2024年12月23日月曜日

●月曜日の一句〔青木ともじ〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




湯豆腐の波に豆腐のくづれけり  青木ともじ

俳句のほかに、わざわざこんなことを言ったりしない。俳句以外は見向きもしない素材・題材をたいせつに扱う、ていねいに一字一句、設える。それは俳句というジャンルの大きなアドヴァンテージであり美徳だと信じているのですが、同じ句集にある《葱に刃を入れて薄皮切れ残る》も、そう。

二句並べると、素晴らしい夕餉の一品、という幸福感のことはともかくとしても、湯豆腐の句は、豆腐に始まり豆腐に終わるその構造で、この世にはこの鍋しか存在しないかのように狭く閉じた世界が現出し、葱の句では、半径1センチメートルの視野へとクローズアップされる。手のひらの大きさの範囲、せいぜい肩幅に収まる範囲で、くずれたり、切れ残ったりといった、多くの人々にとっては「どーでもいい」ことが、奇跡でも天啓でもなく、起こる。その起こること・起こったことの積み重ねとして、暮らしや世界があるのだなあ、と、冬のなんでもない時間に思うのですよ。

掲句は青木ともじ句集『みなみのうを座』(2024年11月/東京四季出版)より。

2024年12月20日金曜日

●金曜日の川柳〔金築雨学〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



謝らぬ女のあれこれも楽し  金築雨学

謝らなければいけないようなことをしない女、つまり不手際のいっさいない女は、たいへん素晴らしい女性だが、きっと楽しくはない。ミスをして、すぐに素直に謝る女性も、素晴らしい人だが、それもきっと楽しくはない。

ただし、こうした仮定・想像は、すべて、自分との距離による。距離の遠い人、例えば友だちの友だちの恋人や奥さんなら、不手際が少なく、なにかあればすぐに謝る人がいい。いわゆる「いい人」がいい。ところが、距離の近い人、例えば一緒に暮らす人には、「楽しさ」、それも、一筋縄ではいかないよううな愉しさ、ひりひりするような愉しさ、という贅沢を求めてしまう。

自分にひどいことをする、非常識でむちゃくちゃで、嘘はつくし、万事にだらしない。ところがまるで謝らない。こういう人を楽しめる暮らしは、最高なんじゃないかと思う。あくまで想像・空想ですけれど。

金築雨学(かねつき・うがく)「短編小説」:『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)所収

2024年12月19日木曜日

〔俳誌拝読〕『ユプシロン』第7号(2024年11月)

〔俳誌拝読〕
『ユプシロン』第7号(2024年11月)


A5判・本文28頁。同人4氏、各50句を掲載。

ともすれば昨日の噓のように鹿  仲田陽子

白生地の異なる織目冬来る  中田美子

風鈴に眠り誘はれ邪魔もされ  岡田由季

足一本どうしても浮く茄子の馬  小林かんな

(西原天気・記)



2024年12月18日水曜日

西鶴ざんまい #71 浅沼璞


西鶴ざんまい #71
 
浅沼璞
 

那古の浦一商ひの風もみず    打越
 鰤には羽子がはえて飛ぶ年   前句
魔法にもせよ不思議成る隠れ蓑  付句(通算53句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・裏3句目。 雑。 隠れ蓑=鬼ヶ島の宝物。着ると身を隠せるという。

【句意】魔法だとしても、不思議な隠れ蓑である。

【付け・転じ】前句の慣用表現を魔法による「実」とみて、同じく不思議な〈隠れ蓑〉へと飛ばした。小学館・新編日本古典文学全集61では対付(たいづけ)とある。

【自註】「鰤に羽子のはえたる」を魔法にしての付かた也。*「天野川」といふ目くらがしは、思ひもよらぬ所より鯉・鮒を出し、又、*「隠れみの」といふには、座敷に嶋を見せ、数々のたから物を出だしける。是、皆種あつていたす事也。此の程、塩売長次郎と申せし**ほうか師、さまざまの事を仕出しける。中にも、ちひさい口へ馬を呑みける、「きのふは誰が見た」「けふは我が見た」といふ。是も『つれづれ』に書きし、***応長の比(ころ)の鬼なるべし。
*「天野川」「隠れみの」=ともに奇術のネーミング。 **ほうか師=マジシャン。 ***応長の比の鬼=『徒然草』50段に紹介された女の鬼に関するフェイク情報。

【意訳】前句「鰤には羽子がはえて飛ぶ」というのを魔法に見立てての付け方である。「天野川」という目眩ましの奇術は、思いもよらぬ所より鯉・鮒を取りだし、また「隠れ蓑」という術では、座敷に鬼ヶ島を出現させ、数々の宝物を取り出した。これはみな種があって致すことである。このほど塩売長次郎と申す奇術師、さまざまの術を工夫しだした。なかでも小さな口へ馬を呑みこむという術、「昨日は誰それが見た」「今日は自分が見た」という。これも『徒然草』に書かれた応長の頃の鬼の噂の類にちがいない。

【三工程】
(前句)鰤には羽子がはえて飛ぶ年

 魔法にて宝取りだす目眩まし  〔見込〕
   ↓
 天野川てふ魔法にて目眩まし  〔趣向〕
   ↓
 魔法にもせよ不思議成る隠れ蓑 〔句作〕

前句を魔法に見立て〔見込〕、〈どんな魔法があるのか〉と問い、流行の〈天野川〉なる術とみて〔趣向〕、同じように不思議な〈隠れ蓑〉という奇術へと飛ばした〔句作〕。

 
もともと〈隠れ蓑〉は鬼の宝物といわれてましたが、〈鬼〉はすでに出てますよね。

「夏の夜の月に琴引く鬼の沙汰、やろ」
 
そう裏の月でした。たしか〈鬼〉は*一座一句物だったかと。
 
「そやな、連歌では千句物いうけど、俳諧では百韻に一句やろ」
 
では〈隠れ蓑〉は〈鬼〉の「抜け」ってことですか。
 
「そやな、〈鬼〉が抜けたら「隠れ遊び」はでけへんけどな(笑)」
 
あぁ、隠れんぼ、たしかに……。
 
*一座一句物=『連歌新式』(1452年)。

2024年12月17日火曜日

◆週刊俳句の記事募集

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2024年12月16日月曜日

●月曜日の一句〔大畑等〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




流星群来よ大根を煮ておくから  大畑等

この12月13日の夜から14日夜明けにかけて、ふたご座流星群が出現のピークだたそう。流星の光の尾が夜空のひとすみにすっと現れてすっと消える。流星を見るときはだいたいそのように一瞬だし、光量もかすかなものだが、この句のように《来よ》と言われると、《流星》が文字どおり《群》なして大挙地球に押し寄せてくるかのようにも思えてくる。実際にそんなことあ起きれば映画『ドント・ルック・アップ』どころではない大災害、地球の最期なのだろうけれど、この句ではあくまでロマンチック。ただし、《大根を煮ておく》というからには、ロマチックばかりではない。なんだかおおらかで、市井の可笑しみも漂う。

流星群のニュースを見るたび大根を思い出し、大根を食べるたびに流星群を思う。この句を知って以来、そういう冬を重ねるようになった。

大畑等(1950-2016)。掲句は句集『ねじ式』(2009年2月)より。

2024年12月13日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



「ち」と読めばすこしかわいくなる地声  なかはられいこ

ちごえ。

どうだろう。すこしはかわいくなっただろうか。

「地」には、天との対概念である「地」、地面なんかがそうだけど、そこから派生して(比喩的に)いろいろな意味や脈絡で使われる。「地声」は、生まれついて持ってしまった声、あるいは、裏声との対比で、そのまま自然に出る声、のような意味だろう。と、地声について、うだうだ語っている場合ではない。この句の眼目は「かわいくなる」にあるから、そちらに話を進める。

ところでこの句、何が「すこしかわいくなる」というのだろうか。

A 読み方を言っているのだから、まずもって「地声」という語がかわいくなる。

B あるいは、地声がかわいくなる、と、読めないこともない。

候補がふたつあがった。どちらと決める必要はない。「地声」という語は、どこかしっかりしていて、このままではかわいくない。「じ」ではなく「ち」と読めば、なるほど、あんまりしっかりしなくなる。そのせいで、かわいくなる。ついでに「ご」じゃなくて、「こ」と読めば、もっとへなへなする。

ちこえ。

一方、地声が、かわいくない人はたくさんいる。いや、かわいい人も、少なからずいる。それにそもそも、「じごえ」という語の音質と、人それぞれの声質、このふたつには関連がないので、「じ」と読もうが「ち」と読もうが、かわいくない声はかわいくないし、かわいい声はかわいい。

