2017年4月28日金曜日

●金曜日の川柳〔西田雅子〕樋口由紀子



樋口由紀子






鳥籠から逃してあげるわたしの手

西田雅子(にしだ・まさこ)

鳥籠にいるのは鳥である。だから逃してあげるのは鳥のはずである。しかし、「わたしの手」。「鳥籠」は生活全般の比喩で、そこから「わたしの手」、私の一部分を、自由にさせてあげるという意味だろうか。

狭い鳥籠の中を不自由に飛び回る鳥を見ていたら、鳥を鳥籠から逃がしてあげたくなった。手をそっと鳥籠に入れて、鳥を捕まえて、鳥を外に出す。そのときにわたしの手に目がとまった。わたしの手もいろいろと我慢している。鳥と一緒にここではないどこかへ逃がしてあげようと思ったのではないだろうか。そういえば、鳥と手、なんとなくかたちや動きが似ている。

〈バスを待つ秋は遅れているらしく〉〈夕焼けにいちばん近い町に住む〉〈運ばれて十一月の岸に着く〉〈ひとりずつ鏡の中をゆくゲーム〉『ペルソナの塔』(あざみエージェント 2014年刊)所収。

2017年4月25日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉6 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉6

福田若之


遠いむかしに自分なりにけりを付けたはずのことがらが、いまだに僕をえぐり、むしばみつづけているこの感じ。僕は痛々しく生き、痛々しく死ぬだろう。

  ●

あるひとがもし本当に自らの作品の「不滅」だけをひたすらに志すなら、そのひとは、たとえば俳句を書くことなどやめて、いますぐ電波の抑揚によって自らを表現し、宇宙へ向けてそれを発信するほうがよいと僕は思う。たかだか地球が滅んだくらいで失われる作品の「不滅」なんて、そんなものは欺瞞でしかない。

  ●

書かれたものが消え去るということ、それを諦念によって受け入れるだけなら、書くことはニヒリスティックでしかない。消え去るけれども書く、という逆接の虚しさ。そうではなく、書かれたものが消え去るということについての絶対的な肯定から出発して書くこと。すなわち、消え去るからこそ、消え去るためにこそ書く、ということ。真に書くとはそういうことだと僕は信じる。

2017/3/20

2017年4月24日月曜日

●月曜日の一句〔小川軽舟〕相子智恵



相子智恵






耳遠き父を木の芽の囃すなり  小川軽舟

「俳句」5月号(角川学芸出版 2017.04)

加齢によって耳が遠くなることは、ハンディキャップでありネガティブな要素ではあるのだが、〈木の芽の囃すなり〉の、父と木の芽の交流にはファンタジーな味わいがあって、お伽噺の一場面のように感じられてくる。結果として、一句は明るい印象に着地している。

木の芽が囃すというのは、聴覚ではなく視覚に訴える。だから父の現実として無理なく読めつつ、「囃す」という擬人化によって一気に詩の世界、童話的世界に誘われるのだ。

花咲か爺ではないけれど、お爺さんと木の精霊は不思議に似合う。現実に執着せず次第に童話的世界に踏み入れていく老人としての父と、それを肯定しているであろう子の関係もまた、静かに明るい。

2017年4月21日金曜日

●金曜日の川柳〔炭蔵正廣〕樋口由紀子



樋口由紀子






おかしいおかしいと行くゆるいカーブ

炭蔵正廣

私はかなりの方向音痴で、よく道に迷う。目的地に着けないこともたびたびある。もともと方向に自信がないので、途中でおかしいと思っても、それでどうすれがいいのか、その修正の方法がわからない。こっちは北だから、こう行けばいいとかがさっぱり見当がつかない。だから、おかしいと気づいてもただ前を行くしかない。

「ゆるいカーブ」が上手いと思った。カーブだからいままでの道は徐々の見えなくなる。急に見えなくなると一気に不安になるが、まだ振りかえることができる。しかし、すぐに見えなくなる。人生もそうかもしれない。おかしいとおかしいと思っても、そこを進むしかない。なんとかなると信じるしかない。でもおかしいというのはうすうす気づいている。〈画面から消したいカオがふたつある〉〈おそらくは開けたら笑う玉手箱〉〈散らかった数字の中に誕生日〉 「天守閣」(2016年刊)収録。

