2025年1月31日金曜日

●金曜日の川柳〔中村冨二〕樋口由紀子



樋口由紀子





私の影よ そんなに夢中で鰯を喰ふなよ

中村冨二(なかむら・とみじ)1912~1980)

それはまさしく自分の姿である。影を通して、自分を見ている。鰯を夢中で食べるのは生きていくためである。その姿は可笑しいような哀しいようなで、ちょっといびつで壊れた格好はいままで以上により愛おしく見えたのだろう。一体、私はどんな格好で生存しているのだろうか。

七八八の川柳で、冨二独自の文体を作り上げている。五七五で作り直したら、たぶん台無しになると思わせられる技である。言葉は文脈のなかで意味が生じる。それがごく自然に感じるのは、言葉の配置の上手さによるのだろう。この文脈の中で生み出されないものがある。『中村冨二・千句集』(1981年刊 ナカトミ書房)所収。

2025年1月29日水曜日

西鶴ざんまい #73 浅沼璞


西鶴ざんまい #73
 
浅沼璞
 

魔法にもせよ不思議成る隠れ蓑  打越
 眠る人なき十七夜待      前句
師恩しる枕に替る薬鍋      付句(通算55句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・裏5句目。 雑。 薬鍋(くすりなべ)=煎薬を煎じる鍋。

【句意】師恩を知る(門人たちが、病床の師匠の)枕辺で代わる代わる薬鍋の薬を煎じている。

【付け・転じ】前句の「十七夜待」に師の平癒祈願を、「眠る人なき」に徹夜の看病をあしらった。

【自註】何の先達によらず、爰(こゝ)は*病家にして付けよせたり。「師恩」と出だしけるは、其の弟子、年月の恩をわすれず、跡や枕に付添ひて昼夜心をつくし、壱人も眠る事なく、諸仏諸神をいのりて、心ざしの**影待、又は立願(りふぐわん)の***七日まゐり。替り/”\に薬をせんじ、今一たびの命を願ふまことある所を付けける。
*病家(びやうか)=病室。  **影待(かげまち)=「月待」に同じ。  ***七日まゐり=社寺へ一日に七度、七日間お参りし、祈願すること。

【意訳】どのジャンルの師匠に限らず、ここは(師匠の)病室を其の場として付けよせた。「師恩」と上五においたのは、その弟子たちが年来の恩を忘れず、病床のその周囲に侍って昼夜心をつくし、誰も眠ることなく、諸々の神仏に祈って、厚意による月待・日待、または平癒祈願の七日参り。皆で代わる代わる薬を煎じ、今一たびの延命を願う誠意ある場面を付けたのである。

【三工程】
(前句)眠る人なき十七夜待

  先達の病家に弟子の祈りをり 〔見込〕
   ↓
  年月の恩に病の師を囲み   〔趣向〕
   ↓
  師恩しる枕に替る薬鍋    〔句作〕

前句の「眠る人なき」を*徹夜の看病と見て、「十七夜待」に師の平癒祈願を思いなし〔見込〕、〈弟子達はどのような心情か〉と問うて、日ごろの恩を忘れていないとし〔趣向〕、代わる代わるに煎じる「薬鍋」という素材を詠みこんだ〔句作〕。

*檜谷昭彦氏は〈西鶴の死に後れること一年の元禄七年十月十一日の晩、翌日の死を前に松尾芭蕉は弟子丈艸の詠んだ、「うづくまる薬の下(もと)の寒さかな」なる句を「出来(でかし)たり」と賞めた〉と記したうえで、この〈師恩しる枕に替る薬鍋〉に言及し、〈そういう状景を連想させる句作りであり、同趣旨の句柄でもある〉と評した(慶應義塾大学藝文学会「藝文研究」50号所収「西鶴晩年の動向」1986年)