と、なんだか、ややこしくなってしまう。つまり、この句には、そこはかとない「ねじれ」があるのだ。そのねじれが、以上のような愚にもつかない駄言駄弁をもたらすわけなので、ゆめゆめ「ねじれ」を軽んじてはいけない。

掲句は『川柳ねじまき』第10号(2024年1月)より。

2024年12月11日水曜日

〔俳誌拝読〕『オルガン』第39号・2024年秋

〔俳誌拝読〕
『オルガン』第39号・2024年秋


同人諸氏の俳句作品のほか、〔特集〕池田澄子(座談会、池田澄子句集を読む)、福田若之・鴇田智哉による「往復書簡」(「主体」について)など。

眇めると引つ掛かりくる彼岸花  鴇田智哉

紙の民のように秋の野を抜ける  福田若之

山脈はうごきながらに雲に月  宮﨑莉々香

寝返りを打てる真昼や鹿遠し  宮本佳世乃

雨が楽しい茸のデザイン誰の仕事  田島健一

テーマ詠「広角」

鬱蒼とカンナの凝る海の駅  鴇田智哉

聴きたくて波止場を思う秋の蝶  福田若之

洗濯機まはる敗戦日お早う  宮﨑莉々香

間取図広し一息に行く秋ぞ  宮本佳世乃

樹が消えるとき蟷螂の眼は冷える  田島健一

中嶋憲武・記/写真


2024年12月9日月曜日

●月曜日の一句〔西村麒麟〕相子智恵



相子智恵






綿虫の吹き飛んで行く浮御堂  西村麒麟

句集『鷗』(2024.7 港の人)所収

下五の〈浮御堂〉への展開に唸る。綿虫の頼りなさと、少しの風にあおられて吹き飛んでいってしまう様子はよくわかるなあ、と思って読み進めていくと、そこは浮御堂であり、琵琶湖の風だというのである。極小の綿虫と、湖上の堂との寄る辺なさのつながり。その向こうに見えてくる琵琶湖の波の光の中に消えていく綿虫の光。

〈さみだれのあまだればかり浮御堂 阿波野青畝〉は音の名句だが、掲句も同様に「虫」「吹き」「行」「浮」あたりの音の運びも考えられているように思う。青畝の句が浮御堂の雨の名句であるのに対して、こちらは風だ。芭蕉も青畝も詠んだ浮御堂という拝枕に、また一句が加わったように思った。

 

2024年12月6日金曜日

●金曜日の川柳〔坪井政由〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



つぶやいても叫んでもここはあぜ道  坪井政由

説明がなくてもはっきりと浮かんでしまう景色がある。読みとして適切か不適切かは別にして。

すでに稲が刈り取られた田圃が幾枚も広がり、そこにいるのはその人だけ。

つぶやきは誰にも届かず、かといって叫んでも同じ。その状態が広漠を強調する。あくまで広漠なので、水田でも稲田でもなく、刈田なのだ。すでにちょっと寒くなった時期の。

さびしいとか孤独とか、それはそうではあっても、そんなものでもない。つぶやいたり叫んだりして、なんだか可笑しい。可笑しいと言っては叱られるかもしれないが、あぜ道で何やっているんだか。

なお、技法的には、「ここは」がとても巧み。

掲句は『水脈』第67号(2024年8月)より。

2024年12月4日水曜日

西鶴ざんまい #70 浅沼璞


西鶴ざんまい #70
 
浅沼璞
 

 松に入日ををしむ碁の負(け) 打越
那古の浦一商ひの風もみず    前句
 鰤には羽子がはえて飛ぶ年   付句(通算52句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・裏2句目。 鰤(冬)=正月の必需品にて歳末の贈答品。 羽子=片仮名のネを「子」とする当時の表記。

【句意】鰤に羽根が生えて飛ぶような売れゆきの年末。

【付け・転じ】前句の風向きさえ気にしない愚かな商人にも歳末商戦がくるとみて、鰤のバカ売れへと飛ばした。

【自註】前句、海の事なれば「鰤」を付けよせける。その年の暮によりて、*伊勢海老のすくなき事も有り、*代々の**年ぎれする事も有り。数の子、門松、家々のかざり道具、一品もなうてはならず。何によらず、其の年、世間にすくなき物を、「羽子がはえて飛ぶ」とは商人の申せし言葉也。
*伊勢海老 *代々(橙)=ともに蓬莱飾りの品。越年しても実がつくので「代々」と縁起をかつぐ。
**年ぎれ=その年によって品薄になること。

【意訳】前句が海を場としているので「鰤」を題材として付け寄せた。その年その年の暮によって、伊勢海老が品薄のこともあれば、橙が払底する年もある。数の子、門松などは家々の飾り物で、一品とてなくてはならない。そこで何によらず、世間に出まわらない正月用品は「羽子がはえて飛ぶように売れる」と、これは商人が申した言葉なのである。

【三工程】
(前句)那古の浦一商ひの風もみず

 年切れの品気にも止めずに  〔見込〕
   ↓
 右も左も鰤の高買ひ     〔趣向〕
   ↓
 鰤には羽子がはえて飛ぶ年  〔句作〕

愚かな商人に対し、年切れの商機を向かわせ〔見込〕、〈品薄の商品は何か〉と問い、前句の「浦」から鰤とみて〔趣向〕、「羽子がはえて飛ぶ」という慣用句をサンプリングした〔句作〕。

 
『永代蔵』や『胸算用』に、年ぎれ対策が載ってますね。伊勢海老の代わりに車海老とか、橙の代わりに九年母とか、廉価なもので間に合わせるという。

「そやな。それも俳諧の知恵やで」
 
……? ていうと。
 
「〈代わり〉いうことは、〈見立てる〉いうことやろ」
 
なるほど、そういえば見立て作家の田中達也氏も〈見立てて補う力〉みたいなことを言ってましたね。
 
「見立て作家いうのは俳諧師のことかいな」
 
いや、ミニチュア写真家でして。
 
「みにちあ、なんや知らんけど、転合な感じでよろしいな」

2024年11月29日金曜日

●金曜日の川柳〔草地豊子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



パン粉つけてしまえば誰か判らない  草地豊子

ヒト型のカツレツ。からっと揚がったところを想像すると、ブラック味が増すが、揚げるところまでは、この句は言っていない。顔に小麦粉をはたいて、溶き卵を塗りたくる。この時点では、かろうじて《誰か》判る。パン粉をつけると、たしかに、もう誰か判らないだろう。

カツレツではなくとも、化粧すると、あるいはマスクをすると、誰だか判らなくなるという事態は起こるし、昨今は、撮影すると勝手に(自動的に)誰だか判らないくらいに加工してくれる技術もある。などと、寓意的に捉えることもできなくはないが、それだと、この句の視覚的爆発力が減じる。

パン粉をまぶしても、それは《誰か》ではある。それを眼前にして、衝撃なり戸惑いなりを、ただ味わうのが、読者の態度だと思う。

掲句は『セレクション柳人 草地豊子集』(2024年1月/邑書林)より。

2024年11月25日月曜日

●月曜日の一句〔三村純也〕相子智恵



相子智恵






大晦日一円玉を拾ひけり  三村純也

句集『高天』(2024.12 朔出版)所収

11月の終わりに少し先の句を……と思いつつ、あっという間に大晦日が来てしまうのだろうなと、ちょっとため息が出たりする。

さて、掲句。大晦日という一年の締めくくりの日に、道端かどこかで一円玉を拾った。落ちていても、一円玉ぽっちを交番に届けるのも憚られる気がするし(警察もきっと忙しい年末だ)、喜んで拾いたいというものでもない。きっと誰もが一瞥して素通りする一円玉。そのアルミの軽さ、傷だらけの白さ、拾った時の手ごたえのなさ……。

なんだか、年末の慌ただしさと感慨の中で、一円玉に立ち止まって拾う自分は、可笑しいような気もするし、ちょっと泣きたいような気もしてくる。俳味というのは案外難しいものだが、きっとこういう、一色ではない複雑な滑稽味のことを言うのだろう。

元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介〉という句もふと思ったりする。この一年を振り返る、大きな一日のような気がしている大晦日も、一円玉を拾うという何でもない一日でもあって、その落差が、よく考えてみると不思議な気がしてくる。

 

2024年11月22日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋かづき〕樋口由紀子



樋口由紀子





はじめから落ちることだけめざす滝

高橋かづき(たかはし・かづき)

「滝」は人生だろうか。「落ちる」という言葉にはあまりいいイメージがない。「落第」「落城」「陥落」「墜落」などなど。しかし、「めざす」には向日性がある。「落ちること」を「めざす」のであれば、飛び込み競技のように、どれだけ自然に落下して、波をたてないか。「落ちる」ことに意義を見出そうとしているのかもしれない。

