浅沼璞
日本道に山路つもれば千代の菊 西鶴(発句)
鸚鵡も月に馴れて人まね 仝(脇)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
やっと脇句(以下、脇)。まずは式目チェックをすませてしまいましょう。
ごらんのとおり発句と同季で体言留、脇のセオリー通りになっています。
しかも発句が秋の場合、第三までに月を詠まなければなりませんが、それもクリア。
百韻はオモテ八句で、七句目が月の定座になっていますので、五句引き上げているわけですね。これは秋の句続きに月が出ないのを素秋(すあき)といって嫌うことに起因します。(『祇園拾遺物語』元禄四・1691年、参照)
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さて西鶴は自註で「古い貞門調ならば〈紅葉のにしき移す今織〉などとするところを、それでは付き過ぎなので避けた」と記しています。(脇が紅葉なら第三で月)
「今織」とは西陣で新しく織りだした錦の類で、いってみれば日本製の唐織物。発句の「日本式の計算方法」と対句的に仕立てた対付(ついづけ)で、一概に付き過ぎとはいえません。ただ句意をたどると「さながら紅葉の錦を移したような趣の今織である」といった雅語的な予定調和で、発句の「千代の菊」には付き過ぎといえなくもありませんが。
その付き過ぎを嫌って鸚鵡の句を付けた、と西鶴はつづけます。曰く「唐鳥のあうむに日本の人の物言ふを聞きならはせ、何ぞといへば何の事もなく付け寄せける」。
この原文に即して脇を検証すれば、「月に馴れ」=「日本に馴れ」、「人まね」=「日本人の物真似」というコンテクストが浮かんできます。要は鸚鵡の日本語トレーニングを発句の「日本式計算方法」と対句的に仕立てたわけで、これもまた対付の範疇にあるとしていいでしょう。その意味で脇としての径庭はありません。
むろん同じ対付でも、「日本製の唐織物」は前述のごとく雅な感じ満載の貞門調ですが、「日本語トレーニング」にはそれがなく、俗っぽい談林調。
けれど、こうした雅俗の比重の違いはあっても、付合はおなじ対付なのですから、「何の事もなく付け寄せける」という西鶴の自註を手放しで認めるわけにはいきませんね。
しかも対付であるというだけでなく、以下のとおり縁語による詞付(ことばづけ)の要素まで見てとれちゃうので。
たとえば『西鶴俳諧集』(桜楓社)頭注には「千代の菊→(酒→さかづき)→鸚鵡」という連想が指摘されています。
こまかくみれば「菊酒→杯→鸚鵡貝」という連想経路なわけですが、それについて西鶴は一言もふれていません。いわば全無視。読者からすれば、「菊酒→鸚鵡の杯」という連想の指摘は大いに納得のいくところでしょう。
ということで脇の推敲過程をシン・ゴジラ式に仮想、且つネーミングすれば――
月をうつせる鸚鵡杯 〔第1形態=鸚鵡杯くん〕
鸚鵡もまねる月の杯 〔第2形態=物真似くん〕
さらに抜けの手法で「杯」の一語を抜き、第三形態の完成形にもっていったと解せば、より納得の度合いが増すのではないでしょうか。
とはいえ、こうした連想を重ねるプロセスが想定されるというのに、「さらりと何気のう付けただけやねん」と西鶴はうそぶいている。なんででしょう。自註は「何ぞといへば何の事もなく付け寄せけるを、皆人好める世の風儀に成りぬ」と結ばれています。
つまり「何の事もなく」付けるのこそ今風好みだというのです。トレンドに乗らんとする西鶴――時代の波を追い、時代の波を負う老俳諧師・二万翁の姿が……。
しばらく二万翁のこの独吟&自註を追ってみましょう。
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