連載漫画 ペンギン侍 第12回 かまちよしろう
2009年2月28日土曜日
2009年2月27日金曜日
●さいばら天気 色紙の字
2009年2月26日木曜日
2009年2月25日水曜日
2009年2月24日火曜日
●祐天寺写真館05 画風・作風 長谷川裕
2009年2月23日月曜日
2009年2月22日日曜日
●おんつぼ16 スクリーミング・ジェイ・ホーキンス 山田露結
おんつぼ16
スクリーミング・ジェイ・ホーキンス
Screamin' Jay Hawkins
山田露結
出たっ!恐怖の激烈バカ!
ジム・ジャームッシュ監督の映画「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の中でも度々流れていた名曲「I Put a Spell on You」。
そのオドロオドロしさは一度聴いたらおそらく一生耳から離れる事はありません。
彼は同監督の映画「ミステリー・トレイン」で俳優としても圧倒的な存在感を見せています。
独特のダミ声とグロテスクな風貌。その下品さ。病みつきになります。
アルバム「Voodoo Jive」の最後に入っている「Constipation Blues」は最初から最後までうなり声、うめき声の連続。辞書を引いてみたらなんと「便秘のブルース」。
見事なバカです。
ゲテモノ度 ★★★★★
変態度 ★★★★★
〔おすすめアルバム〕Voodoo Jive: The Best of Screamin' Jay Hawkins
2009年2月21日土曜日
●野口裕 亀の鳴き声
亀の鳴き声
野口 裕
「亀 鳴き声」で検索してみると、結構鳴くのを聞いたことがあるというのが見つかった。
http://www.youtube.com/watch?v=kPew-uSp69A
http://dougakun2nd.blog120.fc2.com/blog-entry-39.html
http://hw001.gate01.com/riku-net/mosikasitebyouki.2.html
いつごろの「俳句α」だったか定かではないが、ある女性講談師が飼っていた亀の鳴き声を耳にしたという話を枕に、自分も子どもの頃に飼っていた亀が鳴いたのを聞いた、というような話を三橋敏雄が書いていた。亀は鳴くものだと思った方が良さそうである。
さて、「亀鳴く」ということを主題にした俳句に対する読者の態度は、鳴かないはずの亀が鳴いたのを聞いたよ、というまことしやかな話を額面通りに受け取ることで成立する。したがって、本当は亀は鳴くはずだということを知っている読者としては、鳴くはずのない亀が鳴いているよという嘘をのうのうと吐いている俳句を、嘘と知りつつ楽しむという非常に高級な態度で臨まなければならない。
亀は実際には鳴かないんだよ、というような講釈が始まると、あんたそれは違うで、と言いたくなるが、我慢我慢。
●
野口 裕
「亀 鳴き声」で検索してみると、結構鳴くのを聞いたことがあるというのが見つかった。
http://www.youtube.com/watch?v=kPew-uSp69A
http://dougakun2nd.blog120.fc2.com/blog-entry-39.html
http://hw001.gate01.com/riku-net/mosikasitebyouki.2.html
いつごろの「俳句α」だったか定かではないが、ある女性講談師が飼っていた亀の鳴き声を耳にしたという話を枕に、自分も子どもの頃に飼っていた亀が鳴いたのを聞いた、というような話を三橋敏雄が書いていた。亀は鳴くものだと思った方が良さそうである。
さて、「亀鳴く」ということを主題にした俳句に対する読者の態度は、鳴かないはずの亀が鳴いたのを聞いたよ、というまことしやかな話を額面通りに受け取ることで成立する。したがって、本当は亀は鳴くはずだということを知っている読者としては、鳴くはずのない亀が鳴いているよという嘘をのうのうと吐いている俳句を、嘘と知りつつ楽しむという非常に高級な態度で臨まなければならない。
亀は実際には鳴かないんだよ、というような講釈が始まると、あんたそれは違うで、と言いたくなるが、我慢我慢。
●
2009年2月20日金曜日
●麻は夏の季語
麻は夏の季語
大麻大麻と騒がしい。
鈴木茂 八月の匂い (1975年頃)
ちなみに、麻、麻の花、麻畑、大麻、麻の葉は夏の季語。
明るくて向ふ透けたる麻畑 田川飛旅子
麻咲いて坊主頭の子に朝日 小澤實
麻干して麓村とはよき名なり 高野素十
compiled by saibara tenki
●
大麻大麻と騒がしい。
70年代に活動したロックバンド「はっぴいえんど」の元メンバーでギタリストの鈴木茂容疑者(57)=川崎市多摩区=が、大麻取締法違反(所持)容疑で現行犯逮捕されていたことが18日、東京湾岸署への取材でわかった。asahi.com 2009年2月18日12時54分57歳という部分で、話にコクが出ました。
鈴木茂 八月の匂い (1975年頃)
ちなみに、麻、麻の花、麻畑、大麻、麻の葉は夏の季語。
明るくて向ふ透けたる麻畑 田川飛旅子
麻咲いて坊主頭の子に朝日 小澤實
麻干して麓村とはよき名なり 高野素十
compiled by saibara tenki
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2009年2月18日水曜日
●祐天寺写真館04 劇画五十年 長谷川裕
2009年2月17日火曜日
2009年2月16日月曜日
●さいばら天気 マイナー性にまつわる彼らの気分 〔下〕
マイナー性にまつわる彼らの気分 〔下〕
さいばら天気
『俳句空間・豈』第47号(2008年11月)より転載
※この原稿は「青年の主張」特集の依頼に応じて執筆したものです
※この原稿は「青年の主張」特集の依頼に応じて執筆したものです
俳句がこのまま手習いの趣味として、狭く身内にしか読者をもちえないままであるとしても、私たち年寄りにはそれほど気にならない。「変わり難い現実」に対す る諦観もあれば免疫もある。だが、「彼らにとってどうだろう?」と想像したとたんに心が痛む。せっかく若くして俳句を知り、愛したのだから、長く愛しつづ けてほしい。まだ二十代の彼らがこれから迎える長い長い時間、俳句がこのままマイナー感をまといつづけるとしたら、あまりにも悲しいことではないかと、他人事ながら胸がつまる。
