2024年10月30日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇24 浅沼璞



西鶴ざんまい 番外篇24
 
浅沼璞
 
 
『西鶴独吟百韻自註絵巻』の注釈もようやく半分の五十韻を終えました。

ここまで佐藤勝明氏考案の三工程を、第一形態~最終形態として想定してきました。そのあらましを図示すると――

[第一形態]前句への理解である「見込」
[第二形態]見込に問いかけ、何を取り上げるかを決める「趣向」
[最終形態]実際に素材・表現を選んで整える「句作」
 
 
この工程を試行錯誤するうち、気づいたことが二点あります。
 
ひとつは西鶴自註の文言や文脈をサンプリングするとうまく収まるということ。今ひとつは[第一形態]の「見込」が、新たな見立て(見立て替えによる転じ)になっているケースがことのほか多いということです。以下、詳述します。
 
 
まず西鶴自註――これまで意訳してきたように(浮世草子作家らしく)さまざまなパターンで書かれており、必ずしも三工程を順にたどれるケースが多いわけではありません。ありませんが、各工程の断片と思われる語句なり、文脈なりが散りばめられており、それをうまくサンプリングすれば三工程を再構築できることは否定できません。これは取りも直さず西鶴が潜在的に三工程を駆使していた証左ではないでしょうか。これまで〈自註と連句作品との落差を埋める過程〉として意識化してきた三工程を、より具体的に顕在化していけそうです。
 
 
つぎに見立て(見立て替えによる転じ)――たとえば50句目で見たような、生魚に執着する出家者の「覚束なさ」を、碁に執着する「覚束なさ」に見立て替え〔見込〕、そこから時間切れの勝負の場へと飛ばす〔句作〕といった工程を、これまであれこれ吟味してきました。
 
この見込から句作への飛躍こそが蕉風を含めた元禄疎句体の特徴であって、それを本稿ではことさら強調してきました。けれど西鶴の場合、その飛躍は「見立て替え」という談林仕込みの自在なジャンプ台〔見込〕あってのものだったと改めて気づかされた次第です。
 
(それかあらぬか佐藤勝明氏も、芭蕉の「見込」のその深く正確な点に着目しています。――『江古田文学』113号「特集・連句入門」)
 

ところでこの見立て、古くて新しい手法と言ってもよく、最近ではミニチュア写真家/見立て作家の田中達也氏の活躍が注目されています。連続テレビ小説「ひよっこ」のタイトルバックで一躍名の知れた田中氏ですが、その言説はとても示唆的で、西鶴ひいては連句の「見立て替え」の可能性を現在進行形で明示しているように思われます。

たとえば岩山に見立てた唐揚げを木々の紅葉に見立て替えたり、雪山に見立てたシュークリームをウエディングドレスのスカートに見立て替えたり、その発想は極めて柔軟で俳諧的です。

しかも田中氏はこうした見立て替えの発想が、人間の選択肢を増やし、人生を豊かにするとお考えのようです。これは正に西鶴的な発想というほかありません。

田中氏の転じ(展示)に触発されつつ、後半の五十韻にのぞみたく思います。

参照した田中氏の発言↓
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240916/k10014578241000.html?s=03

参観した田中氏の展示↓
【プレビュー】「横浜髙島屋 開店65周年記念 MINIATURE LIFE展2 ―田中達也 見立ての世界―」9月11日(水)から横浜髙島屋で – 美術展ナビ (artexhibition.jp)
 

2024年10月28日月曜日

●月曜日の一句〔仲寒蟬〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




村よりも明るきバスや虫時雨  仲寒蟬

夜間のバスは街で見てもたいそう明るい。光を満載して走行/停車するかのように。

窓明かりも街灯もまばらな《村》ならなおさらだろう。それにまた、乗客が少なければ、バスの明るさがいっそう際立つ。

前半のくっきりとした視覚から、下五の聴覚へ。順当な設え。

掲句は仲寒蟬『全山落葉』(2023年7月/ふらんす堂)より。

2024年10月26日土曜日

〔人名さん〕みうらじゅん

〔人名さん〕みうらじゅん

この秋の風鈴ひとりゐみうらじゅん  宮﨑莉々香

『オルガン』第38号・2024年9月15日

2024年10月25日金曜日

●金曜日の川柳〔岸本水府〕樋口由紀子



樋口由紀子





うたた寝が起きてうたた寝叱りつけ

岸本水府(きしもと・すいふ)1892~1965

うたた寝Aとうたた寝Bがともにうたた寝をしている。そこはうたた寝をしていけないところ、たとえば、店番とか、観劇とか、でも、退屈で、暇だし、ついうとうとしてしまった。うたた寝Aがしまったと思って、あわてて目をあけると、なんとうたた寝Bがうとうとしている。うたた寝Aはうたた寝などしていないふりをして、うたた寝Bを「おい」と起こして、叱りつける。

