新聞
新聞を大きくひらき葡萄食ふ 石田波郷
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2011年8月31日水曜日
2011年8月30日火曜日
〔評判録〕佐山哲郎『娑婆娑婆』
〔評判録〕
佐山哲郎句集『娑婆娑婆』
≫関悦史 閑中俳句日記(別館)
≫岩淵喜代子 受贈著書
≫野口る理 :spica
≫清水哲男 :増殖する俳句歳時記
【ウラハイ】
≫相子智恵 月曜日の一句
【本誌・週刊俳句】
≫澤田和弥 真剣なる遊び
佐山哲郎句集『娑婆娑婆』
≫関悦史 閑中俳句日記(別館)
≫岩淵喜代子 受贈著書
≫野口る理 :spica
≫清水哲男 :増殖する俳句歳時記
【ウラハイ】
≫相子智恵 月曜日の一句
【本誌・週刊俳句】
≫澤田和弥 真剣なる遊び
2011年8月29日月曜日
●月曜日の一句〔中本真人〕 相子智恵
相子智恵
ばつた跳ねガードレールをかんと打つ 中本真人
句集『庭燎』(2011年8月/ふらんす堂)より。
ばったというとすぐに次の句が思い浮かぶ。
〈しづかなる力満ちゆき螇蚸とぶ 加藤楸邨〉
ばったがグッと力をためて飛ぶ一瞬を見事に捉えた句として名高い。ばったの飛ぶ力というのは本当に強くて、草むらでぶつかってくると、かなり痛い。
中本氏の句もまた、ばったの力強さをよく捉えている。〈かんと打つ〉この音は、ばったならではの力強い音だ。
そして何といってもこの句、飛んだばったがガードレールにぶつかるという景が、身も蓋もなくリアルである。草深い道で、ガードレールの白さが緑に映える風景というのも現代のものだ。
楸邨の凝縮された写生による、ばったの力が読者に乗り移るかのようなリアリティから、中本氏のあっけらかんと身も蓋もない、だからこそリアルな現代の写生へ。ばったの力強さを捉えたリアリティの違いが面白い。
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2011年8月28日日曜日
〔今週号の表紙〕第227号 観覧車 小川春休
2011年8月27日土曜日
2011年8月26日金曜日
●金曜日の川柳 樋口由紀子
樋口由紀子
變人が三人集つて日が永し
藤村靑明 (ふじむら・せいめい) 1889~1915
変人の三人に靑明自身も含まれているのだろう。ああでもないこうでもないとわけのわからない、解決できないことを言い合っているのだろうか。靑明は26歳の若さで、須磨海岸で海水浴中に心臓麻痺で溺死した。
『靑明句集』は死後20年たって椙元紋太・木村半文銭の二人が編集。藤村靑明という川柳人が存在したことを後世に伝えたかったのだろう。
〈蛇使い淋しい時は蛇を抱き〉〈地にながきこのおほ男あわれなり〉、「蛇使い」も「おほ男」も自我をもてあましている青年の姿が思い浮かぶ。自意識の強さも自己洞察の鋭さも物を書く原動力である。繊細で感受性の豊かな作品を残した。『靑明句集』(1934年刊)所収。
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2011年8月24日水曜日
2011年8月23日火曜日
●10句競作(第2回)の件
10句競作(第2回)の件
作品1点追加 2011.08.25
本誌募集の10句競作(第2回)は、34作品と前回と同様多数の御応募をいただきました。誠にありがとうございます。審査・選考の骨子・日程が決まりましたので、以下にお知らせいたします。
1 8月25日(木) ウラハイに応募作品を掲載(コメント欄に感想等を自由に書き込んでいただいて結構です)
2 9月1日(木)22:00より ●10句競作(第2回)の件審査選考ライブ。上記記事のコメント欄にて進行します。第2回の審査員は、青山茂根氏、榮猿丸氏、中村安伸氏。haiku&meの3氏です。
3 審査選考ライブにて、本誌掲載作品を決定(時間切れの場合、日時を改めて、続・審査選考ライブに決定を持ち越します。
応募いただいた作品のタイトルが掲載されていないなどのご不明の点等ありましたら、seventhfox@gmail.com (生駒大祐宛)まで。
作品名一覧
【01 新・露出狂】
【02 株主総会】
【03 夏の傷痕】
【04 炎昼裡】
【05 座禅】
【06 片膝】
【07 無限接点】
【08 夏休み】
【09 Summer In The City】
【10 夜 叉】
【11 蝉鳴くや】
【12 情熱諸島】
【13 地球空洞説】
【14 だれにともなく】
【15 夏の果】
【16 ヴァカンス】
【17 雨】
【18 夏桃さん】
【19 離味句素】
【20 晩夏】
【21 行つたきり】
【22 あちら・こちら】
【23 生簀】
【24 果実】
【25 暮れる】
【26 全力】
【27 三分の一】
【28 夏の谺】
