橋本 直
≫承前 02 01
子規の短歌に「足たゝば」という題の連作があります。
徒然坊箱根より写真数葉を送りこしける返事に
足たゝば箱根の七湯七夜寝て水海の月に舟うけましを
足たゝば不尽の高嶺のいたゝきをいかつちなして踏み鳴らさましを
足たゝば二荒のおくの水海にひとり隠れて月を見ましを
足たゝば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
足たゝば蝦夷の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを
足たゝば新高山の山もとにいほり結びてバナヽ植ゑましを
足たゝば大和山城うちめぐり須磨の浦わに昼寝せましを
足たゝば黄河の水をかち渉り華山の蓮の花剪らましを
(「竹乃里歌」明治31年 『子規全集』第6巻)
「徒然坊」とは阪井久良伎のこと。送られた絵はがき?に触発され、もし自分が寝たきりでなければ、という思いのもとに連作の歌を詠んでいます。この連作自体とても興味深いものですが、そちらは俵万智『短歌をよむ』(岩波新書)その他を参照していただくとして、本稿において焦点化されるべきは五首目です。ここで子規は、季節ははっきりとしないものの、アイヌの友人とともに一緒に熊を殺すことを夢見て詠んでいます。第一回で引いた「冬枯や熊祭る子の蝦夷錦」を併せて考えれば、子規はアイヌの装束や、熊を祭ることも殺すことも知っているわけで、この明治31年までのどこかでアイヌの風俗を知っていたことがわかります。現存の子規の所蔵目録を見る限りはそれらしきものがなく、どこで知ったのかは未詳ですが、ひとまず新聞雑誌、単行本などによってそれなりに一般に知られていた可能性を考えることができます。
子規と熊について追えるのは、手近の手段ではここまでなので、あらためて「熊祭」という季語に焦点を当ててゆきたいと思います。歳時記の引用は長くなるので略しますが、小学館の『日本国語大辞典』によれば、
〈アイヌの儀式、祭の一つ。熊の子を二、三年養ったのち、儀式としてその肉を共食、宴遊した行事。アイヌは動物を神の化身と考え、特に、熊を最も偉大な神とし、これをその祖国である神の世界に送り返すために、この儀式を盛大荘重に行わなければならないとした。熊送り。《季・冬》〉と説明されています。その用例として、『休明光記』の説明部分の他、誓子の句「削り木を神とかしづき熊祭」、武田泰淳「ひかりごけ」の一節などが出てきます。『休明光記』は羽太正養著、文化4 (1807)年(詳しくは北海道大学北方関係資料総合目録参照)刊ですから、既に江戸後期には一応、熊祭という言葉とその内容が紹介されていたことになります。
また、「熊送り」についても同辞典では熊祭と同様の説明があり、用例で
〈随筆・百草(1844頃か)一「熊送り 実報 往昔亜伊能人種に於て行ふ祭例あり。之を熊送りと称ふ」〉とあって、「百草」は『日本随筆大成』所収のものと同じかと思われますが、現物にあたってないのでいまのところ未詳。ともあれ、これも江戸後期に紹介があったことがわかります。さらに言うなら、蝦夷と呼ばれた人々の風俗については既に平安時代に詠まれた歌があります。長承元(1132)年に崇徳院の内裏歌会で藤原顕輔が詠んだ和歌、
あさましや千島のえぞの作るなるとくきの矢こそひまはもるなれ
(「顕輔集」、「夫木和歌抄」http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/menu.html)
ここでいう「千島のえぞ」は津軽以北の異民族、すなわちアイヌのこと。「とくきの矢」は毒矢。アイヌが毒矢を使うことを歌に詠んでいます。そこで思い当たるのは、連載二回目で引いた句
熊突や毒矢持ち立ち老アイヌ 靑眼子(ホトトギス)
です。もしかするとこの句は、先の歌(またはその派生歌)を下地にして詠まれたのではないでしょうか。
このように、近代以前にもある程度アイヌの風俗の情報はあったことが分かるのですが、それが俳句の季語になったのはいつか、ということになると、西村睦子氏の『「正月」のない歳時記』(本阿弥書店)には、
「熊祭」
明42無涯編[新脩歳時記]「熊祭」例句1
判官は蝦夷の神なり熊祭 一転
[ホ雑詠]大15=5句、誓子の句が並ぶ。
飾太刀倭めくなる熊祭 誓子
