただけかもしれない。