2024年9月30日月曜日

●月曜日の一句〔澤田和弥〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




台風の余韻の風の網戸かな  澤田和弥

台風が去ったあとも風は残る。《余韻》という表現は、空気の動きとしての風よりも、もっと、その湿度や、あるいは気分をも伝える。

《網戸》は、例えば雨戸を開けて現れた、つまり台風一過を示す事物であるとともに、夏の《余韻》でもあるだろう。

外(気象)と内(我=作者)の間に立つ《網戸》へと句が収斂し、《かな》と締めるこのかたちは、現象と時間、そして心持ちを、抑制的に伝えて、心地よい。姿かたちの良い句の醍醐味だ。

掲句は、初出『天為』平成26年(2014年)11月号。『澤田和弥句文集』(2024年10月/東京四季出版)より引いた。

澤田和弥(1980-2015)は、小誌『週刊俳句』にも多くの句文を残してくれた。遺句文集の発行を機に、あらためて氏とのわずかな交遊・かすかな交情に思いをはせたい。

2024年9月27日金曜日

●金曜日の川柳〔竹井紫乙〕樋口由紀子



樋口由紀子





袋いっぱいにかくかくの屍

竹井紫乙(たけい・しおと)

鶴彬に〈屍のゐないニュース映画で勇ましい〉という戦時中を詠んだ川柳がある。都合の悪いことは報道しないのは今も昔も変わらない。掲句はガザやウクライナの現在だろう。戦争は人間や生き物を殺し、必然的に屍を生む。私たちは今どんな世界に住んでいるのだろうか。

私には受けつけない、拒否感の強い言葉がある。その言葉が一句の中にあるというだけで見なかったことにしてしまう。「屍」もその一つであった。「屍」に「かくかくの」が付く。「各各」「赫赫」「斯く斯く」「核拡散」などのいろいろな漢字を当てはまり、その不気味さに立ち止まる。言葉にも、現実にも逃げないで、向き合わなければならないことがこの世の中にいっぱい存在している。

2024年9月24日火曜日

●月曜日の一句〔宮坂静生〕相子智恵



相子智恵






冷まじや家の中まで千曲川  宮坂静生

句集『鑑真』(2024.8 本阿弥書店)所収

このたびの能登の、地震の後の水害という理不尽さに心が痛む。

掲句は〈長野市長沼 四句〉と題されたうちの一句で、同地は2019年、台風19号に伴う千曲川の堤防の決壊で大水害に襲われた。淡々と描かれた恐ろしさがある。

〈月天心家のなかまで真葛原 河原枇杷男〉や〈五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村〉といった句も思い出される。これらの句は「千曲川」のように地域を特定しないからこそ、誰の心にも情景が思い浮かびやすい。普遍的な心細さがある句だ。

けれども、掲句のように地名(ここでは川の名だが)があることの、生傷のようにリアルな恐ろしさというのもまたあって、あの千曲川の川幅や蛇行、速さ、光や音や匂いなどが思い出されてきて、本能的な畏怖が湧いてくるのである。

そういえば最近では自然災害と関連して、先人が名づけた古い地名(水にまつわる地名や、土砂崩れの多い地の「蛇崩れ」という地名など)も見直されている。科学技術が発達していなかった時代、いつしかそう呼ばれていた名前に宿るメッセージ。

本句集の帯の、作者の言葉〈俳句は自己表現を超えた風土・地貌という自然のちからの僥倖(ぎょうこう)に恵まれないとなにも残らない〉というのは、作者の一貫した志である。「なにも残らない」は思い切った啖呵だが、地名や季語(という自然と切り離せない名前が多いもの)の中に「自分以外の力が宿っている」と微塵も信じることができないならば、自己の俳句表現にそれらを使うことは、確かに虚しいであろう。

 

2024年9月20日金曜日

●金曜日の川柳〔足立信子〕樋口由紀子



樋口由紀子





月に帰り音沙汰無しのかぐや姫

足立信子

月がきれいだ。かぐや姫はどうしているのだろうか。「かぐや姫は月に帰っていきました」で『竹取物語』は幕を閉じた。竹の中に光り輝く女の子がいて、翁媼に大切に育てられ、帝にも求愛されるが、最後は雲に乗った使者が迎えにきて、月に帰っていく。波乱万丈の、とびきり荘厳な物語である。しかし、その後のかぐや姫の消息は一切わからない。

月でしあわせに暮らしているのか。あれだけのドラブルメーカーでもあったのだから、なかなかそうはいかないだろう。おじいさんやおばあさんによくしてもらったのだから、せめて「お元気ですか」「しあわせに暮らしています」と連絡があってもよさそうである。そんな疑問をさらりと皮肉たっぷりに一句にしている。