てっぺんから一気に勢いよくまっすぐに落下する滝は句材によく使われる。俳句では<滝の上の水現れて落ちにけり 後藤夜半>や川柳では<なんぼでもあるぞと滝の水は落ち 前田伍健>などがある。「落ちることだけめざす」のは諦念、宿命だろうか。それとも強さを試されているのだろうか。(「垂人」46号 2024年刊)収録。

2024年11月20日水曜日

西鶴ざんまい #69 浅沼璞


西鶴ざんまい #69
 
浅沼璞
 

山藤の覚束なきは楽出家     打越
 松に入日ををしむ碁の負(け) 前句
那古の浦一商ひの風もみず    付句(通算51句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・裏1句目(折立)。 雑。 那古(なご)の浦=越中説と摂津説があるが、西鶴の『古今俳諧女哥仙』等では摂津住吉の浦、歌枕。

【句意】那古の浦に船繋り(ふながかり)している商人のくせに、一儲けのための風向きもみない。

【付け・転じ】前句の、碁にうつつをぬかす出家者を、商人に見立て替え、相場を左右する風向きさえ読まない愚かさへと飛ばした。

【自註】「惣じて慰む事にふかう好き入る事なかれ」とかしこき人の申せし。其の事ばかりおもしろく成りて、外をわするゝぞかし。「入日」は「那古の浦」の*本哥より付け出して、海の上の*風景色(かざげしき)にも心を付けずして、碁にうちかゝり、家業を脇になしたる一体也。此の前、大坂の中の嶋に米商(こめあきなひ)せし人、俳諧になづみ、大帳(台帳)に「霞のうちに大豆千俵」と付け置きしを、手代どもが見て、「何とも合点のゆかぬ事」とたづねける。
*本哥=実定〈なごの海の霞の間よりながむれば入日を洗ふ沖つ白浪〉(新古今・一・春上)。 *風景色=天候は米などの相場に影響した。芭蕉〈上のたよりにあがる米の値/宵の内ぱらぱらとせし月の雲〉(炭俵・巻頭歌仙)。

【意訳】「だいたい慰み事には深入りすることなかれ」と賢人の言われたことがある。そのことばかりに気を取られて、ほかの事を忘れるようになる。前句の「入日」は「那古の浦」を詠んだ一首からの本歌取りと解釈して、海上の天候にも気を付けず、碁に打ち耽り、家業そっちのけの商人を想定しての一体である。この前、大坂の中之島に米商売を営んでいた人が、俳諧に耽り、売掛台帳に〈霞のうちに大豆千俵〉と書いておいたのを、手代たちが発見し、「なんとも理解に苦しむメモ書きですが」とたずねた。

【三工程】
(前句)松に入日ををしむ碁の負

 商人の家業を脇になせるまゝ 〔見込〕
   ↓
 一商ひ忘るゝまゝに那古の浦 〔趣向〕
   ↓
 那古の浦一商ひの風もみず  〔句作〕

碁にうつつをぬかす人物を商人と見て〔見込〕、〈場所はどこか〉と問いながら、前句の「入日」から「那古」の海浜とし〔趣向〕、船を係留しながら海上の風向きさえ見ないという状況を設定した〔句作〕。

 
〈霞のうちに大豆千俵〉という短句、春ですから挙句を想定しての作でしょうか。
 
「なしてそう思うんや」
 
挙句は〈かねて案じ置く〉とか言いますから。
 
「どこぞの仕込みやねん」
 
えっっっと、三冊子で。
 
「そんな俳書、聞いたことないで」
 
あっ……。

2024年11月18日月曜日

●月曜日の一句〔谷口智行〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




火事跡の布団だみだみ水ふふむ  谷口智行

燃え残った布団が、消火の水びたしになっている。句の趣向は「だみだみ」というオノマトペ。様子を充分に伝えるが、ほかにあまり見ない。つまり「だぶだぶ」といった多く流通する既成ではない。いわば、この句、この景のために誂えられたもの。

「ふふむ(含む)」という古い言い方も、非日常の景を言うに効果的。

なお、掲句を収める谷口智行『海山』(2024年7月/邑書林)は、オノマトペの多い句集ではないが(ほとんど見当たらない)、ほかにもユニークな用例が。

ひこひことひかる田ごとの落し水 同

台風接近町内放送ざりざりす 同

2024年11月15日金曜日

●金曜日の川柳〔瀧村小奈生〕樋口由紀子



樋口由紀子





どのくらいサムギョプサルでいられるか

瀧村小奈生(たきむら・こなお)1958~

ひらがなとカタカタとひらがなだけで構成された、見映えのする川柳である。サムギョプサルとはスライスした豚のばら肉を焼いて食べる韓国の豚バラ焼肉である。朝鮮語で「サム」は数字の3、「ギョプ」は層、「サル」は肉を表し、日本でいう三枚肉を意味する。ということは、三枚目を重ねているのだろうか。だったら、自分を試しているのか、あるいは誰かに言っているのか。

それは強さなのか、弱さなのか。オプチィミストなのか、ペシミストなのか。「サムギョプサル」という語感がすべてに意味をふっとばすぐらいに効いていて、洒落ている。上質なメロディーを聴いているようである。『留守にしております。』(2024年刊 左右社)所収。

2024年11月12日火曜日

〔新刊〕宇井十間『俳句以後の世界』

〔新刊〕
宇井十間『俳句以後の世界』


2024年11月/ふらんす堂


2024年11月11日月曜日

●月曜日の一句〔藤井あかり〕相子智恵



相子智恵






約束を交はすには息白すぎる  藤井あかり

句集『メゾティント』(2024.9 ふらんす堂)所収

冬が立った。すでに吐く息が白く見える地域もあることだろう。

掲句、息の白さを神聖なものとして受け止めている。約束は、もしかしたら守れないこともあるかもしれない。違えてしまう日がくるかもしれない。そんな約束を交わすには、この息は白すぎ、潔白すぎるというのだ。実際に目に見える息の白さから、その息を吐く人物の心の中の潔癖さにまで、「息白し」という季語を深めていく。
句集の後ろのほうにこんな句が出てくる。

  息白く我より長く生きろと言ふ

〈約束を交はすには〉の句を読んできた読者としては、この〈我より長く生きろと言ふ〉の祈りの重さ、言葉でまっすぐに約束することの重さが「息白し」の季語でつながり、先の句と相まって、さらに強く印象づけられる。

本句集はこのように繰り返し出てくる季語、モチーフというのが、わりと多いほうだが、そのたびに前に出てきた句に心が立ち戻ったりする。流れで読める句集というよりは、ページが進むごとに暗さの深まりも、息白しのような眩しさも折り重なっていく。陰影が深まりながら、流れずに積み重なっていくような読後感であった。
 

2024年11月10日日曜日

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2024年11月8日金曜日

●金曜日の川柳〔奈良一艘〕樋口由紀子



樋口由紀子





なが~い廊下の話だが 聞くか?

奈良一艘(なら・いっそう)1947~2024

秋の夜長、あたりがだんだん漆黒の闇となり、し~んとしてきた。重い口をやおら開いて、静かに「聞くか?」と問いかけてくる。「廊下の話」は寓意だろう。過ってはピカピカで磨き上げられていたが、今は埃が積もっている。

子ども頃の祖父母の家の廊下を思い出した。トイレに続く廊下は長くて暗くて、どこまで行ってもトイレに着けないような気がした。そして、決して走ってはいけないところだった。

生きているということは人の死に出遭うことである。また一人、個性的な川柳人が亡くなった。『川柳作家ベストコレクション奈良一艘』所収。

2024年11月1日金曜日

●金曜日の川柳〔犬山高木〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



アントニオから届いた筋肉パイナップル  犬山高木

アントニオ。人物を特定できない人名の出てくる句は、川柳のことを言うこの場所で俳句を挙げるのは恐縮だが、俳句にもある。

 いのうえの気配なくなり猫の恋  岡村知昭

 エリックのばかばかばかと桜降る  太田うさぎ

作者と読者が「あの人」として共有できない人名は、いわゆる人名俳句とは区別するべきだと思うが、これはこれで固有人名とは別の感慨や驚きや呆気(あっけ)をもたらす。「それ、誰やねん?」といったたぐいの。

筋肉。これは一種の〈異物〉の挿入。

 白鳥定食いつまでも聲かがやくよ  田島健一

における《白鳥》に通じる。つまり、それをその句から抜けば、すんなりと散文的意味が伝わるような例。〈白鳥のいつまでも聲かがやくよ〉だと意味がよくわかるし、〈アントニオから届いたパイナップル〉だと、アントニオは例えば中南米ぽくもあるので、散文として「ふつう」に成立する。

