2021年12月31日金曜日

●金曜日の川柳〔広瀬ちえみ〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




貧困、貧窮、貧苦、貧乏。似たようでいて、それぞれすこし違う。

例えば、社会指標として用いられるのは「貧困」で、「日本の相対的貧困率はG7中でワースト2位」との報道を今年見た気がする。「相対的」というのはつまり、収入がその国の多数の平均(いいかげんな説明ですみません。中央値ってこった)の半分に満たない人の割合で、貧富の格差を反映していると思ってもいいのだろう(ちなみにワースト1位は米国)。貧窮からは「貧窮問答歌」が思い浮かび、貧苦はこのところあまり耳にしない。いずれにしても、社会にとって個人にとって深刻な状況。という書きぶり自体がひじょうに無責任に愚かしく、イヤになるが、まあ、それはともかく、貧乏という語は、どこか明るい。それは「び bi」「ぼ bo」といった音のせいだろうと思う。

正月のビンボーリンボーダンスなり  広瀬ちえみ

正月を迎えるにあたっては、すこしくらいは金子(きんす)の余裕が欲しいが、ままならないこともある。人もいる。状況を直視するなら精神の落ち込むに任せるのもいたしかたないことだが、この句は、なにを思ったか、リンボーダンス。あの、脳天気な打楽器リズムを伴奏に、身体をのけぞらせるダンス。これも、確実に、ひとつの暮らし方だし、生きる態度であると思う。

でも、なんか寒い。リンボーダンスが半裸のイメージだから? だけじゃないと思う。貧乏は寒いのだ。肌感覚として、寒い。そういえば「素寒貧」という類義語もあって、こちらは「ぴ pi」音の効果があってかなくてか、深刻の一歩手前で、いくぶんロマン的でもある。

ここでふと、リンボーダンスの起源に関心が向かう(貧乏暇なし、じゃなくて、貧乏暇だらけ)。手軽なところでウィキペディアによれば、「西インド諸島のトリニダード島に起源を持つダンス」だそうで、英語の limber(体を柔軟にする)が命名の由来。limbo(辺獄)じゃないんですね。魂じゃなくて、あくまで身体のダンスなのです。

で、さらに、この句のことに話を戻せば、貧乏な人もそうじゃない人も、ビンボーダンス、やってみたらいかがでしょうか。正月の畳の上で。

こう言っても、実際にやる人、いないでしょうけどね。

それでは、みなさま、良いお年を!

掲句は広瀬ちえみ『雨曜日』(2020年5月/文學の森)より。



2021年12月29日水曜日

●2022年新年詠 大募集

2022年 新年詠 大募集


新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールを添えてください。

※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2022年11日(土)0:00~18日(土)0:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

2021年12月27日月曜日

●月曜日の一句〔青池亘〕相子智恵



相子智恵







畳まれし毛布の上の絵本かな  青池 亘

句集『海峡』(2021.12 東京四季出版)所載

冬の朝、きちんと畳まれた布団。その上に畳まれたふかふかの毛布の上には、昨晩読み聞かせをした絵本が置かれたままになっている。

句の背後に、毛布をきちんと畳む丁寧な人が見えてくるのに、一方の絵本は本棚に戻すことなく毛布の上に置かれたままだということは、子どもが大好きな絵本なのだ。今晩も(そしてきっと明日の晩も、明後日の晩も……)この絵本を読み聞かせてもらいながら子どもは眠りにつくのだろう。寝室の毛布の上につねに置かれたままの、幸せな絵本なのである。

毛布と絵本のぬくもりが、そのまま家族のあたたかさにつながっていく。感情を一切述べなくても、その風景だけで愛おしい日常が伝わってくる。

2021年12月24日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕樋口由紀子



樋口由紀子






われわれは絆創膏がよく似合う

樋口由紀子 (ひぐち・ゆきこ) 1953~

歳を取るごとに大きな怪我をしないように慎重に動いているが、その分小さな傷は絶えない。よって絆創膏のお世話になることが多い。若いころは怪我をしても絆創膏を貼るのが嫌だった。割烹着を着たおばさんみたいに思えたからだ。しかし、今はもう十分におばさん。いや、おばあさんになって、血が滲むとあわてて絆創膏を貼る。するとほっとする。絆創膏がよく似合うようになった、そう思いたいのだ。

しかし、「わたしは」ではどうしようもない。個人的な感慨の範疇で終わってしまう。それで大言壮語するごとく「われわれ」とした。複数形にするだけで世界が違ってきて、言葉の世界を作り出せたような気がした。言葉はおもしろいとつくづく思う。「What´s」(創刊号)収録。

