関悦史
けさ秋や塵取にとる金亀子 関根千方
季重なりの句だが「今朝の秋」が主、「金亀子」が従とはっきり序列がある。単にピントをぼけさせないよう整理がゆきとどいているというよりは、夏のものであるコガネムシが立秋の朝を引き立てるためのダシとして利いているというべきだろう。上五に季語を置いて「や」で切り、下五を五音の名詞で止めるという有季定型句のお手本のような作りも内容に合っている。塵取に落とされた瞬間、コガネムシのかたさが立てる軽い音が、夏から秋へと移行する朝の空気の質感を際立たせ、感覚的な清新さをもたらす。
そうしたことどもの四角四面さが自足に直結し、却って狭苦しさや苛立たしさを引き起こしてもおかしくはないはずなのだが、この句にはどこかいい意味での隙間があり、季語の美しさばかりで一句が満たされきっているというわけではなさそうだ。
音や質感がもたらす即物性が、CGじみた美しい季語の世界の完結感を、外の実在物の世界へと開かせているということもあろうが、「金亀子」が虚子の《金亀子擲つ闇の深さかな》を思い起こさせ、秋朝の空気のなか、塵取に落ちる「金亀子」の体内に「闇の深さ」への通路を感じさせているということもある。しかしそうした間テクスト性による膨らみもまた、日本の古典文学における模範のような四角四面さへと繋がってしまうものではある。
この何から何まで模範的でしかないような作りの句が、それでも成り立っているのは、結局作者の受動性、あるいは出来事と感動の時差によるものなのではないか。塵取にとられた金亀子が立てるかすかな物音は、重く鬱陶しい感動を引き起こしたりすることなく、作者が何を物語るひまもないうちに、俳句の技法が自走するようにして一句に仕上がってしまうのである。この句に描かれた全ては、作者や読者の人格的統合性を斬るように瞬時にとおり過ぎる。そここそが快感なのだ。手練れの俳人であれば、その快感を過不足ない五七五に反射的にまとめ得る。この句の模範ぶりはその結果としてあらわれたものなのだ。
句集『白桃』(2017.3 ふらんす堂)所収。
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