2024年9月18日水曜日

西鶴ざんまい #67 浅沼璞


西鶴ざんまい #67
 
浅沼璞
 

名を呼れ春行夢のよみがへり 打越
 弥生の鰒をにくや又売る  前句
山藤の覚束なきは楽出家   付句(通算49句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折・裏13句目。山藤(春)=本来13句目は花の座だが10句目(月の座)に引き上げたので藤の花をあしらったか。 覚束(おぼつか)なき=「藤のおぼつかなきさましたる」(徒然草・19段)による藤の縁語。 楽出家(らくしゆつけ)=世を安楽に過ごすための出家。

【句意】(兼好のいう)山藤のように覚束ないのは楽出家(した僧の心だ)。

【付け・転じ】前句の魚売りへの憎悪を、鮮魚を食べられない出家者の感情としてとらえ、その不安定な心へと転じた。

【自註】大かたは世に捨てられ、道心の山居(さんきよ)、さのみ何をかありがたき〔とも〕事とも覚えず。せんかたなくて、松のちり葉に煙を立てて暮しぬ。又、世を捨てて思ひ入る山、一たび殊勝なれども、*勝手〔不〕自由にあらぬより、むかしの生肴(なまざかな)に心移して俗にかへる人、数をしらず。*前句の「弥生」によせて「山藤」と出す事、法師、心「覚束なき」といはんための句作り也。 〔 〕=原文ママ
*勝手=暮し向き。 *前句の「弥生」によせて「山藤」と出す事=藤の花のぼうっとして覚束ない様を、僧のブレがちな心に転用した。なお「藤→覚束なし」の縁語は浮世草子にも頻出する(後述)。

【意訳】(出家の)だいたいは世間に捨てられ、(にわかに)道心をおこして山にこもるが、さほど有り難いとも思えない。(その人たちは)どうしようもなくて、松の落葉で炊煙をたてて暮すのだ。また自ら世を捨てて山に入る人も、一旦は感心なことだけれども、暮し向きが自由ではないので、昔の生魚を思い出して還俗する人、その数は限りない。前句の「弥生」という言葉に寄せて春の「山藤」を出したのは、法師の心の「覚束なき」を言わんがための句の仕立てである。

【三工程】
(前句)弥生の鰒をにくや又売る

 生ざかな心に移す楽出家   〔見込〕
   ↓
 数知らず俗にかへるは楽出家 〔趣向〕
   ↓
 山藤の覚束なきは楽出家    〔句作〕

前句の感情を、鮮魚を食べられない出家者の憎しみと見て〔見込〕、〈その結果どうなるのか〉と問いながら、典型例をあげ〔趣向〕、「弥生→藤」と季を定め、「藤→覚束なし」と縁語をたどって楽出家の頼りない心を表現した〔句作〕。

 
『好色五人女』には〈藤〉をかざしてなよなよと〈覚束なき〉美女、なんて描写がありましたね。
 
「そやったか、な」
 
『武道伝来記』にいたっては藤村佐太右衛門という(藤の字を名に持つ)男が酒に酔って足元も〈覚束なき〉ようすが描かれてましたが。
 
「そやったか、……それは〈藤〉と書けば〈覚束な〉と書きたくなるいう談林の病いやな」
 
はぁ、なんかパブロフの犬みたいですね。
 
「サブロフの犬? そんなん西の鶴の一声で追い払ったるわ」

2024年9月16日月曜日

●月曜日の一句〔谷口智行〕相子智恵



相子智恵






間引かれてより間引菜の名をもらふ  谷口智行

句集『海山』(2024.7 邑書林)所収

大根や蕪などは、最初は隙間なく種を撒くものの、芽が出た後は、風通しと日当たりをよくするために定期的に間引き、大きく育ちそうな株だけを残して育てる。

掲句、言われてみればそのとおりだ。間引かれなかったら大根や蕪に育つはずだったのだから、〈間引菜〉と呼ばれるはずもなかったものである。

間引かれたからこそ、ついた名前が〈間引菜〉。なんと哀れなことだろう。しかし、〈名をもらふ〉というところには諧謔もあって、哀れさと可笑しさが同居した、俳句らしい視点と味わいがある句になっている。

間引かれたからといって捨てられることはなく、お浸しや胡麻和えで美味しくいただく。途中で生育が終わってしまっても、そこでは「間引菜」の名がついた株こそが、堂々たる「主役」なのである。

 

2024年9月13日金曜日

●金曜日の川柳〔藤井智史〕樋口由紀子



樋口由紀子





銀シャリにはなれぬ チャーハンにはなれる

藤井智史(ふじい・さとし)1979~

「銀シャリ」と「チャーハン」の双方を対峙させ、「銀シャリ」に軍配を上げ、敬意を表している。特に今の時期は新米が貴重で、美味しい。銀色に輝く白い炊き立てのごはんに勝るものはない。何も手を加えないで、そのままで勝負して、高い評価を受ける。それを超えるものは確かにない。