ところが、彼らがこうしたマイナー性に真っ向から立ち向かい戦い打破しようとするのかというと、そうでもない。これが前述のアンビバレンツの片一方。
先般、早稲田大学俳句研究部・十周年記念シンポジウムで、話の流れのなから発せられた「エイリアン」という語への若者たちの肯定的な反応が私には印象的だっ た。世の中から見ればエイリアンたる俳人。そのことは先ほどからいうマイナー性とはまた別の要素やニュアンスをもつにしても、異人であること、マイナーであることを一方で良しとする心性がたしかにある。
手習い俳句を忌避するが、かといってその「非・文学性」から逃れるために「文学的」な俳句へと傾斜するかといえば、そうではない。もっと微妙な線を狙う。悧巧だな、ずいぶん洗練されているな、と思う。
いまの青年たちの作る句は総じておとなしくわかりすい。だが、これも、俳句のオーソドキシーへの敬意を賢くも備えているとともに、難解=文学的とでも言いたげな「へなちょこアヴァンギャルド」の滑稽さをすでに知っているともいえる(他方、彼らが意味伝達性の高い句を志向するのは、現在の俳壇の評価傾向に敏感 なせいでもある。現実的=現金な事柄が理由であると、私は踏んでいる)。
いまの青年たちの作る句は総じておとなしくわかりすい。だが、これも、俳句のオーソドキシーへの敬意を賢くも備えているとともに、難解=文学的とでも言いたげな「へなちょこアヴァンギャルド」の滑稽さをすでに知っているともいえる(他方、彼らが意味伝達性の高い句を志向するのは、現在の俳壇の評価傾向に敏感 なせいでもある。現実的=現金な事柄が理由であると、私は踏んでいる)。
ともあれ、要は、いま見えている「俳句の風景」、言い換えれば「俳句世間のありよう」が変わってほしいのか、ほしくないのか、という話だろう。自分たちが変えていくのだと考えてい る青年はたくさんいる。どう変えていくかは置くとしても、きっと「主張」では変わらない。俳句に、声高で無粋な物言いは向かない。それは俳句の得意とする ところでもない。
さて、この特集を読むのを楽しみにしながら、いま書いている。若い執筆者たちが「主張」というテーマをどう捉え、そこでどんな芸を見せてくれるのか、それが楽しみだ。
あの頃、NHKホールの壇上で、オトナが喜ぶような主張を、オトナに馴化された口調と所作で述べ立てていた青年と、それを皮肉な目で眺めていた青年と、どちらが俳句なんぞに手を染めるかといえば、やはり後者なのだ。
ものごとを俳句的に処理できる「俳句的な智恵」に長けた青年たちが、俳句の風景をさわやかに変えていってくれる、その兆し・はじまりを見るまでは生きて、俳句と関わり、さらに口幅ったいことを言えば、彼らのサイドにつきたいと、これは本気で思っている。
ものごとを俳句的に処理できる「俳句的な智恵」に長けた青年たちが、俳句の風景をさわやかに変えていってくれる、その兆し・はじまりを見るまでは生きて、俳句と関わり、さらに口幅ったいことを言えば、彼らのサイドにつきたいと、これは本気で思っている。
〔参照〕
●
2009年2月15日日曜日
●さいばら天気 マイナー性にまつわる彼らの気分 〔上〕
マイナー性にまつわる彼らの気分 〔上〕
さいばら天気
『俳句空間・豈』第47号(2008年11月)より転載
※この原稿は「青年の主張」特集の依頼に応じて執筆したものです
※この原稿は「青年の主張」特集の依頼に応じて執筆したものです
ずいぶんむかしNHKのテレビ番組「青年の主張コンクール」は、見たことがある。十代だった私も周囲の友人も、この番組で主張を披瀝する青年たちを気恥ずか しい思いで眺めた。独特の抑揚(私の主張を知って!)、大袈裟な身振り(私を見て!)。一方で「斜に構える」スタイルを早くに身につける子どもがいる。私 たちもそのタイプだったろう。声高に主張する若者も、それに対してアイロニーや揶揄を投げかける若者も、どちらも生硬といえば生硬。でも、乱暴にいえばふ たつのタイプがあるのだろうと思う。
自分が俳句に手を染めたとき(すでに中高年だった)のことを思 い出してみると、俳句という「文芸」がどの文芸にも増して「私」や「主張」から遠いものなのだという思いがあった。「言語表現」なんて恥ずかしい、滅相もないという人間にも、これなら、それほど恥ずかしくなく楽しめるかもしれないと思えたのだ。
私の信じるところでは「俳句」と「主張」の親和性はきわめて低い。ところが、この特集では、青年たちに「主張」をさせようというのだ。そこにはなにか戦略が隠されているにちがいない。
と、まあ、このテーマについて疑り深く注意深く探りを入れながら、現在の俳句好きの青年たちが、主張とまで行かなくとも、どんな思いを抱いているのか、その話題に移る。
大学生や二十代で俳句をつくっている人たちと、句会やインターネット上のやりとりを通して親交をもつようになった。彼らをひとくくりにはできないし、それほど深いつきあいがあるわけでもないが、彼らの気分やノリのようなものは、ある程度知っていると言ってさしつかえないと思う。そのうえで彼らの〔俳句=マイ ナー文芸〕に関するアンビバレンツについて。
世の中には音楽やらスポーツやら実業やら、また文芸にても小説やら、青年がみずからの時間と労力を費やすに足るメジャーな分野はたくさんある。「何が悲しくて俳句なんぞに」と、私までもが自分のことを棚に上げて、目の前の青年に聞いてみたくなる。だが、なにかを愛してしまうことに理由はない。好きだから、やっている、というにすぎないのだろう。
また、ここでいうメジャー/マイナーは軽々しく世俗的な意味であって、そんなものに拘泥する必要はないのかもしれない。だが、青年のなかには、自分が愛して しまったものが広い世間から見れば奇妙に矮小な存在であることに悔しさのようなものを感じ、俳句がマイナーであることを脱する日がいつか来ると信じている人がいるような気がする。
また、ここでいうメジャー/マイナーは軽々しく世俗的な意味であって、そんなものに拘泥する必要はないのかもしれない。だが、青年のなかには、自分が愛して しまったものが広い世間から見れば奇妙に矮小な存在であることに悔しさのようなものを感じ、俳句がマイナーであることを脱する日がいつか来ると信じている人がいるような気がする。
では、このマイナー性の成分とはなにか?
