2014年5月30日金曜日
●金曜日の川柳〔菊地俊太郎〕樋口由紀子
樋口由紀子
あまり静かなので骨壺を揺する
菊地俊太郎 (きくち・しゅんたろう)
いくら静かでも骨壺は揺すらない。そんな気分のときは骨壺は視野に入れたくないものであり、というか、それよりも骨壺は揺するものではない。その一般的な発想をひっくりかえす。どきっとするほどの意外性があり、同時にぞくっとするほどのリアリティーがある。ありえることなのだ。それは「骨壺」の実在感のためであろう。骨壺になってしまった現実と、そこまでの時間軸を思う。死に向き合っている。屈折した表現に迫力がある。
菊地俊太郎とは何回か句会で会ったことがある。そのたびに発想の自由さと言葉の新鮮さに驚いた。彼の川柳には確かな手応えがあった。私の最も印象に残っている川柳人の一人である。寡黙な人だった。彼についての資料はほとんどない。
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2014年5月28日水曜日
●水曜日の一句〔塩野谷仁〕関悦史
関悦史
いつか爆ぜる石蹴りの石大西日 塩野谷 仁
石蹴り遊びは一人でも複数でもできるようだが、この句の場合は一人と見たほうがよさそうである。
蹴られる石のみに向きあい、感情移入するには他人の存在は少々邪魔だからだ。
自分の進む方向へ、遊びならではの無償の執着をもってひたすら石を見つめ、蹴り続けていく。その行為のうちに、いつかその特定の石との間に縁とも呼ぶべき内面的な関係が発生する。
だが爆発の予感は、必ずしも蹴る者の内面をそのまま反映したゆえのものではない。鬱憤に近い何かがないとも言いきれないが、「いつか」と時間的に距離を置かれ、「爆ぜよ」でも「爆ぜさせる」でもない「爆ぜる」という石自身を主格にした平叙文からも、観察者的な疎隔感がうかがえる。
そして「大西日」が、容易に蹴られてしまう程度の小石に、大自然の潜勢力をしみとおらせている。暑さ、そして自分の蹴る行為自体に煽り立てられる苛立たしさに似た感覚、さらに一日の終わりの没落感を帯びた中での小石への加虐。それらが蹴る者と石との結ぼれを形成しつつ、次第に石のポテンシャルを高めていく。
ただの何の気なしの遊びであったはずだ、石蹴りは。しかしその行為の蓄積は、やがて人生のいずれかの時点で、わが身に及ぶ危険に転ずるかもしれないものへと変化しつつある。そうした奇妙で予想外な因果律を予感させつつ、大西日がさしあたりは両者を包み、鎮める。
句集『私雨』(2014.5 角川学芸出版)所収。
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2014年5月26日月曜日
●月曜日の一句〔鈴木牛後〕相子智恵
相子智恵
夏草の焦点として山羊の尻 鈴木牛後
句集『暖色』(2014.5 マルコボ・コム)より。
〈夏草の焦点として〉からは、逆に焦点が定まらないほどに広い、夏の草原が思われてくる。青々とした一面の夏草の焦点となるのは、ひとところの草を無心に食んでいる山羊の後姿である。山羊は一頭か、あるいは数頭が広い草原に点々と尻を見せて草を食んでいるのかもしれない。夏草の緑の中で山羊を白い焦点とするのは、たいそう爽やかな風景である。
ただ、ここでは山羊というだけでなく、山羊の「尻」に焦点を定めたことで句に厚みと強さが出ている。一幅の風景画のような美しさを抜けて、ぐっと土臭さが出てくるのだ。
作者は北海道で牛飼いの仕事をしている。この風景も牛や山羊たちと一緒にいる普段の生活から生まれた句なのだろう。ほかにも印象的な夏の労働の句があった。〈働いてゐて炎帝に跨がるる〉〈裸ひとつこの地に捨つるため稼ぐ〉どちらも土や太陽とともにある労働の強さがあった。
〈緑蔭の動いて牛の動かざる〉時間の経過とともに日差しの向きがずれ、緑蔭は静かに動いていくのに、その下の牛はずっと動かずにいる。このどっしりとした牛の句もいい。
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2014年5月25日日曜日
2014年5月24日土曜日
2014年5月23日金曜日
●金曜日の川柳〔木原広志〕樋口由紀子
樋口由紀子
口あけたまんま歯医者が喋らせる
木原広志
