鳴らなくなったアンプを叩いて鳴らす
さいばら天気
先週5月24日のネット拾読で、歌人の荻原裕幸氏のブログ記事を引かせていただいたところ、荻原さんのブログに早速この記事が。
●2009年5月24日(日)from ogiwara.com
http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2009/05/2009524-75f6.html
ポストモダンの文脈で俳句を考えず、俳句の文脈でポストモダンを考えることもできるのではないだろうか。(…略…)発句を単独で俳句/文学/詩とするような行為を、モダン化だと考えるならば、俳句におけるポストモダンは、発句の変容のなかにあるのではなく、俳諧の平句にあるプレモダン的なものがそれにあたるのではないかという気がする。ポストモダンの潮流について、短歌の場合、先週の記事にも書いたように、通時的に整理がつくようなのだが、俳句の場合は、小野裕三さんの把握(やはり先週に触れた)によるなら、俳句史上に「ポストモダン俳句」は現れなかった(上田信治氏は、ポストモダン「的」な出来事として坪内稔典「三月の甘納豆のうふふふふ」をピックアップされたのだと解する、この場合の「的」は「っぽい」とか、そういう…)。
荻原氏の「俳諧の平句(プレモダン)=ポストモダン」との把握・着想は、「プレ」という歴史的経緯の要素を横に置いておけば、共時的に捉えらえる(通時がダメなら共時というわけで)。つまり、発句に端的なモダン性と平句のポストモダン性の対照。
たいへん興味深いが、ここからさらに先は、私には荷が重い。
すこし話が逸れるのを覚悟で、ふたつの話題が頭に浮かぶ。ひとつは四童さんと歌仙(連句)についてしゃべったときに出た「平句復権」というか「平句礼賛」の気分(こちら「アフター両吟歌仙 第三夜」を参照)。もうひとつは、今の若い人に「深い切れ」を嫌う傾向があるということ(なんとなくの印象だが)。
ここからさらに憶測というか随想を広げれば、切れや二物衝撃が俳句の近代化に寄与してきた部分があるという前提で、そこから離れ、平句へと「いまの気分」が向かっているという言い方もできるかもしれない。あるいは、また違う比喩になるが、かつての時代の「りっぱな俳句」の剛構造とは違う、柔構造の俳句が生まれている。例えば鴇田智哉の俳句。さらに言えば、それは「空気のような平句」とも、私には思える。
とまあ、いろいろ思い浮かぶことはあるが、悲しいかな、まとまりきらない。
で、この話には関係がないが、この「ウラハイ」のなんだかわからない記事を、あの(!)荻原裕幸氏がお読みになったという事実に、まず、うろたえてしまい(もちろん有り難いことなのだが恐縮至極という…)、これで内容・筆致に自省が働けばいいのだが、なかなかそうは行かず、今回もバカを承知で長くなりそうですから、皆さん、御覚悟を。
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●前向きで行こう~相対性俳句論(断片)2009/5/24 from たじま屋のぶろぐ
http://moon.ap.teacup.com/tajima/740.html
むかしのテレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』の話題。シロウトが「映像作品」を応募するこの番組、私も楽しみに観ていた。今でも憶えているのは、新聞の天気図(等圧線)を連続して何日も一齣ずつ撮影してアニメにした作品。台風が天気図の上を北上していき、日本地図と絡む。とても洒落ていた。
YouTube動画として貼られた「前向きで行こう」という作品も憶えている。青春青春した感じは、あの頃のああいう髪型(刈り上げ? テクノカット?)とともに、ちょっと気恥ずかしいが、それは時間が経って、私が年老いたからというのではなく、当時も、恥ずかしい感じは抱いたのだ。だが、そうした恥ずかしさ「込み」で、青春というものがあり、それはそれで価値がある。恥ずかしいけれど、それだから切実感が胸に迫ってくるのだ(いや、逆か。切実だから恥ずかしいのか)。切実じゃなければ、引きずるものもなく、カッコ悪いこともなく、したがって恥ずかしくない。でも、それには、それほどの価値はない。
「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」早川義夫
この数分間の「前向きで行こう」、そこらの青春ドラマより、いいと思います。いま観ても。
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豈weekly・第40号(2009/5/24)には、読み応えのある書評が4本並んだ。
●空とは何か 阿部完市句集『水売』を読む 山口優夢
●書評 小池正博『蕩尽の文芸――川柳と連句』 湊圭史
●一杯の茶と出っ歯の冒険 デイヴィッド・G・ラヌー『ハイク・ガイ』を読む 高山れおな
●春日武彦『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』から 関悦史
このうち春日武彦『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』にとりわけ大きな関心を持った。
その第2章「ミニチュアとしての文章」に、春日武彦が勤務先で見かけたいきなり「私を捨てないで下さい」とだけ書かれた謎の木片、「ますように」とだけ書かれて七夕竹から下がっていた短冊、さらに詩人フランシス・ポンジュの短い死亡記事(…略…)といった雑多な事例に混じって俳句の話が出てくるのだ。さまざまな片言と同じ俎上に載せられる俳句。
関悦史・上記 http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/05/08.html