【29 尾行】
【30 夜の果ての旅】
【31 春雷 】
【32 十点鐘 】
【33 卯の花にほふ】
【34 御来迎】
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作品1点追加 2011.08.25
本誌募集の10句競作(第2回)は、34作品と前回と同様多数の御応募をいただきました。誠にありがとうございます。審査・選考の骨子・日程が決まりましたので、以下にお知らせいたします。
1 8月25日(木) ウラハイに応募作品を掲載(コメント欄に感想等を自由に書き込んでいただいて結構です)
2 9月1日(木)22:00より ●10句競作(第2回)の件審査選考ライブ。上記記事のコメント欄にて進行します。第2回の審査員は、青山茂根氏、榮猿丸氏、中村安伸氏。haiku&meの3氏です。
3 審査選考ライブにて、本誌掲載作品を決定(時間切れの場合、日時を改めて、続・審査選考ライブに決定を持ち越します。
応募いただいた作品のタイトルが掲載されていないなどのご不明の点等ありましたら、seventhfox@gmail.com (生駒大祐宛)まで。
作品名一覧
【01 新・露出狂】
【02 株主総会】
【03 夏の傷痕】
【04 炎昼裡】
【05 座禅】
【06 片膝】
【07 無限接点】
【08 夏休み】
【09 Summer In The City】
【10 夜 叉】
【11 蝉鳴くや】
【12 情熱諸島】
【13 地球空洞説】
【14 だれにともなく】
【15 夏の果】
【16 ヴァカンス】
【17 雨】
【18 夏桃さん】
【19 離味句素】
【20 晩夏】
【21 行つたきり】
【22 あちら・こちら】
【23 生簀】
【24 果実】
【25 暮れる】
【26 全力】
【27 三分の一】
【28 夏の谺】
【29 尾行】
【30 夜の果ての旅】
【31 春雷 】
【32 十点鐘 】
【33 卯の花にほふ】
【34 御来迎】
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2011年8月22日月曜日
●月曜日の一句〔池田澄子〕 相子智恵
相子智恵
よし分った君はつくつく法師である 池田澄子
句集『拝復』(2011年7月/ふらんす堂)より。
今年は蝉が鳴き始めるのが遅かった。8月に入って、ようやく蝉時雨を耳にした。
掲句、なるほど「ツクツクホーシ、ツクツクホーシ」と性急に、延々と鳴き続ける法師蝉の鳴き声は「私はつくつく法師なんだ、分かってくれ!」と名前を連呼して主張し、懇願しているかのような切実さがある。
しかし、そもそも鳴き声の描写にこの字を当て、この蝉を「つくつく法師」と名付けたのは人間の勝手である。しかも蝉が名前を一所懸命に連呼しているなどと都合よく感じ、それに対して「よし分かった」と認めようとは、人間はずいぶん蝉に対して傲慢なものだ。
この作者はその矛盾、人間の身勝手さもよく分かっている。それでありながら、蝉の鳴き声のあまりの切実さに、自分が持ちうる人間の詩の言葉をもって精一杯「よし分かった」と応えずにはいられないのである。おそらく蝉の鳴き声に感じている切実さは、そのまま作者の、作家としての態度の切実さなのである。
そんな森羅万象に対する作者の思いは、一見、読者を笑わせる滑稽な句として表され、やがてうっすらと哀しくさせる。「大笑いのち半泣き」のような句である。
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2011年8月21日日曜日
2011年8月19日金曜日
●金曜日の川柳 樋口由紀子
樋口由紀子
ひと箱の桃を夫婦で腐らせる
谷智子 (たに・ともこ)
桃一箱はお盆のお供えに誰かが持ってきてくれたのだろう。仏壇の前にずっと置かれていたことは夫婦のどちらも気づいていた。けれどもなんとなく億劫で、それに他のことに気をとられてそのままにしていた。お互いに相手が気づいて冷蔵庫にでも入れて食べてくれるだろうと思っていた。箱を開けると腐っていた。ああせっかくの桃がもったいない。桃は腐りやすい、だから気をつけなければと思っていたのにとうとうやってしまった。
徐々に腐っていくものはたくさんある。まして箱に密封していたのではなおさらである。わかっているのに気づかないふりをしたり、あやふやなままにしているのは、ある意味で生きていく上の知恵でもある。まだ桃でよかった。桃ならば買えばすむことである。暑さでぼっーとしてうっかりしていたということにしよう。「バックストローク」(第12号 2005年10月)収録
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2011年8月18日木曜日
●蜻蛉
蜻蛉
つぎつぎと山へ吹かるる蜻蛉かな 森賀まり