《筋肉》が入ることで、それが筋肉とパイナップル(併置)だろうが、筋肉パイナップル(インパクトたっぷりに不味そうな果実)だろうが、句全体が、混乱する、謎めく、不穏となる。

アントニオって誰? 筋肉パイナップルって何? と、読者の思考を立ち止まらせる。それは川柳・俳句を問わず、句のとって一種の成功だと思う。

なお、白鳥定食を、例えば白鳥の見える湖のほとりのレストランのメニューであるとか、筋肉パイナップルを、例えば、奇をてらった商品名であるとか、現実的な了解のほうへと近づけて読む向き(混乱や謎や不穏の忌避・回避)もあるかもしれないが、わざわざつまらない理解へと読解することもない。ことばで起きた事件を、現実の退屈へとひきずりおろすこともない。へんなの! とただただ「ヘン」がっていればいいんじゃないかと思う。

掲句は『川柳ねじまき』第10号(2024年1月)より。

2024年10月30日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇24 浅沼璞



西鶴ざんまい 番外篇24
 
浅沼璞
 
 
『西鶴独吟百韻自註絵巻』の注釈もようやく半分の五十韻を終えました。

ここまで佐藤勝明氏考案の三工程を、第一形態~最終形態として想定してきました。そのあらましを図示すると――

[第一形態]前句への理解である「見込」
[第二形態]見込に問いかけ、何を取り上げるかを決める「趣向」
[最終形態]実際に素材・表現を選んで整える「句作」
 
 
この工程を試行錯誤するうち、気づいたことが二点あります。
 
ひとつは西鶴自註の文言や文脈をサンプリングするとうまく収まるということ。今ひとつは[第一形態]の「見込」が、新たな見立て(見立て替えによる転じ)になっているケースがことのほか多いということです。以下、詳述します。
 
 
まず西鶴自註――これまで意訳してきたように(浮世草子作家らしく)さまざまなパターンで書かれており、必ずしも三工程を順にたどれるケースが多いわけではありません。ありませんが、各工程の断片と思われる語句なり、文脈なりが散りばめられており、それをうまくサンプリングすれば三工程を再構築できることは否定できません。これは取りも直さず西鶴が潜在的に三工程を駆使していた証左ではないでしょうか。これまで〈自註と連句作品との落差を埋める過程〉として意識化してきた三工程を、より具体的に顕在化していけそうです。
 
 
つぎに見立て(見立て替えによる転じ)――たとえば50句目で見たような、生魚に執着する出家者の「覚束なさ」を、碁に執着する「覚束なさ」に見立て替え〔見込〕、そこから時間切れの勝負の場へと飛ばす〔句作〕といった工程を、これまであれこれ吟味してきました。
 
この見込から句作への飛躍こそが蕉風を含めた元禄疎句体の特徴であって、それを本稿ではことさら強調してきました。けれど西鶴の場合、その飛躍は「見立て替え」という談林仕込みの自在なジャンプ台〔見込〕あってのものだったと改めて気づかされた次第です。
 
(それかあらぬか佐藤勝明氏も、芭蕉の「見込」のその深く正確な点に着目しています。――『江古田文学』113号「特集・連句入門」)
 

ところでこの見立て、古くて新しい手法と言ってもよく、最近ではミニチュア写真家/見立て作家の田中達也氏の活躍が注目されています。連続テレビ小説「ひよっこ」のタイトルバックで一躍名の知れた田中氏ですが、その言説はとても示唆的で、西鶴ひいては連句の「見立て替え」の可能性を現在進行形で明示しているように思われます。

たとえば岩山に見立てた唐揚げを木々の紅葉に見立て替えたり、雪山に見立てたシュークリームをウエディングドレスのスカートに見立て替えたり、その発想は極めて柔軟で俳諧的です。

しかも田中氏はこうした見立て替えの発想が、人間の選択肢を増やし、人生を豊かにするとお考えのようです。これは正に西鶴的な発想というほかありません。

田中氏の転じ(展示)に触発されつつ、後半の五十韻にのぞみたく思います。

参照した田中氏の発言↓
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240916/k10014578241000.html?s=03

参観した田中氏の展示↓
【プレビュー】「横浜髙島屋 開店65周年記念 MINIATURE LIFE展2 ―田中達也 見立ての世界―」9月11日(水)から横浜髙島屋で – 美術展ナビ (artexhibition.jp)
 

2024年10月28日月曜日

●月曜日の一句〔仲寒蟬〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




村よりも明るきバスや虫時雨  仲寒蟬

夜間のバスは街で見てもたいそう明るい。光を満載して走行/停車するかのように。

窓明かりも街灯もまばらな《村》ならなおさらだろう。それにまた、乗客が少なければ、バスの明るさがいっそう際立つ。

前半のくっきりとした視覚から、下五の聴覚へ。順当な設え。

掲句は仲寒蟬『全山落葉』(2023年7月/ふらんす堂)より。

2024年10月26日土曜日

〔人名さん〕みうらじゅん

〔人名さん〕みうらじゅん

この秋の風鈴ひとりゐみうらじゅん  宮﨑莉々香

『オルガン』第38号・2024年9月15日

2024年10月25日金曜日

●金曜日の川柳〔岸本水府〕樋口由紀子



樋口由紀子





うたた寝が起きてうたた寝叱りつけ

岸本水府(きしもと・すいふ)1892~1965

うたた寝Aとうたた寝Bがともにうたた寝をしている。そこはうたた寝をしていけないところ、たとえば、店番とか、観劇とか、でも、退屈で、暇だし、ついうとうとしてしまった。うたた寝Aがしまったと思って、あわてて目をあけると、なんとうたた寝Bがうとうとしている。うたた寝Aはうたた寝などしていないふりをして、うたた寝Bを「おい」と起こして、叱りつける。

岸本水府の川柳はなんといっても言葉運びが上手い。落語の一場面のような軽快さがあり、その語り口はぽんぽんぽんとテンポが心地よい。機知に富んだ、軽みの川柳の見本のようである。

2024年10月21日月曜日

●月曜日の一句〔矢野玲奈〕相子智恵



相子智恵






虫籠を虫籠らしく土と枝  矢野玲奈

句集『薔薇園を出て』(2024.8 ティ・エム・ケイ出版部)所収

これは昔ながらの風情ある竹細工の虫籠ではなく、現代のプラスチックの透明な虫籠、いわゆる「飼育ケース」だろう。買ってきたばかりの状態は、いかにも無味乾燥だ。そこにふかふかの腐葉土と、どこかから拾ってきた枝を入れて、ようやく虫籠らしくなるのである。現代の都会の虫籠のリアルな姿が面白い。

この虫籠で飼うのは鈴虫だろうか。胡瓜などもエサとして入れているかもしれない。本句集には、

  保育園へは鈴虫に会ひに行く

という句もあって、この句も何気ないけれど現代らしい一コマである。都会では自然に鈴虫の声を聴くことは、もはや、なかなかかなわないものだから、保育園で飼育ケースに入れて飼っているのだ。子どもにとって珍しい鈴虫は、友達同様に〈会ひに行く〉存在。送り迎えをする親にとっても、もはや鈴虫は〈会ひに行く〉だったりするのだ。

 

2024年10月18日金曜日

●金曜日の川柳〔藤田晉一〕樋口由紀子



樋口由紀子





ただ一つ似てくれたのは親不孝

藤田晉一(ふじた・しんいち)1957~

「ただ一つ」といきなり特別感を出してくる。次に「似てくれたのは」と好奇心をくすぐり、それは一体なになのかと読み手の興味をぐっと引っ張る。そして、最後に「親不孝」とすとんと落とす。川柳の見本のような一句である。

「てくれた」はそれによって恩恵や利益を受けることだが、大阪弁でよく使う。嘆きたいこともぼやきたいことも悔やむことも言い訳したいことも、くどくど言いたいことは山ほどある。しかし、それらはすべて胸の内にしまって、「そうそう、うちも」という共感を引き出して、潔く退場する。「よみうり柳壇」(2024年刊)収録。

2024年10月16日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇23 浅沼璞



西鶴ざんまい 番外篇23
 
浅沼璞
 
 
物議をかもした「大吉原展」(東京藝大美術館)のルポでもふれた英一蝶ですが、現在その回顧展(サントリー美術館)が開催中(9/18~11/10)です。
 
 
没後300年記念ということで、まさに西鶴とは同時代人。というだけでなく、西鶴が絵も描いた俳諧師なら、一蝶は俳諧も嗜んだ絵師。西鶴が上方遊郭の幇間なら、一蝶は江戸吉原の幇間。さらに共通の友人が宝井其角とくれば、交流があって然るべき二人ですが、残念ながら書簡等は見つかっておらず霧の中。本展でも二人の交流に関する資料は皆無でしたが、大判250頁ほどの図録を紐解きつつ、西鶴作品との関連を探ってみたいと思います(以下、展示の作品番号を付す)。
 