2017年4月19日水曜日

●水曜日の一句〔関根千方〕関悦史


関悦史









けさ秋や塵取にとる金亀子  関根千方


季重なりの句だが「今朝の秋」が主、「金亀子」が従とはっきり序列がある。単にピントをぼけさせないよう整理がゆきとどいているというよりは、夏のものであるコガネムシが立秋の朝を引き立てるためのダシとして利いているというべきだろう。上五に季語を置いて「や」で切り、下五を五音の名詞で止めるという有季定型句のお手本のような作りも内容に合っている。塵取に落とされた瞬間、コガネムシのかたさが立てる軽い音が、夏から秋へと移行する朝の空気の質感を際立たせ、感覚的な清新さをもたらす。

そうしたことどもの四角四面さが自足に直結し、却って狭苦しさや苛立たしさを引き起こしてもおかしくはないはずなのだが、この句にはどこかいい意味での隙間があり、季語の美しさばかりで一句が満たされきっているというわけではなさそうだ。

音や質感がもたらす即物性が、CGじみた美しい季語の世界の完結感を、外の実在物の世界へと開かせているということもあろうが、「金亀子」が虚子の《金亀子擲つ闇の深さかな》を思い起こさせ、秋朝の空気のなか、塵取に落ちる「金亀子」の体内に「闇の深さ」への通路を感じさせているということもある。しかしそうした間テクスト性による膨らみもまた、日本の古典文学における模範のような四角四面さへと繋がってしまうものではある。

この何から何まで模範的でしかないような作りの句が、それでも成り立っているのは、結局作者の受動性、あるいは出来事と感動の時差によるものなのではないか。塵取にとられた金亀子が立てるかすかな物音は、重く鬱陶しい感動を引き起こしたりすることなく、作者が何を物語るひまもないうちに、俳句の技法が自走するようにして一句に仕上がってしまうのである。この句に描かれた全ては、作者や読者の人格的統合性を斬るように瞬時にとおり過ぎる。そここそが快感なのだ。手練れの俳人であれば、その快感を過不足ない五七五に反射的にまとめ得る。この句の模範ぶりはその結果としてあらわれたものなのだ。


句集『白桃』(2017.3 ふらんす堂)所収。

2017年4月18日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉5 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉5

福田若之


俳句文学館で資料に当たっていたら、偶然、こんな一節を見つけた。
躍進する明治の息吹きが新聞「日本」「小日本」を、後には雑誌「ホトトギス」を生む事により、全日本の俳人は新しい靱帯によつて結ばれた。因習や伝承を乗り越えて、「郵便」と「活字」は普ねく広く俳人をして自己を飛躍せしめる時に遭遇せしめた。
(小田武雄「正岡子規研究(三)」、『天の川』、通巻第270号、1942年9月、22頁。引用の際、漢字はすべて新字に改めた)。
「郵便」と「活字」の婚姻――若いふたりの結婚は誰もがうらやむものだったろう。年月を経て、ふたりは誰もがうらやむ素敵な老夫婦となった。新聞と雑誌は、このふたりのあいだに生まれた子どもたちだったのだ。そして、「郵便」と「活字」の挙式を彩った俳人たちの飛躍。想像してみてほしい、俳人たちが無数の郵便物となって因習や伝承の向こう側へ物理的に飛躍していく姿を。

  ●

「プレーンテキスト」はほんとうにテキストだろうか。それが触れ得ないものであることは明らかだ。てざわり(texture)のないテキスト(text)、幽霊の着ている服――幽霊も服も半透明なのに、幽霊はどうしてあの服で裸を隠せるのだろう――僕はどうしても信じることができない。

  ●

筆跡だけが、言語がまるまる失われてもなお、生きながらえる。テキストに書き手がいたことの証として最後に残るのは、思想でも固有名でもない。筆跡だ。そして、筆跡にはてざわりがある。

  ●

僕は、まちがっても、不滅の筆跡などというものがありうると信じているわけではない。むしろ、筆跡はもっともはかないもののひとつだ。だからこそ、僕は筆跡のことを信じている。

  ●

僕のテキストの表面で、かまきりが他のかまきりのほかに何を食べることができるのか、どうやって生きているのか僕は知らなかった。おそらく、あれは人を食っているんだ。この仮説が正しければ、僕が句に書くかまきりは、自らをとりまくものによく擬態し、そうやって騙した相手を自らの餌にしているということになる。こんなふうに書けば、かまきりは、僕たちが普段「かまきり」と書いてあればその虫を意味するものと思い込んでやまないあの虫を、いよいよほんとうに意味しているかのようだ。

  ●

言葉が植物であるとすれば、意味とは光合成のことだろう(葉緑体ではなく)。まなざしに照らしだされたページのうえでだけ、言葉は意味する。そして、植物が光合成を持っているわけではないのと同じように、言葉は意味を持っているのではなく、意味するのだ。