むかし新聞の求人広告(1~3行です)の文言を大量に読んだ時期がある。趣味・遊びではなく仕事として、それを材料に雑文を書いたのだ。例えばパチンコ屋さんのそれには、「毎日ジュース・タバコ支給」に笑ったり、「駅を降りたら即電話」「身ひとつで来てください」など、失踪者・蒸発者の受け入れ先を自認しているかのようなコピライトにちょっとじ~んと目頭を熱くしたことを思い出した。
新聞広告に限らず「1行」の片言のおもしろさは世の中のいろいろなところにある。俳句も、そうした「1行で勝負するもの」のひとつと、つねづね考えていたので、関氏のこの書評を読んで、すぐさま春日武彦のこの本を注文した(ついでに春日武彦と平山夢明の対談本『「狂い」の構造 人はいかにして狂っていくのか?』扶桑社新書も注文)。
そういえば、さきほど触れた田島氏の記事にあったヴィデオ作品「前向きで行こう」でも、片言が次々と飛び出し、そこに「片言的」映像がシンクロする。
さらに例えば思い当たるのは、イラストレーター山本祐司さんのサイト「トコトコネット」にある「1日ひとこと」というページ。
http://www31.ocn.ne.jp/~y2u2j2i2/800.1hi1koto.html
読者(サイト閲覧者)を楽しませようとする意図、つまりウケ狙いがなく、そのぶん味わい深い。
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「たじま屋のぶろぐ」からもう1本。
僕たちのちょっと前の世代くらいから、若い人達の間で、この「無垢なる天才」というキャラクター設定が増え始め、最近では若い人自身がナマの自分自身を、そのような立ち位置でイメージしているんじゃない?と感じることが多い。「ドラゴンボール」の孫悟空や「Dr.スランプ」の則巻アラレが「無垢なる天才」というキャラクターの例。
●MR.BRAIN その2 2009/5/27 from たじま屋のぶろぐ
http://moon.ap.teacup.com/tajima/743.html
「天才」だとしても、裏で汗水たらして努力しているようなのはダメで、「無垢」だとしても、アホな者は主役になれない。(同)天才と無垢の相性の良さは、昔からのことだと思うが(無垢には社会性の欠如とかも含まれる。「世故に長けた天才」がなんだかヘンテコリンな矛盾に思えるのは、そのせいだ。天才=無垢が古くからのお馴染みの物語だとしても、田島氏が指摘する「世代」の傾きは、なるほど、そういう感じかもしれないとも思う。
ただし、この記事後半には…
現在の時代背景が求めているのは、そのような「無垢なる天才」ではなく、むしろ「仕事において職人的な能力を発揮しながらも、常に悩み、苦しみ、微調整を繰り返す」というWBCのイチローのような人間モデルなのじゃないでしょうか。…とあり、つまり、「若い子たちよ、この時代、無垢なる天才じゃやってけないよ」ということを、田島氏はおっしゃりたいのか。
なお、俳句に絡めての話題も(少々強引だが)、この記事にはある。引いておこう。
「私」という「無垢なる主体」は「天才的な能力」を選択的に発揮する。これが、理想的な自我なのである。この「無垢なる主体」が「能力」から分離している、という感じ方は、俳句の世界にも影響を及ぼしている。この部分、どの程度、事実を言い当てているのか、私にはよくわからない。やや思念的すぎるようにも思うが、田島氏には、このような抽象化(モデル化)へと到るに妥当な材料があるのだろう。すなわち御自身で見聞きした具体的な事実。そこがこの記事で知り得ないこともあって、首を縦にも横にも振れない。ただ、世間一般の成功モデルの世代的変化が、俳人(俳句作家)の性向に反映されることは、あり得ない話ではない。
つまり優れた作品は「無垢なる主体」から生まれるのであって、「無垢なる」主体とは俳句的な「作為」に汚れていない、ということであって、これといった理屈や理論や方法論抜きに、対象と一対一で対峙したときに「無垢なる主体」が強烈な集中力(これが「天才的な能力」なわけですね)を発揮して、信じられないような作品を生み出す。…という、文字で書くとすごい神がかりなイメージ。
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小野裕三氏の書評記事から、以下。季語を鍵に、俳句と川柳の対照が鮮やか。
(…)季語に一句の方向が集中することによって、作者の感情はそれに比べて相対的に「客観的」なものとして定着する。「最後に自分に突き放す」機能を季語は持っているというわけだ。池田氏の言い方を借りれば、「作者をも季物の一つとして豊かなものにする」ということだろうか。このような相対的世界観は、確かに俳句の大きな特徴だ。例えば季語を制度として持たない川柳はいつもひりひりするような「世界」と「私」の端境にいる。そのこと自体は、別に俳句と比較して優劣を言うことでもない。それぞれの文芸の特徴でしかないからだ。ただ、俳句を見慣れた眼からすると、川柳の世界はどこか生過ぎるというか、対象物が近すぎるというか、映画館の一番前の席でスクリーンを見ているような雰囲気を感じてしまう。俳句は、季語を導入することによって、それが世界にも私にもフィルターのようになって働く。フィルターによって一度整序された対象物を見るので、そこにはある意味での箱庭的安定感がある。川柳の部分、首肯しながら読み、週刊俳句第7号掲載の「「水に浮く」×「水すべて」を読む ……上田信治×さいばら天気」を思い出した。この記事は、自分の週俳でのベスト・パフォーマンスのひとつと思っている(昔のほうが良かったですね、わたしの場合)。
●池田澄子『休むに似たり』 2009/05/25 from ono-deluxe
http://www.kanshin.com/diary/1829038
と、まあ、ネット拾読は、そろそろこのへんで。
(ああ、やっぱり、長くなってしまった)
それでは次の日曜日に、またお会いしましょう。
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