 
10.四条河原納涼図(しでうがはらなふりやうづ)
 
山鉾巡行で有名な祇園会(八坂神社の祭礼)の始まる陰暦6/7から18日まで、京の四条では川涼みが恒例になっていました。河原だけでなく鴨川の流れの上にまで涼み床が設けられ、月下、夕涼みする男女を一蝶も描いています。
 
いっぽう西鶴は西鶴らしく女性のファッションに焦点を絞り、こう描きました。
〈所せきなき涼み床にゆたかなる女まじり、いづれかいやなる風儀はひとりもなく、目に正月をさせて、……色々の模様好み、素人目(しろとめ)にはあだに見るらん〉
『男色大鑑』巻八ノ一
 
 
14.奈良木辻之図(ならきつじのづ)
 
今回あらたに確認されたという初期の遊里図――奈良にあった木辻遊郭に取材した作品で、一蝶は郭内に鹿を二匹描きこんでいます。
 
西鶴もまた鹿の発情期にふれた後、作中人物に木辻の所自慢をさせていました。
〈こゝこそ名にふれし木辻町、北は鳴川(なるかは)と申して、おそらくよね(遊女)の風俗、都にはぢぬ撥おと、竹格子の内に面影見ずにはかへらまじ〉
『好色一代男』巻二ノ四
 
19.乗合船図(のりあひぶねづ)
老若男女を乗せた一艘の船が、今まさに岸を離れようとしている図です。「雨宿り図」とならんで、一蝶作品では人気の画題であったようです。
 
さるほどに西鶴作品でもしばしば乗合船が描かれました。
〈夜の下り船、旅人、つねよりいそぐ心に乗り合ひて、「やれ出せ、出せ」と声々にわめけば、船頭も春しりがほにて、……やがて纜(ともづな)ときて、京橋をさげける〉
『世間胸算用』巻四ノ三
 
 
26.阿蘭陀丸二番船(おらんだまるにばんせん)
 
本展では俳書も多く展示され、一蝶の挿画のみならず、その俳諧作品も紹介されています。其角との縁から江戸蕉門の俳書が多いのですが、なかでこの26番は西鶴も入集している大坂談林の一書。二人の奇縁を感じさせます。
 
 
36.吉原風俗図巻(よしはらふうぞくづくわん)
 
冒頭にふれた「大吉原展」でも目をひいた肉筆画の代表作。作中、禿(かむろ)に宥められる遊客と泣き伏す遊女、という印象的な場面が描かれています。
そういえば西鶴の独吟連句にもこんな付合がありました。
 
 酒飲めばその片脇に袖の露
  契りも今宵たいこ女郎    『西鶴大矢数』第二十四

ところでこの36番、悪所でのトラブル(?)から三宅島へ流罪となった一蝶が、かつての遊興を思い出して描いた作品です。恩赦によって江戸にもどるまでの配流中(約12年間)の、これら作品群は「島一蝶」と呼ばれ、今展示の目玉にもなっています。

私事ながら三宅島は先父の故郷、一蝶との奇縁を感じつつ、会場をあとにした次第です。(前期/後期で展示替・場面替があるようです。)
 

2024年10月14日月曜日

●月曜日の一句〔広渡敬雄〕相子智恵



相子智恵






献杯は眉の高さに小鳥来る  広渡敬雄

句集『風紋』(2024.7 角川文化振興財団)所収

葬儀や法要のあとの会食の際に、故人を偲んで杯を上げる献杯。言われてみれば、献杯の高さは確かに眉のあたりだ。場面はシリアスであるのに悲しみを全面に打ち出さず、自分たちを俯瞰してみることで生まれるかすかな俳味がある。

小さな渡り鳥たちがやってきている。声だけではなくその姿が見えていることを思うと、都会の斎場ではなく、秋の山に近い場所なのだろう。あるいは斎場などではなく、自宅での法事の場面を想像してみてもよいかもしれない。

親戚や友人らが集まり、きっと空は秋晴れで、山は紅葉している。小鳥たちの声も姿も賑やかだ。この取り合わせによって、故人が愛される人柄だったことや、皆がこの後、賑やかに故人との思い出を語るのだろうな、ということまでもが想像されてくる。悲しみの中に、ふっと救われるような気持ちがしてくる一句である。

 

2024年10月11日金曜日

●金曜日の川柳〔楢崎進弘〕樋口由紀子



樋口由紀子





行きずりのひとに豆腐を渡される

楢崎進弘(ならざき・のぶひろ)1942~

「行きずりのひと」とは通りすがりの、単にすれ違っただけで、見知らぬひとであるが、「行きずり」の言葉に読者はまず引っ張られる。そのひとに「豆腐」を渡される。まさに想定外。あっけにとられて、立ちつくすしかない。

〈行きずりのひとに○○を渡される〉の○○にさて何を入れるか。「手帳」とか「花束」だと物語がスタートする。しかし、それではありきたりでおもしろくもなんともない。抽象的な言葉を入れるとのポエムっぽくなるがそれもそれである。ここはどうでもいい、どこにでもある「豆腐」である。しかし、この「豆腐」によって、一瞬日常とは違う世界のどこかに連れていかれたような気分になり、日常との奇妙なずれが生じる。川柳は芸だとつくづく思う。「満天の星」(第5号 2024年刊)収録。

2024年10月4日金曜日

●金曜日の川柳〔渡辺隆夫〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



かなでは切れぬ樋口可南子かな  渡辺隆夫

たしかに。「ひぐちかなこ」は「ひぐちかな/こ」とはならない。

〈切れ〉の有無が問題になるのは、俳句だけではなく川柳も、なのかどうか、浅学にして存じ上げないけれど、〈切字〉が川柳で話題になるのをとんと聞いたことがない。きっと、〈切れ〉や〈切字〉は、川柳から見れば、俳句という向こう岸の出来事なのだろうと、勝手に思う。だから、この句、批評的に、対岸を眺めている句なのだと思う。

俳句にも俳人にも、とてもいいかげんなところがあるので、顰めっ面で〈切れ〉や〈切字〉を語るそばで、「かな?」と首をかしげるポーズが似合う〈かな〉や、「関西弁の語尾にしか聞こえない〈や〉に出会ったりして、いいかげんが別に悪いことではないのであるから、憤るほどのことでもない。古池やん蛙とびこむ水の音、と、一文字付け足すだけで関西弁にしたり、木犀の香にあけたての障子かな? は元の「?」がないかたちと、あんがい同様・同等の興趣があるような気もする。あるいは、下五をすべて「西野カナ」にして、「さあ、ぜんぶ切れてるぞ」と顰蹙を買う日々であっても、誰にも迷惑はかけない。おそらく。

掲句は、『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。

2024年10月2日水曜日

西鶴ざんまい #68 浅沼璞


西鶴ざんまい #68
 
浅沼璞
 

 弥生の鰒をにくや又売る    打越
山藤の覚束なきは楽出家     前句
 松に入日ををしむ碁の負(け) 付句(通算50句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折・裏14句目(綴目)。 碁(雑)=勝負事、闘争の範疇。  藤→松(類船集)。

【句意】松に入日を惜しむのは、(時間切れで)碁に負けるのを惜しむからだ。

【付け・転じ】前句の、生魚に執着する出家者の「覚束なさ」を、碁に執着する「覚束なさ」に見立て替え、そこから時間切れを惜しむ勝負の場へと飛ばした。

【自註】此の付かた、「松」は「藤」によせて正風の俳体なり。「入日」は*うちかゝりて、暮を惜しみし*心行(こゝろゆき)也。出家の身として、当座(たうざ)慰みの碁のまけなどに心を残すは、我が身の*一大事、仏の道は外(ほか)になるべし。是ぞ「覚束なき」所、はなれがたし。
*うちかゝりて=夢中になって。 *心行=「入日」の語に見込まれた「心持」「風情」(乾裕幸『俳諧師西鶴』1979年)。  *一大事=悟りを開くきっかけ。

【意訳】この付け方は、「松」を「藤」によせて連歌風の伝統的な俳体である。「入日」は碁に打ち耽って(早くも)日が暮れるのを惜しんだ心持である。出家の身として、座興に過ぎない碁の勝負に未練を残すのは、自分の悟りを開く仏道を外れてしまうであろう。これでは「覚束なき」心を離れ難い。