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり 正岡子規
蜻蛉を踏まんばかりに歩くなり 星野立子
蜻蛉の風をほどいてゆきにけり 金子 敦
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな 中村汀女
蜻蛉の空蜻蛉の空の上 後藤比奈夫
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つぎつぎと山へ吹かるる蜻蛉かな 森賀まり
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり 正岡子規
蜻蛉を踏まんばかりに歩くなり 星野立子
蜻蛉の風をほどいてゆきにけり 金子 敦
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな 中村汀女
蜻蛉の空蜻蛉の空の上 後藤比奈夫
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2011年8月16日火曜日
2011年8月15日月曜日
●月曜日の一句〔佐山哲郎〕 相子智恵
相子智恵
弁当がぱつと明るい墓参かな 佐山哲郎
句集『娑婆娑婆』(2011年7月/西田書店)より。
お盆である。
先祖、親しい友人…墓の主は誰でもよいが、この〈墓参〉からは故人への親しみを感じる。
灰色や黒ばかりの墓石に手を合わせた後の、弁当の色とりどりの明るさ。小さな墓地なら、その場で弁当を広げて食べているのかもしれない。お盆に帰ってきた故人の霊も一緒に、その弁当を食べているかのような心理的な明るさがある。
〈ピーと沸くたび新亡のただいまあ〉〈羽根付きの餃子を添へて魂送〉
笛吹きケトルの湯気と一緒に〈ただいまあ〉と帰ってくる、新盆を迎えた精霊〈新亡〉たち。
パリパリと薄い(しかも旨い)餃子の〈羽根〉と一緒に送り返され、餃子と一緒に羽ばたいて帰る精霊。羽根付き餃子は故人の好物でもあったのだろう。
この作者のお盆の句はおしなべて明るく、ユーモラスである。つねに自分のすぐ近くに祖霊たちを感じているのだ。
そういう心の在り様は、死者ではなくむしろ私たち生者の心をなぐさめ、心に涼しい風を通してくれる。
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2011年8月14日日曜日
2011年8月13日土曜日
●箪笥
箪笥
春の灯や一つ上向く箪笥鐶 富安風生
蝿とんでくるや箪笥の角よけて 京極杞陽
狐啼く箪笥の環に手をかけて 八田木枯
下駄買うて箪笥の上や年の暮 永井荷風
和箪笥の把手に長い汽笛あり 樋口由紀子
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春の灯や一つ上向く箪笥鐶 富安風生
蝿とんでくるや箪笥の角よけて 京極杞陽
狐啼く箪笥の環に手をかけて 八田木枯
下駄買うて箪笥の上や年の暮 永井荷風
和箪笥の把手に長い汽笛あり 樋口由紀子
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2011年8月12日金曜日
●金曜日の川柳 樋口由紀子
樋口由紀子
春眠をむさぼるはずのカバだった
広瀬ちえみ (ひろせ・ちえみ) 1950~
広瀬は仙台在住。東日本大震災で被災した。「死ぬかと思うほど揺れた」と言う。川柳誌「杜人」の編集人で震災前に一校目のゲラが出来ていた「杜人」を「気持ちを奮い立たせて」3月22日に発行した。「あっけなく日常がひっくり返される非情を思った。あたりまえがあたりまえであった日常に戻れる日が来ることを信じたい」と記した。
何が起きたのかわからないままに死んでいった人やかけがえのないものやふつうにあるはずのものを一瞬のうちに失った人がたくさんいる。生活の基盤は崩れ、夢も希望も、そしてどうってことないこともぜんぶ震災と原発は奪ってしまった。失ったものは大きい。被災地の日常はまだ戻っていない。「バックストローク」(第35号 2011年7月)収録。
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2011年8月11日木曜日
●愛は… 上野葉月
愛は石のようにそこにあるのではなく、パンのように毎日作り直さなければならない
上野葉月
ゲドでもなければ戦記でもない、というようなことは頻繁に言われているけど、英語圏ではあの作品を Earthsea series と呼ぶことが多いらしい。
とにかく読むのに難儀した印象が強い。最初「SFマガジン」に第一巻の抄訳が掲載されたのが確か1973年で最終巻 The Other Wind の邦訳が2003年だから読了まで30年以上要したわけだ。書く方も大変だっただろうが読む方だって大変だったのである。