2021年12月22日水曜日

西鶴ざんまい #19 浅沼璞


西鶴ざんまい #19
 
浅沼璞
 

 化物の声聞け梅を誰折ると       西鶴(裏一句目)
水紅(くれなゐ)にぬるむ明き寺    仝(裏二句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「梅」に「水温む」で春の付合。

「紅」は自註に「池水を血になし」(後述)とあるので、「化物」つながりで血の池地獄のイメージでしょう。
 
句意は「庭の池の水が血の紅の如く温む、そんな空き寺だ」といった感じ。

自註末尾には、「此の句は、前の作り事を有り事にして付け寄せける」とあります。
 
つまり、梅の枝を折った坊ちゃまの躾のために下女が「化物」に扮するという「作り事」を、現実の「有り事」として見立て替え、化物の出没にふさわしい「其の場」の付けをしているわけです。


では自註をみましょう。

「野寺(のでら)に久しき狐狸のさまざまに形をやつし、亭坊(ていばう)をたぶらかし、柳を逆さまに、池水を血になし、出家心(しゆつけごころ)にもここに住みかね、立ちのけば、後住(ごぢゆう)もなくて、おのづからあれたる地とぞなりぬ」

で、先に引いた末尾の一節が続きます。

語句をたどるとーー「やつし」は変化(へんげ)、「亭坊」は亭主の坊主(住職)、「柳を逆さま」は逆髪(さかがみ)の化物のイメージ、「出家心」は俗心を絶った心もち。
 
されば狐狸の変化がために、世捨て人の住職すら住みつかず、荒れ寺になったという設定です。


では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。

亭坊たぶらかしたる野寺 〔第1形態〕
    ↓
 亭坊もなき水ぬるむ寺  〔第2形態〕
    ↓
 水紅にぬるむ明き寺   〔最終形態〕

このように最終形態は「亭坊」の《抜け》で、化物にふさわしい「其の場」を詠んだ疎句なわけです。


「んー、こまい事いうようやけどな、自註の『柳を逆さま』には逆髪のお化けだけやのうて、春の柳の風情もこめとるんやで」

あー、鶴翁ばりに《抜け》てしまったみたいです。

「なんや、わての影響かい」

2021年12月20日月曜日

●月曜日の一句〔成田一子〕相子智恵



相子智恵







聖樹点灯たちまち凛凛と世界  成田一子

句集『トマトの花』(2021.10 朔出版)所載

〈凛凛と世界〉の広がりの大きさによって、これは家の中の小さなクリスマスツリーではなく、街の中の大きなクリスマスツリーであるということが想像されてくる。有名なロックフェラーセンターのクリスマスツリーのような、大きな聖樹。点灯式だろうか。

聖樹が点灯したとたんに、世界中が寒さに引き締まった。「凛凛」には「寒さなどが身にしみるさま」「凛々しい」など、いくつかの意味があるが、どれも含んでいるのだろう。冬の夜の澄んだ空気の中で、硬質な光がパッと瞬いたのである。

それだけではない。〈凛凛〉の「リンリン」という音からは、ジングル・ベルの鈴の音が聴こえてくる。音からもクリスマスの空気が伝わってくる、美しい一句である。

2021年12月17日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕樋口由紀子



樋口由紀子






婚約者と会わねばならぬ大津駅

樋口由紀子 (ひぐち・ゆきこ) 1953~

いろいろと想像してもらった私の川柳である。息吐くように口から出た。なぜ、「大津駅」だったのか。実際に大津駅で乗降したことがあるが、特別な印象も、特別な出来事があったわけではなく、どんな駅だったか記憶にもないくらいだ。ただ「大津」という言葉は「大津絵」を観たあとだったからかもしれない。もちろん因果関係はない。

「婚約者」に会うのはあたりまえだから、「会わねばならぬ」とわざわざいうのはなにかへんである。「婚約者と会わねばならぬ」という措辞をよりへんにするために「大津駅」を装飾したのか。もちろんそんな事実はない。空想の世界にいるときがある。なんだかわけのわからない心境をたぶん書きたかったのだろう。『めるくまーる』所収。