ひとつには俳句が「手習い」的に趣味として親しまれていること、その「非・文学性」。
もうひとつは、作り手と読み手の人口がほぼ拮抗する現状。「作る」と「読む」が自給自足の閉鎖系のなかで循環する「俳句村」状態からくるマイナー性。この基 本構造の上に、自費出版でしかない句集出版、批評の不在、プロトコル化した俳句評価など、さまざまな「俳句の現在」「俳句の風景」が成立している。
さらには、他分野との浸透・連携の不足。俳句が、隣接分野(川柳・短歌・現代詩など)と関連する機会が、彼ら青年たちには見えない。文芸の潮流とは無縁に、 それこそ古井戸のなかで言葉がふつふつ編まれ読まれるかのような孤絶。「同時代性」の欠如は、マイナー感を増幅させるものだ。
●
2009年2月14日土曜日
●シネマのへそ04 インランド・エンパイア 村田篠
シネマのへそ04
インランド・エンパイア (デイビッド・リンチ監督2006年)
村田 篠
自分の中でつじつまが合わないまま見終わってしまっても、差し支えない映画。「どうして?」と考えなくてもすむものとして、観客を巻き込んでしまう映画。
こんなふうに、「デイビッド・リンチを一言で言う」という無謀を冒してしまいたくなるのは、リンチの映画自身のせいである。
リンチの映画とよく似たものに、「夢」がある。抱いて上京したりする夢ではなく、布団の中でみる夢の方。夢をよくみるタイプの観客は、リンチの映画をわりにすんなり受け入れられるのではないかと思う。ただし、リンチのそれはたいがい「悪夢」なので、そこはご用心。
この映画も例にもれない。ある女優のプライベートと、その女優が出演する映画のストーリー、そこに、その映画が実はリメイクで、未完成のまま放置されているという元の映画のストーリーと、テレビ画面をみて泣く女の話が交錯して、どこまでがどの話に属するのか、もう、途中からどうでもよくなってくる。そこでそのまま身を任せられなければ、アウトなのだろう。私は大丈夫なクチなので、今に至るまで、リンチのファンでありつづけている。
しかし、そんな映画を受け入れられる、ということと、そんな映画をつくってしまう、ということの間には、暗くて深い川がある。つくる人の頭の中は、じつは幻想というものに対して非常に強靱にできているのではないだろうか、などと、ふと思う。
リンチ映画のミューズと言っていい主役のローラ・ダーンをはじめ、ジェレミー・アイアンズ、ハリー・ディーン・スタントン、ジュリア・オーモンドと、出演者も一筋縄ではいかない「顔」の持ち主ばかり。
悪夢度 ★★★★★
こんがらがり度 ★★★★★
●
インランド・エンパイア (デイビッド・リンチ監督2006年)
村田 篠
自分の中でつじつまが合わないまま見終わってしまっても、差し支えない映画。「どうして?」と考えなくてもすむものとして、観客を巻き込んでしまう映画。
こんなふうに、「デイビッド・リンチを一言で言う」という無謀を冒してしまいたくなるのは、リンチの映画自身のせいである。
リンチの映画とよく似たものに、「夢」がある。抱いて上京したりする夢ではなく、布団の中でみる夢の方。夢をよくみるタイプの観客は、リンチの映画をわりにすんなり受け入れられるのではないかと思う。ただし、リンチのそれはたいがい「悪夢」なので、そこはご用心。
この映画も例にもれない。ある女優のプライベートと、その女優が出演する映画のストーリー、そこに、その映画が実はリメイクで、未完成のまま放置されているという元の映画のストーリーと、テレビ画面をみて泣く女の話が交錯して、どこまでがどの話に属するのか、もう、途中からどうでもよくなってくる。そこでそのまま身を任せられなければ、アウトなのだろう。私は大丈夫なクチなので、今に至るまで、リンチのファンでありつづけている。
しかし、そんな映画を受け入れられる、ということと、そんな映画をつくってしまう、ということの間には、暗くて深い川がある。つくる人の頭の中は、じつは幻想というものに対して非常に強靱にできているのではないだろうか、などと、ふと思う。
リンチ映画のミューズと言っていい主役のローラ・ダーンをはじめ、ジェレミー・アイアンズ、ハリー・ディーン・スタントン、ジュリア・オーモンドと、出演者も一筋縄ではいかない「顔」の持ち主ばかり。
悪夢度 ★★★★★
こんがらがり度 ★★★★★
●
2009年2月13日金曜日
●追悼 ブロッサム・ディアリー
追悼 ブロッサム・ディアリー
2月7日、ニューヨーク州マンハッタンの自宅にて逝去。享年82歳。
http://www.bounce.com/news/daily.php/18051
(thanks to Tamasudare-san)
2月7日、ニューヨーク州マンハッタンの自宅にて逝去。享年82歳。
http://www.bounce.com/news/daily.php/18051
(thanks to Tamasudare-san)
2009年2月12日木曜日
2009年2月11日水曜日
●おんつぼ15 ヤッシャ・ハイフェッツ さいばら天気
2009年2月10日火曜日
●祐天寺写真館03 酸っぱいおやつ 長谷川裕
2009年2月9日月曜日
2009年2月8日日曜日
●野口裕 父性の在処
父性の在処
野口 裕
生命は、自身のシステムを増殖しようとする性質を持っている。一番古くからあるのは単性生殖で、ひとつの細胞が複数に分裂して増えてゆく。自身のシステムを増やすにはこれで良さそうなものだが、そのうち有性生殖というものが出てきた。