岸本水府の川柳はなんといっても言葉運びが上手い。落語の一場面のような軽快さがあり、その語り口はぽんぽんぽんとテンポが心地よい。機知に富んだ、軽みの川柳の見本のようである。

2024年10月21日月曜日

●月曜日の一句〔矢野玲奈〕相子智恵



相子智恵






虫籠を虫籠らしく土と枝  矢野玲奈

句集『薔薇園を出て』(2024.8 ティ・エム・ケイ出版部)所収

これは昔ながらの風情ある竹細工の虫籠ではなく、現代のプラスチックの透明な虫籠、いわゆる「飼育ケース」だろう。買ってきたばかりの状態は、いかにも無味乾燥だ。そこにふかふかの腐葉土と、どこかから拾ってきた枝を入れて、ようやく虫籠らしくなるのである。現代の都会の虫籠のリアルな姿が面白い。

この虫籠で飼うのは鈴虫だろうか。胡瓜などもエサとして入れているかもしれない。本句集には、

  保育園へは鈴虫に会ひに行く

という句もあって、この句も何気ないけれど現代らしい一コマである。都会では自然に鈴虫の声を聴くことは、もはや、なかなかかなわないものだから、保育園で飼育ケースに入れて飼っているのだ。子どもにとって珍しい鈴虫は、友達同様に〈会ひに行く〉存在。送り迎えをする親にとっても、もはや鈴虫は〈会ひに行く〉だったりするのだ。

 

2024年10月18日金曜日

●金曜日の川柳〔藤田晉一〕樋口由紀子



樋口由紀子





ただ一つ似てくれたのは親不孝

藤田晉一(ふじた・しんいち)1957~

「ただ一つ」といきなり特別感を出してくる。次に「似てくれたのは」と好奇心をくすぐり、それは一体なになのかと読み手の興味をぐっと引っ張る。そして、最後に「親不孝」とすとんと落とす。川柳の見本のような一句である。

「てくれた」はそれによって恩恵や利益を受けることだが、大阪弁でよく使う。嘆きたいこともぼやきたいことも悔やむことも言い訳したいことも、くどくど言いたいことは山ほどある。しかし、それらはすべて胸の内にしまって、「そうそう、うちも」という共感を引き出して、潔く退場する。「よみうり柳壇」(2024年刊)収録。

2024年10月16日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇23 浅沼璞



西鶴ざんまい 番外篇23
 
浅沼璞
 
 
物議をかもした「大吉原展」(東京藝大美術館)のルポでもふれた英一蝶ですが、現在その回顧展(サントリー美術館)が開催中(9/18~11/10)です。
 
 
没後300年記念ということで、まさに西鶴とは同時代人。というだけでなく、西鶴が絵も描いた俳諧師なら、一蝶は俳諧も嗜んだ絵師。西鶴が上方遊郭の幇間なら、一蝶は江戸吉原の幇間。さらに共通の友人が宝井其角とくれば、交流があって然るべき二人ですが、残念ながら書簡等は見つかっておらず霧の中。本展でも二人の交流に関する資料は皆無でしたが、大判250頁ほどの図録を紐解きつつ、西鶴作品との関連を探ってみたいと思います(以下、展示の作品番号を付す)。
 
 
10.四条河原納涼図(しでうがはらなふりやうづ)
 
山鉾巡行で有名な祇園会(八坂神社の祭礼)の始まる陰暦6/7から18日まで、京の四条では川涼みが恒例になっていました。河原だけでなく鴨川の流れの上にまで涼み床が設けられ、月下、夕涼みする男女を一蝶も描いています。
 
いっぽう西鶴は西鶴らしく女性のファッションに焦点を絞り、こう描きました。
〈所せきなき涼み床にゆたかなる女まじり、いづれかいやなる風儀はひとりもなく、目に正月をさせて、……色々の模様好み、素人目(しろとめ)にはあだに見るらん〉
『男色大鑑』巻八ノ一
 
