2016年8月17日水曜日
●水曜日の一句〔鳴戸奈菜〕関悦史
関悦史
昼の月わたしの顔はこれひとつ 鳴戸奈菜
当たり前のことをわざわざ言葉にしてみせ、その違和感から句を成り立たせるという手法もあるので、この句の「わたしの顔はこれひとつ」などもそうした作り方かと見えるのだが、しかしこの句で起きていることは、単に普段意識していないことに気がとまり、それにあらためて感心しているという程度のことではなさそうで、何とも不穏さが濃厚である。
「わたしの顔はこれひとつ」とは、ただの認識や発見ではないが、かといって諦観や、あるいはこの顔ひとつをもって人生を全うする覚悟を示すといった程度のことに終始しているわけでもない。
この句のなかは、あきらかに複数の別の顔を持ち、選択しうる世界があり、そこで顔がひとつであるか否かはおそらく蓋然性の問題にすぎない。すぎないが、いかなる条件によって顔がひとつであったり複数であったりするのかの因果関係は全くわからない。この作中主体の妙にふてぶてしい居住まいは、なろうと思えば顔が複数にもなれるし、ならなくてもそれはそれでどうでもよい、そしてその因果関係は読者には感知不能という、デモーニッシュな中心性から来ている。
あるいは顔は、ひとつか複数かだけではなく、ゼロ=無となることすらあるのかもしれない。「これひとつ」ときっぱり切り出すような物言いに対し、付けられた季語は、うっすらと白く宙にかかるのみの、鮮明さを欠いた「昼の月」である。気を抜いたら見失ってしまいそうだが、もし消えてしまえば、無となった「わたしの顔」は世界全体に拡散浸透し、全てを包括しそうな不穏さがある。
注意すべきは、宙に浮く昼の月から「首」ではなく「顔」が引き出されていることだろう。斬首のイメージよりも、顔を持つ個人の単独性こそが前面に出されているのである。世界中を取り込みかねない無気味な自足の笑みはそこから発生していよう。
そもそも「昼の月」の後に切れがあるのかどうか。「昼の月」自体が「わたしの顔は」と語り出している可能性もあるのだし、あるいは人体を持った作中主体が、なぜか顔のみは「昼の月」となっているという可能性もある。何ものがこの句を語っているのかは、極めて曖昧なのだ。
単独の生と世界とが折り合いをつける波打ち際には、そうした曖昧で得体の知れぬ領域があるという洞察が、口語のような平板な言葉づかいによってあっさりと描かれている。
句集『文様』(2016.7 角川書店)所収。
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