環境が激変したときに、単一のシステムだと全滅しやすいが、少しずつ異なったシステムを持つ子孫があれば、そのうちのどれかが生き延びるだろう。そんな計算のもとに、自身とは少し異なるシステムを持つ生命とシステムの一部を取りかえっこしたのが、始まりだろう。そのうち、取りかえっこするよりも、最初から自身のシステムを分割しておいて、分割したもの同士が合体した方が効率がよいとなって本格的な有性生殖となる。
取りかえっこあるいは、合体を行う生命同士を「配偶子」と呼ぶが、おなじ大きさ同士の配偶子が互いに相手を求めて動き回るのは、効率が悪い。動き回る配偶子と動き回らず合体後の生命の成長を助ける栄養分をたっぷり含んだ配偶子とに役割を固定した方がよい。というような段取りで配偶子は、いわゆる精子と卵になる。
さて、この精子と卵の役割は記号的には♂と♀になるが、これを単純に男性、女性と解釈していいのだろうか?先ほど書いた説明からすると、卵の役割は受精後の生命のゆりかごのようなもので、女性というよりも母性と解釈した方が腑に落ちる点が多い。一方、精子の方は、母性と対となる語は父性だが、父性と解釈するのはためらってしまう。たとえば、父性を代表するような句というと、
子を殴ちしながき一瞬天の蝉 秋元不死男
が上げられるだろう。しかし、この句にあるような生命の成長を叱咤激励する役割は精子にはない。まだしも、男性だろうが、♂は男で♀は母で対の概念になるというのも変な話だ。
どうも、有性生殖という言葉にだまされて、大きな配偶子である卵は女、小さな配偶子である精子は男と単純に対応させるのが少々問題を含んでいると考えた方が良さそうだ。
男、あるいは父という語のもつイメージには、ライオンやニホンザルなど群をなす哺乳動物にある♂の役割が投影されている。群に乱入する者を追い出すときの役割に男のイメージ、群のリーダーの交代劇に父子のイメージなどがそれにあたる。
他方、ゴリラのように他の群との接触を持たず家族単位で生活する♂のイメージは、男あるいは父に投影されていない。さらに言えば、ミツバチのようなほとんど母系社会での♂の役割(男にとっての理想ではある)は、まったく投影されていない。
男と女、父と母、それぞれの対概念に投影されるイメージは、その生物の持つ社会形態に依存する。と、まったく当たり前の結論に行き当たるが、ややもすると対概念のイメージが保証されたような気になることも多いので、こうした駄文を書くことの意味も多少はあるだろう。
●
句会でちょくちょく会う石部明さんが、川柳ではよく父(というよりも、お父さん)が取りあげられるが、その父は戯画化されている、ずっこけたり、間抜けだったりと、笑いの対象であることが多い、という主旨の発言をよくしている。それを思い出して書いてみた。
●
野口 裕
生命は、自身のシステムを増殖しようとする性質を持っている。一番古くからあるのは単性生殖で、ひとつの細胞が複数に分裂して増えてゆく。自身のシステムを増やすにはこれで良さそうなものだが、そのうち有性生殖というものが出てきた。
環境が激変したときに、単一のシステムだと全滅しやすいが、少しずつ異なったシステムを持つ子孫があれば、そのうちのどれかが生き延びるだろう。そんな計算のもとに、自身とは少し異なるシステムを持つ生命とシステムの一部を取りかえっこしたのが、始まりだろう。そのうち、取りかえっこするよりも、最初から自身のシステムを分割しておいて、分割したもの同士が合体した方が効率がよいとなって本格的な有性生殖となる。
取りかえっこあるいは、合体を行う生命同士を「配偶子」と呼ぶが、おなじ大きさ同士の配偶子が互いに相手を求めて動き回るのは、効率が悪い。動き回る配偶子と動き回らず合体後の生命の成長を助ける栄養分をたっぷり含んだ配偶子とに役割を固定した方がよい。というような段取りで配偶子は、いわゆる精子と卵になる。
さて、この精子と卵の役割は記号的には♂と♀になるが、これを単純に男性、女性と解釈していいのだろうか?先ほど書いた説明からすると、卵の役割は受精後の生命のゆりかごのようなもので、女性というよりも母性と解釈した方が腑に落ちる点が多い。一方、精子の方は、母性と対となる語は父性だが、父性と解釈するのはためらってしまう。たとえば、父性を代表するような句というと、
子を殴ちしながき一瞬天の蝉 秋元不死男
が上げられるだろう。しかし、この句にあるような生命の成長を叱咤激励する役割は精子にはない。まだしも、男性だろうが、♂は男で♀は母で対の概念になるというのも変な話だ。
どうも、有性生殖という言葉にだまされて、大きな配偶子である卵は女、小さな配偶子である精子は男と単純に対応させるのが少々問題を含んでいると考えた方が良さそうだ。
男、あるいは父という語のもつイメージには、ライオンやニホンザルなど群をなす哺乳動物にある♂の役割が投影されている。群に乱入する者を追い出すときの役割に男のイメージ、群のリーダーの交代劇に父子のイメージなどがそれにあたる。
他方、ゴリラのように他の群との接触を持たず家族単位で生活する♂のイメージは、男あるいは父に投影されていない。さらに言えば、ミツバチのようなほとんど母系社会での♂の役割(男にとっての理想ではある)は、まったく投影されていない。
男と女、父と母、それぞれの対概念に投影されるイメージは、その生物の持つ社会形態に依存する。と、まったく当たり前の結論に行き当たるが、ややもすると対概念のイメージが保証されたような気になることも多いので、こうした駄文を書くことの意味も多少はあるだろう。
●
句会でちょくちょく会う石部明さんが、川柳ではよく父(というよりも、お父さん)が取りあげられるが、その父は戯画化されている、ずっこけたり、間抜けだったりと、笑いの対象であることが多い、という主旨の発言をよくしている。それを思い出して書いてみた。