  ●


2017/3/12

2017年4月17日月曜日

●ビール

ビール

生ビール輝きながら来たりけり  柏柳明子

飲み干せるビールの泡の口笑ふ  星野立子

心昏し昼のビールに卓濡らし   大野林火

浚渫船見てゐる昼のビールかな  依光陽子

浅草の暮れかかりたるビールかな  石田郷子

福引のみづひきかけしビールかな  久保田万太郎


2017年4月15日土曜日

●週俳創刊10周年オフ会は明日4月16日(日)

週俳創刊10周年オフ会は明日4月16日(日)

場所は小石川後楽園・涵徳亭。いろいろなイベントを用意しております。

事前のお申し込みがなくとも、気が向いたらお出かけください。

【昼の部 13:00~17:00】
興行  ≫見る
※全員参加型の楽しい催し。

4つの句会を同時開催

【夜の部 17:30~20:30】
懇親会  ≫見る



2017年4月14日金曜日

●金曜日の川柳〔月波与生〕樋口由紀子



樋口由紀子






花びらは馬のかたちで着地する

月波与生 (つきなみ・よじょう)

今年の桜は開花からあっという間に満開になって、もう散り始めている。「花びら」が「馬のかたち」とはびっくりした。いろいろな花びらのかたちを聞いたことがあるが、「馬のかたち」は初耳である。馬のかたちで準備していた花びらなら着地した途端に颯爽と駆けだしていきそうである。

いろいろと想像してみた。花びらは桜本体から離れるときにやっと自己主張して、自らの意志で馬のかたちを選択したのではないだろうか。咲いているときは毎日が平穏で退屈だったから、自由に颯爽と駆け抜ける馬に憧れていたのだ。だから、馬のかたちになった。花びらは着地して、ここではないどこかへ走り出す。新たな旅立ちである。〈ライオンになる日に丸を付けてみる〉〈あせらない今日はきりんを眺める日〉 「杜人」250号(2016年刊)収録。

2017年4月12日水曜日

●水曜日の一句〔岡田耕治〕関悦史


関悦史









初時雨倉庫の中に椅子を置き  岡田耕治


この句、「倉庫の中に椅子を入れ」ではない。「~置き」である。椅子をしまって去ってしまったわけではない。置いた椅子には自然と腰をおろすことになるだろう。自室や勤務先の椅子ではない、普段はそこでくつろぐことはおそらくないであろう倉庫でのひと時である。

子供のときには家のなかのあちこちに、こうした普段とは違う使い道を発見し、狭いところにも猫のように入り込んでゆくものだ。そこには狭いところに身を隠す安心感と、見慣れたところから不意に引きだされる意外な視野の新鮮さの両方がある。

しかしながら、この句中の人物はおそらくもう子供ではない。季語は「初時雨」である。その年最初の時雨であり、季節は冬に入っている。ここからおのずと、ある程度年齢のいった人物像の落ち着きも浮かんでくる。

倉庫から眺める時雨は、幼時のような心の弾みの影を引きながらも、安息感をもって人を憩わせる。さしあたり、椅子と屋根さえあれば、世界はどこであれ母胎としての貌を見せるのかもしれない。そしてそうした変容の可能性は、何の変哲もない倉庫にもひそんでいるのである。


句集『日脚』(2017.3 邑書林)所収。

2017年4月11日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉4 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉4

福田若之


僕は夢のなかで俳句を書いたことは一度もない。僕の頭のなかだけで終わった言葉が俳句であったことは一度もない。

  ●

僕は夢のそとで俳句を書いたことは一度もない。夢がなければ、僕は俳句を書くことはできない。

  ●

僕は俳句を書いたことがある。少なくとも僕はそう信じている。

  ●

夢うつつ。それは、海岸の名だ。

2017/3/11

2017年4月10日月曜日

●月曜日の一句〔岩津必枝〕相子智恵



相子智恵






向き変へて日あたる方へ花筏  岩津必枝

句集『十日戎』(文學の森 2017.03)

水の流れの穏やかな場所にできる花筏。風が吹いたのだろうか。大きな一枚の布のようにも見える花筏が、ゆっくりと向きを変えて日向の方へ動いていった。日陰から日当たる方へ、見えている花の色もゆっくりと、濃い色から明るい色へ変化する。ただそれだけの風景である。

