2021年8月27日金曜日

●金曜日の川柳〔野沢省悟〕樋口由紀子



樋口由紀子






いちまいのぱんつの他は泡だった

野沢省悟(のざわ・しょうご)1953~

池や川かあるいは排水溝に浮かんでいるパンツを描写したのだろう。このぱんつは下着のパンツで、洗濯水と一緒に流れてきたのか、あるいは物干し竿から飛んできたのか、場違いのように一枚のぱんつが泡のなかで浮いている。ぱんつだって、なぜここにいるのかわからない。泡だって、自分たちの領域に別物が闖入してきて、驚いているだろう。

「ぱんつ」と「泡」の二つのベクトルの異なる儚さを捉えて、俗っぽさとは別の性質を醸し出している。絵になりにくいものをセンチメンタルに描いて、不思議な気分を与えた。現実の景をありのままに限定的に切り取っているようなのに、非限定的な広がりを感じさせる。

2021年8月25日水曜日

●西鶴ざんまい #14 浅沼璞


西鶴ざんまい #14
 
浅沼璞
 

埋れ木に取付く貝の名を尋ね   五句目(打越)
 秘伝のけぶり篭むる妙薬    六句目(前句)
肝心の軍の指南に利をせめて   七句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
さて打越まで取って返し、「三句目のはなれ」の吟味にかかります。
 
まず前句が付いたことにより、「貝の名を尋ね」られた人物つまり医者の眼差しが確定しました。

そして黒焼の妙薬の「けぶり」の連想から、「妙薬」は「火薬」へと取り成され、付句の眼差しは、武士のそれへとシフトチェンジしました。

(前句/付句の付合には雨松明・狼煙などの「抜け」つまり「飛ばし形態」がみられます。)

 
 
このように眼差しの転じは難なくなされているのですが、表層テキストに焦点を移すとどうでしょう。
 
打越「尋ね」と付句「指南に利(理)をせめ」とは意味的につながり、いわゆる「観音開き」のタブーをおかしています。

付句の眼差しは転じながら、表層テキストにおいて打ち越すというこのパターン。眼差しが転じている以上、「三句がらみ」ではないけれど、打越と付句が類似する「観音開き」には違いありません。これ、じつは談林の名残ともいえるのです。

 
たとえば談林全盛期、一昼夜、千六百句独吟の矢数俳諧を生玉本覚寺で興行した西鶴は、そのライヴ版『俳諧大句数』(1677年)序文で、つぎのような言葉を吐いていました。

「花の座・月雪の積れば一千六百韵、(中略)即興のうちにさし合もあり。其日、数百人の連衆、耳をつぶして是をきゝ給へり。みな大笑ひの種なるべし」

御承知のように「さし合」(差合い)は「観音開き」や去嫌(さりきらい)などのルール違反のこと。「連衆」はここでは境内に集った数百人のギャラリーをさしています。

そんな見物人は「耳をつぶし」つまり差合いを聞いても聞かないふりをして、大笑いしたというのです。 

 
しかしそれが許されたのは往年のライヴパフォーマンスゆえ。
 
老いての百韻、しかもその自註冒頭に「三句目のはなれを第一に吟味をいたせし」と豪語した以上(#6参照)、オモテの序段から差し合うのは如何なものでしょうか。

「……」

……政治屋じゃあるまいし、気配消してもだめですよ。

2021年8月23日月曜日

●月曜日の一句〔關考一〕相子智恵



相子智恵







空少し広うなりたる盆の明  關 考一

句集『ジントニックをもう一杯』(2021.6 ふらんす堂)所載

立秋の頃にはまだ感じられずにいた秋の空気を、盆明けあたりになると、ふと感じることが多い。〈空少し広うなりたる〉に、そうそう、この感じだと思う。まだ「秋高し」のような広々とした秋の空ではないのだけれど、入道雲ではなく、秋のうっすらとした筋雲が時々現れるようになって、空は確かに少しだけ広くなったような気がする。