出来れば行きたくない所の一つに歯科医院がある。実は今、奥歯に違和感があり、ときどきびりっと痛む。歯医者に行かねばと思いながら、なんとか行かずに治らないものかと思っている。
掲句は歯科医院での出来事をコミカルに捉えている。「どこが痛いですか」「がまんできますか」と言われても、口をあけたままでは思うように喋れない。その状態ではうまく喋れないことを歯科医は知っているのだろうか。それにその恰好はなんともあわれで、無防備で降参状態である。うまく返事が出来ないので、しかたなく、うなずくと歯医者は自分の治療にさも納得したようにどんどんと治療を続けていく。もう、どうにでもしてくれという心境になる。
誰でも経験したことのある、そうそうと思う場面をしっかりと押さえて、共感を誘っている。
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2014年5月21日水曜日
●水曜日の一句〔柳生正名〕関悦史
関悦史
打ち払ふ金蠅ときに海のいろ 柳生正名
言語芸術ならではのフィクション性というべきか、金蠅とありきたりの色名ではない「海のいろ」への飛躍との間に広がる距離が、ゆたかな何ものかを蔵している。
この句は穢くもけばけばしく光る金蠅の色つやを、単に美化して見せているわけではない。
海がたまたま金蠅の姿をとって身辺に不意に寄ってきたような、あるいは、生命が太古の海から発生したことを思えば、その進化の果てに金蠅と人に分かれたことの不可思議さを、金蠅自身は意識することもなく訴えかけてきているような、空間的なだけでも時間的なだけでもない隔たりと、その隔たりあればこその、ことさらの感情移入でも共感でもない、ドライな親密さとでもいうべきものを伴って、「海のいろ」は手の先に閃いているのである。
オクタビオ・パスに「波と暮らして」という、海の波が押し掛け女房のようにやってくる異類婚姻譚があるが、この句の「海のいろ」にはそうした人格性もなければ、描き方も寓意的ではなく、むしろ象徴的である。
「打ち払う」の素朴な肉感から発して瞬時に象徴性の高みへ駆け抜け、間然するところがない点、俳句という形式の特長を十全に生かした句といえる。
句集『風媒』(2014.4 ウエップ)所収。
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2014年5月19日月曜日
●月曜日の一句〔石嶌岳〕相子智恵
相子智恵
観音もマリアも腕ほそき夏 石嶌 岳
合同句集『搭』第九集「雪の音」(2013.12 梅里書房)より。
観音の性別は本来男性であったと考えられているが、後に「慈母観音」などの信仰から女性と見る向きが増え、そのうち性別は無いものとして捉えられたようだ。女性らしい細い体つきと、柔和な表情の印象は誰もが持つところである。だから観音とマリアの腕の細さを並べられて、すっと腑に落ちるところがあった。両者の細く白い腕には涼しさがあり、すべてを受け入れる優しさがある。
投げ込むように取り合わせた〈夏〉という暑くて意気盛んな季節を、すっと受け止める涼しい腕。一見、その頼りない細さは夏負けしそうだが、猛者のような季節をしなやかに包み込むのだろう。一瞬の涼しさを感じる句だ。
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2014年5月16日金曜日
●金曜日の川柳〔大久保真澄〕樋口由紀子
樋口由紀子
ふる里は戦争放棄した日本
大久保真澄 (おおくぼ・ますみ) 1949~
第4回高田寄生木賞の大賞受賞作品である。日本国憲法第9条には戦争を放棄すると明記してある。作者は「国ではなく国民に対する愛を感じて、誇れる宝だと思います」と受賞の言葉で述べている。
あまりにもストレートな物言いであるが、今の日本はそれをわざわざ言わなくてはならないほどの状況に追い込まれている。「誇れる宝」が危うくなってきているのだ。「ふる里」には心情と真意が複雑に込められている。
掲句を特選にした渡辺隆夫は「この句には川柳の使命のようなものがギュッと濃縮されている」と書き、同じく特選に推した野沢省悟は「忘れ去られる時事句ではなく、今後ますます重量を持って行く作品になる」と選評にそれぞれ書いている。「触光」37号(2014年刊)収録。
