週刊俳句・第205号を読む
小川春休
人生でよくよく考えなくてはいけないのは、誰といっしょにいたいか、ということ。そんな単純なことを、今回の大震災の報道を見ながら、改めて考えていた。今、この文章を書いている段階で、今回の大震災による死者数は11,063人、家族らから届け出があった行方不明者は17,258人で、計28,321人となっている(3月29日午前10時現在、警察庁発表)。
ツイッター上で、今回の大震災は、何万人という人が被害に遭ったとてつもない大災害、というのではなく、かけがえのない誰かを失った事件一つ一つを積み上げていくと結果的に何万という数になる、と考えるべきだという意見を目にした(あれは、誰のツイートだったのだろう…)。きっと、規模の大小に関わらず、災害とはそういうものなのだ。かけがえのない誰かを突然に失う悲しさ、一人一人を失った悲しみを、合計することはできない。そう考えると、いよいよ今回の災害の巨大さ、膨大さを感じてしまって、言葉も出てこない。そうして無性に、人間が恋しくなるばかりだ。
「奇人怪人俳人(一)ロケット戦闘機・佐藤秋水」に心を鷲掴みにされたのは、そんな精神状態で読んだせいもあったのだろうか。そこには、愛すべき人間の姿が、人間同士の交流のあたたかさがあった。全編を通して、佐藤秋水という人の体温、息遣いを感じる文章であるが、中でも師の楸邨に「嫌いです!」と言い切る場面の感情の高まりは凄い。様々な感情同士がぶつかり合って、高熱を発しているかのように感じる。読んでいるこちらもハラハラさせられ、胸が詰まる。
秋水さん、「さまざまな知人からは、お前は楸邨に合わないから寒雷をやめろと言われています」などと言っているが、わざわざこんなことを言うこと自体、師への敬慕の情の逆説的な表出に違いない。誰といっしょにいたいか、言うまでもない、秋水さんは師・楸邨といっしょにいたいのだ。いっしょにいれば、時には負の感情だって芽生える。敬慕の情が大きければ大きいほど、負の感情だって大きくなりやすいものだ。そうしてついには、「嫌いです!」と句会の場で言ってしまったりもする。でも、その土台には紛れもなく、「いっしょにいたい」があるんだよなぁ。
「嫌いです!」と言われた楸邨の返しもまた良い。
「秋水くん、嫌いなもの同士で一緒にやろう」
楸邨も、秋水さんの気持ちはよく分かっていたのだろうな。
秋水さんの句から。
かたつむり見てゐて少し傾きぬ
実直なあたたかみのある句。やさしいけれど、ふわふわしてはいない。地に足がついているところが良い。
大雪を来て玄関で笑ひけり
大雪の中をやっと玄関までたどり着いた側と、玄関で迎える側。きっと大雪の中をずーっと歩いて来たから、頭にも肩にもたっぷり雪が積もっていたことだろう。体中雪まみれだったことだろう。それこそ笑っちゃうくらい。寒さで緊張を強いられていた体が、ふっと緊張から解放される笑い、何ともあったかい笑いだ。
「夏休みの友」にコップの痕があり
ああー、ありますね、こういうこと…。私も夏休みの宿題のドリルをカップラーメンを三分待つ間の蓋に使って、表紙をへにゃんへにゃんにしてしまったことがあったなぁ。先生、すいませんでした(もう時効、かな…)。
噴水を見てゐて帽子とばさるる
先ほどのかたつむりの句もそうだが、秋水さんの句の芯には純真さがある。
秋水さんではないが、私の俳句の先輩にも、魅力的な人がたくさんいるのを、ふと思い出す。その中には、骨折からのリハビリのため、しばらく句会に出られそうにない方もいる。リハビリの合間の楽しみに、この「奇人怪人俳人(一)」をプリンタで印刷してお送りしたいと、そう考えているところだ。
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2011年4月2日土曜日
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