●
2009年2月7日土曜日
●祐天寺写真館02 籠の鳥 長谷川裕
〔祐天寺写真館02〕
新聞を取るのは三年まえから止めた、テレビも捨てた。気がつけば、毎日、インターネットを見て、せっせとつまらない餌をつついているばかり。
籠の鳥
長谷川裕
新聞を取るのは三年まえから止めた、テレビも捨てた。気がつけば、毎日、インターネットを見て、せっせとつまらない餌をつついているばかり。
Nikon D300 50mm F1.4 Ai
●
2009年2月6日金曜日
●さいばら天気 吟行という倒錯
吟行という倒錯
さいばら天気
ある句会にはじめて寄せてもらったときのこと。某公園での吟行句会。集合時間が決められていったん解散の自由時間、メンバーの皆さんがほうぼうに散っていく。ぶらぶら歩いていると、句会参加者のひとりが、声をかけてくだすった。
「そっち行っても、句材はないわよ」
え? ぶらぶら歩いててもダメなんですか? なんか鉱物探しみたいですねえ。
散歩好きの私は、「吟行句会」に参加しても、歩いているあいだは俳句のことは考えない。せっかくの散歩を、俳句に邪魔されたくないから。
俳人さんたちと散歩するのは楽しいが、いっしょに歩いて楽しい人となら、吟行でなくても楽しい。ひとりでも楽しい。
吟行句会というものは、俳句をつくるために、どこかに行き、そこを歩く、というものらしい。
私は俳句もつくるが、どこかに出かけて、そこを歩き、それが俳句になることもある、という手順。まずは散歩があり、俳句があとから付いてくる。これは、俳句がまず目的としてある吟行とは逆。
吟行って、倒錯してるなあ、と思う。
●
2009年2月5日木曜日
2009年2月4日水曜日
●祐天寺写真館01 あらゆる洗濯物はうつくしい 長谷川裕
〔祐天寺写真館 01〕
あらゆる洗濯物はうつくしい
長谷川裕
あらゆる洗濯物のうつくしさを気付かせてくれた恩人は、マヌエル・アルバレス・ブラボー。2002年10月、メキシコシティにて没。百歳。
Nikon D300 18~70mm F3.5~4.5G ED
Alvarez Bravo のイメージ検索 ≫こちら
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あらゆる洗濯物はうつくしい
長谷川裕
あらゆる洗濯物のうつくしさを気付かせてくれた恩人は、マヌエル・アルバレス・ブラボー。2002年10月、メキシコシティにて没。百歳。
Nikon D300 18~70mm F3.5~4.5G ED
Alvarez Bravo のイメージ検索 ≫こちら
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2009年2月3日火曜日
●五十嵐秀彦 『俳句界』2009年2月号を読む〔下〕
〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年2月号を読む〔下〕
五十嵐秀彦
さいばら氏は「引用」に限定することで複雑な問題を単純化し、「俳句の著作権」の有無という点をたくみに避けて、最近目にあまるインターネット上の文芸作品引用のマナー違反に警鐘を鳴らしている。
なるほどたしかに第三者チェックのない、あるいは発表者に第三者の存在が見えにくいインターネットでは、しばしば引用のマナー違反が見られる。
今、現実的なことを考えれば、俳句の著作権などという答えの出ない議論に付き合うより、ネットにおけるマナーの問題を整理することのほうがよっぽど有用なことだろう。
そしてそれは、ネットの問題と言うよりは、《紙とネットの違いではなく、書き手によるところが大きい》わけで、書き手が他の作者への敬意をきちんと持てる大人であることが求められている。
確かに大人になれていない書き手が多いよなぁ、と自戒とともに思うのだった。
●座談会「俳句表現のオリジナリティ」 p44-
座談会としては5人というのは少々多すぎたのではないか。
実際にはもっと突っ込んだ議論があったのかもしれないが、まとめられてものは各自がそれぞれ自分の意見を表明しただけで終わっているという印象。
五島「添削に関する裁判で言えば、文学上の問題を法廷に持ち込むこと自体無理があると思います。裁判官はおそらく近代文学における”個”というものを基準に判決を下しているのでしょう。ところが、これは個人的意見ですが、俳句は近代文学ではない」
筑紫「そもそも文学、文芸の概念は、明治時代に外国から輸入されたものですから、短歌や俳句にはすべて当てはまりませんよ」
座談会の終盤での両氏の発言は、私も同意見であるので強く共感したが、上記の発言の前に《俳句に著作権がある、というのは大前提だと思う》と発言している中嶋鬼谷氏が両氏の意見にどのような感想を持ったのか、できれば知りたいところであった。
結語で栗林浩氏の言った「コピーレフト」という言葉は面白いと思う。その意味を知りたい人は、ぜひ本文を読んで確かめていただきたい。
『俳句界』2009年2月号を読む〔下〕
五十嵐秀彦
≫承前
●さいばら天気「引用のルールとマナー」 p40-さいばら氏は「引用」に限定することで複雑な問題を単純化し、「俳句の著作権」の有無という点をたくみに避けて、最近目にあまるインターネット上の文芸作品引用のマナー違反に警鐘を鳴らしている。
なるほどたしかに第三者チェックのない、あるいは発表者に第三者の存在が見えにくいインターネットでは、しばしば引用のマナー違反が見られる。
