【新刊】
『音数で引く俳句歳時記・冬+新年』2023年10月27日金曜日
●金曜日の川柳〔高橋千万子〕樋口由紀子
樋口由紀子
国道を無事に渡ってきた毛虫
高橋千万子
あの小さい毛虫が国道を渡るのはかなり無謀である。車の往来も多く、作者はじっとその様子を見ていたのだろうか。だいじょうぶか、車が来ないか、轢かれないか、途中で止まらないか、さぞひやひやしたことだろう。
実際にその場に立ち合ったかのようだが、国道の脇の毛虫を見ての想像かもしれない。それを「無事に」という感情を入れて、「渡ってきた」と脚色をした。見てきたような嘘をつくのも川柳の一つの方法である。「国道」も「毛虫」を人生の喩としても読めるが、それでは道徳っぽくなってしまう。
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2023年10月23日月曜日
●月曜日の一句〔亀井雉子男〕相子智恵
相子智恵
三人は二人と一人いわし雲 亀井雉子男
句集『朝顔の紺』(2023.6 文學の森)所収
〈三人は二人と一人〉は、三人を二つに分ければ、もう、それはその通りでしかないのだけれど、掲句にはうっすらとした寂しさと、あっけらかんとした清々しさというか、禅問答のような味わいが、ほどよいバランスで感じられてくるのがいい。
寂しさという面では、三人でいる時に、自然にそのうちの二人で話が盛り上がり、一人は置いていかれる……というような状況は、経験した人も多いことだろう。
しかし、この句はのんびりとした〈いわし雲〉という季語によって、空の高さと清々しさが感じられてくる。そこに禅問答のような味わいが滲むのである。
二人のほうには対話の喜びやら面倒やらが生まれる。もう一人には孤独が、けれども自分との対話という楽しみも生まれる。そもそも、寂しさという尺度でこの句を読むことも、何か違うような気がしてくる。〈二人と一人〉となったまま、特に何も生まれないかもしれない。〈いわし雲〉はぽっかりと浮かび、やがて風に薄れ、空にとけてゆく。
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2023年10月20日金曜日
●金曜日の川柳〔石田柊馬〕樋口由紀子
樋口由紀子
ゆうべ ロールキャベツの美しき
石田柊馬 (いしだ・とうま) 1941~2023
「ゆうべ」のいきなり感やそのあとの一字空けに、作者固有の言葉遣いが見える。「ゆうべは」「ゆうべの」「ゆうべに」と、どのように読んでもいいと読み手に預けられているが、結局は「ロールキャベツの美しき」に着地する。
いかにアングルを変えても、なにより言いたいのは「ロールキャベツの美しき」なのだろう。「ロールキャベツの美しき」に説明と断定がある。この両輪で川柳の長所を切り開いてきた。独自の座り心地ある世界を差し出す。川柳人は何がどうであるかを説明し、断定することである種の高揚感と肯定感を持っている。『ポテトサラダ』(KON-TIKI叢書 2002年刊)所収。
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2023年10月18日水曜日
西鶴ざんまい #51 浅沼璞
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃) 【付句】二ノ折、表11句目。秋(初茸=ベニタケ科で食用、赤松林の地上に自生)。
諸蔓(もろかづら)=双葉葵の異称。松―葛(類船集)。
【句意】色が変わる初茸を諸蔓で括ってつなぐ、その諸蔓。
【付け・転じ】打越・前句=打越の場を寺域の跡地と見なした其場の付け。前句・付句=松原に落葉を掻く子供を想定した抜け。
【自註】薄・根笹をわけわけて、里の童子(どうじ)、落葉をかく片手にさらへ*捨置き、目にかゝる紅茸(べにたけ)花茸によらず取集めて、細きかづらにつなぎて、草籠に付たるもこのもしき物ぞかし。一句に人倫(じんりん)*をむすばずして里の子の手業(てわざ)に聞えしを、当流仕立と、皆人此付(このつけ)かたになりぬ。
*さらへ=熊手のひとつ。 人倫=人間に関する分類概念をさす連俳用語。
