〔ためしがき〕
波の言葉3
福田若之
たとえば震災に対して、題詠的な態度で向き合うことがしばしば批判されてきた。けれど、ほんとうの問題は、俳句の書き手たちが、ひとつひとつの題を、そのつど自らにとって重大な事件として受け取ることを知らないできたことなのかもしれないと思う。
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遊びとしての俳句が狭められていくことがあるとすれば、それは俳句が貧しくなっていくことだろう。題詠が気軽な遊びとして今日なおありつづけていることは、俳句にとっての強い支えであるはずだ。
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二つの相反する考えが、想像される他者の考えとしてではなく、僕自身の考えとしてあるということ。波打ち際を裸足で歩くようにして、あせらないでいきたい。
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語を定義して議論を演繹的に展開していくというのは、言葉の紡ぎ方のひとつでしかない。むしろ、語義というのは、そのつど感性的に獲得される言葉の差異と反復のなかで、次第にその姿をはっきりとさせ、はっきりしたように思えたその姿がまた次第に移ろっていくというのが自然なのではないか。一つの語を中心に据えた絶対空間ではなく、複数の文が交わりあいながら絶えず互いの意味を変質させあう相対空間に生きること。そのときには、定義を述べる一文さえも、編みこまれた糸のうちの一本にすぎない。
2017/3/10
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