今、現実的なことを考えれば、俳句の著作権などという答えの出ない議論に付き合うより、ネットにおけるマナーの問題を整理することのほうがよっぽど有用なことだろう。
そしてそれは、ネットの問題と言うよりは、《紙とネットの違いではなく、書き手によるところが大きい》わけで、書き手が他の作者への敬意をきちんと持てる大人であることが求められている。
確かに大人になれていない書き手が多いよなぁ、と自戒とともに思うのだった。
●座談会「俳句表現のオリジナリティ」 p44-
座談会としては5人というのは少々多すぎたのではないか。
実際にはもっと突っ込んだ議論があったのかもしれないが、まとめられてものは各自がそれぞれ自分の意見を表明しただけで終わっているという印象。
五島「添削に関する裁判で言えば、文学上の問題を法廷に持ち込むこと自体無理があると思います。裁判官はおそらく近代文学における”個”というものを基準に判決を下しているのでしょう。ところが、これは個人的意見ですが、俳句は近代文学ではない」
筑紫「そもそも文学、文芸の概念は、明治時代に外国から輸入されたものですから、短歌や俳句にはすべて当てはまりませんよ」
座談会の終盤での両氏の発言は、私も同意見であるので強く共感したが、上記の発言の前に《俳句に著作権がある、というのは大前提だと思う》と発言している中嶋鬼谷氏が両氏の意見にどのような感想を持ったのか、できれば知りたいところであった。
結語で栗林浩氏の言った「コピーレフト」という言葉は面白いと思う。その意味を知りたい人は、ぜひ本文を読んで確かめていただきたい。
2009年2月2日月曜日
●五十嵐秀彦 『俳句界』2009年2月号を読む〔上〕
〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年2月号を読む〔上〕
五十嵐秀彦
今月の特集は「俳句に著作権はあるのか?」と題して、大高霧海、遠藤若狭男、さいばら天気三氏による論考三篇と、安倍元気、五島高資、筑紫磐井、中嶋鬼谷、栗林浩五氏による座談会で構成されている。
論考はたまたまなのか編集者の方針だったのか、大高氏の「法律論」、遠藤氏の「本歌取り」、さいばら氏の「引用」と、きれいにわかれている。
「盗作」という露骨に悪意ある行為を除けば、なるほどこの三点がテーマになるのだろう。
●大高霧海「俳句における著作権の保護」 p30-
確かに今月の特集が「著作権」であり、大高氏が俳人であり弁護士でもあることを考えると、こういう論考になっても不思議ではないかもしれないが、正直な感想を言わせていただくと、呆れてしまった。
前半の記述などは、まるで「コンメンタール」でも読まされているかのようで、学生時代を思い出し不愉快になるほどだ。
弁護士でいらっしゃることから、編集側も期待し、著者も期待されていると思ったのかもしれないが、こうした法律論は、たとえば詩における「いのち」というテーマに医師が出てきて化学療法のコンプライアンスについて論じているかのような、的外れの印象を受けてしまう。
著者の意図に反して、読めば読むほど、なるほど俳句に著作権の適用は無理なのだなと思うだけだった。
特に論末の《桑原の第二芸術論のインパクトは、ある意味で黒船の開国論による明治維新の変革に匹敵するものであった。そのことを俳人は常に忘れずに、著作権の保護を受けられるよう芸術性の向上に向って努めるべきである》に至って、大高氏と私の俳句観が決定的に違うことに気づき、こう考える人たちもけっして少なくないだろうから、これはこれでそうですかと言うしかないのだと思った。
●遠藤若狭男「命短し棄てよ類句」 p35-
大高氏の法律から俳句をとらえるかのような視点よりは、この遠藤氏の取り上げた本歌取りというテーマの方がはるかに俳句的であるのは間違いない。
そもそも江戸時代までこの国には著作権などという考えは存在しなかった。
文芸も美術も音楽、芸能も、その基本姿勢は「まねぶ」であった。
真似て学ぶ。
全て継承する流れの中で刻々と変化し続けるのを良しとしてきた。
本歌取りはそうした姿勢の典型的な方法である。
かつて模倣と批難された寺山修司の短歌を例に挙げて、《本歌取り・・・・・・というのは、『新古今』や寺山修司の例を見れば分かるとおり、詩歌の世界では前向きなものであり、インパクトのあるもの》と定義する。
しかし、そうは定義しても全てが片付かないのが類想類句という問題のいやらしさで、遠藤氏も《類想は必要ですが、類句はご法度というのが俳句の鉄則・・・・・・まことに厄介なものです》と言わざるを得ず、《類句と指摘されたなら、いさぎよく取り消す》というよくある意見に落ち着いてしまう。
結局は、作品の出来と、作者の意識に帰結してしまうのは、当然のことなのかもしれない。
(明日に続く)
※『俳句』2009年2月号は、こちらでお買い求めいただけます。
→仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
●
『俳句界』2009年2月号を読む〔上〕
五十嵐秀彦
今月の特集は「俳句に著作権はあるのか?」と題して、大高霧海、遠藤若狭男、さいばら天気三氏による論考三篇と、安倍元気、五島高資、筑紫磐井、中嶋鬼谷、栗林浩五氏による座談会で構成されている。
論考はたまたまなのか編集者の方針だったのか、大高氏の「法律論」、遠藤氏の「本歌取り」、さいばら氏の「引用」と、きれいにわかれている。
「盗作」という露骨に悪意ある行為を除けば、なるほどこの三点がテーマになるのだろう。
●大高霧海「俳句における著作権の保護」 p30-