岩波書店によれば、小学校高学年からという推奨年齢なのだけど、あれを小学生に読ませてどうするんだろうってなもの。剣と魔法の物語(そのうえ龍まで出てくる)ではあるのだけど、およそ現実にあまりにも似ている(?)と言っていいほどの地味なファンタジー。いや、私はファンタジーの良き読者ではないので何か根本的な勘違いがないとは言い切れないけど。
それにしても第二巻のテナー登場時に第四巻及び最終巻がこのようなものになるとは作者自身も予想つかなかったはずだ。第四巻、最終巻でのテナーはまるでアガサ・クリスティにとってのミス・マープルのように作者自身の分身のような印象を与える。
一方でアーシュラ・K・ル=グウィンの作品が夫婦愛(?)という主旋律に沿って展開するのを見るのは珍しいことではない。
あの世界中のSFファンの度肝を抜いた『闇の左手』をつかまえて夫婦愛うんねんする読者はさすがにいないだろうけど、ハードSFと見なされている『所有せざる人々』(この邦訳タイトルもかなり酷い部類のような気がする)はあきらかに夫婦愛の物語に見える。
そしてなにより『天のろくろ』。主人公が灰色になってしまった配偶者の手を取って「君は褐色であるべきだ」と言う忘れがたい場面。米国的というのではなくパリの匂いを嗅ぎ取ってしまうのは私だけではないと思う。そう言えばジブリアニメ『ゲド戦記』に関してル=グウィンが自身のホームページで言及したとき、まっさきのアレンやゲドが白人に見えることをクレームしていたような記憶がある。
忘れがたいと言えば、異星人の古物商からビートルズ『With a Little Help from My Friend』のEP(SFだなあ)を渡されるラスト。ビートルズで一曲だけ選ぶとしたらという多くの人を悩ませる設問(十曲ぐらいに絞るのならともかく一曲となると)に対して、『天のろくろ』を読んで以来『With a Little Help from My Friend』と即答するようになったのはかくいう私である。
読書と言うよりなにか人生そのもののような鈍重な苦さを覚える Earthsea series だけど、第四巻で農夫のおかみさんとして長い年月過ごし寡婦となったテナーが、力を失い負傷した姿となったゲドと久しぶりに邂逅ししたのち彼との会話の中で「男たちって、なんて妙なんだ」と思うところはまるで作者自身のつぶやきのようで、アーシュラ・K・ル=グウィンのような一大知性にとってすら男は謎であり続けたのだと感慨深い。小説とは心地よい裏切りを読者にもたらすものだという感覚に酔った瞬間でもあった。
上野葉月
ゲドでもなければ戦記でもない、というようなことは頻繁に言われているけど、英語圏ではあの作品を Earthsea series と呼ぶことが多いらしい。
とにかく読むのに難儀した印象が強い。最初「SFマガジン」に第一巻の抄訳が掲載されたのが確か1973年で最終巻 The Other Wind の邦訳が2003年だから読了まで30年以上要したわけだ。書く方も大変だっただろうが読む方だって大変だったのである。
岩波書店によれば、小学校高学年からという推奨年齢なのだけど、あれを小学生に読ませてどうするんだろうってなもの。剣と魔法の物語(そのうえ龍まで出てくる)ではあるのだけど、およそ現実にあまりにも似ている(?)と言っていいほどの地味なファンタジー。いや、私はファンタジーの良き読者ではないので何か根本的な勘違いがないとは言い切れないけど。
それにしても第二巻のテナー登場時に第四巻及び最終巻がこのようなものになるとは作者自身も予想つかなかったはずだ。第四巻、最終巻でのテナーはまるでアガサ・クリスティにとってのミス・マープルのように作者自身の分身のような印象を与える。
一方でアーシュラ・K・ル=グウィンの作品が夫婦愛(?)という主旋律に沿って展開するのを見るのは珍しいことではない。
あの世界中のSFファンの度肝を抜いた『闇の左手』をつかまえて夫婦愛うんねんする読者はさすがにいないだろうけど、ハードSFと見なされている『所有せざる人々』(この邦訳タイトルもかなり酷い部類のような気がする)はあきらかに夫婦愛の物語に見える。
そしてなにより『天のろくろ』。主人公が灰色になってしまった配偶者の手を取って「君は褐色であるべきだ」と言う忘れがたい場面。米国的というのではなくパリの匂いを嗅ぎ取ってしまうのは私だけではないと思う。そう言えばジブリアニメ『ゲド戦記』に関してル=グウィンが自身のホームページで言及したとき、まっさきのアレンやゲドが白人に見えることをクレームしていたような記憶がある。
