2023年8月30日水曜日

西鶴ざんまい #48 浅沼璞


西鶴ざんまい #48
 
浅沼璞
 
 
 歌名所見に翁よび出し   打越
住替て不破の関やの瓦葺   前句
 小判拝める*時も有けり*  付句(通算30句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折、表8句目。雑(懐旧)。 小判=金貨のひとつ。一枚で一両。
*〈往古は小判珍しきこと、「慶長見聞集」巻六「其比(天正中)金一两見るは、今五百两千两見るよりもまれなり」〉(定本全集・頭注)
*平句の「けり」については番外篇11(http://hw02.blogspot.com/2022/10/11.html)に詳述。

【句意】かつては(珍しかった)小判を拝んだ時代もあったなぁ。
(自註には、病人が小判を拝む風習への言及もあり。)

【付け・転じ】打越・前句=阿古屋松の現況から不破の関の現況へ。前句・付句=不破の関の現況から懐旧(および病体)への転じ。
       
【自註】近年、世の人、それぞれに奢りて、衣食住の三つの外に十種香(じしゆがう)の会、楊弓(やうきう)のあそび、立花(りつくわ)、能はやし、面々の竈将軍*。我が広庭(ひろには)に御所車を拵へての遊楽も外よりとがむるなし。むかし、黄金(こがね)いたゞかせければ、大かたなる病ひはなほりける*、と也。
*竈(かまど)将軍=家の中だけで威張る主人(諺)
*「病人に小判の削屑を煎じて飲ませ、臨終の際小判を拝ます話あり」(定本全集・頭注)

【意訳】近ごろ世間の人は、それぞれ身分に応じて贅沢になって、衣食住という三つのほかに、お香の会を催したり、遊戯用の小弓に興じたり、生け花、お能とお囃子*。おのおの一家の主、自分の玄関先に牛車を誂えての遊楽も他人にとやかく言われることはない。むかしは黄金を頂かせれば、たいがいの病気は治ったということである。
*贅沢の具体例については『西鶴織留』(1694年)に類似の記述あり。

【三工程】
(前句)住替て不破の関やの瓦葺

むかしの事の懐かしきかな 〔見込〕
  ↓
むかし小判の懐かしきかな 〔趣向〕
  ↓
小判拝める時も有けり   〔句作〕

前句「住替て」に懐旧の念を感じとり〔見込〕、どのような懐旧かと問いながら、小判が珍しかった時代に思いを馳せ〔趣向〕、「拝む」という行為に焦点を絞った(病人が小判を拝む風習も重ねつつ)〔句作〕。


 
自註のラスト、病人が小判を拝む風習って唐突な感じがしますけど。
 
「住み替ってな、瓦葺にするんは衣食住のうちやけど、香や弓、お花やお能いうんは贅沢千万。そないして歳とって病になってな、漸う小判のありがたさが判るいうこっちゃ」
 
そういえば新編日本古典文学全集の注にも〈一般に黄金に延命の効果があると信じられていた〉と書かれてますね。
 
「そやろ。そやから千金丹・万金丹いうんやで」
 

2023年8月25日金曜日

●金曜日の川柳〔山本半竹〕樋口由紀子



樋口由紀子






台風はやっぱり外れた西瓜食う

山本半竹 (やまもと・はんちく) 1899~1976

昔は台風が来るというとその防備にたいへんだった。父は会社を早退してきたこともあった。窓に板を貼り付けたり、水を溜めたり、子どもは早くから寝床に入らされた。

「台風」と「西瓜」は夏の風物詩である。それを「やっぱり外れた」というなんとも言えないつぶやきで接続し、台風が外れたことを安堵する。天気予報も今ほど精巧ではなく、予報が外れることも多々あった。「やっぱり」だから、たぶん来ないだろうと思っていても、万が一のために備えていた。しかし、ムシムシとした暑さは残る。よく冷えた西瓜は美味しいけれど、一雨も欲しい。『はんちく』(『はんちく』刊行会 1977年刊)所収。

2023年8月21日月曜日

●月曜日の一句〔仲寒蟬〕相子智恵



相子智恵






野分雲神の垂れ目がのぞきけり  仲 寒蟬

句集『全山落葉』(2023.7 ふらんす堂)所収

野分は秋の暴風のことで主に台風の風を指すが、台風よりもはるかに古い言葉だ。10世紀前後の『敦忠集』の和歌にも出てくる。天気図や衛星写真を見ることのできる現代とは違い、台風の正体を知らなかった昔の人々にとって、野分は、ただただ野の草を分けて吹き荒れる理不尽な暴風であったことだろう。