確かに今月の特集が「著作権」であり、大高氏が俳人であり弁護士でもあることを考えると、こういう論考になっても不思議ではないかもしれないが、正直な感想を言わせていただくと、呆れてしまった。
前半の記述などは、まるで「コンメンタール」でも読まされているかのようで、学生時代を思い出し不愉快になるほどだ。
弁護士でいらっしゃることから、編集側も期待し、著者も期待されていると思ったのかもしれないが、こうした法律論は、たとえば詩における「いのち」というテーマに医師が出てきて化学療法のコンプライアンスについて論じているかのような、的外れの印象を受けてしまう。
著者の意図に反して、読めば読むほど、なるほど俳句に著作権の適用は無理なのだなと思うだけだった。
特に論末の《桑原の第二芸術論のインパクトは、ある意味で黒船の開国論による明治維新の変革に匹敵するものであった。そのことを俳人は常に忘れずに、著作権の保護を受けられるよう芸術性の向上に向って努めるべきである》に至って、大高氏と私の俳句観が決定的に違うことに気づき、こう考える人たちもけっして少なくないだろうから、これはこれでそうですかと言うしかないのだと思った。
●遠藤若狭男「命短し棄てよ類句」 p35-
大高氏の法律から俳句をとらえるかのような視点よりは、この遠藤氏の取り上げた本歌取りというテーマの方がはるかに俳句的であるのは間違いない。
そもそも江戸時代までこの国には著作権などという考えは存在しなかった。
文芸も美術も音楽、芸能も、その基本姿勢は「まねぶ」であった。
真似て学ぶ。
全て継承する流れの中で刻々と変化し続けるのを良しとしてきた。
本歌取りはそうした姿勢の典型的な方法である。
かつて模倣と批難された寺山修司の短歌を例に挙げて、《本歌取り・・・・・・というのは、『新古今』や寺山修司の例を見れば分かるとおり、詩歌の世界では前向きなものであり、インパクトのあるもの》と定義する。
しかし、そうは定義しても全てが片付かないのが類想類句という問題のいやらしさで、遠藤氏も《類想は必要ですが、類句はご法度というのが俳句の鉄則・・・・・・まことに厄介なものです》と言わざるを得ず、《類句と指摘されたなら、いさぎよく取り消す》というよくある意見に落ち着いてしまう。
結局は、作品の出来と、作者の意識に帰結してしまうのは、当然のことなのかもしれない。
(明日に続く)
※『俳句』2009年2月号は、こちらでお買い求めいただけます。
→仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
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2009年2月1日日曜日
●上田信治 『俳句』2009年2月号を読む
〔俳誌を読む〕
『俳句』2009年2月号を読む
上田信治
●特集「いま、注目する俳句と俳人」 p.59-
副題に「『俳句年鑑2009年版』の「諸家自選五句」(3475句)に見る」、惹句のような感じで「俳壇の新しいテーマや潮流はこれだ!」とあります。
実は、自分も、今年初め、年鑑の「自選五句」を通読しました。
『週刊俳句』で、天気さんと「年代別収穫」のページについてBBS対談をやらせてもらいまして、毎年のことですが「これで、全部じゃないだろー」「各年代担当者の選句眼に、そうとう左右されてるだろー」と思い、ほらほらちゃんとこっちも見ないと、と言いたいという、いわばリベンジのつもりで臨んだのですが、これが、大変こたえる作業で、一日では終わらないわけです。
約700人3500句といえば、ざっと句集10冊分。
作家の今年1年の成果としての5句は、たとえばその方々が句集を出されるとしたら、エッセンスの部分にあたるはず(7年に1冊だされるとして、5×7=35。だいたい収録作の10%強)・・・なんですが、じゃあ、それを読むことが、めくるめく経験かっていうと、だいたいご想像の通りです。
その労苦を共有された矢島渚男・池田澄子・中嶋鬼谷・出口善子・寺井谷子・遠藤若狭男・中西夕紀・仲 寒蝉・山西雅子・小川軽舟 の諸先生が、それぞれ、もらされた「感慨」が読みどころです(多くの方が、深くため息をついているように見えます)。
「新しさ」「多様性」「寛容」そんなキーワードが浮かんでくる、2009年初頭でした。
せっかくなので、自分も選んだ句をあげます。…ちょっと勇気いりますね。
綿虫や突つ支ひ棒に日が当り 小笠原和男
いっぽんの苧環の景雨また雨 小宅容義
いつまでも日は西にある牡丹かな 大峯あきら
蟷螂の両眼のやや離れをり 長田等
数へ日や一人で帰る人の群 加藤かな文
青空に用あるごとく出初式 櫂未知子
晩年は下駄履きでくる鯰かな 柿本多映
なが\/と岬が春をひろげけり 倉田紘文
窓枠に久しき窓や鳥の恋 桑原三郎
鯨より小さかりけり捕鯨船 小林貴子
砂嘴ひとつ海より生るる初景色 佐藤郁良
生きてゐてよかつた柿の種たひら 鳥居真里子
降る雪に立喰ソバは鋭き香 中村堯子
流木に腰掛けてゐる帰省かな 古田紀一
白兎吊り提げられし長さかな 山田弘子
冬の雨鬱の字に似てマンドリル 山根真矢
烏賊およぐ神に吸はるるその泳ぎ 吉本伊智朗
○を打った句はもっとたくさんあります。いや、けっこう「面白い」んですよ。
たしかに、新しくはな・い・・・か。
でも、けっこう面白いけどなあ・・・と、俳句の将来に責任のない立場は、気楽です。
そうそう。自選五句中の「週俳」掲載句。(見落としあったら、すいません)
暮れ残る十一月のどんぐりも 加藤かな文
夕風のなかなか迅し夏桔梗 千葉皓史
蟻止まり有象無象を見上げたる 中田剛