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2014年5月14日水曜日
●水曜日の一句〔大石悦子〕関悦史
関悦史
蟬茸のあはれ紅さすひとところ 大石悦子
俳句に画像や映像を付けるのは難しい。
言葉、ことに聴覚映像の組織体としての俳句を、じっさいの映像がしばしば狭めつつ圧倒し、破壊してしまうからである。
そんなことを思ったのも、セミタケという筆者個人にはあまり身近でないモチーフの姿を確認するために画像検索をかけてしまったからなのだが、個体差があるとはいえ、どこか一ヶ所が紅いというよりは一様に紅らんでいるものが少なくないようだ。ものによっては、地上に出た部分や節くれだった部分で色合いが濃くなっていたりもする。いずれにしてもセミの幼虫を取り殺してそこから伸びだす菌類の姿は、まことにグロテスクである。
そしてそのグロテスクで強烈な画像は、この句の隣に置くには、ことにふさわしくない。短歌的な「あはれ」の詠嘆が掻き消されてしまうからだ。
同じ句集に《亀鳴くや詠ふとは虚に遊ぶこと》《天牛をすこし苛めて放ちけり》という句も入っているのだが、この作者にとっての虚とは、あからさまなで粗大な虚構や観念ではなく、実際の画像・映像を封じつつ、事物を言葉で「すこし苛めて」は「放つ」遊びの中にひらめくものなのだろう。その心弾みは実際のセミタケの紅さから来るのではない。カミキリムシを苛めるとき、カミキリムシと人とが有機的にぬきさししあう或る機械のようなものを形成するように、言葉と作者との有機的にかかわりあう中から発生するものなのだ。
句集『有情』(2013.12 角川書店)所収。
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2014年5月13日火曜日
2014年5月12日月曜日
●月曜日の一句〔若井新一〕相子智恵
2014年5月11日日曜日
●週俳の記事募集
週俳の記事募集
小誌「週刊俳句が読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。
長短ご随意、硬軟ご随意。お問い合わせ・寄稿はこちらまで。
【記事例】
●句集を読む ≫過去記事
最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。
「句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。
●俳誌を読む ≫過去記事
俳句総合誌、結社誌から同人誌まで。必ずしも内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。
そのほか、どんな企画も、ご連絡いただければ幸いです。
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2014年5月9日金曜日
●金曜日の川柳〔真鍋心平太〕樋口由紀子
樋口由紀子
ほんものの息子は電話してこない
真鍋心平太
思わず笑ってしまった。そして、笑ったあとにしんみりとした。これは川柳の要所である。
「オレオレ」とにせものの息子は電話してくるご時世なのに、実の息子からはとんと連絡がない、というのはよく聞く話。我が家ご多分にもれず、娘はうんともすんとも言ってこない。いやはや、である。便りのないのは良い便りと思うしかない。
「ほんもの」のひらがな表記がいい。あやふやさ、よりどころのなさ、やわらかさ、もろさ、つかまえどころのなさなど、すべてを含んでいるような気がする。
実際に被害に遭って、えらい目にあっている人がいるのに、詐欺に感心してはいけないが、オレオレ詐欺を最初に考えた人にはびっくりする。人の心情をあきれるぐらい逆手にとっている。この智恵を人のものを奪うことで生かすのではなく、他のことで使ってほしかった。
「川柳瓦版」(平成26年度第一回「咲くやこの花賞」)。「川柳瓦版」は岸本水府が昭和34年に創刊した時事川柳専門誌である。
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2014年5月8日木曜日
【俳誌拝読】『みつまめ』その四粒目(2014年立夏号)
【俳誌拝読】
『みつまめ』その四粒目(2014年立夏号)
A6判、てのひらサイズの俳誌。本文16頁。
