2021年9月29日水曜日

●西鶴ざんまい #16 浅沼璞


西鶴ざんまい #16
 
浅沼璞
 

 秘伝のけぶり篭むる妙薬    六句目(打越)
肝心の軍の指南に利をせめて   七句目(前句)
 子どもに懲らす窓の雪の夜   八句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
いつもどおり「三句目のはなれ」の吟味にかかります。
 
まず前句が付いたことにより、「妙薬」は「火薬」へと取り成され、武士の眼差しが確定しました。で付句では「指南」の対象を我が子に限定し、そうすることによって武士の眼差しに親の目線を重ねました。つまり武士の眼差しは残しながら、親の視点を付加したわけです。このような重層的なシフトチェンジもあり、というわけです。
 
しかも表層テキストにおいて打ち越すという轍を踏むことも、今回は免れているようです。安堵、安堵。

 
さてこれで百韻の序段がようやく終わりましたが、前回に引きつづき確認しておきたいことがあります。
 
前回、故事付けに関しては大目に見ましたが、神祇・釈教・恋・無常・固有名詞を代表とする表のタブーには、ほかに病体や闘争などもあります。
 
なので六句目の「妙薬」や七句目の「軍の指南」などは障らないのか、気になるところです。

 
で、蕉門系の俳書ながら『貞享式海印録』(曲斎、1859年)を繙くと、ありました、ありました。「表ニ惜シマ不ル物」つまり表の許容範囲として、「医薬」や「軽軍事」の項目がありました。【注】
 
黒焼きの妙薬や狼煙の兵法などは、「医薬」や「軽軍事」の範疇に十分おさまるでしょう。納得、納得。
 
「談林くずれや思うてナメたらあかん。わてかて宗匠や。俳書も仰山書いとるでぇ。そら老いのせいで、表層ナンチャラの障りくらい偶々あったかもしれへんけどな」
 
はい表層ナンチャラ、裏に続出しそうでビビッてます。

 
【注】表の禁忌に関しては、一般的に「表ニ嫌フ」と言いますが、蕉門系俳書では「表ニ惜シム」と記されています。これは表に出すのを嫌うのではなく、表では出し惜しみ、裏で「派手を尽くさん」の趣旨があるようです(井本農一・今泉準一『連句読本』参照)。

2021年9月20日月曜日

●月曜日の一句〔北山順〕相子智恵



相子智恵







月の客電柱数へつつ帰る  北山順

句集『ふとノイズ』(2021.7 現代俳句協会)所載

この月見の客は自分のことなのだろうと思った。〈月の客〉の”ハレ”に比べて〈電柱数へつつ帰る〉が、あまりにも”ケ”で、その落差に脱力し、妙な虚しさになんだか笑ってしまう。

みんなで月見を楽しんだ後の、ひとりの帰り道。やや見飽きた月を見上げながら、月の宴で友人らと話したことなどをぼんやりと反芻しながら帰っているのだろう。月の前には、電柱。気づけば月からは目が離れ、電柱の数を数えながら帰っていた。

現代のあわれが描かれていて、今の雪月花というのは、案外こんな感じなのかもしれないなと思う。

2021年9月17日金曜日

●金曜日の川柳〔佐藤幸一〕樋口由紀子



樋口由紀子






インパラの跳ねる月夜に出てみぬか

佐藤幸一(さとう・こういち)

月夜はウサギだと思っていた。しかし、掲句は「インパラ」。インパラはウシ科の哺乳類でアフリカの草原に群れを作って生活している。ウサギより大きく、雄はねじれた角を持っている。「インパラ」にしたところに反骨精神を感じる。誰に向かって「出てみぬか」と言っているだろうか。自分自身だろうか。「出てみぬか」に親近感と迫真性がある。

「インパラの跳ねる」、それも「月夜」が現出し、言葉でまぼろしをみる。「跳ねる」「出て」の動きも視野が拡張していくような感覚になる。この二つの事柄の組み合わせが響き合い、そこは別の世界と繋がっているような雰囲気を醸し出している。

2021年9月15日水曜日

●西鶴ざんまい #15 浅沼璞


西鶴ざんまい #15
 
浅沼璞
 

肝心の軍の指南に利をせめて    西鶴(七句目)
 子どもに懲らす窓の雪の夜     仝(八句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
八句目は懐紙でいえば初折の端の句になるので、折端(おりはし)と呼びます。
 
四句目より雑が続きましたが、ここで冬(雪)の句となります。

 
 
句意は「我が子にスパルタ教育する窓の雪明りの夜」といった感じでしょうか。

前句の「指南」の対象を我が子に限定しての付けです。
 
(下七には「蛍雪の功」の故事がかけてあるようです。)