2021年12月13日月曜日

●月曜日の一句〔佐藤智子〕相子智恵



相子智恵







お祈りをしたですホットウイスキー  佐藤智子

句集『ぜんぶ残して湖へ』(2021.11 左右社)所載

〈したです〉に驚く。この舌足らずで、子どもじみた書きぶりをしている人が、ホットウイスキーを飲んでいる。……ということは大人なのだ。ホットウイスキーは、ロックや水割りなどと違い、自宅での飲み方である。ホットワインや卵酒と同様に、温まるため、安眠のために飲むお酒だ。このお酒の飲み方と、〈お祈りをしたです〉によって、明日への小さな祈りを胸に、眠る前の孤独な夜をやり過ごそうとしている一人の大人が見えてくる。

「祈り」に対して「お祈り」だから、中身は小さく、取るに足らないことのように思えるし、そう思わせるように描いている。しかし、〈したです〉という(照れから、あえて自分を茶化しているようにすら思える)幼児のような独り言からは、他者から見て小さいと思えるような祈りが、実は、その人にとっては言葉遣いを退行させないと表出できないほどの、真に深いところにある祈りなのだと、逆に思わせる力がある。軽い描き方をしながら、妙な切迫感があるのだ。

ペリエ真水に戻りて偲ぶだれをだれが

新蕎麦や全部全部嘘じゃないよ南無

ここに描かれている句もそうだ。〈ペリエ真水に戻りて偲ぶ〉で、気の抜けた(ある意味、死んでしまった)目の前の炭酸水を偲びながら、〈偲ぶ〉から呼び出される、「誰かが誰かを偲ぶ」というの関係性の密度が描かれ、しかし同時に、「だれをだれが(?)」という含羞に包まれた軽い孤独となって読み終わる。

〈全部全部嘘じゃないよ〉の過剰さに〈南無〉をつけなければ表現できないほどの、思いの伝わらなさ、通じ合えないことの無念が描かれる。

日常の取るに足らないチープな素材から「ただごと」を描いた、“素材としてのただごと俳句”は見かけるが、素材だけでなく、レトリックまでもがチープな、“文体まるごとの、ただごと俳句”というのはあまり見ない。軽い内容を、あえて定型の予定調和を外し、けれども、人が一生懸命話すときと同じ“畳みかけるリズム”で詠むことから生まれる切実な感覚。

俳句の型や季語、すべての武装を解除した先の日常の、取るに足らない本音。私たちが心の奥底にもっている、決して他者には伝わらない“ただごとの祈り”のような本音の、“たたごとならざる切迫感”が、ぎゅっと胸を打つのである。

2021年12月10日金曜日

●金曜日の川柳〔墨作二郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






伊吹山 青いヨーヨー陽にぬくい

墨作二郎 (すみ・さくじろう) 1926~2016

新幹線で東京に行くときの楽しみの一つは富士山を見ることであるが、その前に、琵琶湖の通り過ぎたあたりから見える伊吹山も好きな山である。富士山と同じように目で追いかける。伊吹山は滋賀と岐阜の県境にあり、修験道の霊地としても有名で、高山植物が多く見られる。

伊吹山を眺めているのか、伊吹山での光景なのか。青いヨーヨーに陽があたって、揺れている。「陽にぬくい」だから、陽がぬくいのではなく、青いヨーヨーがぬくいのだ。ヨーヨーが陽に当たったり当たらなかったり、伊吹山とヨーヨーのダブルイメージが美しく、多様な感覚がよぎる。自我のあいまいさとあやうさを映し出していると読むのは深読みかもしれない。日曜日に東京に行く。伊吹山と富士山に久しぶりに出会える。『尾張一宮在』(1981年刊)所収。

2021年12月8日水曜日

●西鶴ざんまい 番外編#4 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外編#4
 
浅沼璞
 

岸本尚毅著『文豪と俳句』(集英社新書)の書評を「俳句」12月号に書きました。タイトルどおり「文豪と俳句」の諸相を考察した本ですが、よく読むと所どころで「文豪と連句」の関係にもふれています。

書評では言及しませんでしたが、つらつら考え……なくても、「文豪と連句」のルーツには西鶴がいるわけで、この番外篇にて紹介してみようかと思いいたりました。


まずは森鷗外の発句から――

  百韻の巻全うして鮓なれたり    鷗外

歌仙形式は今も人気ですが、もともとは百韻の略式でした。「西鶴自註絵巻」の形式も百韻ですが、あれは独吟。ふつーは複数の連衆と巻くわけで、歌仙の倍以上の時間がかかります。岸本氏曰く「百韻が仕上がった頃、馴れずしも熟成してきた。変化に富んだ連句の世界と、馴れずしの風味との取り合わせに妙味があります」。風味と妙味、味な解説です。