これは、うれしかった。ありがとうございます。
●合評鼎談 p.151-
今年の合評鼎談は、本井英さんと今井聖さんのバトルが楽しみ。
互いの推薦句の鑑賞も、けっこうですなー、で終わらないので、熱が入ります。
●「17文字の冒険者」p.210-
ときどき「俳句を読む」をご執筆の、野口る理さんが寄稿。
ふらここに恐ろしき音ありにけり 野口る理
※『俳句』2009年2月号は、こちらでお買い求めいただけます。
→仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
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『俳句』2009年2月号を読む
上田信治
●特集「いま、注目する俳句と俳人」 p.59-
副題に「『俳句年鑑2009年版』の「諸家自選五句」(3475句)に見る」、惹句のような感じで「俳壇の新しいテーマや潮流はこれだ!」とあります。
実は、自分も、今年初め、年鑑の「自選五句」を通読しました。
『週刊俳句』で、天気さんと「年代別収穫」のページについてBBS対談をやらせてもらいまして、毎年のことですが「これで、全部じゃないだろー」「各年代担当者の選句眼に、そうとう左右されてるだろー」と思い、ほらほらちゃんとこっちも見ないと、と言いたいという、いわばリベンジのつもりで臨んだのですが、これが、大変こたえる作業で、一日では終わらないわけです。
約700人3500句といえば、ざっと句集10冊分。
作家の今年1年の成果としての5句は、たとえばその方々が句集を出されるとしたら、エッセンスの部分にあたるはず(7年に1冊だされるとして、5×7=35。だいたい収録作の10%強)・・・なんですが、じゃあ、それを読むことが、めくるめく経験かっていうと、だいたいご想像の通りです。
その労苦を共有された矢島渚男・池田澄子・中嶋鬼谷・出口善子・寺井谷子・遠藤若狭男・中西夕紀・仲 寒蝉・山西雅子・小川軽舟 の諸先生が、それぞれ、もらされた「感慨」が読みどころです(多くの方が、深くため息をついているように見えます)。
「俳句という文芸は発生の当初から、面白くなければならないという課題を背負ってきた。ほんとうは面白くなければ俳句ではないのだ。「面白さ」にはいろいろあるが、古来「新しさ」こそがもっとも重要な要素であった」矢島渚男
「一つの方向を決めて皆で走れば確実に俳句はやせる。新しさは方向も方法も前もって決められない。(…)気がついたらさまざまな新しい俳句が、さまざまなところに脈絡無く現れていた、というのが理想だ。佳い句は新しく、新しい句は佳い句なのである。」池田澄子
「句集などが送られてきて、これは、と思う若い俳人も二、三あるが、残念ながら『年鑑』の「諸家自選五句」欄には記載されていない。」出口善子
「二つのものが幅を利かせているように思った。一つは季語周辺のものを、技巧的に描いた(…)名付けるなら写生モダンと言いたいもの」「その一方で(…)現実の自分から離れて自分を詠っている感触の句で人事句の最近の詠い方のように思われる」中西夕紀
「確かに多くの人が同じ方向を目指していたような時代の力強さはないかもしれないが、逆にこれ程様々な傾向の俳句が存在する時代はかつてなかったのではなかろうか」仲寒蝉
「今俳句にとってなすべきことは個の場所を懸命に耕すこと。そして傾向が違うというだけで他者の仕事を切り捨てないことではないだろうか」山西雅子
「新しさ」「多様性」「寛容」そんなキーワードが浮かんでくる、2009年初頭でした。
せっかくなので、自分も選んだ句をあげます。…ちょっと勇気いりますね。
綿虫や突つ支ひ棒に日が当り 小笠原和男
いっぽんの苧環の景雨また雨 小宅容義
いつまでも日は西にある牡丹かな 大峯あきら
蟷螂の両眼のやや離れをり 長田等
数へ日や一人で帰る人の群 加藤かな文
青空に用あるごとく出初式 櫂未知子
晩年は下駄履きでくる鯰かな 柿本多映
なが\/と岬が春をひろげけり 倉田紘文
窓枠に久しき窓や鳥の恋 桑原三郎
鯨より小さかりけり捕鯨船 小林貴子
砂嘴ひとつ海より生るる初景色 佐藤郁良
生きてゐてよかつた柿の種たひら 鳥居真里子
降る雪に立喰ソバは鋭き香 中村堯子
流木に腰掛けてゐる帰省かな 古田紀一
白兎吊り提げられし長さかな 山田弘子
冬の雨鬱の字に似てマンドリル 山根真矢
烏賊およぐ神に吸はるるその泳ぎ 吉本伊智朗
○を打った句はもっとたくさんあります。いや、けっこう「面白い」んですよ。
たしかに、新しくはな・い・・・か。
でも、けっこう面白いけどなあ・・・と、俳句の将来に責任のない立場は、気楽です。
そうそう。自選五句中の「週俳」掲載句。(見落としあったら、すいません)
暮れ残る十一月のどんぐりも 加藤かな文
夕風のなかなか迅し夏桔梗 千葉皓史
蟻止まり有象無象を見上げたる 中田剛
これは、うれしかった。ありがとうございます。
●合評鼎談 p.151-
今年の合評鼎談は、本井英さんと今井聖さんのバトルが楽しみ。
互いの推薦句の鑑賞も、けっこうですなー、で終わらないので、熱が入ります。
●「17文字の冒険者」p.210-
ときどき「俳句を読む」をご執筆の、野口る理さんが寄稿。
ふらここに恐ろしき音ありにけり 野口る理
※『俳句』2009年2月号は、こちらでお買い求めいただけます。
→仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
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