【三工程】
(前句)山藤の覚束なきは楽出家

  当座慰みなれど碁の負  〔見込〕
    ↓
  仏の道は外に碁の負   〔趣向〕
    ↓
  松に入日ををしむ碁の負 〔句作〕

楽出家の「覚束なさ」を、その場限りの碁の勝負のせいと見て〔見込〕、〈どれほど夢中になっているのか〉と問いながら、仏道の「一大事」を外れるほどであるとし〔趣向〕、「藤→松」と縁語をたどって時間切れを惜しむ「入日」の場を設定した〔句作〕。

 
やっと五十韻にたどりつきました。

「ご苦労さんやな。他人の独吟、あれこれ穿鑿して何がおもろいのか、わからん」
 
わからないから、面白いんですよ。
 
「また禅問答みたようなこと言いよる。当世・政治屋のS構文かいな」
 
私は政治家ではないので政治屋のようなことは申しません。
 
「その言いようがSや言うとるんやで」
 
はい、その誤解は誤解のまま受け取っておきます。
 
「は?  これはあかんがな」

2024年9月30日月曜日

●月曜日の一句〔澤田和弥〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




台風の余韻の風の網戸かな  澤田和弥

台風が去ったあとも風は残る。《余韻》という表現は、空気の動きとしての風よりも、もっと、その湿度や、あるいは気分をも伝える。

《網戸》は、例えば雨戸を開けて現れた、つまり台風一過を示す事物であるとともに、夏の《余韻》でもあるだろう。

外(気象)と内(我=作者)の間に立つ《網戸》へと句が収斂し、《かな》と締めるこのかたちは、現象と時間、そして心持ちを、抑制的に伝えて、心地よい。姿かたちの良い句の醍醐味だ。

掲句は、初出『天為』平成26年(2014年)11月号。『澤田和弥句文集』(2024年10月/東京四季出版)より引いた。

澤田和弥(1980-2015)は、小誌『週刊俳句』にも多くの句文を残してくれた。遺句文集の発行を機に、あらためて氏とのわずかな交遊・かすかな交情に思いをはせたい。

2024年9月27日金曜日

●金曜日の川柳〔竹井紫乙〕樋口由紀子



樋口由紀子





袋いっぱいにかくかくの屍

竹井紫乙(たけい・しおと)

鶴彬に〈屍のゐないニュース映画で勇ましい〉という戦時中を詠んだ川柳がある。都合の悪いことは報道しないのは今も昔も変わらない。掲句はガザやウクライナの現在だろう。戦争は人間や生き物を殺し、必然的に屍を生む。私たちは今どんな世界に住んでいるのだろうか。

私には受けつけない、拒否感の強い言葉がある。その言葉が一句の中にあるというだけで見なかったことにしてしまう。「屍」もその一つであった。「屍」に「かくかくの」が付く。「各各」「赫赫」「斯く斯く」「核拡散」などのいろいろな漢字を当てはまり、その不気味さに立ち止まる。言葉にも、現実にも逃げないで、向き合わなければならないことがこの世の中にいっぱい存在している。

2024年9月24日火曜日

●月曜日の一句〔宮坂静生〕相子智恵



相子智恵






冷まじや家の中まで千曲川  宮坂静生

句集『鑑真』(2024.8 本阿弥書店)所収

このたびの能登の、地震の後の水害という理不尽さに心が痛む。

掲句は〈長野市長沼 四句〉と題されたうちの一句で、同地は2019年、台風19号に伴う千曲川の堤防の決壊で大水害に襲われた。淡々と描かれた恐ろしさがある。

〈月天心家のなかまで真葛原 河原枇杷男〉や〈五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村〉といった句も思い出される。これらの句は「千曲川」のように地域を特定しないからこそ、誰の心にも情景が思い浮かびやすい。普遍的な心細さがある句だ。

けれども、掲句のように地名(ここでは川の名だが)があることの、生傷のようにリアルな恐ろしさというのもまたあって、あの千曲川の川幅や蛇行、速さ、光や音や匂いなどが思い出されてきて、本能的な畏怖が湧いてくるのである。

そういえば最近では自然災害と関連して、先人が名づけた古い地名(水にまつわる地名や、土砂崩れの多い地の「蛇崩れ」という地名など)も見直されている。科学技術が発達していなかった時代、いつしかそう呼ばれていた名前に宿るメッセージ。

本句集の帯の、作者の言葉〈俳句は自己表現を超えた風土・地貌という自然のちからの僥倖(ぎょうこう)に恵まれないとなにも残らない〉というのは、作者の一貫した志である。「なにも残らない」は思い切った啖呵だが、地名や季語(という自然と切り離せない名前が多いもの)の中に「自分以外の力が宿っている」と微塵も信じることができないならば、自己の俳句表現にそれらを使うことは、確かに虚しいであろう。

 

2024年9月20日金曜日

●金曜日の川柳〔足立信子〕樋口由紀子



樋口由紀子





月に帰り音沙汰無しのかぐや姫

足立信子

月がきれいだ。かぐや姫はどうしているのだろうか。「かぐや姫は月に帰っていきました」で『竹取物語』は幕を閉じた。竹の中に光り輝く女の子がいて、翁媼に大切に育てられ、帝にも求愛されるが、最後は雲に乗った使者が迎えにきて、月に帰っていく。波乱万丈の、とびきり荘厳な物語である。しかし、その後のかぐや姫の消息は一切わからない。

月でしあわせに暮らしているのか。あれだけのドラブルメーカーでもあったのだから、なかなかそうはいかないだろう。おじいさんやおばあさんによくしてもらったのだから、せめて「お元気ですか」「しあわせに暮らしています」と連絡があってもよさそうである。そんな疑問をさらりと皮肉たっぷりに一句にしている。

2024年9月18日水曜日

西鶴ざんまい #67 浅沼璞


西鶴ざんまい #67
 
浅沼璞
 

名を呼れ春行夢のよみがへり 打越
 弥生の鰒をにくや又売る  前句
山藤の覚束なきは楽出家   付句(通算49句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折・裏13句目。山藤(春)=本来13句目は花の座だが10句目(月の座)に引き上げたので藤の花をあしらったか。 覚束(おぼつか)なき=「藤のおぼつかなきさましたる」(徒然草・19段)による藤の縁語。 楽出家(らくしゆつけ)=世を安楽に過ごすための出家。

【句意】(兼好のいう)山藤のように覚束ないのは楽出家(した僧の心だ)。

【付け・転じ】前句の魚売りへの憎悪を、鮮魚を食べられない出家者の感情としてとらえ、その不安定な心へと転じた。

【自註】大かたは世に捨てられ、道心の山居(さんきよ)、さのみ何をかありがたき〔とも〕事とも覚えず。せんかたなくて、松のちり葉に煙を立てて暮しぬ。又、世を捨てて思ひ入る山、一たび殊勝なれども、*勝手〔不〕自由にあらぬより、むかしの生肴(なまざかな)に心移して俗にかへる人、数をしらず。*前句の「弥生」によせて「山藤」と出す事、法師、心「覚束なき」といはんための句作り也。 〔 〕=原文ママ
*勝手=暮し向き。 *前句の「弥生」によせて「山藤」と出す事=藤の花のぼうっとして覚束ない様を、僧のブレがちな心に転用した。なお「藤→覚束なし」の縁語は浮世草子にも頻出する(後述)。

【意訳】(出家の)だいたいは世間に捨てられ、(にわかに)道心をおこして山にこもるが、さほど有り難いとも思えない。(その人たちは)どうしようもなくて、松の落葉で炊煙をたてて暮すのだ。また自ら世を捨てて山に入る人も、一旦は感心なことだけれども、暮し向きが自由ではないので、昔の生魚を思い出して還俗する人、その数は限りない。前句の「弥生」という言葉に寄せて春の「山藤」を出したのは、法師の心の「覚束なき」を言わんがための句の仕立てである。

【三工程】
(前句)弥生の鰒をにくや又売る

 生ざかな心に移す楽出家   〔見込〕
   ↓
 数知らず俗にかへるは楽出家 〔趣向〕
   ↓
 山藤の覚束なきは楽出家    〔句作〕

前句の感情を、鮮魚を食べられない出家者の憎しみと見て〔見込〕、〈その結果どうなるのか〉と問いながら、典型例をあげ〔趣向〕、「弥生→藤」と季を定め、「藤→覚束なし」と縁語をたどって楽出家の頼りない心を表現した〔句作〕。