盆明けや異界の如き会社へと

という句もあって、こちらの盆明けは軽く笑いを誘いつつも〈異界の如き〉という盆明けの出社の感じはよく分かる。本来なら、お盆の数日間が異界に近いはずなのだが、そちらにいた身としては、会社という現実こそが異界なのだ。それを打ち消すように、膨大な仕事がやってきたりして、あっという間に異界は日常になってしまうのだけれど。

それにしてもコロナ禍の盆明けの出社を思いながら読む掲句は、また妙な感じが加わる。皆さま、どうかご安全に。

送り火はこの世とあの世を隔てる行為で、精霊が帰ってしまう淋しさがあるけれど、掲句の雨は、この世とあの世の間を等しく湿らせている。ということは、送りつつ、つながるのだ。この世の私も、あの世の精霊たちも等しく雨に濡れていて、その何と安らかなることか。

自分に身近な送り火を思うと同時に、掲句には〈五山送火 二句〉と前書きが書かれている。京都の五山の送り火を思うとまた、味わい深い。

2021年8月20日金曜日

●金曜日の川柳〔所ゆきら〕樋口由紀子



樋口由紀子






帰りかけるとふりむけと言う石

所ゆきら (ところ・ゆきら)

京都龍安寺の石庭の連作の一句だと聞いたことがある。それにしては風変わりである。帰ろうとすると、石がもっとよく見ろ、ちゃんと見たのか、もう一度見直せとか言ったのだろうか。命令口調だが、石の顔は笑っているみたいで、だから、さほど気にしているわけではなさそうである。

大昔の日本では石に限らず、草や木がものを言うと信じられていた。しかし、掲句はそんなアニミズム的な思想からのものではないだろう。かといって、寓話性を帯びているというのでもないだろう。そう言いながらも、石は終始変わることなくは超然とそこに存在している。石にかぎりないシンパシーを感じている。不自然さと作為性はコミカルな非現実的な空間を立ち上げている。

2021年8月16日月曜日

●月曜日の一句〔井上弘美〕相子智恵



相子智恵







施火尽きて雨の十万億土かな  井上弘美

句集『夜須礼』(2021.4 角川文化振興財団)所載

〈施火〉は送り火。〈十万億土〉とは、「この世から極楽浄土に至るまでの間に、無数にあるという仏土。転じて、極楽浄土のこと」と辞書にはある。〈雨の十万億土〉とあるから、自分がいま雨に打たれている体感があり、この世とあの世のつながりが感じられてくる。そういう意味では、「この世から極楽浄土に至るまでの間の仏土」という第一の意味がふさわしいように思う。

送り火を焚いている間も、じつは雨は降っていたのではないだろうか。送り火がふっと消えるまでは、火が心を占めていたから雨は気にならなかった。そして、送り火が尽きると、静かな夜の雨に、すべてがひんやりと包まれた。

送り火はこの世とあの世を隔てる行為で、精霊が帰ってしまう淋しさがあるけれど、掲句の雨は、この世とあの世の間を等しく湿らせている。ということは、送りつつ、つながるのだ。この世の私も、あの世の精霊たちも等しく雨に濡れていて、その何と安らかなることか。

自分に身近な送り火を思うと同時に、掲句には〈五山送火 二句〉と前書きが書かれている。京都の五山の送り火を思うとまた、味わい深い。

2021年8月11日水曜日

●西鶴ざんまい #13 浅沼璞


西鶴ざんまい #13
 
浅沼璞
 

 秘伝のけぶり篭むる妙薬     西鶴(六句目)
肝心の軍の指南に利をせめて     仝(七句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
百韻の七句目は月の座ですが、本巻は発句が秋なので脇へ月を引き上げています。よってここは雑を続けます。
 
意味をとれば、「だいじな兵法の指南書に理を詰めて」という武士目線の付けです。(「利」は「理」の誤記)