【意訳】薄や根笹をかき分けかき分け、村里の子どもが落葉をかき、その片手間に熊手を捨て置き、目にふれる紅茸や花茸に限らず取集めて、それらを細いかづらに貫いてつなぎ、草刈籠にさしてあるのも、また趣のあるものである。一句に人情を入れず(抜け風に)里の子の仕業と知らしめたのを、最近の俳風*と心得、みんなこの付け方になった。
*最近の俳風(当流仕立)=藤村作『譯註 西鶴全集』は〈当流は談林派、仕立は付合作句の法〉、野間光辰『定本全集』は〈談林の「抜け風」・「飛び体」といふがこれ〉と注す。これに対し乾裕幸『芭蕉と芭蕉以前』は、当流を談林(宗因流)とするのは誤解で、当時の元禄正風体(疎句体)をさすのが正しいと指摘。しかし誤解されるのも無理からぬほど、元禄体には談林の抜け・飛びが活かされており、西鶴も元禄体を〈宗因流の延長上に捉えていた〉と付記する。さらにこれに対し今榮藏『初期俳諧から芭蕉時代へ』は、〈宗因風時代の抜けの手法の名残り〉が無いとはいえないが、〈宗因風時代には詞の知的遊戯を特色としたのにたいして、「心の俳諧」の趨勢のなかでまったく変質し、内容主義のものになっていた〉と元禄体を位置づけている。そして西鶴にもみられるこの内容主義が、〈蕉風とも通うところのあるもの〉と付言。談林から元禄体への流れを介して西鶴&芭蕉の俳諧が晩年に接近したことが述べられている。ともに談林を否定的媒介とし、アウフヘーベンした結果であろう。
【三工程】
(前句)寺号の田地北の松ばら
諸蔓(もろかづら)=双葉葵の異称。松―葛(類船集)。
【句意】色が変わる初茸を諸蔓で括ってつなぐ、その諸蔓。
【付け・転じ】打越・前句=打越の場を寺域の跡地と見なした其場の付け。前句・付句=松原に落葉を掻く子供を想定した抜け。
【自註】薄・根笹をわけわけて、里の童子(どうじ)、落葉をかく片手にさらへ*捨置き、目にかゝる紅茸(べにたけ)花茸によらず取集めて、細きかづらにつなぎて、草籠に付たるもこのもしき物ぞかし。一句に人倫(じんりん)*をむすばずして里の子の手業(てわざ)に聞えしを、当流仕立と、皆人此付(このつけ)かたになりぬ。
*さらへ=熊手のひとつ。 人倫=人間に関する分類概念をさす連俳用語。
【意訳】薄や根笹をかき分けかき分け、村里の子どもが落葉をかき、その片手間に熊手を捨て置き、目にふれる紅茸や花茸に限らず取集めて、それらを細いかづらに貫いてつなぎ、草刈籠にさしてあるのも、また趣のあるものである。一句に人情を入れず(抜け風に)里の子の仕業と知らしめたのを、最近の俳風*と心得、みんなこの付け方になった。
*最近の俳風(当流仕立)=藤村作『譯註 西鶴全集』は〈当流は談林派、仕立は付合作句の法〉、野間光辰『定本全集』は〈談林の「抜け風」・「飛び体」といふがこれ〉と注す。これに対し乾裕幸『芭蕉と芭蕉以前』は、当流を談林(宗因流)とするのは誤解で、当時の元禄正風体(疎句体)をさすのが正しいと指摘。しかし誤解されるのも無理からぬほど、元禄体には談林の抜け・飛びが活かされており、西鶴も元禄体を〈宗因流の延長上に捉えていた〉と付記する。さらにこれに対し今榮藏『初期俳諧から芭蕉時代へ』は、〈宗因風時代の抜けの手法の名残り〉が無いとはいえないが、〈宗因風時代には詞の知的遊戯を特色としたのにたいして、「心の俳諧」の趨勢のなかでまったく変質し、内容主義のものになっていた〉と元禄体を位置づけている。そして西鶴にもみられるこの内容主義が、〈蕉風とも通うところのあるもの〉と付言。談林から元禄体への流れを介して西鶴&芭蕉の俳諧が晩年に接近したことが述べられている。ともに談林を否定的媒介とし、アウフヘーベンした結果であろう。
【三工程】
(前句)寺号の田地北の松ばら
里の子の落葉を掻いてゐたりけり 〔見込〕
↓
落葉掻く片手に茸取集め 〔趣向〕
↓
色うつる初茸つなぐ諸蔓 〔句作〕
松原で村里の子ども達が落葉掻きをしていると見込んで〔見込〕、それだけに専心しているのかと問いながら、片手間に茸を取集めたりすると想定し〔趣向〕、その子ども(人物)を描かない「抜け」の手法で一句に仕立てた〔句作〕。
↓
落葉掻く片手に茸取集め 〔趣向〕