 
『好色五人女』には〈藤〉をかざしてなよなよと〈覚束なき〉美女、なんて描写がありましたね。
 
「そやったか、な」
 
『武道伝来記』にいたっては藤村佐太右衛門という(藤の字を名に持つ)男が酒に酔って足元も〈覚束なき〉ようすが描かれてましたが。
 
「そやったか、……それは〈藤〉と書けば〈覚束な〉と書きたくなるいう談林の病いやな」
 
はぁ、なんかパブロフの犬みたいですね。
 
「サブロフの犬? そんなん西の鶴の一声で追い払ったるわ」

2024年9月16日月曜日

●月曜日の一句〔谷口智行〕相子智恵



相子智恵






間引かれてより間引菜の名をもらふ  谷口智行

句集『海山』(2024.7 邑書林)所収

大根や蕪などは、最初は隙間なく種を撒くものの、芽が出た後は、風通しと日当たりをよくするために定期的に間引き、大きく育ちそうな株だけを残して育てる。

掲句、言われてみればそのとおりだ。間引かれなかったら大根や蕪に育つはずだったのだから、〈間引菜〉と呼ばれるはずもなかったものである。

間引かれたからこそ、ついた名前が〈間引菜〉。なんと哀れなことだろう。しかし、〈名をもらふ〉というところには諧謔もあって、哀れさと可笑しさが同居した、俳句らしい視点と味わいがある句になっている。

間引かれたからといって捨てられることはなく、お浸しや胡麻和えで美味しくいただく。途中で生育が終わってしまっても、そこでは「間引菜」の名がついた株こそが、堂々たる「主役」なのである。

 

2024年9月13日金曜日

●金曜日の川柳〔藤井智史〕樋口由紀子



樋口由紀子





銀シャリにはなれぬ チャーハンにはなれる

藤井智史(ふじい・さとし)1979~

「銀シャリ」と「チャーハン」の双方を対峙させ、「銀シャリ」に軍配を上げ、敬意を表している。特に今の時期は新米が貴重で、美味しい。銀色に輝く白い炊き立てのごはんに勝るものはない。何も手を加えないで、そのままで勝負して、高い評価を受ける。それを超えるものは確かにない。

「なれぬ」「なれる」にいろいろな漢字を当てはまる。「成る」「為す」「慣れる」「馴れる」と、そのどれもがそれぞれ微妙に意味が違ってくる。

よく川柳で平明で深い句がいいと言われるが、それが出来るなら苦労はしない。平明だけでは深くならないから、どうにかしようとあっちこっちに手を入れたり、足したり、引いたりする。私はチャーハンに軍配を上げたい。『十三月に追い風』(2024年刊 新葉館出版)所収。

2024年9月9日月曜日

●月曜日の一句〔守屋明俊〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




白雲の落としてゆきし木槿かな  守屋明俊

木槿は背丈のある木なので、花に目をやると、おのずと見上げることになり、空が、雲が、目に入ってくる。空や雲と「相性」のいい花のひとつだろう。

白い雲は、黒みの濃い雲と違って、雨は落とさない。白い木槿を落とすのだと、この句は言っている。

「落としてゆきし」で、雲が動いていること、その頭上にはもうないかもしれない雲の動きが伝わる。

掲句は守屋明俊句集『旅鰻』(2024年1月/ふらんす堂)より。

2024年9月7日土曜日

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2024年9月5日木曜日

〔人名さん〕草間彌生

〔人名さん〕草間彌生


逃げ切れぬ草間彌生の南瓜からは  岡田由季


岡田由季句集『中くらゐの町』2023年6月/ふらんす堂



2024年9月4日水曜日

西鶴ざんまい #66 浅沼璞


西鶴ざんまい #66
 
浅沼璞
 

 花夜となる月昼となる   打越
名を呼れ春行夢のよみがへり 前句
 弥生の鰒をにくや又売る  付句(通算48句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折・裏12句目。 弥生=春。 鰒(ふぐ)=本来は冬。産卵期の春は毒性が最も強く、菜種河豚という。

【句意】三月の河豚を憎いことにまた売っている。

【付け・転じ】前句の甦った人の苦しみの原因を毒河豚とし、魚売りへの憎しみに転じた。

【自註】「*時ならぬ物は食する事なかれ」とふるき人の申し伝へし。前句の病体は、毒魚(どくぎよ)の*とがめにして、なやみたるありさまに付け寄せける。又、その折ふし、鰒を売る声、いづれもかなしき時の事ども思ひあはせて、魚売りをにくみし。
*時ならぬ物は……=「時ナラザルハ食らハズ」(論語)。 *とがめ=中毒

【意訳】「季節外れのものは食べてはならない」と古人は申し伝えた。前句の病体の句は、毒河豚にあたって苦しんだ有様で、それに付け寄せた。また、そのような時、河豚を売る声(を聞き)、みな(病人の)気の毒な状態を想起して、魚の行商人を憎んだ(と句作した)。

【三工程】
(前句)名を呼れ春行夢のよみがへり

時ならぬもの食するなかれ   〔見込〕
  ↓
  弥生の鰒になやみたるさま   〔趣向〕
    ↓
   弥生の鰒をにくや又売る     〔句作〕

蘇生した人の不調の原因を季節外れの食中毒とみて〔見込〕、〈春にどのような食中毒があるか〉と問いながら、菜種河豚と思い定め〔趣向〕、「行商人の売り声に対する憎悪」を題材とした〔句作〕。

 
ちょっと調べたんですが、大矢数に〈命知らずや河豚汁の友/床に臥し肩で息して北枕〉って付合がありますね。
 
「そやな、河豚汁は何句か詠んだはずや」
 
でもまだ息があるのに〈北枕〉ってひどいんじゃないですか。
 
「備えあれば憂いなし、いうやろ。北枕の準備あれば、逆に生き返るいうもんや」
 
はぁ、また諺ですか……。

2024年9月2日月曜日

●月曜日の一句〔矢島渚男〕相子智恵



相子智恵






何をしにホモ・サピエンス星月夜  矢島渚男

句集『何をしに』(2024.7 ふらんす堂)所収

ホモ・サピエンスは、今の私たちの直接の祖先。ホモ・サピエンスがそれまでの人類と違ったのは、言葉を操るようになったことであった。言葉によって物事を複雑に考えられるようになり、環境への適応力が増していったといわれる。

さて、掲句。ホモ・サピエンスは進化の過程で生まれたのであって、「何かをするために」地球上に登場してきたわけではない。だから、掲句はもちろん、今の私たちに向けた批評をもった上での「何をしにきたのか」なのだろう。いったい私たちの祖先は、何をしにこの地球に現れて、そこからはるか進化した後の私たちは、実際に何をしてきたのか。あるいはこれからも続く進化の過程で、何をする(しでかす)のか。

  酢海鼠を残人類としてつまむ

  人類は涼しきコンピューター遺す

  ヒト争ひ極地の氷溶けつづく

そんな批評眼が背後にあることは、本書にこのような句があることからも分かる。様々な星が瞬く〈星月夜〉に、地球に現れたホモ・サピエンス(の末裔である私たち)は、地球に〈何をしに〉きたのだろう。私たちは、このたくさんの星空の中のひとつである地球にとって、どんな存在なのであろう。

 

2024年8月30日金曜日

●金曜日の川柳〔戎踊兵〕樋口由紀子



樋口由紀子





光るのを拒めずにいる星の数

戎踊兵

夜空に輝く満天の星のなかには光りたくない星もあるのだろう。慣習的に、任務的に、強制的に、光っているものもあるのかもしれない。星は光るものだという思い込みが星自身にも部外者にもあり、それを「拒む」のはかなりエネルギーがいる。だから、諦めて、しかたなく、右に倣って光っている。

日常会話や小説などでよく聞いたり言ったりする言葉に「星の数ほど」がある。星の数ほどいっぱいという意味である。人間もしかり。同調圧力で「拒めず」にいる人が世の中にはたくさんいる。意味深な、メッセージ性の強い川柳である。「おかじょうき」(2024・8月号)収録。

2024年8月26日月曜日

●月曜日の一句〔月野ぽぽな〕相子智恵



相子智恵






一匹の芋虫にぎやかにすすむ  月野ぽぽな

句集『人のかたち』(2024.7 左右社)所収

毛虫は、びっしり生えた毛そのものが、見た目にも賑やかであるが、芋虫はそうではない。緑色一色か、揚羽の幼虫であれば目玉のような柄や黒い斑があったりもするけれど、毛虫にくらべれば、存在そのものが賑やか、というわけではない。

この賑やかさは、まさに「動き」の伸び縮みの賑やかさ、「うねり」の賑やかさなのだ。芋虫が伸び縮みして、うねりながら進んでいく。丸々とした大きな一匹ではないだろうか。踊るように賑やかに進む存在感。何か楽しくなってくる一句である。