 
そういえば鶴翁逝去の翌年、蕉翁も弟子たちに囲まれて……。

「確かわしより二つほど若かったはずやけど、わしが死んだ翌年、もう亡うなったんかい」
 
はい。まさに同時代人でしたね、お二人は。
 
「時代は同じでもな、いき方が真逆やったな」
 
たしかに。

2025年1月27日月曜日

●月曜日の一句〔五島高資〕相子智恵



相子智恵






冬の星また埋め戻す遺跡かな  五島高資

句集『星辰』(2024.5 角川文化振興財団)所収

遺跡の発掘調査では、全ての記録作業が終わると、掘った遺跡は埋め戻されることが多い。その上に道路が敷かれたり、建物が立ったりすることもあるだろう。

かつてあった暮らしの痕跡。縄文時代から近代まで、そこに暮らした人たちも見上げていたであろう冬の星空。埋め戻しによって、また星空が見えない地中に戻るのだ。そして、埋め戻された同じ場所から星空を見上げている私たち。その遥かな巡り合わせに思いを馳せる。

日本の遺跡数は約46万箇所を越えるというから、今日もどこかで遺跡の埋め戻しが行われているかもしれない。決してめずらしくはない作業を描きながらも、〈冬の星〉によって非常にスケールの大きな一句となっている。

 

2025年1月24日金曜日

●金曜日の川柳〔暮田真名〕樋口由紀子



樋口由紀子





花束を腐らせてこそ女の子

暮田真名(くれだ・まな)1997~

男性から花束をもらったのだろうか。花束をもらえば、だれだって喜ぶというのは単なる刷り込みに過ぎない。究極の憎しみだろう。「腐らせてこそ」は圧巻である。「捨てる」「枯らす」とは比べものにならないくらいのインパクトであり、悪意がある。動詞の威力が衝撃度MAXに発揮されている。

「腐らせる」というのはずっと手元に置いておくということである。じわじわと首が絞まるように、萎れていく様子を、時間をかけて、自らは手をくださないで、だまってながめている。それでこそ「女の子」であると気持ちいいくらいに高々と宣言している。「What’s」7号(2024年刊)所収。

2025年1月20日月曜日

●月曜日の一句〔佐々木紺〕相子智恵



相子智恵






寒禽のとほき光点窓に頬  佐々木紺

句集『平面と立体』(2024.1 文學の森)所収

冬の鳥が1羽、空高く飛んでいる。その姿は発光する1つの小さな点のように見えている。抜けるような冬青空なのだろう。

下五で場面は突如、〈窓に頬〉と切り替わる。これで、作中主体は窓に頬をくっつけて、室内から空高く飛ぶ鳥を眺めているのだということが分かる。作中主体が室内にいると規定されたことで、何か空や自由への憧れのような気持ちまで立ち現れてくるようだ。

窓からも入ってくる冬の日差しの眩しさ。しかし頬をくっつけた窓ガラスはひやりと冷たく、それが、暖房で火照った頬に気持ちよく感じられてくることだろう。

過不足ない言葉で、句の中に描かれていない冬の空の様子や頬の温度、そこから伝わる気持ちの機微など、句の背景をたっぷりと想像させる。

花冷やフルーツサンドやすませて

ブラウスのボタン薄くて蓬摘む

をさなごの白目の青く冬に入る

押し花のさいごの呼吸しぐれゆく

掲句を始めとして、書かれた言葉の外側(書かれていない想像の部分)に、光や湿度や温度などをしっかりイメージさせる句が多く、繊細で透明感のある句集であった。

 

2025年1月17日金曜日

●金曜日の川柳〔柳本々々〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



象 忘れ物をしてまた出会うこと  柳本々々

五七五17音の定型(ぞうわすれ/ものをしてまた/であうこと)のもつ韻律の心地よさを、あまずは言っておいて、《象》の直後の全角1字アキが、俳句における切字に見えてくる。

川柳を俳句に引き寄せて語ると叱られそうだが、俳句の近くに身を置く者としては、どうしても、ここに断絶・切れ・裂け目を見てしまう。2音の直後とという切れの位置の変則具合も含め、切字の快楽が、ここのはたしかに、ある。

《象》は、《忘れ物をしてまた出会うこと》という中盤以降を包む込みながら離れて有る。この句の《象》は、事物であり、《象》的な空気であり、《象》的な感触。言い過ぎの誹りを覚悟すれば、《象》を初めて目にした日のことすべて、かもしれない。

そうした《象》的なものが照らす/響くなか、中盤以降は、どうだろう? 《忘れ物をしてまた出会うこと》の中にも、軽い断絶・微かなよじれがある。《忘れ物》と再会とは、因果を離れつつ、一種ロマンチックな気分ではつながっている。