忘れがたいと言えば、異星人の古物商からビートルズ『With a Little Help from My Friend』のEP(SFだなあ)を渡されるラスト。ビートルズで一曲だけ選ぶとしたらという多くの人を悩ませる設問(十曲ぐらいに絞るのならともかく一曲となると)に対して、『天のろくろ』を読んで以来『With a Little Help from My Friend』と即答するようになったのはかくいう私である。
読書と言うよりなにか人生そのもののような鈍重な苦さを覚える Earthsea series だけど、第四巻で農夫のおかみさんとして長い年月過ごし寡婦となったテナーが、力を失い負傷した姿となったゲドと久しぶりに邂逅ししたのち彼との会話の中で「男たちって、なんて妙なんだ」と思うところはまるで作者自身のつぶやきのようで、アーシュラ・K・ル=グウィンのような一大知性にとってすら男は謎であり続けたのだと感慨深い。小説とは心地よい裏切りを読者にもたらすものだという感覚に酔った瞬間でもあった。
2011年8月10日水曜日
2011年8月9日火曜日
●週俳の誌面は皆様の寄稿でできています
週俳の誌面は皆様の寄稿でできています
●募集! 『超新撰21』を読む ≫既存記事
●小誌「週刊俳句」は常時、寄稿をお待ちしております。
「句集を読んだ。これについて書きたい」
「俳誌(俳句総合誌・同人誌・結社)を読んだ。これについて書きたい」
「俳句関係のイベントに行った。これについて書きたい」
「週俳掲載の俳句について、書きたい」
●上記以外でもかまいません。お書きになりたいことがありましたら、お気軽にご連絡ください。≫連絡・問い合わせ先
≫句集を読む・過去記事
≫俳誌を読む・過去記事
≫イベント・過去記事
≫俳句を読む・過去記事
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「週俳掲載の俳句について、書きたい」
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2011年8月8日月曜日
●月曜日の一句〔原雅子〕 相子智恵
相子智恵
地図に在る泉はみどり誰もゆかず 原 雅子
句集『束の間』(2011年8月7日/角川書店)より。
この地図は山や高原などの観光地にある、周辺案内図の看板ではなかろうか。そこに「○○の泉」といった泉の名前が書かれ、緑色に塗られている。その地図を数名で見ているのだろう。泉の名前や場所を確かめながらも、誰も行こうとはしない。自分たちのグループだけでなく、そこにいる誰もが。
季語は「泉」であるが、地図上の泉の色である「みどり」が効いている。今いる場所の鬱蒼とした木々の緑色さえも、ここから見えてくる気がするからだ。そしてその泉は、現在地よりもさらに山深い場所にあるのではないかと、「みどり」と「誰もゆかず」から想像されてくる。
そもそも普通の写生句では、地図上のことなど詠んでもつまらないだけだ。地図よりも実景を見よ、といわれるのがオチだろう。しかも季語までが地図上のもので、実際には見ていない。
ただの地図から、これだけの風景やまわりの空気、色、匂い、物語までも感じさせられるというのは、なんというか、凄腕である。
この句集、ほかにも紹介したい句がたくさんあった。内容は多彩。そしてどの句も眼前にくっきりと、立体的に世界が立ち上ってくる。
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2011年8月7日日曜日
〔今週号の表紙〕第224号 中断 倉田有希
2011年8月6日土曜日
2011年8月5日金曜日
●金曜日の川柳 樋口由紀子
樋口由紀子
今宵あたり13ベクレルの月夜かな
渡辺隆夫 (わたなべ・たかお) 1937~
ベクレル・セシウム・シーベルト・メルトダウンなど聞きなれない言葉が原発事故以来よく目にするようになった。「ベクレル」は放射能の量を表わす単位であり、ずっと縁がなくて過ごしたかったのにそうはいかなかった。不安と心配でそれらのカタカナ語に接しているのに、隆夫は気持ちを逆なでするように「13ベクレルの月夜かな」と風雅風に詠む。「十三夜」とひっかけているのだろうか。
月夜などはもともと身体的感覚で味わうべきものである。しかし、現在はこの身体的感覚が軽んじられている傾向がある。なにもかも数値によって価値判断して、納得する味気ない世の中に対しての皮肉も併せて感じる。「バックストローク」(第35号 2011年7月)収録。
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2011年8月4日木曜日
〔今週号の表紙〕第223号 中断 西原天気
2011年8月3日水曜日
【林田紀音夫全句集捨読・番外編】二十句選 4/4 野口 裕
【林田紀音夫全句集捨読・番外編】
二十句選 4/4
野口 裕