 
14.奈良木辻之図(ならきつじのづ)
 
今回あらたに確認されたという初期の遊里図――奈良にあった木辻遊郭に取材した作品で、一蝶は郭内に鹿を二匹描きこんでいます。
 
西鶴もまた鹿の発情期にふれた後、作中人物に木辻の所自慢をさせていました。
〈こゝこそ名にふれし木辻町、北は鳴川(なるかは)と申して、おそらくよね(遊女)の風俗、都にはぢぬ撥おと、竹格子の内に面影見ずにはかへらまじ〉
『好色一代男』巻二ノ四
 
19.乗合船図(のりあひぶねづ)
老若男女を乗せた一艘の船が、今まさに岸を離れようとしている図です。「雨宿り図」とならんで、一蝶作品では人気の画題であったようです。
 
さるほどに西鶴作品でもしばしば乗合船が描かれました。
〈夜の下り船、旅人、つねよりいそぐ心に乗り合ひて、「やれ出せ、出せ」と声々にわめけば、船頭も春しりがほにて、……やがて纜(ともづな)ときて、京橋をさげける〉
『世間胸算用』巻四ノ三
 
 
26.阿蘭陀丸二番船(おらんだまるにばんせん)
 
本展では俳書も多く展示され、一蝶の挿画のみならず、その俳諧作品も紹介されています。其角との縁から江戸蕉門の俳書が多いのですが、なかでこの26番は西鶴も入集している大坂談林の一書。二人の奇縁を感じさせます。
 
 
36.吉原風俗図巻(よしはらふうぞくづくわん)
 
冒頭にふれた「大吉原展」でも目をひいた肉筆画の代表作。作中、禿(かむろ)に宥められる遊客と泣き伏す遊女、という印象的な場面が描かれています。
そういえば西鶴の独吟連句にもこんな付合がありました。
 
 酒飲めばその片脇に袖の露
  契りも今宵たいこ女郎    『西鶴大矢数』第二十四

ところでこの36番、悪所でのトラブル(?)から三宅島へ流罪となった一蝶が、かつての遊興を思い出して描いた作品です。恩赦によって江戸にもどるまでの配流中(約12年間)の、これら作品群は「島一蝶」と呼ばれ、今展示の目玉にもなっています。

私事ながら三宅島は先父の故郷、一蝶との奇縁を感じつつ、会場をあとにした次第です。(前期/後期で展示替・場面替があるようです。)
 

2024年10月14日月曜日

●月曜日の一句〔広渡敬雄〕相子智恵



相子智恵






献杯は眉の高さに小鳥来る  広渡敬雄

句集『風紋』(2024.7 角川文化振興財団)所収

葬儀や法要のあとの会食の際に、故人を偲んで杯を上げる献杯。言われてみれば、献杯の高さは確かに眉のあたりだ。場面はシリアスであるのに悲しみを全面に打ち出さず、自分たちを俯瞰してみることで生まれるかすかな俳味がある。

小さな渡り鳥たちがやってきている。声だけではなくその姿が見えていることを思うと、都会の斎場ではなく、秋の山に近い場所なのだろう。あるいは斎場などではなく、自宅での法事の場面を想像してみてもよいかもしれない。

親戚や友人らが集まり、きっと空は秋晴れで、山は紅葉している。小鳥たちの声も姿も賑やかだ。この取り合わせによって、故人が愛される人柄だったことや、皆がこの後、賑やかに故人との思い出を語るのだろうな、ということまでもが想像されてくる。悲しみの中に、ふっと救われるような気持ちがしてくる一句である。

 

2024年10月11日金曜日

●金曜日の川柳〔楢崎進弘〕樋口由紀子



樋口由紀子





行きずりのひとに豆腐を渡される

楢崎進弘(ならざき・のぶひろ)1942~

「行きずりのひと」とは通りすがりの、単にすれ違っただけで、見知らぬひとであるが、「行きずり」の言葉に読者はまず引っ張られる。そのひとに「豆腐」を渡される。まさに想定外。あっけにとられて、立ちつくすしかない。

〈行きずりのひとに○○を渡される〉の○○にさて何を入れるか。「手帳」とか「花束」だと物語がスタートする。しかし、それではありきたりでおもしろくもなんともない。抽象的な言葉を入れるとのポエムっぽくなるがそれもそれである。ここはどうでもいい、どこにでもある「豆腐」である。しかし、この「豆腐」によって、一瞬日常とは違う世界のどこかに連れていかれたような気分になり、日常との奇妙なずれが生じる。川柳は芸だとつくづく思う。「満天の星」(第5号 2024年刊)収録。