〈切れ〉をはさんで、モノとコトが偶発的な、また一度きりの同居・照応を果たす。これは俳句やら川柳やらのジャンルに拠らない。まずまず短い(おおよそ17音の)テキストがもたらす愉楽なのだなあ、と。

掲句は『川柳スパイラル』第2号(2018年3月)より。

2025年1月15日水曜日

西鶴ざんまい #72 浅沼璞


西鶴ざんまい #72
 
浅沼璞
 

 鰤には羽子がはえて飛ぶ年   打越
魔法にもせよ不思議成る隠れ蓑  前句
 眠る人なき十七夜待      付句(通算54句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・裏4句目。 雑。 十七夜待(まち)=1・5・9・11月の十七夜に月の出を待って祈願する行事。夜を徹し、講仲間で飲食・遊興に興じる。

【句意】誰も眠る人のない十七夜待である。

【付け・転じ】前句の魔法を月待の余興と見立て、十七夜待に特定した。

【自註】月待*日待の夜を明しける慰みとて、其あたり友とせし人々を集めて、御鏡餅**三寸徳利をそなへ、***旦那山伏は錫杖を振りならし、夜のふけゆく目覚しにとて、浄溜利(浄瑠璃)こうたに物まね、あるひはひとり狂言、又は****品玉、さま/”\の事して、いづれも大笑ひに心よく一夜を明しける。
*日待(ひまち)=月待に同じく特定の日に不眠のまま日の出を拝する行事。  **三寸徳利(みきどくり)=お神酒徳利。  ***旦那山伏(だんなやまぶし)=ふだん祈祷してもらう山伏。  ****品玉(しなだま)=曲芸や手品。

【意訳】月待・日待の夜を徹する余興として、近隣の友とする人たちを集めて、御鏡餅・お神酒徳利を供え、いつもの山伏は錫杖を振りならし、夜のふけていく眠気覚ましとして、浄瑠璃・小唄に物真似、あるいは一人芝居、または曲芸や手品、いろいろな事をして、誰もみな大笑いして気分よく一夜をあかした。

【三工程】
(前句)魔法にもせよ不思議成る隠れ蓑

 日待月待さま/”\の芸 〔見込〕
   ↓
 日待月待目覚しの芸   〔趣向〕
   ↓
 眠る人なき十七夜待   〔句作〕

前句の魔法を月待でのいろいろな遊興のひとつと見なし〔見込〕、〈なぜあれこれ遊興するのか〉と問うて、夜更けの眠気覚ましとし〔趣向〕、不眠の十七夜待に特定した〔句作〕。
 