二十句選 4/4
野口 裕
≫本誌・林田紀音夫全句集捨読
16 屋根を重ねてみどりごがとろとろ煮え (p101)
第二句集の特徴として、子の句が頻繁に登場することが上げられるだろう。我が子かわいいという点は、通常の吾子俳句と同じだが、この幸せがいつ壊れても不思議ではないという危機感が底にあるために、句中に異常な幻想を孕む場合がしばしばある。「みどりごがとろとろ煮え」は、スウィフトのやたら長いタイトルの諷刺文「アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案」、略称「穏健なる提案」を連想させる。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
17 青さす夕空電線は家深く入り (p106)
この句は、拾読では見落としていた。ほんのり赤みを帯びた夕空を「青さす」と、地と図を入れ替えて表現する妙。視線を遠景から近景へと引きつける小道具としての電線。細心に配置された構図である。七五七と音数の逆転も効果的。無季の写生句。
18 綾とりの朱の弦強く子に渡る (p108)
拾読の段階で、何を言おうとしていたのか、若干わかりにくい。おそらく、この句の調子は紀音夫の句らしからぬところがあり、それが有季定型句につながると判定したのだろう。紀音夫らしからぬとしても、句意明快な印象に残る句である。
綾とりの朱の弦強く子に渡る
綾とりの母子に水の夜深くなる
彼にしては珍しい素材。二句目はいつもの調子に戻っているが、一句目はさらに珍しく詠嘆がない。この方向を追求して行けば、いわゆる有季定型の概念におさまる句になるだろう。生きている間であれば、それがどうしたこうしたというのも意味があるだろうが、いま読みつつある心境としてはそれがどうしたこうしたは言いたくない。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
19 竹のびて内耳明るむしじまあり (p113)
思えば、叙景+感慨の典型的有季定型句に近いものが巻末近くに置かれていた。「内耳明るむしじま」が、作者にとっては自明の感覚であり、読者にとっては興味引く表現でありながら、手探りしてたどり着かねばならないような不思議な措辞。
第二句集『幻燈』の最後に並べられている世界は、
義肢伴なえば油槽車に極まる黒
足萎えの暦日芝生傾いて
凶年を終る声あげ転倒し
足萎えていよいよひびく掛時計
など、作家の脚部疾患を思わせる句で占められている。これらの中で、
竹のびて内耳明るむしじまあり
乳房かしましく鳥獣日溜りに
骨の音加えメロンの匙をとる
など、聴覚を伴う句にひかれるものが多いのはたんなる偶然だろうか。身構えていた姿勢にふっと無防備になるような瞬間が訪れるようで、こわばっていたものが溶けていくような感覚がある。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
20 街騒に読経加わり血の透く耳 (p114)
第二句集以後の未発表句の大群を読むと、紀音夫の興味が仏教に傾いてゆくことがわかる。それは仏教思想への傾斜ではなく、日常生活の中にある仏教習俗への関心であり、作者自身も仏教習俗への体験を重ねてゆく。そうした句の嚆矢として、この句はある。読経によって、身体感覚を取り戻してゆく感覚を「血の透く耳」とした表現に冴えが見られる。
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16 屋根を重ねてみどりごがとろとろ煮え (p101)
第二句集の特徴として、子の句が頻繁に登場することが上げられるだろう。我が子かわいいという点は、通常の吾子俳句と同じだが、この幸せがいつ壊れても不思議ではないという危機感が底にあるために、句中に異常な幻想を孕む場合がしばしばある。「みどりごがとろとろ煮え」は、スウィフトのやたら長いタイトルの諷刺文「アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案」、略称「穏健なる提案」を連想させる。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
17 青さす夕空電線は家深く入り (p106)
この句は、拾読では見落としていた。ほんのり赤みを帯びた夕空を「青さす」と、地と図を入れ替えて表現する妙。視線を遠景から近景へと引きつける小道具としての電線。細心に配置された構図である。七五七と音数の逆転も効果的。無季の写生句。
18 綾とりの朱の弦強く子に渡る (p108)
拾読の段階で、何を言おうとしていたのか、若干わかりにくい。おそらく、この句の調子は紀音夫の句らしからぬところがあり、それが有季定型句につながると判定したのだろう。紀音夫らしからぬとしても、句意明快な印象に残る句である。