↓
色うつる初茸つなぐ諸蔓 〔句作〕
松原で村里の子ども達が落葉掻きをしていると見込んで〔見込〕、それだけに専心しているのかと問いながら、片手間に茸を取集めたりすると想定し〔趣向〕、その子ども(人物)を描かない「抜け」の手法で一句に仕立てた〔句作〕。
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2023年10月16日月曜日
●月曜日の一句〔黒田杏子〕相子智恵
相子智恵
月に問へ生きて真澄の月に問へ 黒田杏子
句集『八月』(2023.8 角川文化振興財団)所収
三月に急逝した黒田の最終句集『八月』は、髙田正子ら「藍生」の連衆7名からなる刊行委員会によって、前句集『日光月光』以降の10年間の句が纏められた遺句集だ。
黒田は2015年に脳梗塞で倒れたが回復。掲句にはその実感もあるのだろう。言われてみれば何かを「問う」ことは、生きているうちにしかできない。これからも生きて、よく澄んだ月に問うべし、と自分に言い聞かせているのだ。この月への問いは、真澄の鏡(曇りのない鏡)のように自分に跳ね返ってくるのだろう。
掲出句の前の句は〈月光無盡蔵瞑りて禱るべく〉。月は見るものではなく、月には目をつむって祈るべし、というのも黒田の季語観をよく表しているように思う。〈月に問へ〉も然り。以前、こちらにも書いたが、季語を対象として詠むというよりも、抱いて取り込み、季語と人生が一体化していくのだ。その俳句人生がよく伝わってくる最終句集であった。
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2023年10月13日金曜日
●金曜日の川柳〔中武重晴〕樋口由紀子
樋口由紀子
満五十今朝は早めに顔洗う
中武重晴
今日、私は満五十歳を迎えた。今朝はいつもより早めに顔を洗った。ただ、それだけの、きわめてプライベートな、私事の、只事の、川柳である。「満五十」が今よりもっと高齢に感じた時代である。
昨日と今日はなにも変わらないが、「顔を洗う」という毎朝の行為に「早めに」でなんらかの意味合いを入れる。とらえどころのない感覚を身体でまず認識する。満五十を無事に迎えることができたという安堵と、もうそんな年齢になったのかという感慨を、作者自身の内と外に語りかけている。私も今年年代が変わった。だから、その気持ちがなんとなくわかるような気がする。
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2023年10月4日水曜日
西鶴ざんまい #50 浅沼璞
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃) 【付句】二ノ折、表10句目。雑。
寺号=寺の称号がついた地名。 田地(でんぢ)=田圃のこと。
【句意】(お寺はなく)地名にだけ寺号が残った田地の、その北には松原がある。
【付け・転じ】打越・前句=身分ある人の棺桶と見なした無常の付け。前句・付句=寺域の跡地と見立て替えた其場の転じ。堀当て(結果)、寺号の田地(原因)と捉えれば逆付。
【自註】里の名に正覚寺(しやうかくじ)・薬師寺などいへる寺号は、何国(いづく)にもある事也。我住(わがすむ)在所ながら、此子細はしらず、年ふりけるに、棺の桶掘出したるにぞ、昔日の寺地(てらち)とは合点(がてん)いたせし。「北の松原」は何の事もなし。一句の風情也。あるひは道橋(みちはし)に文字の残る石をわたし、五輪の四角なる所*は、井のはたの桶の置物とぞなれる。気を付て見る程世はあはれにこそ。
*五輪の石塔の最下部、方形の部分をさす。
【意訳】村里の地名に正覚寺や薬師寺や、寺の号の付いている所は何処にでもあるものだ。自分の居住地ながら、地名の由来を知らず、年を経て棺桶を掘出し、昔は寺の敷地であったのかと納得申し上げる。「北の松ばら」と句に入れたのはどうという事もない。一句に風情を出すためである。たとえば道路の橋に、文字の残った石を渡し、五輪塔の四角い石などは井戸端の桶を置く台となったりする。意識してみるほど世は哀れだ。
【三工程】