雪の上に魂なき熊や神事すむ 誓子
改造社版「熊祭」誓子の句を含む例句6。
虚子編「熊祭」誓子の句を含む例句3
これは北海道開拓による北方季語。誓子と両歳時記により題になった。
※引用者注「無涯」は中谷無涯。「ホ雑詠」は「ホトトギス雑詠覧」。
と解説されています。明治末期から昭和初期に季語になったということになるのですが、季語になる下準備は子規の頃から既にあったと言っていいかもしれません。決定的な仕事をしたのが改造社と虚子の歳時記。俳人では誓子だったということでしょう。蛇足ながら付け加えるならば、今井柏浦編「詳解例句纂集歳事記」(大正15初版、昭和二年の5版で確認)にも「熊祭」が出ています(例句は2)。無涯の歳時記は手近にないので未確認ですが、改造社のも柏浦編歳時記も虚子編歳時記も、祭の内容について丁寧な説明をしているものの、先に引いた『日本国語大事典』にあった江戸の文献についてはまったく触れていません。角川『図説大歳時記』も同様です。また、改造社の歳時記には「熊」の項の末尾に関連語として、「熊祭」を「熊突」と同じく「人事」に出ているとしてあるのですが、実際には「宗教」に分類されています。おそらく編集の過程で「宗教」に修正されたのが、「熊」の項目の方は記述を治し損ねたのでしょう。大和中心の文化である歳時記に異民族の祭礼である「熊祭」を収めるに当たっての、ちょっとした混乱をみることができます。
ここまでをまとめます。アイヌの「熊祭」についての文献は、江戸時代に既に刊行されていたが、近代の歳時記にその反映はされていない。子規の頃何らかの文献でアイヌの生活の紹介がなされてはいたが、「熊祭」が季語になるにはいたらなかった。大正末から昭和初期に刊行された歳時記には相次いで立項されており、代表句は山口誓子のものである。
さて、あらためて最初の問にもどるのですが、「熊突」も「熊祭」も冬に行われるので、季語として冬になるのは至極当然と思われます。しかし、「熊」そのものが近代になって冬の季語になった理由はなんなのでしょう?まず単純に、その二つの季語から派生的に冬季に収められたと考えられましょう。狩られた熊の肉を「薬喰」の対象に含む発想もあったかもしれません。そこで、これまで紹介したように例句に北海道の句が少なからずある、という所には注目してもよさそうです。北海道を開拓するにあたっては、明治20年代から右肩上がりに人口が流入しており、人の生活圏が猛獣であるヒグマと衝突しないわけにはいかない。例えば明治11年1月におきた札幌丘珠事件では、熊によって5名の死傷者が出ています。仕留められた熊は剥製にされ、それを明治天皇が見学したことで報道されて広く知られることになったそうです。本州以西の各地でも、それまで原野であった場所の開拓が進んでいたはずで、江戸期までの「狩猟」とは内実が変わって、実質的に開拓に邪魔なものとして熊を排除していく行為であったということが考えられます。
近代においては、日本では狼が最も典型であったように、結果的に人の生活を脅かすものを滅びるまで排除してしまったものもある訳で、開拓の敵としての猛獣「熊」が狩猟しやすい季節、あるいは籠もる場所を追われて人里に迷い出ることが多くなった季節として、熊が冬に目立つということから、冬の季語におさまるということは、近代的な風景というにふさわしいことかもしれません。
同様に、北海道の開拓によって他者としてのアイヌ文化を一部季語には取り入れつつ、実際の所、同化政策によって彼等の文化を滅ぼしていったことも、同様の文脈ではないかと思われます。改造社の歳時記の解説の末尾に「この神事はアイヌの迷信によるものである」と一言添えてあったり、角川『図説大歳時記』で熊祭の生け贄の熊の写真に「悲しき贄熊」とキャプションが付けられ、解説に「現在ではよほど簡略になって、クマを殺さないで形だけする観光的熊祭のほうが多い」とあるのは、レヴィ=ストロースを持ち出すまでも無く、いまからみれば前世紀の「文明」から「野蛮」への一方的な視座といわれても仕方ない文言と思われます。
さて、冬の季語「熊」をめぐる考察はここでいったんおしまいにします。今のところはっきりしないことで、ちゃんと調べれば分かりそうなこともあるので、いずれまた書くことがあるかもしれません。ここまでお読みいただきありがとうございました。
( 了 )