「俳句入門書」について
福田若之
「俳句入門書」を、額面通りに読むなら、たぶんそれはさほど面白くもないし、さほど役にも立たない(少なくとも僕にとっては)。
だが、俳句の作り手の思想なり思考なりのあらわれとして読めば、あれらの書物にも、面白み(すくなくとも、面白みの契機)はある。たとえば、虚子の『俳句の作りよう』は、写生による俳句を、あたかも感覚器官・感覚神経と中枢神経のみからなるシステムにおいて生成可能なものであるかのように語っている。これを、たとえばアレクサンドル・ベリャーエフのSF小説である『ドウエル教授の首』などを念頭に置きながら読むということは、僕にとっては、ただ虚子の俳句だけを読むこととは全く異質の、面白い読書体験だった。
原石鼎の『俳句の考え方』も、秋元不死男の『俳句入門』も、彼らの思想や思考の過程、そして何より彼らの個人的な思い出などが書き込まれたものとして読めば、相応の豊かさをもっている。
要は読み次第だ。それ次第で、多くのさほど面白くもない「俳句入門書」は、面白い書物に化けうる。そして、その面白みは句集を読む面白みとはまったく別のものでありうる。
ちなみに、額面からして「俳句入門書」ではないように思われるものが「俳句入門書」として紹介されてしまっているという場合もある。たとえば、ひらのこぼ「俳句入門書100冊を読んで」の末尾に付された『俳句開眼100の名言』の目次の100冊には、句集である三橋鷹女『羊歯地獄』 や、エッセイ・書評などを中心に収めており「俳句入門書」的要素のほとんどみられない攝津幸彦の全文集である『俳句幻景』をはじめ、「俳句入門書」として読むほうが珍しいであろう多くの書物が含まれている(この際だから自分の考えをはっきり書いておくと、鷹女の『羊歯地獄』の自序というのは、「俳句入門書」的な短文などではさらさらなく、むしろ鷹女が「俳句入門書」を書くなどということとはついぞ無縁であったことを証しだてるもののはずだ)。
自分が面白いと感じられる本を探すのに必要なのは、「俳句入門書」というレッテルと向き合うことではなく、一冊一冊の書物と向き合うことだ。僕は、リンク先に掲げられた100冊のリストが「俳句入門書」を拒む読者にとっての「読むことなく敬遠すべき100冊」のリストとなってしまわないことを祈る。
2017/2/1
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