綾とりの朱の弦強く子に渡る
綾とりの母子に水の夜深くなる
彼にしては珍しい素材。二句目はいつもの調子に戻っているが、一句目はさらに珍しく詠嘆がない。この方向を追求して行けば、いわゆる有季定型の概念におさまる句になるだろう。生きている間であれば、それがどうしたこうしたというのも意味があるだろうが、いま読みつつある心境としてはそれがどうしたこうしたは言いたくない。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
19 竹のびて内耳明るむしじまあり (p113)
思えば、叙景+感慨の典型的有季定型句に近いものが巻末近くに置かれていた。「内耳明るむしじま」が、作者にとっては自明の感覚であり、読者にとっては興味引く表現でありながら、手探りしてたどり着かねばならないような不思議な措辞。
第二句集『幻燈』の最後に並べられている世界は、
義肢伴なえば油槽車に極まる黒
足萎えの暦日芝生傾いて
凶年を終る声あげ転倒し
足萎えていよいよひびく掛時計
など、作家の脚部疾患を思わせる句で占められている。これらの中で、
竹のびて内耳明るむしじまあり
乳房かしましく鳥獣日溜りに
骨の音加えメロンの匙をとる
など、聴覚を伴う句にひかれるものが多いのはたんなる偶然だろうか。身構えていた姿勢にふっと無防備になるような瞬間が訪れるようで、こわばっていたものが溶けていくような感覚がある。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
20 街騒に読経加わり血の透く耳 (p114)
第二句集以後の未発表句の大群を読むと、紀音夫の興味が仏教に傾いてゆくことがわかる。それは仏教思想への傾斜ではなく、日常生活の中にある仏教習俗への関心であり、作者自身も仏教習俗への体験を重ねてゆく。そうした句の嚆矢として、この句はある。読経によって、身体感覚を取り戻してゆく感覚を「血の透く耳」とした表現に冴えが見られる。
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2011年8月2日火曜日
【林田紀音夫全句集捨読・番外編】二十句選 3/4 野口 裕
【林田紀音夫全句集捨読・番外編】
二十句選 3/4
野口 裕
二十句選 3/4
野口 裕
≫本誌・林田紀音夫全句集捨読
11 産院のなまあたたかい廊下で滑る (p86)
渡邊白泉の「憲兵の前で滑つて転んぢやった」、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」をどうしても思い出してしまう句。製作年代が昭和三十九年頃だろうから、昭和四十二年没の渡邊白泉は、まだ存命の頃。(長女誕生の高揚感がもたらす俳諧味。)場違いの産院にとまどう男一般の姿とも言えるが、「なまあたたかい」に凝縮された現状認識を感じる。昭和三十九年は東京オリンピックと名神高速道路と東海道新幹線の年。あの頃から急速に風景は変わった。(「林田紀音夫全句集拾読」から、( )内補筆)
12 流血の広場の匂い幼児は駈け (p86)
かつて惨事のあった広場にいるとその匂いが思い出される。そこを幼児は駆けてゆく。と今は読んだが、かつては流血と幼児が存在が同時に起こったと見て、次のように書いた。
広場という言葉は短詩型文学から縁遠くなった。短詩型文学に限らず、文学一般、いやそれに限らず人の意識にはのぼらない言葉になっている。群衆の意識が時として共振する場として、広場という言葉は使われやすかったが、現在そうした現象の起こる余地はないからだろう。一時代前の中村草田男、「壮行や深雪に犬のみ腰をおとし」と同じ構造になっている点が興味を引く。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
13 手が生えて眠るみどりご風の祝祭 (p88)
「手が生えて」に、一瞬ぎょっとする。だが、「風の祝祭」で動物植物という区別が無関係の生命への頌歌を意図していると読める。そう思えば、「手」が何かの花のつぼみに見えないこともない。 だが人によっては、「手が生えて」への違和感がぬぐいされないまま句を通り過ぎるだろう。そういう人が皆無ではないだろうと予想されることが、逆に私を楽しくさせる。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
14 溶接の火を星空の暮しへ足す (p91)
紀音夫の句に、職場はあまり登場しない。だが、皆無ではない。「星空の暮し」がつつましい家庭生活を思わせて効果的。
15 黒の警官ふえる破片のガラスの中 (p98)
紀音夫が持つ国家権力に対する意識を端的に表現した句。