 
自註を引くと――俗言に「いとしき子には旅をさせよ」といへり。若年より其身をかためずしては、自然の時の達者、成(なり)難し。是によつて、かたい親仁が氷をくだきて手水につかはせ、寒夜の薄着をならはせける――。

今でも「かわいい子には旅をさせよ」と言いますね。
 
「自然の時の達者」というのは「不慮の際に発揮する能力」のこと。
 
「かため」「かたい」「氷」はもちろん縁語です。

よって自註を意訳すると、――若い時から心身を整えなければ、万が一の時、能力を発揮できない。だから氷のように厳格な親父は氷を砕いて手や顔を洗わせ、寒夜の薄着を伝授するのである――てな感じです。

 
では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。
 
いとしき子とて氷の親仁  〔第1形態=氷の親仁くん〕
    ↓
 子どもに懲らす窓の雪の夜 〔最終形態=窓の雪さん〕
 
前句「利をせめて」(≒理詰めで戦法を伝授して)から「氷の親仁」へ。その氷(冬)から「窓の雪」へ、という想定です。

 
さて、ここまでの表(おもて)八句が序破急の序段。
 
俳書によっては「蛍雪の功」のような故事付けを序段に嫌うものもありますが、俗語わけても俚諺好きの鶴翁にそれを言うのは野暮というものでしょう。
 
「そやで、粋(すい)らしき事言うてくれるな」
 
はい、でもほかに二つ、気になる箇所が……。
 
「……」
 
またまた気配消して、あの政治屋、マネてません?

2021年9月12日日曜日

【新刊】『人工知能が俳句を詠む: AI一茶くんの挑戦』

【新刊】
『人工知能が俳句を詠む: AI一茶くんの挑戦』

川村秀憲、山下倫央、横山想一郎著/2021年7月/オーム社

2021年9月11日土曜日

【新刊】谷口智行『窮鳥のこゑ 熊野、魂の系譜 3』

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谷口智行『窮鳥のこゑ 熊野、魂の系譜 3』

2021年8月1日/書肆アルス


2021年9月10日金曜日

●金曜日の川柳〔松永千秋〕樋口由紀子



樋口由紀子






昨日死んだと言い張っている女の子

松永千秋 (まつなが・ちあき) 1949~

ホラーでもオカルトでもなく、そんな面倒くさい「女の子」を実際に見たのだろう。昨日死んだのなら今日はもうこの世に居ないのに、「ほんとに昨日死んだんだから」といつまでも言い張る。理屈もへったくれもなく、決して譲らない。「言い張っている」の必死さが目に浮かんできそうである。

私にも「女の子」のときがあり、辻褄の合わないことを言い張ったときがあった。作者もすでに「女の子」ではない。もうそこには戻れない。きっとなつかしく、眩しかったのだろう。「女の子」という小さな存在が大人の心に波状していく。「男の子」だったらどうなのかとふと思った。

2021年9月6日月曜日

●月曜日の一句〔若井新一〕相子智恵



相子智恵







鮭打ちの往生棒を振り上ぐる  若井新一

句集『風雪』(2021.5 角川文化振興財団)所載

産卵のために川をさかのぼってきた鮭を浅瀬で待ち、棒で叩いて仕留める鮭打ち漁。今まさに棒を振り上げて、鮭を打ち殺そうとする瞬間が描かれている。

鮭を打つ棒は〈往生棒〉というのだ。実に直截的な命名だな、と思う。せめて往生してほしいという思いには、哀れと残酷と滑稽味が入り混じる。素朴な漁と道具の名前は、飽食の時代の私たちに、命を食べねば生きられないという大原則を改めて突きつける。

大口を四角にひらき鮭のぼる

本書には魅力的な鮭の句が他にもある。鮭の口はまさに四角形という感じがして、〈大口〉に必死な様子が伝わる。この必死な鮭を往生棒で叩き殺して、いただくのである。

2021年9月3日金曜日

●金曜日の川柳〔小島祝平〕樋口由紀子



樋口由紀子






全国の皆様ひとり歯を磨き

小島祝平 (こじま・しゅくへい)

「全国の皆様」とまるで呼びかけのようなかたちで一句が始まる。何かと思えば「歯を磨き」である。拍子抜けしてしまう。これが狙いなのだろう。舞台は自宅の洗面所。歯磨きはもともと一人でするものであるから、「ひとり」とわざわざ書いているのは独居なのかもしれない。なにをしても、なにを食べても、あるいは倒れていてもひとり、誰も居ない。だからあえて、今朝も元気にいつも通りに歯を磨いていますよと、呼びかけてアプローチしているのだろう。

「皆様」と「ひとり」の対比が際立ち、「全国の皆様」と「ひとり」の私の関係性や隔たりを感じ取ることができる。道化的な趣きが色濃くあり、侘しさと可笑しさで、歯磨き粉の匂いが鼻につんときて、しんみりする。