掲句は、台風の正体を知った後の我々が描く野分の句として興味深い。台風の雲の渦にはいわゆる「目」があるという科学的な見方が、〈神の垂れ目がのぞきけり〉のイメージには重ねられている。衛星で雲を上から見下ろせる私たちが、神の目よりもはるかに上空からの視点を内蔵しながら、その雲を〈野分雲〉として地上から見上げている。上からと下からの視点の混在と、野分と台風という新旧の感覚の混在の面白さ。

それにしても、ただの概念的な「神の目」にしなかった、この〈垂れ目〉のぶよぶよとした現実味と、〈のぞきけり〉の薄気味悪さがいい。台風の様子を上空から観察できるからといって、私たちはその威力からは逃れられない。その不気味さ、抗えない大きさを感じさせてくれる。

2023年8月18日金曜日

●金曜日の川柳〔金築雨学〕樋口由紀子



樋口由紀子






妻の実家で縄跳びをして過ごす

金築雨学 (かねつき・うがく) 1941~2020

お盆の帰省かなにかで妻の実家に来ていて、妻は久しぶりに会った両親や兄弟と楽しそうにしている。子ども頃の話や夫の知らない親族の話など、家の中はにぎやかで、ときおり大きな笑い声も聞こえてくる。しかし、夫は庭で縄跳びをしている。話に入れないし、邪魔をしてもいけない。夫の心情をなんとなく伝えている。

まだまだ強い男が幅をきかせていた時代に、図式的な夫像を反転させた。こんなことはまずないという前提に立ち、それを逆手にとって、新しいキャラクターの夫を作り上げた。不器用でやさしい夫は徐々に人気を博してくる。『川柳作家全集 金築雨学』(新葉館出版刊 2009年)所収。

2023年8月16日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇16 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇16
 
浅沼璞
 

文学史的には町人作家と言われる西鶴ですが、そんな彼と縁の深い展示が三井記念美術館(日本橋)で開催中です。
 
越後屋開業350年記念特別展「三井高利と越後屋」―三井家創業期の事業と文化―
 
会期は6/28~8/31ということで、猛暑のなか、足を運んでみました。


図録の章立てを参考に展示を分類すると――
Ⅰ 黎明期の人々と遺愛品
Ⅱ 創業期の歴史と事業
Ⅲ 享保~元文年間の茶道具収集
Ⅳ 三井家と神々
という感じです。


Ⅰで愚生の目をひいたのは『釘抜(くぎぬき)越後屋店頭之図』。

三井の暖簾印といえばあの「丸に井桁三」が浮かびますが、江戸本町で開業の頃は「違い釘抜紋」だったようで、その暖簾印のある黎明期の店頭風景が描かれています。


Ⅱには『江戸京都浪花三店(さんたな)絵図』というのがあり、タイトルどおり三都(江戸・京都・大坂)の越後屋の外観が一幅一店舗ずつ描かれています。
 
江戸店は駿河町(今の日本橋)に移転後のもので、呉服店と両替店が向かい合った先には雄大な富士山が描かれています。その江戸と大坂(浪花)では今につながる「丸に井桁三」の大暖簾がかけられているのですが、京の本店(ほんだな)は無地の大暖簾で一見地味な印象を受けます。とはいえ本店の絵画はほとんど残っておらず、貴重な一幅とのこと。


またⅡには西鶴の版本『日本永代蔵』もありました。
 
巻一から六まで全6冊が展示され、2代目高平を描いた巻一ノ四「昔は掛算(=掛け売り)今は当座銀(=現金売り)」のページが見開きで置かれていました。
 
ツケが当たり前の時代に「現金、切り売り、掛値なし」のデパート商法を導入したのが2代目高平でした。西鶴はそのモデル小説を書いたわけです。
 
〈三井九郎衛右門*といふ男、手金の光り(=所持金の威力)、むかし小判の駿河町といふ所に、おもて九間に四十間(≒16mに72m)に、棟高く長屋作りして、新棚を出だし、よろづ現銀売りに掛値なしと相定め……〉*正しくは八郎右衛門高平。


Ⅲを飛ばしてⅣでは隅田川東岸、向島の三囲(みめぐり)神社に関する資料が目をひきました。三囲神社は越後屋(駿河町)からみて鬼門除けの位置にあり、三井家の信仰対象となったようです。
 
まずは西鶴と親交のあった宝井其角の、その有名な雨乞いの句短冊に目をとめました。
 
夕立や田を見めぐりの神ならば
(旱が続いているが、田を見めぐるという名の神なら、夕立を降らせてくれよう)
 
これを詠んだ翌日、じっさい降雨となり、その評判からパワースポットになったとの由。それかあらぬか隅田川沿いの寺社や古跡を描いた絵地図の摺物の、その三囲稲荷の下には其角の発句が多行形式で引き写されていました(こちらは「田も」の句形でしたが)。
 