 

2024年8月23日金曜日

●金曜日の川柳〔加藤久子〕樋口由紀子



樋口由紀子





大夕焼耳をお返しいたします

加藤久子(かとう・ひさこ)1939~

大夕焼の鮮やかさが目に見えてくるようである。自然の偉大さ、美しさに感動し、胸いっぱいになって、咄嗟に思ったのだろう。「お返しいたします」ということはもともと自分のものではなく、借りていたという意識があったのだろう。大夕焼に対しての究極の敬意である。

その心の有りように驚く。それは自然の中で生かされているという思いからだろう。荘厳な景を目にしての奇妙で不思議な感覚である。こちらからあちらへと心身を寄せていき、「お返しいたします」ときっぱりと言い切る。美意識と感受性で作者固有の世界と空間を創り上げている。「触光」(80号 2023年刊)収録。

2024年8月21日水曜日

西鶴ざんまい #65 浅沼璞


西鶴ざんまい #65
 
浅沼璞
 

なづみぶし飛立つばかり都鳥 打越
 花夜となる月昼となる
   前句
名を呼れ春行夢のよみがへり 付句(通算46句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折、裏11句目。 春行(はるゆく)=晩春。 よみがへり=無常。

【句意】名を呼ばれ、行く春とともに終わろうとしていた夢から蘇った。

【付け・転じ】打越を舟遊びの余興とし、その有限性を詠んだ前句を、病人の幻覚に取り成した。

【自註】爰(こゝ)はまた人の正気うせて、夢のごとく、しれぬ山辺(やまべ)に心も闇く、*昼の花夜と成り、夜る見る月の昼と成り、引息(ひくいき)のたよりなき時、其の者の名を声々に呼び、「*いけやれ」「*針立よ」「*人参よ」「湯よ、水よ」とさはぎしに、目を明けて、「是はかしましや、何事ぢや」といふ。
*昼の花夜と成り…=〈春の花も闇となし、秋の月を昼となし…〉『好色五人女』(巻一)に同じく精神朦朧状態を表す。 *いけやれ(生けやれ)=生き返れ。 *針立(はりたて)=鍼医者。 *人参=高麗人参。

【意訳】ここはまた病人が人事不省に陥り、夢幻の境をさまよい、死出の山路に心も暗く、昼間の花が夜になり(消え)、夜に見る月が昼になり(失せ)、呼吸が弱くなる時、その病人の名を口々に呼び、「生き返れ」「鍼医者を」「朝鮮人参を」「お湯を、水分を」と騒いだのに、目をあけて「これうるさいぞ、何事だ」と言う。

【三工程】
(前句)花夜となる月昼となる

 正気うせ心も闇き死出の山     〔見込〕
    ↓
 生けやれと鍼よ水よとさはぎたて  〔趣向〕
    ↓
 名を呼れ春行夢のよみがへり     〔句作〕

前句を病人の幻覚に取り成し〔見込〕、〈看病する人々はどうするか〉と問いながら、その騒ぎ立てる様子を描写し〔趣向〕、〔春ととも逝かんとする病人が一転して蘇生する〕のを詠んだ〔句作〕。

 
そういえば『男色大鑑』にも、息もたえだえになった人にニンジンや水を与え、蘇生させるというエピソードがありましたが、ニンジンって朝鮮人参のことですよね。
 
「そや高麗人参は滋養強壮にええんや」
 
でも昔から高価ですよね。
 
「せやから〈人参飲んで首縊る〉いう諺があってな。高価な特効薬で病を治しても、その借金で首が回らんようになるいう教訓や」
 
なんか浮世草子のオチみたいですね。
 
「そら諺や俳諧は浮世草子のルーツみたいなもんやからな」
 
ルーツ? 外来語?

「呵々、前にそなさんから教わった横文字、いちど使うてみたかったんや」

2024年8月16日金曜日

●金曜日の川柳〔酒井かがり〕樋口由紀子



樋口由紀子





極めて右に乳房が寄っている困る

酒井かがり(さかい・かがり)1958~

つい先日の句会に出された一句である。「極めて右に」にどきりとした。まさに今である。しかし、鮮やかに切り取っているのではない。日常における実感を不道徳っぽい書きぶりで、句材を自分の身体に、それもジェンダー性の強い乳房を持ってきている。

「極右(ごくみぎ)に」と上五にすればすんなりいくものを、わざわざ「極めて右に」と散文的な説明を加える。一方、下五は「いる困る」と「る」を重ね、もたもたともどかしくし、「いて困る」という説明を回避する。虚であり実である感覚をスローガンにいかないように、他人に迷惑がかからないように「困る」と着地した。確かに困る。

2024年8月10日土曜日

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2024年8月9日金曜日

●金曜日の川柳〔中尾藻介〕樋口由紀子



樋口由紀子





コーヒーが一番廉いのでコーヒー

中尾藻介(なかお・もすけ)1917~1998

夏休みなので、孫娘たちとカフェによく行く。祖母が財布であるから、彼女らは友だちと行くときとはあきらかに別の、贅沢なものを注文する。その逆バージョンだろう。私も学生時代に通った喫茶店はホットミルク、牛乳を温めたものが一番廉価で、お金のないときはちょっと胃の調子がよくないとか言って、ホットミルクにしていた。ミックスジュースなどは高価で、もってのほかだった。

まるで会話しているように、日常次元の意味に収めた川柳である。このとりとめのない視点で日常を適確に把握する。生活者の知恵があり、ほのかな毒とアイロニカルなまなざしが潜んでいる。

2024年8月7日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇22 浅沼璞



西鶴ざんまい 番外篇22
 
浅沼璞
 
 
「石川九楊大全」前期【古典篇】(6/8~30 上野の森美術館)を見逃したので、猛暑も厭わず後期【状況篇】(7/3~28)へ足を運びました。

 
初期作品群から戦後現代詩文、そして最近の自作詩文というパースペクティブにおいて、ひときわ印象深かったのは碧梧桐109句選です。

前衛書家として碧梧桐の前衛性をつとに評価していた九楊氏は『河東碧梧桐-表現の永続革命』(文藝春秋)なる批評集を2019年に上梓。その仕上げとして、碧梧桐109句を選び、書画をしたため、注釈を施した『俳句の臨界 河東碧梧桐一〇九句選』(左右社)を2022年に上梓。今回はその全展示という次第です。
 
 
書画作品の下にはその注釈も掲示され、整然と二部屋に連なる様はまさに圧巻。一句一句たどるうち、109句という数的連関もあってか、ふと西鶴の独吟百韻を連想したのですが、次の一句に出会い、やはりそうかと目から鱗でした。
 
  一日百千句発句の秋巍々乎たり  碧梧桐
 
この句、九楊氏の注釈によれば「骨立舎」と題されており、小沢碧童宅での句会「俳三昧」を詠んだもののようです。巍々乎(ぎぎこ)とはすばらしく高大であるという意味らしく、九楊氏の注釈は次のように続きます。
 
〈…作句に次ぐ作句の俳句修行を碧梧桐は具体的、実践的に詠む。天高くして広大な秋。それに呼応するかのごとき、骨立舎に集う志高き俳人達。虚子は俺が俺が。碧梧桐は我等我等。〉
 
いわば〈俺が俺が〉は垂直志向、〈我等我等〉は水平志向ですが、虚子も碧梧桐も(そして西鶴も)実作では垂直/水平の両義性を駆使しました。それは俳諧自体が発句の垂直性と付句の水平性をもった「二律背反の濃い塊り」だからでしょうが、九楊氏の書とてその両義性と無縁ではなく、この【状況篇】でも9・11事件を扱った「垂直線と水平線の物語Ⅰ」という連作の展示があったというだけではありません。図録序文では垂直/水平の両世界の発見について言及しています。

〈一方では筆は刷毛となって、紙の繊維に沿って墨が平面的に広がってゆく水平の世界、また他方では鑿とも錐ともなった痩せた筆蝕が紙の奥深くまで立体的に斬り開いていく垂直の世界とを発見した。〉
 
この二律背反の発見により、氏の作品は〈現代美術か現代音楽の図形楽譜と見まごうばかりの姿へと変貌を遂げた〉わけで、9・11事件以後の碧梧桐109句選にもそれは如実に反映されていました。

 
先日、くしくも東武ワールドスクウェアにて1/25スケールのツインタワーを仰ぎ見ました。その瞬間、九楊氏の作品群が真夏の逆光に雪崩れるかのようなイリュージョンを覚えました。

狂気に満ちた垂直/水平の背反的世界に、俳句も書画もあることを、この【状況篇】は世に告げわたっていたというほかありません。