*このように趣向・句作の距離が短いため、小学館・新編日本古典文学全集61では遣句体(やりくたい)と評してある。

 
『好色五人女』に十七夜代待(だいまち)という職業が記されていますね。
 
「あー、代待いうんは米銭もろうて人様の代わりに月の出を待ってな、そん人に託された所願を祈るんやで」
 
あー、現代でいう代行業ですね。
 
「なんやそのダイコンいうんは」
 
いや、代行サービスといって、外出先で飲酒した人の代わりにマイカーを自宅まで運転したり、就職してすぐ退職する人の代わりに面倒な事務手続きをとったり、いろいろです。

「なんや時代は移っても浮世の身過ぎ・世過ぎはさして変わらんいうことやな」

2025年1月13日月曜日

●月曜日の一句〔生駒大祐〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




遅刻して

原因はさまざま。寝坊したか電車が遅れたか。

遅刻して正座の

バツが悪かろう、謝罪の意味もあり、かしこまっている。

遅刻して正座の神

遅刻したのは作者/作中主体と思っていたら、そうではなく《神》。若干、寓意も帯び始める。

遅刻して正座の神も

助詞《も》が付いた。他にも誰か、何かが、この場所にはいるらしい。

遅刻して正座の神も蜜柑剝く  生駒大祐

《神》その他、正座のまま、蜜柑を剝きはじめた。さきほどの〈寓意〉含みの景色・事象から軽やかに、あるいはヘナヘナと、別の様相へと翻る。

掲句は『ねじまわし』第9号(2024年12月1日)より。アタマから順に字句をあけていく趣向は同誌同号の記事「時間のかかる俳句」に倣った。

2025年1月10日金曜日

●金曜日の川柳〔佐藤みさ子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



植木屋が来て電線を切っている  佐藤みさ子

たいへん困った事態だが、家に来て、高いところに登る人は、限られている。植木屋、それに通信業者から委託されて回線開設の工事に来る業者。後者は、1985年の通信自由化以降、NTTなんたらやらauなんたらやらひかりなんたらやら、契約を乗り換えるたびに新しい電線が家の周りに張られ、古い電線はほったらかしで、そのうち鳥の巣のように、は、なるわけないが、ともかくややこしく、電線の工事業者が枝の一本や二本まちがって断ち切ってしまっても不思議はないのだから、植木屋が電線を切ってしまうこともあるだろう。

「あっ、それ、ちがいますよ!」と下から叫んでも遅い。樹の上で「ありゃま!」とバツの悪そうな顔をするなら、かわいく、委細構わず切り続けたら、怖い。生きていれば、暮らしていれば、いろいろなことが起きる。

掲句は『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。

2025年1月8日水曜日

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そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2025年1月6日月曜日

●月曜日の一句〔岸本尚毅〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




ざらざらとして初富士の光りけり  岸本尚毅

《ざらざら》は視覚からもたらされるのですが、たぶんに触覚的でもあります。つまり、触ってみたかのようなおもむき。遠景の富士山は小さくて(《ざらざら》が見えるくらいには大きいにせよ、小さくて)、手のひらに触れることもかないそうです。

稚気にも等しい《ざらざら》の描写ですが、それだからこそ初(うぶ)な富士の様子が、とてもかわいい。

句集の同じページに《東宝はゴジラの会社初御空》というポップ味に溢れる句がありますが、それにも負けず、ポップでキュートです、この、ざらざら光るお正月の富士山は。

掲句は岸本尚毅句集『雲は友』(2022年8月/ふらんす堂)より。

2025年1月1日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇25 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇25
 
浅沼璞
 
 
先ごろ、この年末年始に相応しく、大晦日を舞台とした『世間胸算用』の、その新しい現代語訳が刊行されました。

近世文学研究者にして時代小説家の中嶋隆氏によるものです。
 
すでに氏には光文社・古典新訳文庫『好色一代男』があり、今回は西鶴訳の第二弾となります。
 
その一代男訳に関しては*番外篇14でもふれましたが、通時的かつ共時的な巻末解説に目から鱗でした。
*ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい 番外篇14 浅沼璞

 
むろん今回も目から鱗の解説文で、例をあげると――
〈大晦日は、商人すべてが体験する収支決算日であり、一年間の商業活動が集約される日でもあった。全短編の時間設定を大晦日に統一するという仕掛けは、前例のない西鶴の独創的趣向である。/この趣向は重要な意味をもった。なぜなら、貧乏人がどうして落ちぶれたか、また年が明けてからどう生活するのか、ということを書く必要がないからである。つまり大晦日一日の時間だけが切り取られていて、その前後が書かれていない。したがって、読者はその部分を想像力で補わなければならない。〉

中島氏は〈書かれていることより、書かれていないことのほうが読者の想像力をかき立てる場合が多い〉とも述べており、この省略技法を「空白のコンテクスト」と呼んでいます。

たぶんこの「空白のコンテクスト」のルーツをたどると、俳諧の「抜け」に行き着くのではないでしょうか。
 
これは*番外編17でも述べたことですが、談林の「抜け」を否定的媒介とし、内容主義的な「省略」へとアウフヘーベンした結果、芭蕉の『炭俵』や西鶴の『胸算用』の世界がひらかれた、というのが愚生の見立てです。 
*ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい 番外篇17 浅沼璞

 
ところで中嶋氏は、全短編の時間を大晦日に統一するという「省略」の世界は読者の「共感」を呼びやすかった、とも指摘しています。
 
〈大晦日は商人すべてに関わる「一日千金」の重要な日なので、読者は作品に描かれた状況に共感しやすいという面もあった。〉
 
この「省略」と「共感」の関係性は、やはり芭蕉の「軽み」にも通底するように思われてなりません。
 
  大晦日定めなき世のさだめ哉    鶴翁
 
定めなき無常の浮世にあって、人間がさだめた大晦日の総決算、その悲喜こもごもの話に共感を覚えない読者は少なかったことでしょう。