2024年10月4日金曜日

●金曜日の川柳〔渡辺隆夫〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



かなでは切れぬ樋口可南子かな  渡辺隆夫

たしかに。「ひぐちかなこ」は「ひぐちかな/こ」とはならない。

〈切れ〉の有無が問題になるのは、俳句だけではなく川柳も、なのかどうか、浅学にして存じ上げないけれど、〈切字〉が川柳で話題になるのをとんと聞いたことがない。きっと、〈切れ〉や〈切字〉は、川柳から見れば、俳句という向こう岸の出来事なのだろうと、勝手に思う。だから、この句、批評的に、対岸を眺めている句なのだと思う。

俳句にも俳人にも、とてもいいかげんなところがあるので、顰めっ面で〈切れ〉や〈切字〉を語るそばで、「かな?」と首をかしげるポーズが似合う〈かな〉や、「関西弁の語尾にしか聞こえない〈や〉に出会ったりして、いいかげんが別に悪いことではないのであるから、憤るほどのことでもない。古池やん蛙とびこむ水の音、と、一文字付け足すだけで関西弁にしたり、木犀の香にあけたての障子かな? は元の「?」がないかたちと、あんがい同様・同等の興趣があるような気もする。あるいは、下五をすべて「西野カナ」にして、「さあ、ぜんぶ切れてるぞ」と顰蹙を買う日々であっても、誰にも迷惑はかけない。おそらく。

掲句は、『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。

2024年10月2日水曜日

西鶴ざんまい #68 浅沼璞


西鶴ざんまい #68
 
浅沼璞
 

 弥生の鰒をにくや又売る    打越
山藤の覚束なきは楽出家     前句
 松に入日ををしむ碁の負(け) 付句(通算50句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折・裏14句目(綴目)。 碁(雑)=勝負事、闘争の範疇。  藤→松(類船集)。

【句意】松に入日を惜しむのは、(時間切れで)碁に負けるのを惜しむからだ。

【付け・転じ】前句の、生魚に執着する出家者の「覚束なさ」を、碁に執着する「覚束なさ」に見立て替え、そこから時間切れを惜しむ勝負の場へと飛ばした。

【自註】此の付かた、「松」は「藤」によせて正風の俳体なり。「入日」は*うちかゝりて、暮を惜しみし*心行(こゝろゆき)也。出家の身として、当座(たうざ)慰みの碁のまけなどに心を残すは、我が身の*一大事、仏の道は外(ほか)になるべし。是ぞ「覚束なき」所、はなれがたし。
*うちかゝりて=夢中になって。 *心行=「入日」の語に見込まれた「心持」「風情」(乾裕幸『俳諧師西鶴』1979年)。  *一大事=悟りを開くきっかけ。

【意訳】この付け方は、「松」を「藤」によせて連歌風の伝統的な俳体である。「入日」は碁に打ち耽って(早くも)日が暮れるのを惜しんだ心持である。出家の身として、座興に過ぎない碁の勝負に未練を残すのは、自分の悟りを開く仏道を外れてしまうであろう。これでは「覚束なき」心を離れ難い。

【三工程】
(前句)山藤の覚束なきは楽出家

  当座慰みなれど碁の負  〔見込〕
    ↓
  仏の道は外に碁の負   〔趣向〕
    ↓
  松に入日ををしむ碁の負 〔句作〕

楽出家の「覚束なさ」を、その場限りの碁の勝負のせいと見て〔見込〕、〈どれほど夢中になっているのか〉と問いながら、仏道の「一大事」を外れるほどであるとし〔趣向〕、「藤→松」と縁語をたどって時間切れを惜しむ「入日」の場を設定した〔句作〕。

 
やっと五十韻にたどりつきました。

「ご苦労さんやな。他人の独吟、あれこれ穿鑿して何がおもろいのか、わからん」
 
わからないから、面白いんですよ。
 
「また禅問答みたようなこと言いよる。当世・政治屋のS構文かいな」
 
私は政治家ではないので政治屋のようなことは申しません。
 
「その言いようがSや言うとるんやで」
 
はい、その誤解は誤解のまま受け取っておきます。
 
「は?  これはあかんがな」