むろん周囲に描かれているのは文字どおり田んぼばかりの風景です。


残暑厳しき折、江戸の風に吹かれてみるのもまた一興かと。

2023年8月11日金曜日

●金曜日の川柳〔草地豊子〕樋口由紀子



樋口由紀子






ちゅうちゅうアイス今日は八月十五日

草地豊子 (くさち・とよこ) 1945~

暑いのでちゅうちゅうアイスを吸っている。今日は八月十五日。「八月十五日」が持っている重みが「ちゅうちゅうアイス」の甘さと冷たさと重なり、照らし出す、と、なんとか辻褄を合わせて心情的に読んでみようとしたが、軽くいなされる。しいて結びつけるなら、ふつうに生活できることのありがたさだろうか

「今日は八月十五日」と並べた「ちゅうちゅうアイス」は迫力がある。はぐらかされながら、はっきり見えないもやもやが立ち上がってくる。意図しないような演出がもっとも意図的な演出になる。『セレクション柳人 草地豊子集』(邑書林 2009年刊)

2023年8月7日月曜日

●月曜日の一句〔山口昭男〕相子智恵



相子智恵






とくとくと犬の心臓村昼寝  山口昭男

句集『礫』(2023.6 ふらんす堂)所収

犬の心臓がトクトクと脈打っている。抱いているのか、腹を撫でているのか、手や体越しに鼓動が伝わっているのだろう。

ここで場面は〈村昼寝〉と大きく転じる。一村が皆昼寝をしているような静かな午後のひとときだ。農作業や漁業が主な生業の村ならば、皆がほぼ同じスケジュールで仕事をするだろうから、この〈村昼寝〉の大づかみな把握もよくわかる。ここまで読んで、犬も寝ているのかもしれないなと思った。そうすると、作者もまた犬のそばで横になっているのかもしれない。

犬の心臓の音という小さい世界から、〈村昼寝〉という思いがけない大きな下五への展開。その下五によって、例えば犬の種類や描かれない人々の様子までが想像され、場面がきっちり再設定されてくる見事さ。展開が鮮やかな一句である。

2023年8月2日水曜日

西鶴ざんまい #47 浅沼璞


西鶴ざんまい #47
 
浅沼璞
 
 
覚えての夜とは契る冠台   打越
 歌名所見に翁よび出し    前句
住替て不破の関やの瓦葺   付句(通算29句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、表7句目。雑。 住替(すみかへ)=住む人が代替りして。*草の戸も住替る代ぞひなの家(芭蕉・おくのほそ道) 不破の関や=律令制下の関所。荒廃の趣を詠む歌枕。*秋風や藪も畑も不破の関(芭蕉・野ざらし紀行)

【句意】住む代が変わって不破の関屋も立派な瓦葺となった。

【付け・転じ】打越・前句=定家の恋の面影から実方の歌枕探訪に連想を広げた。前句・付句=阿古屋松の現況から不破の関の現況へと転じた。
       
【自註】古哥*にも不破の関屋の板びさしは軒端のあれて、月影のもりて侘しき宿のありさまを読み給へり。次第に栄えて、家作り都めきて*、女は琴、男は鼓の音の奥ぶかう聞えし。
*「人住まぬ不破の関屋の板廂荒れにし後はただ秋の風」(藤原良経・新古今集)
「秋風に不破の関屋の荒れまくも惜しからぬまで月ぞ洩り来る」(藤原信實・新後撰集)
*「昔、わら葺の所は、板びさしとなり、月もるといへば、不破の関屋も、今は、かはら葺に……都にかはる所なし。」(世間胸算用・巻五ノ一)

【意訳】古い歌でも、不破の関屋の板びさしが、年を経て荒れ果て、その軒端から月光がもれるという、侘しい宿の様子をお詠みになられた(歌人が幾人かいた)。それでも次第に復興し、家の作りも都風になり、女性は琴、男性は鼓の奥深い音を奏でるのが、家の奥の方から聞えてきた。

【三工程】
(前句)歌名所見に翁よび出し

代替る不破の関やのまた栄え 〔見込〕
  ↓
都めく不破の関やの家作り  〔趣向〕
  ↓
住替て不破の関やの瓦葺   〔句作〕

前句「歌名所」を不破の関とみて〔見込〕、現在はどのような有様かと問いながら、都風の家の作りに思いを定め〔趣向〕、瓦葺という題材に焦点を絞った〔句作〕。


 
前回は歌人つながり、今回は歌枕つながりで微妙にズレてますが、前句のウタマクラ5音を、おなじ5音のウタメイショと言い換えてるのはどうしてですか。
 
「なんやろな、……そんなん忘れたがな」
 
そういえば編集の若之氏のメールに〈「歌枕」だと打越の「寝㒵」にさわるからなのでしょうね〉とありましたが……。
 
「成程やな……流石やな。そーしとこか」