「なれぬ」「なれる」にいろいろな漢字を当てはまる。「成る」「為す」「慣れる」「馴れる」と、そのどれもがそれぞれ微妙に意味が違ってくる。

よく川柳で平明で深い句がいいと言われるが、それが出来るなら苦労はしない。平明だけでは深くならないから、どうにかしようとあっちこっちに手を入れたり、足したり、引いたりする。私はチャーハンに軍配を上げたい。『十三月に追い風』(2024年刊 新葉館出版)所収。

2024年9月9日月曜日

●月曜日の一句〔守屋明俊〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




白雲の落としてゆきし木槿かな  守屋明俊

木槿は背丈のある木なので、花に目をやると、おのずと見上げることになり、空が、雲が、目に入ってくる。空や雲と「相性」のいい花のひとつだろう。

白い雲は、黒みの濃い雲と違って、雨は落とさない。白い木槿を落とすのだと、この句は言っている。

「落としてゆきし」で、雲が動いていること、その頭上にはもうないかもしれない雲の動きが伝わる。

掲句は守屋明俊句集『旅鰻』(2024年1月/ふらんす堂)より。

2024年9月7日土曜日

◆週刊俳句の記事募集

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時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。



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2024年9月5日木曜日

〔人名さん〕草間彌生

〔人名さん〕草間彌生


逃げ切れぬ草間彌生の南瓜からは  岡田由季


岡田由季句集『中くらゐの町』2023年6月/ふらんす堂



2024年9月4日水曜日

西鶴ざんまい #66 浅沼璞


西鶴ざんまい #66
 
浅沼璞
 

 花夜となる月昼となる   打越
名を呼れ春行夢のよみがへり 前句
 弥生の鰒をにくや又売る  付句(通算48句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折・裏12句目。 弥生=春。 鰒(ふぐ)=本来は冬。産卵期の春は毒性が最も強く、菜種河豚という。

【句意】三月の河豚を憎いことにまた売っている。

【付け・転じ】前句の甦った人の苦しみの原因を毒河豚とし、魚売りへの憎しみに転じた。

【自註】「*時ならぬ物は食する事なかれ」とふるき人の申し伝へし。前句の病体は、毒魚(どくぎよ)の*とがめにして、なやみたるありさまに付け寄せける。又、その折ふし、鰒を売る声、いづれもかなしき時の事ども思ひあはせて、魚売りをにくみし。
*時ならぬ物は……=「時ナラザルハ食らハズ」(論語)。 *とがめ=中毒

【意訳】「季節外れのものは食べてはならない」と古人は申し伝えた。前句の病体の句は、毒河豚にあたって苦しんだ有様で、それに付け寄せた。また、そのような時、河豚を売る声(を聞き)、みな(病人の)気の毒な状態を想起して、魚の行商人を憎んだ(と句作した)。

【三工程】
(前句)名を呼れ春行夢のよみがへり

時ならぬもの食するなかれ   〔見込〕
  ↓
  弥生の鰒になやみたるさま   〔趣向〕
    ↓
   弥生の鰒をにくや又売る     〔句作〕

蘇生した人の不調の原因を季節外れの食中毒とみて〔見込〕、〈春にどのような食中毒があるか〉と問いながら、菜種河豚と思い定め〔趣向〕、「行商人の売り声に対する憎悪」を題材とした〔句作〕。

 
ちょっと調べたんですが、大矢数に〈命知らずや河豚汁の友/床に臥し肩で息して北枕〉って付合がありますね。
 
「そやな、河豚汁は何句か詠んだはずや」
 
でもまだ息があるのに〈北枕〉ってひどいんじゃないですか。
 
「備えあれば憂いなし、いうやろ。北枕の準備あれば、逆に生き返るいうもんや」
 
はぁ、また諺ですか……。

2024年9月2日月曜日

●月曜日の一句〔矢島渚男〕相子智恵



相子智恵






何をしにホモ・サピエンス星月夜  矢島渚男

句集『何をしに』(2024.7 ふらんす堂)所収

ホモ・サピエンスは、今の私たちの直接の祖先。ホモ・サピエンスがそれまでの人類と違ったのは、言葉を操るようになったことであった。言葉によって物事を複雑に考えられるようになり、環境への適応力が増していったといわれる。

さて、掲句。ホモ・サピエンスは進化の過程で生まれたのであって、「何かをするために」地球上に登場してきたわけではない。だから、掲句はもちろん、今の私たちに向けた批評をもった上での「何をしにきたのか」なのだろう。いったい私たちの祖先は、何をしにこの地球に現れて、そこからはるか進化した後の私たちは、実際に何をしてきたのか。あるいはこれからも続く進化の過程で、何をする(しでかす)のか。

  酢海鼠を残人類としてつまむ

  人類は涼しきコンピューター遺す

  ヒト争ひ極地の氷溶けつづく

そんな批評眼が背後にあることは、本書にこのような句があることからも分かる。様々な星が瞬く〈星月夜〉に、地球に現れたホモ・サピエンス(の末裔である私たち)は、地球に〈何をしに〉きたのだろう。私たちは、このたくさんの星空の中のひとつである地球にとって、どんな存在なのであろう。