朽ちた門あければ鷗やがて海 西村 遼
菜の花の水辺あかるき屋形船 梅津志保
守宮ゐて花は眠るか眠らぬか 井上雪子
(西原天気・記)
『みつまめ』その四粒目(2014年立夏号)
A6判、てのひらサイズの俳誌。本文16頁。
朽ちた門あければ鷗やがて海 西村 遼
菜の花の水辺あかるき屋形船 梅津志保
守宮ゐて花は眠るか眠らぬか 井上雪子
(西原天気・記)
2014年5月6日火曜日
●ピアノ〔続〕
ピアノ〔続〕
ピアノ連弾大小の瓢箪生る 林翔
裏町よりピアノを運ぶ癌の父 寺山修司
蟻の寄るグランドピアノたる私 関悦史〔*〕
吊るされて切り岸を呼ぶピアノかな 九堂夜想〔*〕
手をふれてピアノつめたき五月かな 木下夕爾
過去記事:ピアノ
≫http://hw02.blogspot.jp/2012/12/blog-post_19.html
〔*〕『新撰21』(2009年12月・邑書林)より
ピアノ連弾大小の瓢箪生る 林翔
裏町よりピアノを運ぶ癌の父 寺山修司
蟻の寄るグランドピアノたる私 関悦史〔*〕
吊るされて切り岸を呼ぶピアノかな 九堂夜想〔*〕
手をふれてピアノつめたき五月かな 木下夕爾
過去記事:ピアノ
≫http://hw02.blogspot.jp/2012/12/blog-post_19.html
〔*〕『新撰21』(2009年12月・邑書林)より
2014年5月5日月曜日
●月曜日の一句〔筑紫磐井〕相子智恵
相子智恵
持ちぬしの分からぬ荷物われは持つ 筑紫磐井
句集『我が時代 ― 二〇〇四~二〇一三 ―〈第一部・第二部〉』(2014.3 実業公報社)より。
筑紫磐井という俳人が俳句に向かうときの姿勢とは、この句のようなものではないだろうかと思った一句。
「〈持ちぬしの分からぬ荷物〉を誰かに手渡す使命感のために自分は動いていて、でもそれは自分の意志であるから、何のためにと問われれば〈持ちぬしの分からぬ荷物〉のためでもあるし、自分のためでもある」というのは「ある時代を超えてきた者」にしか感じられないことかもしれない。それは年齢に関係なく、たとえば私よりも若いオリンピック選手が引退するときの「今後はこのスポーツの発展のために力を活かしたい」という言葉もそうだろうし、俳句甲子園のOB・OGが同イベントのために喜んで力を尽くすのもそうであろうし、結社の主宰を引き継ぐ……などもこういうことだろう。
作者にとっては〈持ちぬしの分からぬ荷物〉とは俳句であるし、短詩型文学だ。そして「なぜか知らないけれど、私も持ってしまった」という、別の者がいつか出てきてそれを受け取る。こうして〈持ちぬしの分からぬ荷物〉は引き渡されていく。
「60兆もの細胞は種を残すという目的のために動いている」という“人体”にも似て、〈持ちぬしの分からぬ荷物〉をなぜかしら持ってしまった者が、それを引き継がずにおられないのは、人間に組み込まれた本能のようなものかもしれない。
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2014年5月3日土曜日
2014年5月2日金曜日
●金曜日の川柳〔芳賀弥市〕樋口由紀子
樋口由紀子
大声を出して柿の木植えている
芳賀弥市 (はが・やいち) 1920~1998
何やら騒がしいので、なにごとかと、声のする方を見てみると柿の木の移植が行われていた。柿の木の成木を運んで、穴を掘って、木を植えて、土を盛り、男たちが共同作業している。
「植えている」だから、作者自らが行ったことを詠んでいるとも読める。しかし、私は大声が聞こえてきた、そこだけにスポットが当たり、一瞬異世界のように作者が感じたと読んだ。
確認するため、緊張を解くための大声だが、なんとも力強く、現実の出来事でありながら、現実ではないもうひとつの場所のような気もしたのだろう。木の移植が終わったら、また何事もなかった静かな日常が戻る。秋には柿の実が稔る。
昔は餅つき、棟上げなど大勢で力を合わせてする行事がたくさんあり、人とのつながりが密であり、活気があった。
〈行末が見えてえんじもむらさきも〉〈戦争や性器の高さにあるテレビ〉〈声を殺して種なしぶどう食べている〉〈雲の形になっていく ばか〉
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