(前句)堀当て哀れ棺桶の形消え
寺号=寺の称号がついた地名。 田地(でんぢ)=田圃のこと。
【句意】(お寺はなく)地名にだけ寺号が残った田地の、その北には松原がある。
【付け・転じ】打越・前句=身分ある人の棺桶と見なした無常の付け。前句・付句=寺域の跡地と見立て替えた其場の転じ。堀当て(結果)、寺号の田地(原因)と捉えれば逆付。
【自註】里の名に正覚寺(しやうかくじ)・薬師寺などいへる寺号は、何国(いづく)にもある事也。我住(わがすむ)在所ながら、此子細はしらず、年ふりけるに、棺の桶掘出したるにぞ、昔日の寺地(てらち)とは合点(がてん)いたせし。「北の松原」は何の事もなし。一句の風情也。あるひは道橋(みちはし)に文字の残る石をわたし、五輪の四角なる所*は、井のはたの桶の置物とぞなれる。気を付て見る程世はあはれにこそ。
*五輪の石塔の最下部、方形の部分をさす。
【意訳】村里の地名に正覚寺や薬師寺や、寺の号の付いている所は何処にでもあるものだ。自分の居住地ながら、地名の由来を知らず、年を経て棺桶を掘出し、昔は寺の敷地であったのかと納得申し上げる。「北の松ばら」と句に入れたのはどうという事もない。一句に風情を出すためである。たとえば道路の橋に、文字の残った石を渡し、五輪塔の四角い石などは井戸端の桶を置く台となったりする。意識してみるほど世は哀れだ。
【三工程】
(前句)堀当て哀れ棺桶の形消え
有りし寺院の墓地の跡てふ 〔見込〕
↓
子細の知れぬ寺号の田地 〔趣向〕
↓
寺号の田地北の松ばら 〔句作〕
前句から、昔は寺院の墓地があったと見込み〔見込〕、なぜそれが分かるかと問いながら、地名に寺号が残っているものと想定し〔趣向〕、「北の松原」で風情を添えた〔句作〕。
↓
子細の知れぬ寺号の田地 〔趣向〕
↓
寺号の田地北の松ばら 〔句作〕
前句から、昔は寺院の墓地があったと見込み〔見込〕、なぜそれが分かるかと問いながら、地名に寺号が残っているものと想定し〔趣向〕、「北の松原」で風情を添えた〔句作〕。
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打越・前句の付けに関し、編集の若之氏より、〈この発想の展開には、「拝める」も関わっていそう〉との寸感をもらいました。
「そやな、小判拝む、から佛拝むの転じやな」
なるほど。あと〈上五の「て」が打越と共通しています〉という指摘もありました。たしか打越は〈住替て不破の関やの瓦葺〉でしたね。
「前にワシの俳論調べてもろたように、前句の腰の「て」は折合を気にするけどな、打越の腰はさほど気にせん」
あぁ番外編11ですね。腰っていうのは長句なら5・7・5、短句なら7・7の各末尾の「て」という事ですよね。
「そやな、腰痛で差し合うときにな、腰に手ぇ当ててしのぐ、あの動作と同じやで(笑)」
……。
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2023年10月2日月曜日
●月曜日の一句〔吉田哲二〕相子智恵
相子智恵
続けては負けてやらざる草相撲 吉田哲二
句集『髪刈る椅子』(2023.8 ふらんす堂)所収
〈続けては負けてやらざる〉だから、作中主体自身が相撲をしていることが分かる。一度は負けてあげるというコントロールというか、演技ができる相手だから、自分よりもずいぶんと格下の相手だ。パッと想像されてくるのは、親子の相撲遊びである。
小さい子どもとの勝負事の遊びは、加減がなかなか難しい。本気で向かって負かせ続けてしまえば拗ねて泣くだろうし、子どもがずっと勝ち続けても、それはそれで面白くないのである。この句は絶妙なバランスで、最初に負けてあげて、次は自分が勝つ。
しかし、〈負けてやらざる〉には、徐々に本気になっていく大人の意地が見えてくるところが面白い。子どものためのサービスとしての遊びではなく、親子の両方が本気でこの場を楽しんでいるのだ。だんだんとヒートアップしていく、そのスイッチが切り替わる面白さがある。
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