ガラス破片を通して、制服警官の姿が映り、よく見ると一つ一つのガラス破片のどれにも映っている。「ふえる」の上下に配置された(活字横組みなら両側)、「黒の警官」も、「破片のガラス」もどんどんふえてゆく。「黒の警官」と、「破片のガラス」は追いかけあいをしているようだ。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
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11 産院のなまあたたかい廊下で滑る (p86)
渡邊白泉の「憲兵の前で滑つて転んぢやった」、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」をどうしても思い出してしまう句。製作年代が昭和三十九年頃だろうから、昭和四十二年没の渡邊白泉は、まだ存命の頃。(長女誕生の高揚感がもたらす俳諧味。)場違いの産院にとまどう男一般の姿とも言えるが、「なまあたたかい」に凝縮された現状認識を感じる。昭和三十九年は東京オリンピックと名神高速道路と東海道新幹線の年。あの頃から急速に風景は変わった。(「林田紀音夫全句集拾読」から、( )内補筆)
12 流血の広場の匂い幼児は駈け (p86)
かつて惨事のあった広場にいるとその匂いが思い出される。そこを幼児は駆けてゆく。と今は読んだが、かつては流血と幼児が存在が同時に起こったと見て、次のように書いた。
広場という言葉は短詩型文学から縁遠くなった。短詩型文学に限らず、文学一般、いやそれに限らず人の意識にはのぼらない言葉になっている。群衆の意識が時として共振する場として、広場という言葉は使われやすかったが、現在そうした現象の起こる余地はないからだろう。一時代前の中村草田男、「壮行や深雪に犬のみ腰をおとし」と同じ構造になっている点が興味を引く。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
13 手が生えて眠るみどりご風の祝祭 (p88)
「手が生えて」に、一瞬ぎょっとする。だが、「風の祝祭」で動物植物という区別が無関係の生命への頌歌を意図していると読める。そう思えば、「手」が何かの花のつぼみに見えないこともない。 だが人によっては、「手が生えて」への違和感がぬぐいされないまま句を通り過ぎるだろう。そういう人が皆無ではないだろうと予想されることが、逆に私を楽しくさせる。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
14 溶接の火を星空の暮しへ足す (p91)
紀音夫の句に、職場はあまり登場しない。だが、皆無ではない。「星空の暮し」がつつましい家庭生活を思わせて効果的。
15 黒の警官ふえる破片のガラスの中 (p98)
紀音夫が持つ国家権力に対する意識を端的に表現した句。
ガラス破片を通して、制服警官の姿が映り、よく見ると一つ一つのガラス破片のどれにも映っている。「ふえる」の上下に配置された(活字横組みなら両側)、「黒の警官」も、「破片のガラス」もどんどんふえてゆく。「黒の警官」と、「破片のガラス」は追いかけあいをしているようだ。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
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2011年8月1日月曜日
●月曜日の一句 相子智恵
相子智恵
ゆるゆる捨てる花氷だった水 神野紗希
『俳壇』(2011年8月号)「ユニコーン」より。
「花氷」はいまやほとんど見かけない季語だと思っていたのに、今年は出会う機会が多い。節電の涼しい演出のためだ。
この週末も、イベントでビルの屋上に花氷を置いた。正確には中に生花を埋めたものではなく、氷の花を彫刻したものだったけれど。
職人さんが作ってくれたそれは、自由に触れていいことになっていた。
触ってみると驚くほど冷たくて(氷なのだから当たり前なのだが、ガラスのような風情につい油断するのだ)触った人たちはみなすぐに手を引っ込めた。そして案外、屋外でも融けにくいものだなと感心した。
掲句、融けてしまった「花氷だった水」を捨てている。
人の目を楽しませることだけに使われた花氷。花氷という存在そのものが、美しい人工の氷ゆえ、華やぎの後、ふと人を寂しくさせる。
人工物のはずなのに、融けるのは自然のなりゆきという、いわば「半人工物」の哀しみだろうか。
氷から解放された生花もきっと、くたくたになっている。その喪失感はまこと「ゆるゆる捨てる」なのである。
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