 
 
自註に曰く「楠家伝の雨松明、あるひは狼煙のならひ、又は玉薬の仕掛、其の外合図の香の類、是を秘書にしるして伝へし」。

「雨松明(あめだいまつ)」とは豪雨でも消えない松明のことですが、兵法書『楠家伝七巻書』(1682年)にその記述はないらしく、西鶴得意の捏造、なのかもしれません。

「玉薬」は鉄砲・大砲の火薬のことです。
 
要は前句「秘伝の妙薬」の「薬」という言葉を「火薬」に読み替える「取り成し」付けですね。【注】

 
さて自註と最終テキストとの落差を埋める過程を想定してみましょう。

狼煙など秘書に記しし事あまた 〔第1形態=秘書くん〕
    ↓
 肝心の軍の指南に利をせめて  〔最終形態=指南さん〕

前句「けぶり」から雨松明や狼煙などの兵法を連想し、「秘書くん」が生まれたわけです。けれど前句「秘伝」に「秘書くん」は付きすぎなので、「指南さん」へと変態させたという想定です。(これで雨松明や狼煙などの「抜け」にもなります。)

 
無論それでも「秘伝」に「指南」の付け寄せは物付(詞付)気味でしょう。
 
かてて加えて加藤定彦氏は、「妙薬」に「肝心」(肝臓・心臓)という付筋をも指摘し、「物付の気味」を強調しています(『連歌集 俳諧集』小学館)。

「なんや学者はんはシツコイな。眼差しの転じ、いうもんを知らんのかい」

? あの、「眼差しの転じ」って、それ……。

「そうや、こなたも先から使うてる論法やろ。それ、言うたってや」

……では次回「三句目のはなれ」で、それ、言うたります。

 
 【注】
「取り成し」は言葉の読み替え、「見立て」は句意の読み替えで、二つは表裏一体。(『俳句連句REMIX』46頁)

2021年8月6日金曜日

●金曜日の川柳〔兵頭全郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






5年前のうちわがはいと言いません

兵頭全郎 (ひょうどう・ぜんろう) 1969~

そもそも「うちわ」には感情がないから、自分の意思を伝えようとはしない。百歩譲って、もし「はい」とか「いいえ」とか言ったとしても、ちょっと風を送るぐらいで、それ以外ふだん大した仕事をしないと心得えているうちわでは大勢に影響を与えないだろう。内容的にはたぶん身も蓋もないことである。もちろん、事実でもない。だから真剣に考える必要もなく、えっと思えば、ただそれだけですむのだが、ちょっと変な日常語の連なりに虚実の間を往還するような不思議な気配が通っている。

切れを使わずにねじれを与え、今ここでないところへ、理屈の通らない環境へ転換を図っている。時間的経過も加味して、現実の手触り感があるうちわをモチーフにして、こんなおかしな、ふつうではない世界を作り上げた。

2021年8月2日月曜日

●月曜日の一句〔岸本葉子〕相子智恵



相子智恵







卵黄に細き血管熱帯夜  岸本葉子

句集『つちふる』(2021.6 角川文化振興財団)所載

暑くて眠れない熱帯夜に、遅くまで書きものでもしていたのだろうか。簡単な夜食でも作ろうと、卵を割ったのかもしれない。何気なく割った卵の黄身の中に、細い血管があるのに気づいた。有精卵なのだろう。

誕生する前に死んでしまった卵の中の、細く小さな血管と、暑さと湿気がべたべたと体にまとわりつくような熱帯夜が、肌感覚で取り合わされている。句の書きぶりは端正な写生なのだが、取り合わせの響きによって、グロテスクな感じが醸し出されており、印象深い一句である。

2021年8月1日日曜日

〔人名さん〕赤塚不二夫

〔人名さん〕
赤塚不二夫


赤塚不二夫忌おほぜいのゐる木の向かう  堀下翔