【裏・真説温泉あんま芸者】
五七五指折り数へ俳句せむ
堀下翔「律のこと覚書」覚書
西原天気
俳句の律(リズム)を論じるのに、総論・大理論をめざすのは困難で、各論の積み重ねでしか成果には至らないのではないか。堀下翔「律のこと覚書」(『里』2014年7月号)を読んで、そんなことを思いました。
ここで紹介されている「五七五は四拍子」説も、かかる総論・大理論のひとつでしょう。堀下氏は「中八」忌避を検証するのに「五七五は四拍子」説を援用しています〔*1〕。この説、聞いたことはありますが、詳しくは知りません。堀下記事を見ていきます。
まず五七五を「八拍子」に当てはめます。×は休符です。
○○○○○××× ○○○○○○○× ○○○○○×××
上五の後の休符3拍はあまりに長すぎないか、下五の後の3つの休符とは何? といった疑問が湧きます。つまり、休符を都合よく数えているだけなのでは? という疑問。
まあ、それはいいとして、次は、四拍子に当てはめます。
○○○○ ○××× ○○○○ ○○○× ○○○○ ○×××
○○○○ ○××× ○○○○ ×○○○ ○○○○ ○×××
○○○○ ○××× ×○○○ ○○○○ ○○○○ ○×××
○○○○ ○××× ○○○× ○○○○ ○○○○ ○×××
中七部分のどこに休符が来るかで、4パターンがある。
ここから、堀下氏は、「中七の枠の一つには一拍分のゆとりがある。この一拍分の音数が増えても四拍子は崩れない」とします。
え?
休符を数えてこその四拍子なわけですよね。四拍子説は休符が「前提」ですよね。言い換えれば、休符を見込まなければ、四拍子にはならない。
五七五は四拍子(休符も入れたらネ) → 中八は休符を食いつぶす → 四拍子ではなくなる → だから中八は忌避される
こういう理路ならわかります。ところが堀下氏が導き出したものは、その逆です。どこでどうなったんのでしょう?
ちなみに、私自身は、中八忌避というより、「五八五」忌避です。堀下氏は「となると俳人の一律な中八忌避はある種の感情的なものに過ぎないと言えるだろう」と書きますが、私の場合、感情的ではなく経験的なものです〔*2〕。「五八五」の句に良いリズム、良いグルーヴを感じたことがない、という経験の積み重ねに過ぎません。
中八忌避は、思うほど教条的なものではなく、多くの人にとっては、私と同じく経験的な実感だと思いますが、いかがでしょう。
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なお、この堀下論考の主旨は「五七五は四拍子」説の紹介でも、中八擁護でもありません。「ぱさぱさとした散文」(丸谷才一)の時代である現在における俳句の律について論じたものです。堀下氏は、俳句は「『伝統的な美しい律』の直系の子ではない」と結論づけます。それはそうかもしれない。そういう気がします。
ただし、その例示として、上六の字余りの句(最近の作)を挙げて、現代人が読むと「もはや韻文とは思わない」とする部分には大きな違和感があります。
芭蕉の句に、字余りは少なくない。超有名なところでは「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。これに韻文を感じ取らない現代人はいるのでしょうか(口調は文語調でもない)。
決まりきった五七五(ちょうど17音)だから韻文を感じ、はみ出ると韻文性は薄くなる、ということもないでしょう。
むしろ、今の俳句は(とりわけ若い世代と言っていいと思います)、なぜこんなにも五七五ぴったりに収めたがるのだろう、というのが私の感想です。破調ということではありません。上五、下五の「纏足的5音」とも言うべき「むりくり5音」。
よく目にするのは、5音の名詞の後に本来なら備わるべき助詞を省いて上五に収めるパターンです。結果、観音開きの句(上と下が入れ替わっても成立する句、中七の叙述が上下どちらに係っているのか不明の句)になってしまうパターン。
堀下氏は「(…)俳人の律の感覚は、閉じた俳句の世界において独自に発展したものかもしれない」と書きます。「むりくり五七五」こそが、これにあたるような気がします。
ただ、これも、「散文の時代」だからこそ、「これは韻文だ」と明示しなければならない、その結果の「纏足的五七五」と解すれば、堀下氏の論旨と歩調が揃います。
俳句における「律」は、音数(五七五)が土台とはなるが、どうもそれだけはない〔*3〕。
これは堀下氏の記事の重要なテーマだあると思いますが、それを論じるのに、なんだか雑駁に「五七五は四拍子」説を持ってきたことで、あらぬほうへ行ってしまった感。
俳句の律(リズム)、とりわけその現在性は興味深いテーマだけに、また別の角度、別の切り口からの接近を期待しています。
〔*1〕堀下氏は「四拍子」説を援用するものの、これを正当視するのかどうかについて、やや不明瞭。後述の字余りの「上五」について、「異様な上五の受容性もまた四拍子では説明を尽くすことができない」との記述が、どうにも論旨の流れに乗らない(私にはうまく理解できない)。結局、堀下氏は、「四拍子」説を有効とするの? しないの? どっち?
〔*2〕中八の有名句はいくらでも挙げられるでしょう。例えば「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」(能村登四郎)。けれども、この句に律の快感は(私には)ありません。
〔*3〕具体的な方向では、音数だけでなく、母音・子音、撥音(ん)、促音(っ)、拗音なども無縁なわけはなく、それらを含めると過度に複雑化するという困難はあるにせよ、、音数以外の要素を捨象しての大理論・総論に、それほどの説得性があるのだろうか。
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3 件のコメント:
>中八忌避は、思うほど教条的なものではなく、多くの人にとっては、私と同じく経験的な実感だと思いますが、いかがでしょう。
以前、句会をやりたいのですが全くの素人ばかりなので教えてもらえませんかと俳句未経験者ばかりの会へ呼ばれて行ったことがあります。そこで、んん?と思ったのは、中八の句がけっこうな頻度で登場するのです。
ラジオ消す四千ヘルツの蝉の声
暑き春ソーラーパネルが光る畑
というような感じです。これはどういうことなのかなぁと。俳句をやらない人にとっては中八は気持ち悪くないのだろうかと。
それで、ネットでテキトーに標語を検索してみると「中八」標語の多さに気づきます。
【交通安全】
手をあげる子どもはあなたを信じてる
気をつけて!心の油断が事故招く
【防災】
“まさか”より“もしも”で守ろう 危険物
危険物その時その場が正念場
【火災】
今捨てたタバコの温度が700度
使う火を 消すまで離すな 目と心
などです。
いえ、俳人以外は「中八」に違和感を持たないのかもしれないということをちょっと思いまして。
ちなみに私は堀下翔さんの記事は未読です。
山田露結さん、例示に感謝いたします。
なるほど標語は五八五が多いですね。
俳句も含め、五八五は、どれもグルーヴを感じません。
>俳人以外は「中八」に違和感を持たないのかもしれない
俳人も(流派によっては?)五八五にそれほど抵抗がないように思います。
【記事への追記】
「五八五」に抵抗感のない俳人は、自分の句の中ほどが8音と字余っていることにほとんど無意識のケースもあると思います。本人は「五七五」のつもり、のような感じかもしれません。
以前、ある句会の合評で、「中七にしたほうがよいのでは?」と申し上げたとい、当の作者はきょとんとしておられました。
そのとき、隣のベテラン俳人が、「中八のときはね」とアドバイス。
「ちょっと早口で読めばいいのよ」
それは絶対違う、と思いますが、実は、そういうノリ、ぜんぜん嫌いじゃありません。
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