「ひあたるほうへはないかだ」の「H」「A」の音の多さによって、読んでいるうちに息が抜けていき、何とものんびりした気分になる。あっという間に散ってしまう桜の時間の中で、花筏だけをぼんやり眺めているゆっくりとした時間は幸せだ。そんなぼーっとした幸せを、この句を読んで追体験した。

2017年4月8日土曜日

●週俳創刊10周年オフ会は4月16日(日)

週俳創刊10周年オフ会は4月16日(日)

場所は小石川後楽園・涵徳亭。いろいろなイベントを用意しております。

懇親会  ≫見る
※おおまかな人数を把握したいと存じます。確定でなくてもお申込みくだされば幸甚。

興行  ≫見る
※全員参加型の楽しい催しになりそうです。

句会場を週俳が貸し出します ≫見る
※あと1室、洋室が空いてございます。ぜひご検討ください。


2017年4月7日金曜日

●金曜日の川柳〔渡辺隆夫〕樋口由紀子



樋口由紀子






妻一度盗られ自転車二度盗らる

渡辺隆夫 (わたなべ・たかお) 1937~2017

妻を盗られるという重大事件をヒートアップせずにあっさりと書く。もちろん、意義なども申し上げない。たんたんと自転車と同等のように書く。二度も盗られてしまった自転車の方が大事なようにも読めてしまう。このように書かれる妻も妻を盗られた夫も形無しである。穿ちだろうが、人の価値がますます軽くなっていく世相への批判性を、真正面から声高叫ばずに軽くいなすように書いているような気がする。

渡辺隆夫が亡くなった。彼が川柳界に残した宿題は大きい。彼の第一句集『宅配の馬』は平穏無事に過ごしていた多くの川柳人の度胆を抜いた。あとがきで書いた「川柳という作業は、自家製の爆弾作りの類」の公約通りに多くの自家製爆弾を堂々と発表し続けた。〈天皇家に差し出す良質の生殖器〉〈宅配の馬一頭をどこから食う〉〈八月を泣きたい人は泣いてください〉〈君が代にうどんはのびてしまいまする〉〈はらわたのどのあたりからくそとよぶか〉 『宅配の馬』(近代文藝社刊 1994年)所収。

2017年4月4日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉3 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉3

福田若之


たとえば震災に対して、題詠的な態度で向き合うことがしばしば批判されてきた。けれど、ほんとうの問題は、俳句の書き手たちが、ひとつひとつの題を、そのつど自らにとって重大な事件として受け取ることを知らないできたことなのかもしれないと思う。

  ●

遊びとしての俳句が狭められていくことがあるとすれば、それは俳句が貧しくなっていくことだろう。題詠が気軽な遊びとして今日なおありつづけていることは、俳句にとっての強い支えであるはずだ。

  ●

二つの相反する考えが、想像される他者の考えとしてではなく、僕自身の考えとしてあるということ。波打ち際を裸足で歩くようにして、あせらないでいきたい。

  ●

語を定義して議論を演繹的に展開していくというのは、言葉の紡ぎ方のひとつでしかない。むしろ、語義というのは、そのつど感性的に獲得される言葉の差異と反復のなかで、次第にその姿をはっきりとさせ、はっきりしたように思えたその姿がまた次第に移ろっていくというのが自然なのではないか。一つの語を中心に据えた絶対空間ではなく、複数の文が交わりあいながら絶えず互いの意味を変質させあう相対空間に生きること。そのときには、定義を述べる一文さえも、編みこまれた糸のうちの一本にすぎない。

2017/3/10

2017年4月3日月曜日

●月曜日の一句〔櫛部天思〕相子智恵



相子智恵






相愛といふ距離にして雛あり  櫛部天思

句集『天心』(2016.9 角川文化振興財団)より

「なるほど、雛人形の距離は相愛の者同士の距離感か」と言われてみればそういう気もしてくる面白さがある。

宮中の婚礼の場面が表現されている雛壇飾りだが、その形式の中で、男雛と女雛はつかず離れずの距離で座っている。そこに「相愛の距離」という見方が持ち込まれることで、つかず離れずという距離の中に、互いへの信頼感や安定した関係といった内面が見いだされ、雛人形に命が吹き込まれていく。

この距離は作者自身が思う相愛の距離であり、いたって個人的なものだが、そこに警句のような普遍性を感じる。「あり」の断定が効いているからであろう。

2017年4月1日土曜日

〔人名さん〕坂田三吉

〔人名さん〕
坂田三吉

坂田三吉そつなく亀を鳴かせけり  嵯峨根鈴子

嵯峨根鈴子句集『ラストシーン』(2016年4月/邑書林)所収。