つぎに西鶴復権の立役者・幸田露伴の発句と脇――

 獅子の児の親を仰げば霞かな    露伴
  巖間の松の花しぶく滝

これは西鶴に同じく独吟の付合。岸本氏曰く「親獅子の厳しさを詠った発句を、岩や松を詠み込んだゴツゴツした脇が受け止めています。滝は垂直方向に句の空間を広げ、親獅子の居所がはるか高みであることを思わせます。いっぽう松の花の生命感と滝の生動感が、この二句を観念だけの句になることから救っています」。生命感と生動感、生き生きした解説ですね。


そして実父の友人の発句に脇を付けた宮沢賢治――

  どゝ一を芸者に書かす団扇かな   無価
   古びし池に河鹿なきつゝ     賢治

「無価」さんは賢治より三十歳ほど年長だったようです。岸本氏曰く「粋人の無価は芸者や遊女で詠みかけますが、賢治は生真面目な付句で応じています」。粋人と真面目人間……、(やば)オチがおもいつかない。


えーと、さて、ほかに芭蕉の連句を評した太宰治の『天狗』の引用なんかもありまして。岸本氏曰く「連句評がそのまま心理描写になってしまうところに太宰の資質を見る思いがします」。

そういえば太宰には西鶴短編の翻案集『新釈諸国噺』もあって、心理描写を駆使した佳作でした。

芭蕉と西鶴……! これこそ粋人と真面目人間! オチがついた。

「そやな、わてが生真面目なんは皆知っとるはずや」

? 順序まちがえたかな……。

「まちごうてない、まちごうてない、蕉翁はわてよりよっぽど粋人やで」

……なんたるオチ。

2021年12月6日月曜日

●月曜日の一句〔佐山哲郎〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




缶切りが一周ぼくの蓋が開く  佐山哲郎

缶の側面やら底に缶切りを使うことは断じてないので、これはもう、脳が見えてしまうしかない。伝説か伝承か虚構か嘘っぱちか、中国のお金持ちは美食ゲテモノ喰いのはてに、猿の頭蓋をぱかっと割って脳を食したという。ああ、おそろしいおそろしいと怯えていたら、映画『ハンニバル』(2001年/リドリー・スコット)がわざわざ映像化してくれた。ひどいシーンだったなあと回想しているうち、むかし、牛の脳のカツレツを食したことを思い出してしまい、感染症うんぬんよりも、その濃厚すぎる風味と、脳!という事物の衝撃力のせいで、いままさに胃のあたりがムカムカしだした。

とまれ、俳句というジャンルは、知性の蓋がだらしなく開きっぱなしになったようなところがあるので、掲句、絵としてはえらくエグくても、愛嬌がまぶされてどこか呑気で、《ぼくの蓋》が開いたと言われても、それはエマージェンシーなどではなく、「別に、中、見たくないし、すぐ蓋したほうがいいよ」と、あえてのんびりとした口調で、総論、突き放してみたくなる。

掲句は佐山哲郎句集『東京ぱれおろがす』(2003年/西田書店)より。

2021年12月5日日曜日

【俳誌拝読】『トイ』第6号

【俳誌拝読】
『トイ』第6号(2022年12月1日)


A5判、本文16ページ。以下同人諸氏作品より。

次の世も逢ひたし海鼠同士でも  干場達矢

立待の冷えのととのう木のベンチ  池田澄子

栗ご飯仏に生きてゐる者に  青木空知

変顔で東口から西口へ  樋口由紀子

(西原天気・記)




2021年12月4日土曜日

●本日はフランク・ザッパ忌

本日はフランク・ザッパ忌


Frank Zappa(1940年12月21日 - 1993年12月4日)

2021年12月3日金曜日

●金曜日の川柳〔堀豊次〕樋口由紀子



樋口由紀子






錆びた空気が出てくる十二月のラッパ

堀豊次 (ほり・とよじ) 1913~2007

もう十二月である。あっという間に過ぎたような気もするが、長かったような気もする。この一年は例年以上にいろいろなことがあった。否応なく一年を振り返ってしまうのが十二月である。

あんなに切れ味のよかった包丁もぴかぴかだったステンレスもところどころに錆が出る。水分で錆びは加速する。この一年には涙したこともあったと、ついセンチメンタルにもなる。思うようにならないのが人生で、ラッパもいつも高らかに鳴るとは限らない。「錆びた空気」とはうまく捉えたものだと感心する。十二月になるとそんな空気と一緒のラッパの音があちこちからも聞こえてきそうであり、私自身もきっと出しているのだろう。